俺たちが大広間を出た瞬間、ひとりの青年が駆け寄ってきた。
 護衛として同行していたニコライが一瞬警戒するも、すぐにその表情を和らげた。

「ルイス、どうしたんだ?」
「作戦Aです」
「了解! チビ、姫さん、行くぞ!」

 ルイスの告げた言葉にニコライは親指を立て、自信に満ちた笑顔を見せると、俺とディアーナを両脇に抱え、軽やかに走り出した。

「えっ?」
「きゃあっ」

 貴族たちの間を縫うように駆け抜ける俺たち。ディアーナは驚きと楽しさが入り混じった表情で、目を輝かせながら笑っていた。

「ニコライ殿、待ってください! 場所、わかっているんですか?」

 ルイスが慌てて後を追いかけてきたが、その声にはどこか困ったような楽しげな響きがあった。


 ***


 ルイスの案内で、ニコライに抱えられながら王宮の一室に入った。
 重厚な扉が音を立てて閉ざされると、外の喧騒が遠のき、部屋は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 壁には魔法陣が張り巡らされ、おびただしい魔力が充満している。一カ月前にマティアス王太子と面会した部屋に似ていた。

「ルイス、作戦Aじゃなかったのかよ。どうしてこんなことに……」
「私に言われても……」

 二コライは俺たちをしっかりと抱えたまま、ルイスと共に扉の前でこそこそと立ち止まった。
 周囲を確認すると、ヴィリー叔父さんをはじめ、アーベル家の面々が揃っていた。パルやエマ、そしてハクとスラもその場にいる。
 対面にはマティアス王太子とエリーアス殿下、そして見知らない女性がふたり立っていた。
 ひとりの女性が怒りを露わにし、マティアスに詰め寄っている。

「トビアス様が、不義の子どもなんてありえないことだわ!」
「お母様!?」

 ニコライの脇から、ディアーナの驚いた声が響いた。
 その声に反応した王妃が、マティアスに詰め寄るのを一瞬止め、うしろを振り返った。

「あら? ディアーナ!」

 王妃の表情が一瞬で柔らかくなり、彼女の目には喜びが浮かんでいる。

「うふふ、大きくなったわね! 私に成長した姿を見せてちょうだい!」

 王妃の優しい声が、部屋の緊張を少しだけ和らげた。

「あなた、ディアーナを下ろしなさい」

 王妃の命令に、ニコライが畏まりながらも、俺とディアーナをそっと下ろした。
 ディアーナは地面に足をつけると、すぐに王妃の元へ駆け寄り、その腕の中に飛び込んだ。

「まぁディアーナ、はしたないわよ」

 王妃はディアーナの行動を咎めつつも、その声は優しく慈愛に満ちていた。
 彼女はディアーナの顔を両手で包み込み、その成長を確かめるように見つめた。

「お母様、ご無事でなによりです」

 ディアーナの金の瞳には涙が浮かび、その声には安堵と喜びが混じっていた。

「あら、私の心配をしてくれるのね。なんて優しい子なの」

 王妃はディアーナの言葉にいたく感動している様子だった。
 しかし、俺の存在に気づくと、その表情は一瞬で厳しくなった。

「あなたが私のかわいいディアーナと婚約したジークベルト・フォン・アーベルね」

 親子の久々の再会に、微笑ましい姿を見て頬を緩めていた俺だったが、王妃の品定めをするかのような厳しい視線に気づいた瞬間、思わず背筋が伸びた。

「お母様! ジークベルト様にそのような不躾な視線は失礼です!」
「んっまぁ、ディアーナ! 言うようになったものね」

 ディアーナがすかさず抗議したことに、王妃は驚きつつも、少し誇らしげに微笑んだ。

「シャルロッテ様、本日の目的はディアーナ様を愛でることではございませんよ」

 王妃の隣にいる女性が冷静に指摘する。

「あら? 私としたことが、アグネス様、ありがとうございます」

 もうひとりの女性、アグネス側妃が王妃を咎めると、王妃は再びマティアスに視線を向け、厳しい口調で問い詰めた。

「マティアス、私の質問に答えなさい。なぜトビアス様の出生を否定せず、会議を打ち切ったのです」
「母上、それは何度も申し上げました。姉上が名をかけて宣言したのです。確たる証拠もなく否定すれば、姉上の名誉に傷がつきますし、王族全体の信頼も失われます。あの場では、それしか選択肢がありませんでした」

 マティアスは冷静に答えていたが、その声には微かな苛立ちが感じられた。

「あの女狐!」

 王妃は怒りと苛立ちを抑えきれず、顔を真っ赤にし、声を震わせながら叫んだ。

「シャルロッテ様、どうか落ち着いてください」

 側妃が冷静に諭すと、王妃は我に返り、深いため息をついた。

「私ったら、本当に情けないわ。すぐにかっとなってしまうなんて。もう、あなたたち全員、あの女狐の手のひらの上で踊らされているのがわからないの?」

 王妃の態度とその内容が意外だったのか、マティアスはひどく驚いた様子で問いかけた。

「女狐とは、姉上のことを言っていますか?」
「そうよ、なにか問題でもあるかしら?」

 王妃が冷たい視線を向け、マティアスに答えた。
 王妃たちの会話が途切れると、部屋の隅で交わされる叔父たちの会話が耳に入ってきた。

「テオ、事前の報告とだいぶ違うようだが?」
「影に強く抗議を入れます」とテオ兄さんが低い声で答えていた。
「そこっ! 私の悪口は許さないわよ」

 王妃の鋭い指摘に、叔父は一瞬驚いたが、すぐに紳士的な態度を取り、微笑んだ。

「シャルロッテ王妃は、なにかご存じのようですね」

 叔父の声には、どこか挑戦的な響きがあった。

「あら、あなた、いい男ね」

 王妃は叔父の挑戦的な態度と溢れんばかりの色気に、一瞬心を奪われたようだったが、すぐに我に返った。
 アグネス側妃がすかさず注意する。

「シャルロッテ様」
「あら? 私ったら子供たちの前ではしたないわ」

 王妃は恥ずかしそうに頬に手をあてた。
 その姿を見て『本当にディアーナの母上なのか?』と、俺は強く疑問が沸いた。
 ディアーナは王族である自身の立場を理解して、最近まで感情をあまり表に出さなかったが、王妃は感情豊かで、その起伏が激しい。
 彼女たちが親子だとは思えなかった。
 しばらくすると、王妃の顔付きが変わり、纏う雰囲気に威厳が漂い始めた。
 彼女は再びその場の中心に立ち、全員の視線を集めた。

「エレオノーラ様が陛下を裏切るはずがありません。あの方の献身、いいえ、狂愛と称した方が適切かしら、あの方が陛下に向けた愛と執着は異常なほどでした」

 王妃の言葉にアグネス側妃が同意するようにうなずいた。

「私たちはそばで見ていたからわかります。今は幼き子のようだけどね」
「幼き子?」

 叔父は眉をひそめ、疑問の表情を浮かべた。

「あら、そのようなわざとらしい反応をしなくても、もう調べはついているのでしょう、ヴィリバルト・フォン・アーベル伯爵」

 王妃は冷ややかな笑みを浮かべ、叔父を見つめた。
 叔父は余裕のある微笑みを返しながら、「いえ、詳しくはまだ調査中です」と答える。

「あら? 天下の赤の魔術師をも欺けるの? あの女狐は」

 王妃は軽く肩をすくめ、皮肉を込めた口調で言った。

「ユリアーナ殿下には、この部屋のように高度な魔術が施されているようです」

 叔父は一瞬目を細め、慎重に言葉を選んだ。

「まぁ、なんて贅沢なのかしら」

 王妃は軽く笑いながら、部屋の装飾を見渡した。
 その視線の先がアグネス側妃に移ると、彼女は静かに口を開いた。

「エレオノーラ様は陛下が病に伏せられる直前に、突如として退行されたのです。今ではお人形遊びが日課です」

 アグネス側妃が、王妃の情報を補足するように付け足した。

「母上は、トビアス兄上が主張する金の瞳が王位継承者であるとの主張をどう思われますか?」

 マティアスが王妃に尋ねると、王妃は目を伏せ、少し考えた素振りを見せたあと、真顔となった。

「金の瞳は王家にとって吉凶なの」
「私どもにそれを教えてくれませんか」

 叔父の問いかけに、王妃が静かにうなずいた。

「少しだけ、昔の話をしましょう──」


 王妃が語った昔話は、前国王の狂気に満ちた行動についてだった。
 彼は金の瞳を持つ王家と血の繋がりがある者を次々と殺戮していた。少しでもその可能性があれば、彼の狂気の対象となった。

「王家に金の瞳が生まれれば、それは神話の少女の生まれ変わり。その者を王にすれば、約束された平和が続くとされています。これは王妃に語り継がれている伝承なのです」

 王妃の声は静かでありながらも、その言葉には重みがあり、それが事実であったことを確信させた。

「父王のそのような話は耳にしたことがありません」

 今まで傍観していたエリーアスが困惑しながらも、王妃の言葉を否定するように言った。
 疑念を浮かべているエリーアスに、アグネス側妃が諭すように話しかける。

「エリーアス、これは陛下がまだ王太子だった頃の話です。それに、陛下が犯人である証拠はどこにも残っていないのです」
「母上は、それをご存知で嫁がれたのですか?」

 エリーアスの質問に驚いた側妃は、一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻して答えた。

「私の母から聞き及んでいました。覚悟の上で王家に嫁ぎましたが、すでに陛下は国王で、凶行されることはありませんでした。ただ、あなたが……」

 アグネス側妃が言葉を詰まらせると、エリーアスが気遣うように彼女に駆け寄った。
 なるほど。
 ここでエリーアス殿下が隠しているあのことが繋がるのか。
 以前、ヘルプ機能に調査を依頼して知ったエリーアス殿下の隠し事。ディアーナは堂々としているのに、なぜエリーアス殿下だけが秘密にしているのか、ずっと疑問だった。
 アグネス側妃の意向が強かったようだ。
 エリーアス殿下も母上に弱いんだな。親近感が沸くな。
 などと考えていると、叔父の冷静かつ配慮にかける声が聞こえてきた。

「要するに、前国王は王妃に語り継がれている伝承をどこかで聞き、王太子という地位が危ぶまれたから金の瞳を持つ王族の血筋を片っ端から粛清したってことだよね」
「叔父様、もう少し言葉を選んで発言してください」

 テオ兄さんが眉をひそめてたしなめるも、叔父は態度を変える様子はなく、「テオ、今その必要があるかい?」と悪びれもなく言い放った。
 王妃が呆れた様子で、話を再開させる。

「トビアス様がどこで誰からそのような話を聞いたのかはわかりません。ただ事実として、王家に金の瞳を持つ者が生まれると、性別に関係なく王太子に指名することが多々あったようです」
「なるほどね、重臣たちの中にはそれを知っている者もいたんだね」

 叔父の指摘に、王妃がうなずく。

「ええ、間違いなく。皇后から聞いた話ですが、王太子時代の陛下の素行は異常でしたから、気づいた者もいたでしょう」
「金の瞳ね、ディアーナ様も金の瞳を持つ王族だけどね」

 ディアーナは、突然叔父から自分の名前が挙がったことに驚いたが、その表情には全く動揺の色が見えなかった。
 彼女は冷静に叔父の方を見つめ、静かな声で答えた。

「私は先祖返りのため、限られた人としか接触を許されていませんでした。だから、私の顔を知らない重臣も多いのです」

 俺はディアーナの言葉に胸が痛んだ。
 彼女がどれだけ孤独で辛い思いをしてきたのかを考えると、徐々に怒りが込み上げてくる。
 拳を握りしめる俺に気づいた叔父が、そっと肩に手を置いて微笑んだ。

「ジーク、そんなに怒らなくても、今のディアーナ様は自由だからね」
「わかっていますよ」

 俺の不貞腐れた態度を見た、ディアーナが嬉しそうに笑った。
 王妃も微笑みながら、「まあまあね」と俺を評価する。
 部屋の空気が少し柔らかくなり、みんなの表情にも微笑みが戻った。
 そんな中、マティアスが話を戻すべく口を開いた。

「母上の話からトビアス兄上が、姉上を担いだ理由がはっきりした。ただトビアス兄上が王族である証拠がない」

 マティアスの発言に王妃は眉をひそめ、顎に指を添えて少し考えた後、口元をゆるめた。

「あら、まだそんなことを言っているの。だったら、私の名でトビアス様が陛下の子であると証言します」
「母上、それはやめてください」

 マティアスは焦りを隠せず、声を少し震わせた。
 そんなマティアスに王妃は目を細めて、一歩踏み出した。

「あの女狐はよくて、私がだめな理由はなに?」
「姉上は、エレオノーラ側妃からトビアス兄上が不義の子であると聞かされたと証言しています」
「もう、それが嘘だと言っているのよ。この、わからずや!」

 王妃は苛立ちを隠せず、足音を一度大きく鳴らせ、声を荒げた。

「どうして、母上はエレオノーラ側妃を庇うのですか。何度も命の危険にさらされているのに」
「エレオノーラ様は、私たちの憧れだったのよ」
「憧れですか?」

 マティアスは王妃の意外な動機に驚き、言葉を失くした。

「そうよ。私が王妃になる前は、素晴らしい方だったのよ」

 王妃は一瞬、遠くを見つめる。

「国民からは賢王妃と敬われ、影から陛下を支えていた。その献身は他国からも評価されていたのよ。でも、そのエレオノーラ様が、王妃から側妃に降格され、心を病んでしまった。その場所を奪ったのが私なの」
「いいえ、それは違います。シャルロッテ様が王妃になったのは、陛下が強く望まれたからです」

 突然側妃が、王妃の言葉を遮り、毅然とした態度で言い放った。

「エレオノーラ様は、賢王妃と称えられる一方で、嫉妬に狂い、多くの悪行を行ってきました。私もその被害者のひとりです。しかし、トビアス様が不義の子ではないことは、私も証言できます。当時、お世継ぎ問題が浮上し、王宮内は緊迫していました。陛下は毎日、私とエレオノーラ様の元に通われており、不義ができる状況ではなかったのです」
「しかし、この時期エレオノーラ側妃には不名誉な噂がながれているよね」
「それは……」

 叔父の指摘に側妃は言葉を詰まらせる。

「女狐よ。確証はないけど、当時その噂を流すとしたら、あの女狐しかいないわ」
「母上、根拠のない発言で姉上を侮辱するのはやめてください」

 マティアスが眉をひそめなが否定すると、王妃は盛大にため息をつき、呆れた様子でゆっくりと頭を振る。

「まぁ、女狐にうまく操られて、情けないわ」
「母上!」

 マティアスが強い口調で注意した。
 彼の目は怒りと失望が混じり、その肩はわずかに震えている。
 王妃は冷ややかな目で息子を見つめ、微かに笑みを浮かべた。

「私が王家に嫁いだ頃、あの女狐はその魅力で人々を虜にしていたわ。最初はそれも愛らしいものだったけれど、ここ二、三年で豹変したの。女狐は人々を操り始め、本性を現したのよ。まるで本物の狐のように」
「やはり、ユリアーナ殿下の『魅了』は最近発生したようだね」

 叔父が静かに口を挟むと、王妃が驚きと共に問い返した。

「魅了? 女狐は魅了を持っているの? それなら今までの違和感にも納得がいくわ」
「あれだけ強い魅了に気づかれていなかったのですか?」

 叔父が珍しく目を見開き驚くと、王妃は気まずそうにうなずいた。

「私たちエスタニア王国の王族は、身の危険や精神攻撃から自分を守るために、それぞれ強力な魔道具を持っています」

 王妃が指にはめている指輪を掲げ、周囲に見せる。

「私やアグネス様は指輪。マティアスはピアス、ディアーナはペンダント、エリーアス様は眼鏡ね」

 俺はディアーナのペンダントに目を向けた。
 その美しい細工を見ていると、以前ボフールに修理を依頼した時のことを思い出す。
 彼の職人技にはいつも感心させられるが、特にこのペンダントの精巧さには驚いていた。

「なるほど。王妃の記憶が正しければ、私たちの推測が確信に変わります」
「まぁ、失礼ね」

 叔父の皮肉混じりの発言に、王妃は軽く眉をひそめるも、すぐにマティアス向き直った。

「それよりも、今はトビアス様の名誉の回復よ」

 王妃が声を荒げると、アグネス側妃も同調し、再びマティアスに詰め寄る。
 ふたりの圧力に押され、マティアスは一歩後ずさりした。
 その姿を見て、俺は思わず叔父の名前を呼び訴えた。

「ヴィリー叔父さん!」

 叔父の端正な顔が困ったように歪み、諦めたかのように笑う。

「間違いなく、彼は前国王の子だよ。赤の魔術師である私の『鑑定眼』がそれを証明しよう」

 その場にいる全員が叔父に注視し、その事実に息をのんだ。

「それならどうして、ユリアーナお姉様は、そのような虚言を口にしたのですか! トビアスお兄様もどうしてもっと強く反論しなかったの。あれではまるでトビアスお兄様も事実だと認めているようではないですか!」

 ディアーナは感情を抑えられず、声を震わせながら言葉をつなげた。

「彼らにはそれが真実だった」

 叔父が冷静に告げると、ディアーナは拳を強く握り、目を閉じた。

「そんな、都合のいい話が……」
「本当に、都合のいい話だね。人は時に残酷なことをする。彼女はその噂を真実としてトビアス殿下に伝え、彼を支配していたのだろう」

 叔父の声は冷静でありながらも、どこか冷酷さを感じさせた。

「トビアスお兄様は、ユリアーナお姉様を誰よりも信頼されていたんです。そんなっ、そんなことが……」

 ディアーナは言葉を失い、震える声でつぶやいた。彼女の目には涙が溢れ、頬を伝って落ちた。
 王妃が駆け寄り、心痛な表情でそっと彼女を抱きしめた。

「トビアスお兄様が、お可哀そうすぎます」

 王妃の腕の中で、ディアーナのすすり泣きが聞こえ、俺の胸が締め付けられる。

「彼は虚偽の事実を真実だと信じ込み、彼女に都合よく操られてしまった。とても愚かなことだ。しかし、事実がどうであれ、王族を殺害しようとした罪は消えない。彼に未来はない」

 叔父の正論に、部屋は一瞬の沈黙に包まれた。

「むぅっ!?」

 俺が異議を唱えようと口を開いた瞬間、叔父が素早い動作で俺の口を手で塞いだ。
 彼の表情は厳しくも優しく、頭を横に振って静かに制止を促した。

「だめだよ、ジーク。優しさをはき違えてはいけない。君はアーベル侯爵家の子息だ。時には厳しい決断を下さなければならない。それを避けてはならない。現実を直視し、受け入れる覚悟が必要だ。我々貴族は、その責務から逃げることは許されないんだよ」

 叔父の言葉は重く、俺の胸に深く響いた。
 王妃やマティアスたちも沈黙し、叔父の言葉の重みを受け止めているようだった。
 王妃の腕の中で泣いていたディアーナが叔父に確信を求めるように問いかけた。

「ヴィリバルト様、ユリアーナお姉様は……」
「彼女はおそらく帝国の力を借りているだろう」

 その言葉に全員の表情が一変した。
 緊張が一気に高まり、空気がさらに重くなった。

「帝国はなにが目的なのだ」

 突然、パルが感情を爆発させ、拳を壁に叩きつけた。
 彼の怒りの叫びが部屋中に響き渡り、全員が驚きの表情で彼を見つめた。

「パル……」

 ディアーナが静かに彼の名前を呼びながら、そっと彼のそばに寄り添った。
 彼女は優しく彼の腕を掴み、その怒りを和らげようとしていた。
 俺はパルの激しい感情に驚きつつも、彼の気持ちを理解していた。
 ずっと黙って話を聞いていた彼が、帝国の横暴さに耐えきれず、ついに声を上げたのだ。
 部屋の空気が一層張り詰める中、叔父が再び静かに口を開いた。

「混乱に生じた多くの人の命だろうね」

 叔父の意外過ぎる回答に、全員が彼を見た。
 驚きと困惑が広がる中、俺は叔父の言葉を反芻した。
 国ではなく人の命だと、叔父は言ったのだ。エスタニア王国の支配ではなく、無数の命を奪うことが帝国の真の目的だというのか。
 その考えが頭をよぎると、背筋に冷たいものが走った。

「そうなると、姉上の目的は王位となるのでしょうね」

 エリーアスの冷静な声が部屋に響いた。

「エリーアス兄上まで、姉上が敵であるとそういうのですか!」

 その声に反応したマティアスが、エリーアスを鋭く睨み、激しく反論するも、その目には深い悲しみがあった。
 怒りの裏に隠された悲しみが、彼の全身から滲み出ていた。
「マティアス」と、王妃が優しく彼の名を呼ぶ。マティアスは王妃に名を呼ばれ、かすれた声で訴えた。

「姉上は身を呈して私を守ってくれました」

 王妃は一瞬、考え込むように視線を落とし、再びマティアスを見つめ直した。

「そうね、武道大会での出来事は聞いています」

 その声には温かみがあり、マティアスは少しだけ安堵した表情を見せた。しかし、王妃の次の言葉が彼の心を揺さぶった。

「それが、緻密に計算された芝居だったとしら、あなたはどうしますか」

 マティアスの顔は驚愕に染まり、彼の声は震えた。

「そんなことがあるわけがありません! 姉上は私の前で刺され、血を流して倒れたのですよ。アルベルト殿も近くで見ていましたよね」

 その問いかけに、アル兄さんは「そうですね」と肯定しつつも、マティアスから視線をそらした。
 その反応にマティアスが絶望した顔をする。

「あれが演技だと言うのですか?」
「マティアス、目に見えるものすべてが真実であるとは限らないのです」
「ですが、母上……」

 マティアスの声はかすれ、言葉が途切れた。
 彼の心の中では、疑念が渦巻き始めているのだろう。彼の目は動揺してか、激しく揺れ動いていた。

「ディアーナは、理解できますね」
「はい、お母様」

 そう答えたディアーナの声は落ち着いていた。
 王妃はその態度に満足したように微笑み、マティアスに視線を戻した。

「マティアス、目を背けてはなりません。ユリアーナの狙いがなになのか、あなたはもう検討がついているはずです」
「ですが、姉上は王位を辞退すると証言されたのです」

 マティアスの声は震え、彼の目には葛藤が浮かんでいた。
 彼の心の中では、姉への信頼と疑念が激しくぶつかり合っているのだ。
 どうしても姉のすべてが偽りだったとは認めたくないのだ。
 俺はマティアスの気持ちが痛いほどわかった。
 もし、俺が兄姉に裏切られたとしたら、同じように苦しむだろう。彼の苦悩がひしひしと伝わってくる。
 王妃はその様子を見て、深いため息をつく。彼女の表情には失望と呆れが見えた。

「誰を信じるのもあなたの勝手です。しかし、あなたはエスタニア王国の王太子です」

 王妃は続ける。

「そもそも女狐には王位継承権などありません。国民の声に後押しされ、トビアス様が担いだ結果、議論に上がっただけなのです。誰がこの状況を予想できましたか」

 王妃の言葉は冷静でありながらも鋭く、状況の深刻さを物語っていた。

「国民の支持をどのようにしてえたのか。どうして私が、わざわざ陛下の凶行を伝えたのかも考えて見なさい」
「姉上の真の目的は、すべての王族の排除……」

 目を閉じ、静かにつぶやいたマティアスの言葉には、深い悲しみが滲んでいた。

「悲しいことに、ユリアーナは陛下の王への執着と狂気を受け継いでしまったのよ」

 王妃の言葉は静かに部屋に浸透し、抗えない現実が彼らを包み込んだ。


 夕暮れの光が部屋に差し込み、柔らかなオレンジ色の光がみんなの顔を照らしていた。
 話し合いが無事に終わり、部屋には安堵の空気が漂い始める。緊張感が解け、みんなの表情にも少しずつ和らぎが見えた。

「静かに話を聞けて、ハクとスラは本当に偉かったね」

 俺は微笑みながらふたりの頭を優しくなでた。
 ハクは目を細めて嬉しそうに尻尾を振り始め、スラは平べったく溶けていき、床にぴったりと体をつけた。

「ガウッ! 〈怒った女の人には近づいたらだめ!〉」
「ピッ! 〈だめ!〉」
「えっ、それ誰に教わったの?」

 俺は予想がつきながらも、あえて尋ねた。すると、ふたりは口を揃えて「「ヴィリバルト」」と答える。
 その名前が出た瞬間、叔父は驚いた表情を見せたが、すぐに頬をかきながら弁明し始めた。

「ちょっとした教訓を教えただけだよ」

 まったく、どんな教訓をふたりに教えたのか。
 ふたりにそんな偏見を植え付けるようなことを教えるなんて、信じられない。
 俺のジト目に耐え切れなくなったのか、叔父がすぐに話題を変えた。

「さて、今日からはエリーアス殿下の客人として、王宮に滞在するよ」
「バルシュミーデ伯爵家には戻らないんですか?」

 突然の提案に俺は驚きを隠せなかった。

「ジーク、心配しなくても大丈夫だよ。ヨハンとのお別れの時間は、この件が片付いたらちゃんと取るからね」

叔父は優しく俺の頭をなでて、安心させるように微笑んだ。

「ヨハンも喜びます」とパルが微笑みながら言う。

「ヴィリー叔父さん、エリーアス殿下の客人って、理由はどうするんですか?」
「うん?」

 叔父は少し含みを持ちながら、俺の反応を楽しむように答える。

「テオが、殿下の趣味である流木に興味を持ち、意気投合したことになっているんだ」
「えっ、いつの間に?」

 俺は驚きの声を上げ、ハクとスラにご褒美のオークの肉を与えているテオ兄さんを見た。
 俺の視線に応じるように、テオ兄さんが軽くうなずいて補足する。

「何度か登城して王城の者にエリーと仲が良くなったと印象づけているから、数日の滞在は問題ないよ」
「エリー?」

 俺は頬が引きつるのを抑えることができなかった。

「親しさをアピールするには愛称で呼んだ方が効果的だと殿下に提案されてね」

 テオ兄さんが少し困った表情を浮かべ、諦めた様子で言った。
 そうだよね。さほど親しくない他国の王族を愛称で呼ぶのって、かなり勇気がいる。
 その時、俺たちの会話を耳にしたアグネス側妃が、エリーアスに向かって声をかけた。

「エリーアス、まだただの木を集めているのですか?」
「母上、ただの木ではありませんよ。流木です。長い年月をかけて川や海を旅し、自然の力で形を変えるのです。その独特な形や質感は、人工的には作り出せない美しさを持っています」
「ごたくはいいのです」

 アグネス側妃は厳しい口調で言い放った。
 エリーアスは肩をすくめ、ため息をついた。
 どこにいてもやはり母は強しと俺は心の中で思った。

「私たちは後宮に戻ります」
「母上、どうかお気をつけて」

 王妃がそう言うと、マティアスは心配そうな顔をしていた。
 そんな彼を王妃は優しく包み込むように抱きしめた。

「心配はいらないわ。お父様が警備を増員してくれたから」
「ブルーム公爵が動きましたか」

 王妃の言葉に反応したパルが目を鋭く光らせ、ふたりの間に割り込んだ。

「ええ、バルシュミーデ前伯爵」

 王妃は優雅に微笑みながら、うなずく。だが、その目は笑っていなかった。
 マティアスとの抱擁を邪魔された怒りが手に取るようにわかった。
 しかし、パルはそれを気にすることもなく胸を張り主張した。

「王妃様、私はただの冒険者のパルです」
「そうだったわね」

 パルの気迫に一瞬たじろいた王妃は、すぐに気を取り戻した。

「ブルーム公爵家は内乱に一切関与しないわ。あくまでも後宮の警備を強化するだけ。だから数には入れないでちょうだい」
「わかりました」

 パルが胸を手に当て、深々と臣下の礼をすると、静かにその場を引いた。
 先ほどまで空気を読まずに会話に割り込んでいたパルとは思えない、洗練された態度に俺の頭は混乱する。まるで別人のようだ。
 王妃も同じように驚いているようで、少し間を置いてから、マティアスを見つめた。

「マティアス、私たちが関われるのはここまでよ。あとは、エリーアス様と……」

 王妃が言葉を切り、その視線を叔父に向けるが、少しして頭を軽く振り、マティアスに戻した。

「エリーアス様に相談しなさい」
「ありがとうございます。母上」

 そんな王妃の態度に、マティアスが苦笑いをした。

「アグネス様、そろそろ戻りましょう。エレオノーラ様が待っていますから」
「はい、シャルロッテ様」

 ふたりは微笑み合いながら、仲良く部屋を後にしたのだった。


 純白の大理石の壁と漆黒の家具が調和する部屋。
 天井のクリスタルのシャンデリアが柔らかく光を反射し、最高級のベルベットのソファが優雅さを際立てる。
 中央の漆黒の大理石テーブルには銀の燭台が並び、蝋燭の光が温かみを添えていた。
 ユリアーナはご機嫌な様子で、そのソファに腰掛けていた。
 対面には、漆黒の甲冑を着た大柄な騎士がひとり、臣下の礼を取って報告をしている。

「エリーアスの客人として、アーベル家の者が王城に滞在するのね」
「はい。エリーアス殿下付きの侍女に話を聞いたところ、アーベル家の次男と親しい間柄で、愛称で呼び合うほどの仲だそうです」
「ふーん」
「特に怪しい点は見当たりませんでした」

 甲冑の男は頭を垂れたまま答えた。
 ユリアーナは、テーブルに置かれた銀の燭台を見つめながら、微笑を浮かべた。

「そうなのね。アルベルト様もご一緒なのかしら?」
「はい。それにディアーナ様も滞在されるそうです」
「ディアーナ? どうしてあの小娘がまた王城に戻ってくるの! せっかく追い出してやったのに、本当に厄介な存在だわ」

 ユリアーナは苛立ちを隠せず、大理石のテーブルを指で叩いた。
 その音が室内に響き渡り、銀の燭台が微かに揺れた。
「失礼しました」と甲冑の男はすぐに頭を垂れ、謝罪した。
 ユリアーナは指を止め、首をかしげて、不服そうな顔で続けた。

「それで、どうして?」
「アーベル家の四男ジークベルトの婚約者として滞在の許可が下りています」
「ジークベルト。アルベルト様が溺愛している弟……」

 ユリアーナはソファに身を預けながら、考え込んだ。
 しばらくして、彼女はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。

「手に入れることはできる?」
「仰せのままに」

 漆黒の甲冑が不気味に光り、男が深々と頭を下げた。
 その瞬間、部屋の空気が一変した。甲冑の男は剣を抜き、誰もいないはずの壁に矛先を向けた。

「見事だな」

 壁の中から黒いマントに覆われたひとりの男が現れた。
 口元を隠したその男は、鋭い目つきで甲冑の男を見つめる。

「あら? ザムカイトの首領がわざわざ来るなんて光栄だわ」

 ユリアーナの言葉を聞き、危険がないと判断したのか、甲冑の男は剣を収めた。
 マントの男はその様子を見て、目を細めた。

「漆黒の甲冑アイゼン侯爵を手懐づけたのか」
「うふふ、これでもだいぶ苦労したのよ。初めは魅了を使いすぎちゃって、男性的な話し方でないと話を聞いてくれなかったのよ。でも、最近やっと普通に話せるようになったの」

 ユリアーナと男の視線が交わる。
 男の目が冷たく光り、部屋の緊張感が一層高まる。
 やがて、男がフッと鼻で笑い、冷ややかな声で言った。

「依頼したものを届けに来た」
「まぁ、さすがサムカイトね、仕事が早くて助かるわ」

 ユリアーナは窓辺から離れ、マントの男に近づく。
 手を差し出してそのものを受け取ろうとすると、男は一歩後退し、鋭い目つきで彼女を見つめた。

「無償で渡すきはない」
「どういうことかしら?」

 ユリアーナは眉をひそめ、男の反応を探るように視線を合わせた。

「俺の質問に答えろ。闇使いのお前が隷属もせず、どうやって光の精霊魔法を使用できるようになった?」
「なにかの取引かしら? わざわざあなたの契約を解除してあげたのに?」

 ユリアーナは首をかしげ、無邪気な笑みを浮かべる。

「わかりきった嘘をつくな。お前にそのような力があったのなら、すぐに我々を手中に収めていただろう」

 男はあきれたようにため息をつき、頭を振った。

「うふふ、残念。騙されないわね」

 再びふたりの視線が交わり、緊張が高まる。ユリアーナは一瞬の沈黙の後、口を開いた。

「神に魂を捧げたのよ」
「魂だと?」
「百人分の魂をね」

 ユリアーナは愉快そうに笑い、その笑みが部屋の冷たい空気に響いた。

「王女のお前が手を出すには難しい人数だろ」
「うふふ、簡単なことよ。孤児院がひとつ消えただけよ。誰も疑いはしなかったわ」
「アーベルの倅と逢引きしていたあの礼拝堂か、上手くやったもんだな」
「人の逢瀬を覗くのはやめてよね」

 ユリアーナは軽く肩をすくめ、呆れたように言った。

「気に入っているようだな」

 男の問いかけに、ユリアーナは黙って微笑んだ。

「いいだろう。報酬だ」

 男がユリアーナに腕輪を渡すと、闇の中に溶け込むようにその場から忽然と消えた。
 ユリアーナは腕輪を受け取ると、その冷たい感触を楽しむように指先でなで、すぐに装着した。

「これで混合魔法が自在に操れるようになるのね」

 妖艶に微笑みながら、彼女は腕輪の輝きをじっと見つめた。

「能力をお試しにはならないのですか」

 部屋の隅から、影のようにアイゼンが静かに姿を現した。

「心配いらないわ。ザムカイトは依頼を完璧にこなす組織よ」

 アイゼンのどこか不安そうな顔を見て、ユリアーナが肩をすくめる。

「実例ならあるわ。お花畑にかけた混合魔法も、ザムカイトの魔道具を使って完璧に成功したわ。魔剣も見事な出来栄えだった」
「そうであれば、かまいません」

 アイゼンがうなずいた瞬間、彼はすでに扉の前に立っていた。
 まるで予感していたかのように、扉がノックされる音が響いた。
 扉を開けると、そこにはひとりの近衛騎士が立っていた。

「ユリアーナ殿下、トビアス殿下が面会を希望されています」
「お断りしてちょうだい」
「よろしいのですか?」

 近衛騎士は驚いた表情で聞き直した。
 まさかユリアーナが断るとは思ってもいなかったのだ。

「ええ、どうして驚いているの?」
「いえ、失礼しました」

 慌てて頭を下げ、部屋をあとにしようとしたところで、ユリアーナに腕を掴まれた。

「待ちなさい」
「はい、他になにか?」

 近衛騎士は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、ユリアーナを見つめた。
 ユリアーナは冷たい目で彼を見据え、ゆっくりと口を開いた。

「トビアスが王族でないと証言した私に、直接本人と会わせようとするなんて、それが近衛の判断なのかしら?」

 彼女はそう言いながら、掴んでいた腕を冷たく放した。
 その瞬間、腕輪が微かに輝き、近衛騎士の瞳が濁った。

「いえ、そう言った意味……申し訳ございません。すぐに対処します」

 近衛騎士はユリアーナに臣下の礼をし、一歩下がって部屋を退出した。
 その姿を見て、ユリアーナは満足そうに笑う。

「うふふ、効果抜群ね」
「魅了をお使いに?」
「そうよ。この腕輪は混合魔法の補助だけではなく、私に不足していた精霊魔法の力を補ってくれるのよ」

 ご機嫌な様子でそう言うと、ユリアーナは最高級のベルベットで覆われたソファに戻り、その柔らかな感触を楽しむように座った。

「ねぇ、あの子はいつ動くのかしら?」

 彼女は腕輪の輝きを一瞥し、妖艶に微笑んだ。


「あれ? そういえば、シルビアは?」

 ジークベルトが急に立ち止まり、周囲を見回した。

「王宮内にはいるよ。ただ彼女にはちょっとしたお願いをしているんだ」
「大丈夫なんですよね?」

 ヴィリバルトは優しくジークベルトの頭をなで、安心させるように微笑んだ。

「ディアーナ様の隠蔽マントをお借りして、姿を隠しているから心配することはないよ」

「そうではなくて……」とジークベルトが言いかけたその時、ディアーナから説明が入った。

「会議に行く直前に、貸し出しの許可を頼まれたんです」

 ジークベルトのつぶやきは、ディアーナの言葉にかき消された。

「また私に相談もなく、叔父様は!」

 テオバルトがこの会話を耳にして、苛立ちを抑えきれず、ヴィリバルトに詰め寄った。

「テオ、落ち着いて。これには深い事情があってね」
「深い事情があったのなら、なおさら私に相談してから動いてください」

 テオバルトは深いため息をつく。彼は冷静さを取り戻したが、まだ不満が残っているようだった。

「そうだね、これからはできる限り相談するよ」

 ヴィリバルトがうなずきながら、テオバルトの肩を軽く叩き微笑んだ。

「相談する気ありませんよね」

 その言葉を聞いて、テオバルトがあきれたように肩を落とした。


 ***

 ──会議の数時間前、パルシュミーデ伯爵家の客室。
 部屋の中央にはふかふかのソファが置かれ、その上でシルビアがくつろいでいた。
 彼女の前には、銀のトレイに盛られた色とりどりのお菓子が並んでいる。
 シルビアは一口サイズのマカロンを手に取り、優雅に口に運んだ。
 甘い香りが部屋に広がり、彼女の顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。
 その時、突然ヴィリバルトが現れた。

「シルビアにお願いがあるんだ」

 シルビアは驚きのあまり目を丸くしたが、すぐに平静を装い、「なんじゃえ」と軽く返した。
 口の周りにはお菓子のかすがついており、その姿は少し滑稽だった。
 ヴィリバルトは一瞬だけ笑ったが、すぐに真剣な表情に戻り、シルビアに向かって一歩近づいた。

「君は神獣だから、神族の干渉を受けないだろう」

 その言葉にシルビアは驚き、ソファから転げ落ちた。彼女の長い銀髪がふわりと舞い上がり、床に広がる。

「なっ、ヴィリバルト、なぜ神界の秘密を知っておるのじゃ!」

 シルビアは慌てて立ち上がり、ヴィリバルトを睨みつけた。
 ヴィリバルトは冷静な表情を崩さず、「ちょっとした伝手があってね」と軽く肩をすくめた。
 シルビアは「むぅ」と唇を突き出し、腕を組んで不満そうに彼を見つめる。

「消えた魂の痕跡を探って欲しい」
「なっ!」

 シルビアは再び驚きの声を上げたが、今度はヴィリバルトに向かって一歩踏み出した。

「それは一体どういうことじゃ?」
「おそらく、この件には神族が関わっていると思うんだよ」

 それを聞いたシルビアは慌てて頭を振り、組んでいた腕を解いた。

「無理じゃ! 今の妾は、神力が使えん! 魂の痕跡を追うことなど不可能じゃ!」

 ヴィリバルトの赤い瞳が一瞬黒く濁り、冷たい光を放つ。

「君の力を少しだけ解放する。だから、手伝ってくれるね、シルビア?」

 シルビアは底知れない力の前に体を震わせた。
 心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。
 逃げ出したいという衝動が彼女を襲ったが、その場から動くことはできなかった。
 彼の力の前では、逆らうことなど到底できない。彼女はその絶望感に押しつぶされそうだった。
 ヴィリバルトの威圧感に怯えながらも、シルビアはゆっくりとうなずいた。

「探って欲しいのは、光の精霊とハーフエルフの二つの魂だ」
「痕跡を探るには、なにか関連するものが必要じゃ」

 ヴィリバルトは無言で魔法袋から金のリボンを取り出し、シルビアの前に差し出した。

「これは、エマの……」

 シルビアはリボンに微かに残っていたエマの匂いに反応し、目を閉じて深呼吸した。
 その香りはエマの存在を強く感じさせ、彼女の胸を締め付けるような感覚をもたらした。
 悲しみと不安が一気に押し寄せてくる。

「私の予想では、魂を扱える魔道具のようなものがあるはずだ」
「神族ですら魂に干渉することは禁忌じゃぞ。ましてや人族が扱えるとは到底思えん!」

 シルビアの顔は恐怖と疑念で歪んだ。彼女の目は大きく見開かれ、唇は震えている。
 頭を激しく横に振りながらも、その言葉を否定しようとしていた。
 ヴィリバルトは一瞬の沈黙の後、冷静なまま静かに告げた。

「過去にそれができたんだよ」
「なっ、なにを言っておる?」

 シルビアはたじろき、ヴィリバルトを見つめた。

「神の呪いと言えば、わかるだろう?」

 ヴィリバルトの口角が上がり、軽い調子でそれを伝えると、シルビアは信じられない様子で叫んだ。

「それこそ、ありえんのじゃ!」

 彼女の声は震え、手は拳を握りしめていた。
 ヴィリバルトは目を細めて微笑んだ。その笑みは氷のように冷たく、赤い瞳には冷酷な光があった。

「いい機会だから教えてあげる。ジークの母リアは神の呪いで命を落としたんだよ」
「なっ、なんじゃと……」

 シルビアは言葉を失い、青白い顔で、ただただ震えるだけだった。

「頼んだよ、シルビア」

 その言葉を最後に、ヴィリバルトは姿を消した。
 客室には、驚愕と恐怖で固まったシルビアだけが残された。


 ***


「シルビアに頼まなくても、私が代わりに行ったのに!」

 頬をぷっくりと膨らまし、ヴィリバルトの眼前でフラウが強く主張した。
 彼女の大きな緑の瞳は怒りで輝き、小さな拳は震えていた。
 ヴィリバルトは優しく微笑みながら、フラウの目をじっと見つめた。

「だめだよ、フラウ。相手は精霊の魂を操れる可能性があるんだ。君になにかあったら、私は悲しいよ」
「むぅ。それなら仕方ないわね。今回は諦めるわ!」

 フラウは不満そうに唇を尖らせたが、ヴィリバルトの言葉に納得したように肩をすくめた。

「ありがとう、フラウ」
「だけど、無理をしたことには怒っているのよ」

 フラウの指摘にヴィリバルトが腕を組んで首をかしげる。
 その姿にフラウは唇を噛みしめ、鋭く見つめた。

「もう! 今回はなにを犠牲にしたの?」
「なにをかな?」
「とぼけないで! シルビアの神力を少しの間使えるようにしたんでしょう!」

 フラウは全身を大きく揺らし、真剣な表情で問い詰めた。
 ヴィリバルトは一瞬視線を逸らし、困ったように笑った。

「怒るほど、大したものじゃないよ」
「むぅ。だったら言って!」

 フラウの声は震え、目には涙が浮かんでいた。
 ヴィリバルトは一瞬目を伏せた後、静かに答えた。

「私の生命力。百年の寿命かな」
「なっ、なんですって! たいしたことあるじゃない!」

 フラウはムンクの叫びのような顔をして固まった。
 しばらくして我に返ったフラウが、ヴィリバルトの前で両手を重ね、懇願するように見上げる。

「もうその力は安定するまで使っちゃだめよ! 約束して、ヴィリバルト! お願いよ!」

 ヴィリバルトは少し考え込んでから、ため息ついて答えた。

「うーん、それはできない約束かな」
「ヴィリバルト!」

 フラウの非難めいた声が部屋中に響き渡る。

「ジークベルトになにかあれば使ってしまうからね。守れない約束はしないんだ。ごめんね、フラウ」
「むぅ。もう、知らない!」

 フラウは怒りに震えながら、ヴィリバルトの私室から飛び出して行った。
 ひとりになったヴィリバルトは、深いため息をつきながら静かな部屋の中で虚空を見つめ、問いかけた。

「ねぇ、聞いているんだろ? 私は守れない約束はしないんだよ」

 ヴィリバルトは虚空に向かって静かに語りかけた。

「だから、君もそろそろ目覚めたらどうだい?」

  赤い瞳には、不気味な黒い影がかかっていた。

「まさか、当日に動くとは、想像もしていなかったよ」

 ヴィリバルトは深いため息をつき、額に手をあてた。

「叔父様、影の手配はすでに完了しています。マティアス王太子殿下、エリーアス殿下ともに避難は完了しました」
「ジークたちは?」

 テオバルトは静かに頭を振り、唇をきつく結んだ。

「やられたね。まあ、敵の手中にいるから、それは想定内と言いたいけれど……」
「叔父様、なにかありましたか?」

 テオバルトが、途中で言葉を止めたヴィリバルトに尋ねた。
 ヴィリバルトは『索敵』と『鑑定眼』を使用し、ジークベルトたちの居場所を掴んでいた。

「これは想定外だ。彼女の目的はアルのようだ」
「えっ?」
「面白いことになりそうだ」とヴィリバルトはつぶやき、その口元には狡猾な笑みが浮かんでいた。

 深夜の静寂に包まれた王城は、無数の松明に照らされていた。
 冷たい風が吹き抜ける中、松明の炎が揺らめき、城の石壁に影を落としていた。その中心には、冷たい微笑を浮かべたトビアスが立っていた。


 ***


 本会議中、革命の光の本拠地では、同胞たちが集まっていた。
 薄暗い部屋の中で魔道具の光が揺らめき、その映像を前に緊張感が漂っていた。

「どういうことだ? トビアス殿下が不義の子だと、ユリアーナ様が宣言された!」

 その言葉が響くと、部屋の中は一瞬静まり返った。誰もが信じられないという表情を浮かべていた。

「なら、我々はどうなるのだ?」
「革命の光は、これで終わりなのか?」

 次々と声が上がり、不安が部屋を包み込んだ。

「静かにしろ!」

 左目から右頬に傷がある男、グレンツが怒りを込めて叫んだ。
 彼の声が部屋中に響き渡ると、突然、椅子を蹴飛ばした。その音が鋭く響き、周囲は一瞬で黙り込んだ。

「グレンツ、ここで八つ当たりをしてどうする?」

 金髪の青年カミルが、グレンツが蹴った椅子を元に戻しながら苦言を呈した。
 そして、周囲の不安を払拭するように優しく微笑みかけた。

「それにみんな、トビアス殿下に話を聞いてからでも、遅くはないだろう?」

 彼の穏やかな声と落ち着いた態度は、グレンツの鋭い目つきと怒りに満ちた態度とは対照的だった。
 全員が彼の声に耳をかたむけた。

「今は動揺している場合ではない。まずは冷静に状況を分析しよう」
「その通りだ」

 カミルの言葉に同意するように、革命の光のリーダーであるマクシミリアンが二階からゆっくりと下りてきた。
 彼の姿が見えると、彼らは自然と道を開け、静寂が広がった。
 マクシミリアンの存在感が部屋全体を包み込む。

「みんな話を聞いてくれ! ユリアーナ殿下はマティアス王太子殿下に操られているだけだ!」
「マックス、それは本当なのだな?」

 ひとりの若い男がマクシミリアンに疑念を抱いて問いかけた。
 マクシミリアンは思わず舌打ちをした。
 帝国から提供された『扇動』を強くする魔道具の効果がここにきて振るわなくなったからだ。

「あぁ、本当だとも。今までトビアス殿下がユリアーナ殿下のためにされた苦労を忘れたのか?」

 マクシミリアンが語りかけるように、静かに手を広げた。

「ユリアーナ殿下がトビアス殿下を裏切るはずはない。そうだろう?」

 彼の目が鋭く光り、再び『扇動』を発動させた。
 周囲の者たちはその力に引き込まれ、次第に納得の表情を浮かべ始める。

「でも、トビアス殿下が本当に不義の子だとしたら、我々の信念はどうなるのですか?」

 一番うしろにいた男が、声を震わせながら問いかけた。
 マクシミリアンはこけた目を細め、青白い顔に不健康な影を落としながら答えた。

「信念は簡単に揺らぐものではない。我々がなにのために戦っているのか、もう一度思い出してほしい。真実がなにであれ、我々の目的は変わらない」

 部屋の中に再び静寂が訪れたが、今度はその静けさの中に決意が感じられた。
 彼らの呼吸音だけが聞こえる中、マクシミリアンは一歩前に出て、力強く続けた。

「我々の目的は一つ。エスタニアに新しい風を起こすために、共に戦おう!」

 彼らは互いに目を見合わせ、再び心を一つにする決意を固めた。


 ***


 スラム街の一角にある本拠地の裏の扉が静かに開かれ、薄暗い秘密の通路からビーガーが現れた。
 彼の腕には憔悴しきったトビアスが抱えられていた。

「トビアス殿下!」

 カミルが駆け寄り、心配そうに声をかけた。
 その声に反応したトビアスはゆっくりと顔を上げ、生気のない目で周囲を見渡した。

「姉上が、俺を裏切った」

 駆け寄ったカミルの腕を強く握り、突き放した。
 そして頭を抱え「なぜだ。なぜなんだ姉上!」と嘆き叫んだ。
 彼の声が静まり返った部屋に響き渡った。
 しばらくして、ビーガーがそっとトビアスの肩に手を置き、優しく微笑みながら励ますように言った。

「トビアス殿下、ユリアーナ様は決して裏切りません。殿下のために戦っているのです。どうか信じてください」
「だが、姉上は俺の面会を断った。ビーガー、あの近衛騎士は俺になんと言った?」
「それはっ……」

 ビーガーは一瞬言葉を失い、顔が青ざめ、唇が震える。

「俺を王族ではないと言ったんだ!」

 トビアスは怒りに震え、顔を真っ赤にして叫んだ。その瞬間、彼の怒りは頂点に達し、次第に感情が抜けていくのを感じた。
 トビアスは一瞬放心状態になり、目の前の現実がぼやけて見えた。

「だとしたら、すべての王族を消せばいい。そうすれば、王が俺だ!」

 彼の声は冷静さを取り戻し、しかしその言葉には冷酷な決意が込められていた。
 周囲の者たちはその極論に驚愕し、息を呑んだ。

「グレンツ、帝国はなにをしてくれる?」

 トビアスは、部屋の隅で気配を消していたグレンツに向かって、威圧的な口調で問いかけた。さきほどまでの醜態が嘘のように、彼の表情は冷静そのものであった。
 その不気味な姿に、殺し屋であるグレンツでさえ一瞬恐れを感じた。

「複数の魔道具と数十人の奴隷の提供となります」

 グレンツは平然と答えたが、その声にはわずかな緊張が感じられた。

「それだけか?」とトビアスは不満げに眉をひそめた。
「これ以上は難しいとのことです」
「ちっ、大国であってもそれが限度か」

 トビアスが舌打ちし、冷たい目でマクシミリアンを見つめた。マクシミリアンはぶつぶつと独り言をつぶやいていたが、その視線に気づくと一瞬で黙り込んだ。

「マクシミリアン、同胞たちを今すぐ集めろ」
「はい」

 マクシミリアンは、こけた目を見開き、すぐに意を決して命令に従った。

「お前は俺と一緒に来い」
「承知しました」

 カミルは深々と頭を下げ、臣下の礼をした。

「今日の深夜、すべての王族を排除する」

 トビアスの冷淡な声が薄暗い部屋に響き渡り、緊張が一層高まった。
 ビーガーは天を仰ぎ、グレンツは冷笑を浮かべた。マクシミリアンの顔は白く青ざめ、カミルの手が微かに震えた。


 松明の揺れる光がトビアスの顔を照らし出す中、彼の鋭い目が一瞬だけグレンツを捉えた。

「すべての準備が整いました」
「いいだろう」

 トビアスが深くうなずいた。
 彼は一瞬の沈黙の後、革命の光の同胞千数百人を前にして、力強く声を張り上げた。

「革命の光の同胞たちよ、我々は長い間苦しんできた。しかし、今こそ新しい時代を切り開く時だ。エスタニアに新しい風を起こすために、共に戦おう!」

 その言葉に呼応するように、革命の光の同胞たちは一斉に松明を掲げ、力強い足取りで王城へと進んでいった。
 夜の闇に包まれた王城が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
 その時、闇の中から静かに、しかし確実に姿を現した者たちがいた。彼らは皆、アーベル家の家紋を付けた影の者たちだった。黒いマントをまとい、鋭い目つきで革命の光の同胞たちを見据えている。
 彼らの登場により、空気が一瞬にして張り詰めた。

「アーベル家がなぜ他国の王城にいる。これは侵略だ!」

 トビアスは驚きと怒りを隠せず、声を荒げた。
 彼らは無言のまま、冷たい視線をトビアスたちに向ける。その存在だけで圧倒的な威圧感を放っている。

「いいえ、侵略などではありません」

 テオバルトが影たちの間から静かに姿を現し、白い紙を高々と掲げた。

「マティアス王太子殿下からの協力要請です」

 暗闇の中でも光る白い紙には、王印が鮮明に押され、遠くからでもはっきりとわかるほど強く輝いていた。
 それを見たトビアスは目を見開き、呆然と立ち尽くした。

「それは王にしか扱えない王紙と王印だ」

 トビアスの声が静かに闇夜に響く。

「なぜだ? まだ王でないマティアスが使用できるはずがない! 偽物か!」

 トビアスは混乱と怒りで声を震わせ、拳を握りしめた。彼の心臓が激しく鼓動し、頭の中は混乱していた。
 テオバルトは一瞬の沈黙の後、冷静な表情で応じた。

「いいえ、本物です。王の資格を受け継いだ方に書いていただきました」
「王の資格を受け継いだ方だと? それは一体誰だ?」

 トビアスは問い詰めるように叫ぶ。しかし、テオバルトはそれには答えず、冷たい視線をトビアスに向けたままだった。沈黙が場を支配し、トビアスの焦りが募る。
 その時、静寂を破るようにマクシミリアンの声が周囲に響き渡った。

「同胞たちよ、怯むな!」

 その声に応じて、革命の光の同胞たちは一斉に動き出し、次々にアーベル家の影を襲った。剣が交わり、叫び声が響き渡る中、戦いの激しさが増していった。
 トビアスは剣を抜き、戦いの中に飛び込んだ。彼の動きは素早く、力強かったが、アーベル家の影はその全てを巧みにかわし、攻撃の隙を与えなかった。焦りと怒りが彼の胸に渦巻き、汗が額を伝った。
 一方、テオバルトは冷静に戦況を見守っていた。彼の目は鋭く、まるで全てを見通しているかのようだった。彼は一歩も引かず、冷静に指示を出しながら、革命の光の同胞たちの動きを注視していた。
 影のひとりが戦況を離れ、静かにテオバルトの背後に現れた。

「テオバルト様、この者たちおかしいです」
「うん、そうだね。見ていたからわかるよ、動きが異常だ。帝国の新薬だね」

 テオバルトは冷静に答えたが、その目には深い哀れみの色が浮かび、口元がわずかに歪んだ。
 そこへ戦闘に参加していたニコライが駆け寄ってきた。

「テオ、どうするんだ? 意識を落としても効果がない。ゾンビみたいに復活するぞ」

 ニコライは戸惑いの表情を浮かべ、息を切らしながら進言した。
 テオバルトは一瞬目を閉じ、深く息を吸い込んで決断した。

「殺傷を許可する。だが、できるだけ殺すな」
「御意」

 影のひとりはうなずき、再び戦場へと戻っていった。


 ***


「トビアス殿下、後宮に進軍していた帝国の奴隷たちが次々と解放されています!」
「なに? 一体どういうことだ!」

 トビアスは眉をひそめ、驚きと困惑の表情を浮かべた。
 その頃、カミルはヴィリバルトから託された魔道具を使い、帝国の奴隷たちを次々と解放していた。魔道具の光が淡く輝き、体に刻まれた奴隷紋が消えていく。

「すぐにここから離れるんだ」

 カミルが優しく促すと、解放された奴隷のひとりが涙を浮かべながら感謝を伝え、うなずいて走り出した。
 それを皮切りに、解放された奴隷たちは次々と薄暗い森の中へと駆け込んでいった。木々の間から差し込むわずかな月明かりが、彼らの逃げ道をかすかに照らしていた。
 しかし、その静寂を破るように、突然、鋭い悲鳴が響き渡った。ひとりの奴隷が首から血を噴き出しながら地面に崩れ落ちたのだ。
 その場には、冷酷な笑みを浮かべたグレンツが立っており、血の付いた刃物を愛おしそうに眺めていた。

「グレンツ……」

 カミルは低く唸るように彼の名を呼び、怒りを抑えながら魔道具から手を放し、奴隷たちをうしろに下がらせた。そして、グレンツに向き合い剣を抜いた。

「カミル、お前が裏切るとは思っていたが、やはりな」

 グレンツの声はどこか喜色に溢れていた。

「俺が裏切るとわかっていて、なぜトビアス殿下に進言した?」
「さあなぁ、トビアス殿下に進言した理由なんて、お前にはわからないさ。お貴族様にはなっ」

 グレンツが冷笑を浮かべながらカミルに攻撃を仕掛けると、カミルは素早くそれを受け止めた。グレンツの短剣は鋭く、致命傷を狙ってくる。その技量にカミルは一瞬押され、『土壁』を使い一旦下がった。

「ちっ、魔法で交わしたか」

 グレンツは舌打ちしながらも、次の一手を繰り出す隙を狙っていた。その目には狂気が宿り、殺しの喜びが滲み出ていた。彼は人を殺すことに無上の快感を覚え、その瞬間を楽しんでいるかのようだった。
 カミルはその狂気に戦慄を覚えながらも、激しい攻撃に息が上がっていた。
「あまり魔力を消費したくはないんだが」とつぶやきつつ、自身に身体や魔法の能力を一時的に上げるオリジナル魔法『補助』をかけ、次の攻撃に備えた。
 再びグレンツの短剣がカミルを襲うも、カミルは巧みにそれを交わした。『補助』の効果で動きが格段に速くなったカミルの変化に気づいたグレンツは、一瞬目を見開いたが、すぐに口角を上げた。

「支援系の魔法か。さすがお貴族様、魔法を上手く使って、俺たち魔属性がない屑とは違うなぁ」

 グレンツの挑発にカミルは顔を顰めたが、冷静さを保ち続けた。彼はグレンツの次の攻撃を予測し、剣を構え直した。

「魔属性がなくとも、生きてはいけるだろう!」
「これだからぬくぬくと育ったお貴族様はっ」

 グレンツは再び短剣を振りかざし、カミルに向かって突進した。カミルはその動きを見極め、素早く横にステップを踏んで避けると同時に、剣を振り下ろした。鋭い金属音が響き、ふたりの武器が激しくぶつかり合った。

「なあ、カミル、知っているか? 革命の光の同胞たちのほとんどは、スラムで育ったんだぜ」
「それがどうした? 生まれや育ちがどこであろうと、なにも変わらない」

 カミルの言葉に一瞬動きを止めたグレンツは、「あははっは」と突然声を上げた。そして、短剣を引き、ゆっくりと後退した。

「カミル、お前、ちゃんと寝たことあるか?」

 カミルは脈絡のない突然の質問に驚きと疑念の表情を浮かべ、「なにをっ」と返した。グレンツは苦笑いしながら続けた。

「俺は数分だって、寝るのが怖えんだ」

 カミルの眉間には深い皺が寄り、その目は困惑と緊張で揺れていた。グレンツがこの戦闘の場でなにを伝えたいのかその意図を読めなかったからだ。

「お前にはわかんねぇだろ。いつ誰にどこで暴力を振るわれ、油断したら殺される、そんな世界だ」

 グレンツは吐き捨てるように言い、その目は怒りと絶望で暗く光っていた。

「裏切りは当たり前。飢えと死が隣り合わせ、俺たちは殺すしかねぇんだよ」

 そう言うと、グレンツは短剣を高く掲げ、一瞬の隙を突いてカミルに向かって突進した。カミルは一瞬の油断で反応が遅れ、頬に鋭い痛みを感じた。薄っすらと血が滲んでいた。

「俺に同情でもしたのか?」

 グレンツが嘲笑しながら問いかけた。
 カミルはその言葉に反応せず、ただ鋭い視線を返した。ふたりの間に一瞬の静寂が訪れたが、次の瞬間には再び激しい戦いが繰り広げられた。

「はぁ、はぁっ、なかなかやるじゃねぇか」

 グレンツが息を切らしながら言った。
 カミルも同様に息を切らし、額には汗が滲んでいた。彼は一瞬、剣を握る手を見つめ、深く息を吸い込んだ。

「グレンツ、これで最後にしよう」

 カミルが全身に魔力を込める。彼の体を纏う空気が白く輝き、まるでオーラのように揺らめき始めた。
 この技は、カミルが『やはり俺は無能だ』と挫折を再認識したダンジョンでの出来事から始まった。ジークベルトの戦いを間近で観察していたカミルは、その圧倒的な力に感銘を受け、自分も同じ技術を習得したいと強く願った。そこで、彼はこの数か月間、ヴィリバルトに師事を仰ぎ、厳しい訓練を積んできたのだ。
『どうして私なんだい?』とヴィリバルトは戸惑いながらも、『姫様の力になりたい』とのカミルの想いを尊重し、誓約魔書を結び直してそれを受け入れてくれた。この恩は一生感謝してもしきれない。
 カミルは剣を握りしめ、全身に込めた魔力を解放した。彼の剣は白く輝き、まるで雷のように閃いた。
 グレンツはその光に一瞬目を眩ませたが、すぐに構え直した。しかし、カミルの動きは速く、力強かった。彼の剣はまるで風のように舞い、グレンツの防御を次々と打ち破っていった。

「これで終わりだ!」

 カミルは叫び、最後の一撃を繰り出した。グレンツはその一撃を避けようとしたが、間に合わず、剣が彼の防御を突き破り、地面に倒れ込んだ。
 グレンツは地面に倒れたまま、かすかに笑った。

「やっと、寝れる……」

 そう言ったきり、グレンツの瞳が開くことはなかった。

「いらっしゃい、アルベルト様の弟ジークベルト・フォン・アーベル」

 赤い玉座に座ったユリアーナは、自信に満ち溢れていた。
 彼女の唇には妖艶な微笑が浮かび、その魅力が場を支配していた。彼女の鋭い眼差しが俺を貫くように見つめる。
 俺は一瞬、彼女の威圧感と魅力に圧倒されそうになったが、深呼吸をして、なんとか心を落ち着けた。

「ディアとエマはどこだ?」

 俺の声は思ったよりも緊張していたが、ユリアーナの微笑は変わらない。彼女は優雅に手を振り、目を細めて笑った。

「うふふ、せっかちさんね」

 ユリアーナが俺の背後にいる甲冑を着た男に目配せすると、彼は静かに動き出した。すると突然、玉座の間の煌びやかな装飾の中に黒い闇が浮かび上がった。その闇は徐々に広がり、その中からディアーナとエマがゆっくりと姿を現した。

「ディア! エマ!」

 彼女たちはそれぞれ大きなグレーの玉の中に閉じ込められていた。

「あなたを捕まえようとしたら、強力な結界に阻まれて失敗したのよ」

 玉座に座ったままユリアーナが冷ややかに足を組み替える。その動作はゆっくりと、まるで俺を観察するような、彼女の冷酷さを際立たせていた。

「だから、代わりに餌を捕まえたの」

 ユリアーナの目には冷たい光が宿り、微笑みの裏に隠された悪意がちらつく。
 彼女の本性をまのあたりにし、俺の心の奥底に冷たい恐怖が広がった。


 ***


 王城の客室で就寝していた俺は、ハクとスラの温もりを感じながら静かな夜を過ごしていた。
 突然、ハクがなにかの気配に気づき、飛び起きた。

「どうしたの、ハク?」

 俺は目を覚まし、ハクの動きを追った。ハクは扉の前で低く唸り声を上げている。

〈嫌な匂い!〉

 スラも目を覚まし、俺の首にぴったりと引っ付き、警戒心を露わにした。

〈くさい!〉

 ふたりの並ならぬ様子に、俺はベッドから起き上がり、扉に向かって歩み寄る。

「誰かいるのか?」

 一時の沈黙の後、扉の向こうから聞きおぼえのない男の低い声がした。

「至急の用件だ。扉を開けてくれないか?」

 俺は眉をひそめ、警戒心を全開にして、扉の向こうを見つめた。

「こんな深夜に訪れて、客人のぼくに用件があると?」
「そうだ」

 男は短く答えた。その無機質な声色に、俺の緊張がさらに高まる。

「申し訳ないんだけど、無理なんだ。怪しい人は部屋に入れちゃだめだと強く言われているからね」
「ディアーナ王女と侍女のエマの命がおしいなら、開けてくれ」
「なっ!」

 言葉を失った俺は、呆然とした。ディアーナとエマの顔が脳裏に浮かび、手のひらに汗が滲むのを感じた。

《ご主人様、調査しました。現在ディアーナとエマは行方不明です。現時点の私の能力では、彼女たちがいる場所を特定できません》

 ヘルプ機能の報告により、男の言い分が事実であり、彼女たちが危険な状態であることがわかった。

〈ジークベルト、どうする?〉
〈主!〉

 ふたりの心配を感じながらも、状況を考えるに扉を開けるしか道がなかった。
 魔袋から戦闘用の服を取り出し、素早く着替え、黒い剣を腰につけ、マントを羽織った。

「扉を開けてもいい。だけど、ぼくたちに危害は加えないで欲しい」
「はじめからそのつもりだ」

 男の意外な回答に驚きつつも、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。
 そこには甲冑を着た男が立っていた。彼は扉が開くとすぐに、ハクに近づき、魔道具のようなものをかざした。
 ハクが静かに床に倒れる。

「ハク!」

 ハクが倒れたのを見て、俺の心臓が一瞬止まったように感じた。急いで駆け寄ったが、恐怖で手が震える。だが、ハクは何事もなかったかのように、静かに寝息を立てていた。

〈主、危険!〉

 スラが叫んだ瞬間、男は俺の首に張り付いていたスラにも同じように魔道具をかざした。
 力なくスラが床へと落ちていく。

「危害はくわえないと約束したはずだ!」

 俺は怒りで体中が震え、男を睨みつけた。
 男は冷静なまま、無表情で俺を見返し、「眠らせただけだ」と淡々と答えた。

「時間がない。ジークベルト・フォン・アーベル。ディアーナ王女とエマの命がおしければ、俺に黙ってついてこい」

 甲冑の男はそう言って、部屋を出た。
 俺は一瞬躊躇したが、ディアーナとエマの命を最優先に考え決断した。
 床に眠るハクとスラを抱え上げ、そっとベッドに移動させた。そして、彼らを見守るように一度振り返り、男の後を追って部屋を出たのだった。

 ***


「素直についてきてくれて、本当に良かったわ」

 ユリアーナの冷たい声が響いた。彼女の唇には薄い笑みが浮かび、その目には無慈悲な冷たさが見えた。

「ディアたちを解放してください」
「あら誰がそんな約束をしたの? アイゼン?」

 俺の主張にユリアーナは興味深げに首をかしげ、視線をアイゼンに向けた。彼女の笑みは一層広がり、周囲の空気が一瞬張り詰めたように感じた。

「いえ、私はふたりの命がおしいなら、ついてこいと言ったまでです」

 アイゼンが無表情で答えると、ユリアーナは思い出したかのように口を開いた。

「そういえば、ジークベルトの魔獣たちはどうしたの?」
「ユリアーナ様から預かった『眠り』で眠らせました」
「そう、あとで回収してちょうだい。変異種のブラックキャットと特殊体のベビースライムが私のコレクションとなるのね。とても楽しみだわ」

 彼女は玉座に深く腰掛け、目の奥に冷たい光を浮かべて俺を見つめた。

「あら、その顔いいわね」

 ユリアーナが冷たく微笑んだ。その瞬間、玉座の横にある水晶が不気味な青白い光を放った。彼女はその光に視線を移し、口元に妖艶な笑みを浮かべた。

「アイゼン、あなたの古い知人が玉座の間に近づいているわ。首を持ってきてちょうだい」

 その言葉にアイゼンは一瞬躊躇ったが、すぐに深々と臣下の礼をとった。

「仰せのままに」

 アイゼンはユリアーナに対する絶対的な忠誠心を示し、玉座の間をあとにした。
 ユリアーナとアイゼンのやり取りの間、俺はディアーナとエマが入っているグレーの玉を鑑定眼で見た。
 
 **********************
 闇のカーテン
 効果:外界からの接触を遮断
 説明:闇魔法『暗闇』で作製された膜のようなもので、変幻自在に形を変える。同等以上の闇、光魔法で破壊できる。
 **********************

「強い魔力。なにをしたのかしら?」

 ユリアーナが目を細めて俺を鋭く見つめる。

「ディアたちを覆っているグレーの玉について調べていました」
「ジークベルトは鑑定持ちなのね、それで、解決はできそうなの?」

 俺が意外にも素直に答えたことに、ユリアーナは一瞬驚いたが、すぐに挑発的な態度を取った。
 できないとそう思っているんだろうな、それなら期待に応えないと。

『光輝』

 グレーの玉が一瞬の閃光と共に割れ、中からディアーナとエマが飛び出してきた。ふたりは互いに顔を見合わせ、俺の元に駆け寄ってくる。

「あら、お見事!」

 玉座からユリアーナの驚嘆した声が聞こえた。



 アルベルトとパルは、急ぎ足で玉座の間へと向かっていた。
 前方から静かに甲冑をまとった男が現れる。男の姿を確認したパルは、その名を叫んだ。

「アイゼン!」
「バルシュミーデ、お前の首をもらう」

 アイゼンは鋭い声で言い放ち、その甲冑が不気味に光った。
 パルはアルベルトを先に玉座の間に行かせるため、彼の腕を引っ張った。

「アルベルト殿、ここは私に任せて、玉座の間へ」

 アルベルトは一瞬ためらったが、パルの決意を感じ取り、うなずいた。

「気をつけて、パル」

 パルはアイゼンに向き直り、冷静な声で言った。

「アイゼン、ここでなにをしている? 我々の敵ではないはずだ」
「時代は変わったのだ、バルシュミーデ。今や我が主ユリアーナ女王の命令に従うのみ」

 パルは剣を抜き、戦闘態勢に入った。

「ならば、ここで決着をつけるしかない」

 パルは剣を構え、アイゼンとの距離を詰めた。アイゼンもまた、剣を抜き、冷たい笑みを浮かべた。

「バルシュミーデ、覚悟はできているか?」
「もちろんだ、アイゼン。ここで終わらせる」

 ふたりの剣が交錯し、鋭い金属音が響き渡った。パルはアイゼンの攻撃をかわしながら、反撃の機会をうかがった。アイゼンの動きは素早く、力強いが、パルもまたその技量で応戦した。戦いが激しさを増す中、パルはアイゼンの隙を見つけ、鋭い一撃を放った。アイゼンは驚いた表情を浮かべ、一瞬動きを止めたが、すぐに体勢を立て直した。

「やるな、バルシュミーデ。しかし、これで終わりではない」

 アイゼンは再び攻撃を仕掛け、パルもまた全力で応戦した。ふたりの戦いは続き、玉座の間へと向かうアルベルトの背中にその音が響いていた。
 アイゼンは遠ざかるアルベルトに一瞬目をやった。

「アイゼン、よそ見をする余裕はないぞ!」

 パルの鋭い声が響き渡り、その一撃がアイゼンに迫った。アイゼンは素早く振り向き、パルの剣を受け止めた。剣が激しくぶつかり、火花が飛び散る。

「くっ、バルシュミーデ、その腕は衰えていないな」

 アイゼンは息を切らしながらも、一歩後退し、すぐに体勢を立て直して反撃に転じる。

「当然だ。姫様の護衛騎士だからな。お前のように戦線を離れることなどない」

 パルは胸を張り、再び鋭い一撃を繰り出した。アイゼンが巧みに受け流す中、激しい剣戟が繰り広げられる。
 互いに譲らないふたりの剣は、まるで閃光のように交錯し、金属音が響き渡る中で、パルの刃が甲冑をかすめた。その瞬間、アイゼンの顔が苦渋に歪み、「くっ」と息を漏らした。パルはその機会を逃さず、一気に攻勢を強める。

「アイゼン、お前の意地は認めるが、これで終わりだ!」

 パルは叫びながら鋭い一撃を繰り出し、アイゼンの防御を突き破った。

「ぐっ……」アイゼンは体勢を崩し、膝をついた。
 しかし、彼の心はまだ折れていなかった。息を切らしながら、最後の力を振り絞り、再び立ち上がろうとする。

「もう勝敗はついた、アイゼン…」

 パルは苦しげな表情を浮かべながら、愛剣を振り下ろした。その一撃がアイゼンの頭部に軽く打ちつける。アイゼンは視界が暗くなるのを感じながら、意識を失い、地面に崩れ落ちた。


 ***


「戦え! 死ぬまで戦うんだ!」

 マクシミリアンが『扇動』を発動し、帝国の新薬で異形の姿となった一部の同胞たちをコントロールしていた。
 彼らの筋肉は膨れ上がり、目は血走っていた。意志を失った彼らの動きは機械的で、マクシミリアンの命令通りに動く、ただの人形に過ぎなかった。
 マクシミリアンの額にはおびただしい汗が流れ、呼吸は荒く、目は焦点を失っている。
 彼は『扇動』を使い過ぎていたのだ。
 すでに彼の魔力は枯渇していたが、手元のMP回復薬を握りしめ、なんとかその場を凌いでいた。彼の体は限界に達していたが、それでも戦いを続けるしかなかった。
 その時、マクシミリアンを支えていたひとりの男が、非難めいた言葉をあげる。

「マックス、お前を信じてここまで来たのに、同胞たちのあの姿はなんだ?」

 男の顔には怒りと失望が浮かんでいた。

「はあ? 今さら信じるもなにも、見ての通りだろ?」
「はじめから俺たちは捨て駒だったのか!」

 男の言葉に、その場にいた他の仲間たちもざわめき始めた。視線がマクシミリアンに集中する。

「あはは! それは誤解だ! お前たちには、飲ませてないだろ?」

 マクシミリアンはポケットから帝国の新薬を取り出し、冷笑を浮かべながら彼らに見せた。

「今後の活動を考えて取捨選択しただけだよ。まさかスラム街のやつらに情でも移ったのか? あいつら全員犯罪者だぞ?」
「だが、今は仲間だ」と男は毅然とした声で言った。
「きれいごとは聞き飽きたよ。じゃあ、お前が代わりに飲むか?」

 その提案に男は一瞬動揺し、目を逸らした。彼の仕草にマクシミリアンは嘲笑を浮かべ、「やはりきれいごとだな」と言い放った。
 残っていた同胞たちに不安が漂っていることに気づいたマクシミリアンは、拳を握りしめ、声を張り上げて主張した。

「みんな、よく聞け! 俺たちは平民で、魔属性がない者がほとんどだ。しかし、王城にいる騎士たちは貴族で、魔属性を持ち、魔法を使える。だからこそ、俺たちは苦渋の決断をした。帝国の新薬を使い、魔法に対抗できる体にしたのだ!」

 マクシミリアンは、新たな薬を高々と掲げる。

「安心しろ! 解毒薬はある! この戦いが終わり、俺たちが勝利を掴んだら、同胞たちも元に戻るんだ!」

 その言葉に、同胞たちは互いに目を合わせ、決意を新たにした。そして、一斉に「おおー!」と声を上げ、戦意を高めた。
 その背後には、アーベル家の家紋を付けた影が密かに佇んでいた。

「テオバルト様、『扇動』の発動者マクシミリアンの位置を特定しました」

 影が音もなく姿を現し、テオバルトへ戦況を報告した。

「早いね」
「今、他の者が捕獲に動いておりますが、体を酷使し過ぎています」
「それは残念だ」

 テオバルトが冷酷に言い放つ。その一言で、影はマクシミリアンが見限られたことを即座に悟った。
 影の顔には一瞬の驚きが走り、すぐに冷たい汗が額に滲んだ。

「『守り』の魔道具の解除状況は?」
「もう少し時間が必要です」

 影の答えにテオバルトは静かにうなずき、次の指示を出す。

「わかった。『守り』が解除され次第、トビアス殿下ならびにビーガー侯爵を確保する。彼らは重要な証人だ。必ず捕まえるんだ」
「御意」

 影はその一言を残し、音もなく暗闇に消えた。

「ニコライ、行こう」

 テオバルトは隣に立つニコライを見つめると、ニコライは拳を掲げて応じた。

「腕がなるぜ」

 ふたりの視線の先には、帝国の薬で異形の姿に変わった哀れな者たちと影たちが激しい戦いを繰り広げていた。
 テオバルトの一言が合図となり、ふたりは無言のまま戦場に向かって歩き出した。
 冷たい風が吹き抜ける中、彼らの姿は戦場の喧騒の中に消えていった。


 ***


 戦場の喧騒の中で、トビアスは汗だくになりながら拠点に戻ってきた。守りの魔道具で結界が張られたこの場所だけが、戦場の中で唯一の安息地だ。

「トビアス殿下!」

 息を切らし、全身が震えているトビアスの元へ、ビーガーが急ぎ足で駆け寄る。

「ビーガー、魔力切れだ。MP回復薬をくれ」

 トビアスは荒い息をつきながら、手を差し出した。

「なりません。これ以上のMP回復薬の使用は命に関わります」
「ちっ、戦況がおもわしくないのはわかっているだろ?」
「わかっております。ですが、これ以上の使用はできません」

 トビアスが苛立ちを隠さずに声を荒げるも、ビーガーは冷静に応じ、それを強く拒否した。ふたりの視線が交わり、一歩も引かない。
 突然、パリンッという大きな音が本拠地全体に響き渡る。

「なんの音だ?」

 トビアスは眉をひそめ、不信感を抱きながら周囲を見渡した。
 守りの魔道具で張られていた結界が破壊され、戦場の淀んだ空気が一気に流れ込んできた。なにが起きたのか理解できず、彼らの緊張はさらに高まる。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ」

 拠点の入り口から、人々の叫び声が聞こえた。

「なにがあった!」

 トビアスが逃げてきた男を捕まえ問い詰めると、彼は真っ青な顔で唇を震わせた。

「守りの魔道具が壊れました。戦場にいた同胞たちが襲ってきています」
「ちっ、どういうことだ! マクシミリアンはなにをしている!」

 トビアスは男を投げ捨て、怒声を上げた。男は地面に転がりながらも、恐怖の表情を崩さずにトビアスを見つめた。

「マックスは別の場所で……」

 その時、異形の形をした同胞たちが、トビアスたちの前にも現れた。拠点の中は混乱の極みで、戦況がさらに悪化している。ビーガーが冷静に決断する。

「トビアス殿下、お逃げください」
「ビーガー、なにを言っている?」
「戦況は決しました。このまま殿下が捕まれば極刑は免れません。逃げるのです」

 ビーガーがトビアスの肩を掴み、冷静に告げる。
 その言葉にトビアスは全身を震わせ、ビーガーを見つめた。

「お前はどうするんだ?」
「私はここに残ります」

 ビーガーは静かにそう答えると、トビアスは目を見開き、言葉を失った。

「なにを驚いているのです。私は侯爵ですよ。それぐらいの覚悟はあります」

 ビーガーはトビアスの肩から手を放し、彼の目をじっと見つめながら続けた。

「それに私も攻撃魔法の一つぐらい使えます」

 ビーガーは微笑みながら、手のひらの上に小さな竜巻を作り上げた。

「だめだ! お前は俺と一緒に来るんだ」

 トビアスが叫んだその瞬間、異形の形をした同胞がトビアスに襲いかかった。
 ビーガーは即座に反応し、手のひらの竜巻を放って異形の同胞を撃退した。風の力が異形を吹き飛ばし、地面に叩きつけた。

「トビアス殿下、早く!」

 ビーガーは叫びながら次の異形の同胞に向き直った。

「私はここで時間を稼ぎます。どうかお逃げください!」

 トビアスはビーガーの覚悟に目を見開き、一瞬のためらいの後、彼の言葉に従ってその場を離れた。
 後ろから聞こえる風のうねりと戦闘の音が、ビーガーの奮闘を物語っていた。


 ***


 テオバルトは異形の者たちとの激しい戦いの最中、突然パリンッという大きな音を聞いた。周囲の気配から、結界が破壊されたことをすぐに察した。

「結界が壊れたか……」

 テオバルトは冷静に状況を分析し、即座に指示を出した。

「トビアス殿下とビーガー侯爵を確保しに行く!」

 ニコライと共に移動を始めると、道中で異形たちに襲われている満身創痍のトビアスを発見した。
 異形の者たちが群がる中、テオバルトは鋭い一撃で次々と異形を倒していった。ニコライもその後に続き、戦いの混乱の中でトビアスを確保し守り抜く。
 しばらくして異形の者たちが一斉に倒れ始めた。戦場に響くその音は、異様に静かで重い。薬の副作用が彼らを襲い、命を奪っていくことを、テオバルトは事前に知っていた。冷酷な策略の裏側に隠された真実。それが今、目の前で展開されていた。

「息がある者は助けるんだ」

 テオバルトの指示に、影たちがすぐに動き出した。倒れた異形の者たちを調べ、まだ息がある者を手早く救出していく。

「ビーガーを……助けてくれ……」

 テオバルトの腕を掴み、トビアスは意識が遠のく中、かすれた声でつぶやいた。

「安心してください、トビアス殿下。ビーガー侯爵も無事です」

 影から先ほどビーガーを確保したとの報告を受けたテオバルトは、安心させるように答えた。
 ニコライに意識を失くしたトビアスを任せ、テオバルトは戦場となった王城前の景色に目を向けた。
 沈黙が一瞬訪れ、重くのしかかるような戦場の空気がテオバルトの心に染み込んだ。

「犠牲者が少なければいいが……」

 テオバルトのつぶやきは、風にかき消されるほど弱々しかった。彼にとって、この戦場は勝利の象徴ではなく、数多くの命が無意味に失われる場所だった。
 影がテオバルトの背後に忍び寄る。

「テオバルト様、革命の光のリーダー、マクシミリアン及びその配下数十名を確保しました」
「そうか、よくやったね」
「しかし、マクシミリアンはMP回復薬の加重摂取により、すでに体調に変化が起きています」
「どれだけ使用したんだ」

 ニコライがあきれたようにつぶやいた。

「もちそうかい?」
「はい。エスタニア王国への譲渡までは問題ありませんが、裁判までは」

 影が途中で言葉を切り、頭を横に振った。

「譲渡までもつならいいよ。あとは新国王の判断だ。我々が手助けする義理はない。帝国の魔道具と薬は?」
「はい。それも確保しております」
「上出来だ。後宮への進軍はどうなった?」
「カミル殿が計画通りに進め、後宮までたどり着くことはできませんでした」
「さすがだね」
「ただ、カミル殿が魔力を枯渇されています」
「すごい魔力の波動を後宮の方向から感じたから、カミル殿だと思ったよ。手厚く看病をしてくれ」
「御意」
「ほぼ計画通りだな」
「そうだね、あとは──」

 テオバルトが闇夜に浮き上がる王城に視線を向けた。