そのニュースは、驚きとともに、各国に伝わった。
三年前の武道大会を優勝した帝国の選手エイが、決勝トーナメント二戦目に姿を現さず、試合は棄権とみなされ敗戦した。
帝国は、審議を申し入れたが、大会側はそれを受け入れず、敗戦を決定する。
帝国関係者は、陰謀や誘拐、犯罪などの関連性を強く主張した。
混迷を極めるかと思われたが、大会本部宛にエイ選手本人の『魔手紙』が届き、本人の意思の元、棄権するとの連絡がはいる。
帝国関係者は怒り狂い、特級魔術師を派遣してエイ選手を探したが、いまだ彼の痕跡は掴めていないという。
武道大会において、帝国は上位常連だったため、その歴史に泥を塗ったことになる。
暗闇の中で、「ざまぁ、ないな」との男の声が、静かに聞こえた。
***
「殿下、お疲れのようですね」
「とんだ番狂わせのせいで、我が国の関与が疑われたよ」
ユリウス殿下の肩に乗っていたスラが、机に飛び降りると、殿下のお菓子に手を付けだした。
その姿に俺はぎょっとして手を伸ばし、机からスラをはがす。
「ピィ<クッキー>」
「少し、我慢しようね。スラ」
俺の真剣な表情を見て、空気を読んだスラは、大人しく俺の膝の上に座った。
「アルベルトは、どうした?」
「所用で出ています」
ユリウス殿下は叔父の説明に「そうか」と、一旦言葉を切ると、「ある噂が私の耳に入った」と言った。
続けて、「先方へ了承をえているので、相手にせず無視をしたが、傍から見ても狂気だ。本気なのか?」と、無表情で叔父に尋ねた。
叔父が「わかりません」と、首を振る。
殿下は、真意を探るように俺たちを見つめ、小さく溜息を吐くと、「アーベル家が受け入れるなら、口出しはしない」と、叔父に告げた。
その堂々たる振る舞いに、上に立つものの風格が見え、俺は圧倒された。
「心遣い有難く」
「口出しはしないが、報告はするようにと伝えてくれ」
叔父が畏まった返事をすると、ユリウス殿下が早口でまくしたてた。
その主張に叔父が半笑いで、答える。
「わかりました。殿下がとても心配していると伝えておきますよ」
「別に、心配などしていない。報告をしろと言っているんだ」
表情は変わらないが、語尾を強めて主張する殿下に先ほどの風格はない。
ユリウス殿下って、まさかのツンデレさんですか。
空気が変わったことに、いち早く気づいた殿下は、咳払いをすると本題に入った。
「明日より、連戦が行われることになった。アルベルトには、十分に気をつけるよう伝えてくれ」
「連戦とは、また、無茶をしますね」
「私は反対したが、主催国のひとりの主賓がやけに日程をこだわった。まるでその日が決勝戦でなくてはならない、そんな様子だった」
殿下は叔父をじっと見つめ、「まぁ、私には関係ないが」と言って、スラが口にしたクッキーに手を伸ばした。
俺は思わず「あっ」と、言葉が漏れてしまう。すると、ユリウス殿下が怪訝そうな顔で俺を見た。
「ジークも食べたいのかい」
「えっと、その、殿下のクッキーは、スラが口にしたもので、よければこれをどうぞ」
叔父の助け舟に、俺は慌てて状況を説明すると、魔法袋から新しいクッキーを出して、ユリウス殿下の前に置いた。
「ふっ。ジークベルトは、まだ子供だな」
「?」
ユリウス殿下の表情が緩むと、俺の出したクッキーに手をつけた。
殿下の行動に近衛騎士が、息をのんだのがわかる。
俺が周りの反応に戸惑っている中、隣にいるテオ兄さんが、そっとその理由を教えてくれた。
王族、特に大国の王太子は、必ず毒見をするのが当たり前で、俺の出したクッキーをそのまま食したことは、本来ならありえない行動だったようだ。
ちなみに、スラはその役目を買って出たそうで、ユリウス殿下の食事の際は、スラが毒見をしているようだ。
そう言えば、アンナのスパルタマナー教室で、貴族は直接プレゼントを貰わない。侍女を経由するなんて、話しがあったと思い出した。
「ユリウス殿下、申し訳ありません」
真っ青な顔をして謝る俺に、ユリウス殿下は「気にするな。安心した」と、言った。
えっ、それは、どういう意味。
困惑している俺に、叔父の手が伸び、俺の頭をなでる。
「堅苦しいルールだから、ジークが気にすることはないよ」
「叔父様、それはジークの教育上あまりよくないと──」
ヴィリー叔父さんの慰めに、テオ兄さんが反応すると、苦言を始めだした。
その間も、ユリウス殿下は食べる手を止めず、俺の膝の上にいたスラが、我慢できずに「ピッ<クッキー>」と、殿下の元に飛んで行った。
すごくカオスな状況に頭を悩ませる俺。挙句の果てには、「ジークベルト、このクッキーはまだあるか?」と、ユリウス殿下が、俺に尋ねてきた。
***
しばらくして、ユリウス殿下が懐から書簡を出した。
「ヴィリバルト、陛下からだ」
叔父が書簡に目を通すと、「しかと、お受けしました。王家に感謝します」と、書簡を『収納』に収めた。
ユリウス殿下は、それにうなずくと、淡々と述べる。
「我々はアルベルトの優勝を見届けたあと、すべての予定をキャンセルし、直ちにマンジェスタ王国に戻る。それに伴い、任を解く。これは陛下からの勅命だ」
「御意」
叔父の返事とともに、俺とテオ兄さんも、頭を下げる。
「長居をし過ぎた。王城に戻るとしよう」
ユリウス殿下は、そう言って席を立つと、「ジークベルト、君の魔物をあと数日借りるよ」と、言った。
俺が「はい」と返事をすると、机の上でまだクッキーを食べているスラに、「帰るぞ」と声をかけ、スラを肩に乗せて歩き出した。
「ピッ<主、また>」
スラの小高い声が部屋に響き、ユリウス殿下が部屋をあとにした。
「叔父様、陛下の書簡にはなんと」
テオ兄さんが堅い表情をして、ヴィリー叔父さんに尋ねた。
「テオ、顔が怖いよ。ジークが怯えているじゃないか」
「誤魔化さないでください。表面化で叔父様が動いているのを私もジークも知っているのです」
テオ兄さんの圧に、ヴィリー叔父さんは目を丸くするも、その成長を喜ぶかのように微笑んだ。
「まぁ、簡単に言えば、アーベル家の他国介入について、自国は一切関与しないってことだよ」
「そうですか」
叔父の回答に納得したのか、テオ兄さんの圧が弱まる。
俺は「ふぅ」と、そっと息を吐いた。間に挟まれている俺は、気が気でなかった。
テオ兄さんが本気で切れたら、大変なんだからね。気をつけてほしいよ。
俺の心配をよそに、ヴィリー叔父さんがぶっこんだ。
「それで、極秘で兄さんから依頼されていた『ザムカイト』の件は、目星がついたのかな」
「叔父様!」
テオ兄さんが、咎めるように叔父を非難する声を出し、俺の様子を窺った。
あっ、俺に聞かれたらまずいやつ。作戦AとかBとか言ってたあの件ですね。
それにしても、『ザムカイト』って、変な名称だな。
《ザムカイトとは、世界的にも有名な裏組織です》
あっ、そうなんだ。
裏組織って、なんか危険な臭いがするけど。
《ザムカイトは血族で構成され、高い技術と能力で世界各地で活動しています。主な活動は、秘密裏での依頼が多く、その半数が暗殺や密狩など、犯罪と関連があります》
そうなんだ。だから、父上たちが、俺を遠ざけようとしてたんだね。
俺はヘルプ機能から情報を得つつ、気の毒そうにテオ兄さんを見た。
叔父の突然の発言に、なにかを察したテオ兄さんが、口調を強めてヴィリー叔父さんに尋ねた。
「なにをしたのですか」
「少しね、懐かしい魔法色を見つけてね」
悪戯心に満ちた表情で答える叔父に、テオ兄さんが、片手を額にあてながら、「なにをしたのですか」と再度尋ね、ヴィリー叔父さんを見上げる。
「彼らが作成した魔道具を壊して、あっ、これはアルがね。私の周囲を探る者がいたから、ちょっとしたまじないをかけたんだ」
悪気なく話し出した叔父が、途中でなにかを思い出したのか、言葉を切る。
そして、あらぬ方向を見ながら、「それが、ちょっと失敗してね。関連する誓約魔書を切ったみたい」と、気まずそうに告げた。
「なにをしているんですか!」
テオ兄さんの怒声が、部屋に響く。
「国際問題となったらどうするのです! まさかっ!」
「その、まさかだね。私もいま気づいたよ」
叔父には珍しく、歯切れが悪い。
「どうするのです。現にもう各国を巻き込んでいますよ」
「いや、でも彼らにとっては、帝国の鎖から抜け出せてよかったのでは。現に行方をくらましたようだし」
えっ、おいおい。
それってさっき、殿下が報告しにきた帝国の選手のことじゃ。
「もともとザムカイトと帝国は、繋がりがあったからね。それが密となり表立ったのが三年前。まさか帝国の代表として、ザムカイトの者が出場するとは思いもしなかったよ」
当時の様子を思い出すかのように叔父が告げ、「おそらく、誓約魔書が切れたことで自由になったんだろうね」と、言った。
「だからと言って、他国の誓約魔書に関与するなんて……。父様にはこのことは」
「それとなく」
「してないんですね。すぐに私が報告をします。他に隠していることは?」
「ありすぎて、わからないなぁ」
あっ、テオ兄さんの顔が能面となった。
「叔父様とは、じっくり話し合う機会が必要なようですね」
「テオは、怖いね、ジーク」
えっ、そこで俺を巻き込まないでください。
二次被害に遭う前に、俺の心情を伝える。
「俺もヴィリー叔父さんが、悪いと思います」
「だそうですよ。叔父様」
テオ兄さんが、妖艶に微笑んだ。
ジリジリと迫る圧に、ふたりの間にいる俺は気づいた。
心情を伝える前に、席を外すのが正解だった。そう後悔したが、すでに遅し。
切れたテオ兄さんを遮ることはできず、叔父と一緒に、報連相の重要性を説かれ、解放されたのは数時間後となった。
「皆さま、大変お待たせしました。準々決勝、第五戦を開始します」
競技場内に、アナウンスが流れると、人々が、競い合うように我先に席へ戻っていく。
満席の観客席から、拍手が鳴り、出場選手の登場を今か今かと心待ちにしている。
「マンジェスタ王国の若き貴公子。彼の有名なアーベル家の嫡男アルベルト・フォン・アーベル。対するは、魔法都市国家リンネの刺客。氷使いのスヴェン」
出場選手のコールに、会場内の熱気は高まり、歓声で空気が揺れた。
「氷と火、どちらが優勢なんだろう」
「ふむ。甲乙つけがたいが、術者の技量で決まるかのぉ」
ジークベルトの疑問に、シルビアが顎に手を置きながら思惑する。
その答えに、「なるほど、力比べか」と、ジークベルトは納得するようにうなずいた。
「見応えのある試合となりそうですね」
「そうだね」
ディアーナが、期待に満ちた目を向けて、試合会場に上がる出場選手ふたりを見た。
***
序盤からリンネ産の魔道具を使用し、試合を己の有利な展開へもっていったスヴェンは、試合会場全体を氷で覆ったあと、アルベルトの鈍い動きを見て勝機を確信する。
「アーベル家も、所詮はこんなものか」
スヴェンが嘲るように、体の半分が凍ったアルベルトを見る。
アーベル家。
世界の国々が恐れ、敬う。唯一の家。
その配下は、数千にも及び、世界を動かしているという。
「やはり噂は信憑性にかける──」
『業炎』
次の言葉をつなぐことはなく、スヴェンは炎に包まれた。
それは一瞬の出来事だった。
炎が舞うと、凍ったはずの試合会場の地面が割れ、所々に水蒸気が漏れ、会場全体の気温を押し上げた。
そして、先ほどまで無傷で立っていたスヴェンが、意識を失くし倒れている。
「審判。彼の容態を早く確認したほうがいい。適切に処置しなければ、後々、後遺症が残る危険性がある」
静まり返る会場で、アルベルトの声に反応した審判が、すぐに医療班を呼ぶ。
そして、「勝者、アルベルト・フォン・アーベル」と、アルベルトの勝利を宣言した。
運び出されるスヴェンを前に、「申し訳ない。加減を間違えた」と、アルベルトは申し訳なさそうな表情で発した。
その後、すぐに背を向け反対側の出口へ足を向けるアルベルトに、観客たちから盛大な歓声が送られた。
***
「ふむ。なかなかやるではないかえ」
「圧倒的な強さでしたね」
「一瞬でした!」
「ガルッ!<すごい!>」
各々が感想を述べる中、ジークベルトが発言していないことに気づいたディアーナが、「ジークベルト様?」と、彼の様子を窺った。
ジークベルトのその顔は、大きな紫の瞳を丸くして輝かせ、明らかに興奮した様子が見てとれた。
そしてすぐに、
「すっ、すごく、かっこよかった!」
感情を爆発させるように、ジークベルトは立ち上がり叫んだ。
「ジークベルト様!?」
「なんじゃ!?」
「ほぇ」
突然立ち上がり大声で試合の感想を述べ始めたジークベルトに、三人は困惑する。
「ねぇ、見た。炎魔法だよ。いつの間にアル兄さんは、習得したのかな。前に見学したテオ兄さんとの模擬戦は、火魔法が主流だったんだよ。匠の技で凌いでいたけど、今回は力技でねじ伏せた感じだよね。まだ未完成なのかな。制御が上手くいっていないのかな。それでもあの威力はすごいよね」
「ガルッ!<すごい!>」
ハクがジークベルトに便乗すると、さらにジークベルトが熱演する。
「だよね、ハク。氷が一瞬で消えたんだよ。会場の気温も上げて、氷と炎は対極的なものだけど、ここまで圧倒的な力の差を見せられると、アル兄さんの本気は底が知れないよね。どんな訓練をしたのかな。成長途中の俺の体でも耐えられる修練かな。大会が終わったら、手合わせしたいよね」
「お主、落ち着くのじゃ」
シルビアが会話の隙をついて、ジークベルトに声をかけるも、興奮状態のジークベルトを止めることはできない。
「えっ、えっ、落ち着いてるよ。俺にもできるかな。修練したらできるかな」
「ガウッ!<ハクも!>」
「そうだね。もっと鍛えて、強い魔法を使えるようになりたいね。それにね──」
ハクと会話を続けるジークベルトの姿を呆然と見続ける三人娘。
シルビアが、そっとディアーナに声をかける。
「のぉ、小娘」
「なんでしょう。シルビア様」
「あやつは、戦闘狂なのかえ」
「私もあのように興奮したお姿を見るのは初めてで……」
「ふむ。エマはどうじゃ」
「わっ、私も、姫様と同じく初めて拝見します」
「ヘルプ機能はどう思う」
「「ヘルプ機能?」」
「む。なんでもないのじゃ」
《駄犬》
「なんじゃと、喧嘩なら、ぐふぅ」
《ご主人様から、駄犬の『遠吠え禁止』の許可権限をいただいて幸いでした。興奮状態にあるご主人様の姿も素晴らしい。記録に残さねばなりません。時間が経ったあと、冷静になり、黒歴史に頭を悩ませるご主人様もまた然り》
急に口をハクハクさせ、話さなくなったシルビアに、ディアーナとエマは顔を見合わせると、『いつものことね』とアイコンタクトで笑いあう。
そして目の前ではしゃぐジークベルトの意外な一面に、『ジークベルト様も男の子なのだわ』と、ふたりの意見が合致した。
次の試合が始まるまで、その光景は続き、周囲からの生暖かい目で、ジークベルトが冷静になったあと、彼の顔が赤く染まり、頭を抱えて「黒歴史」とつぶやいている姿が目撃される。
アルベルトの準々決勝は、彼の圧倒的な強さを他国に見せつけた試合となり、末弟の黒歴史を更新させる試合となった。
試合を終えたアルベルトは、選手控室に向けて歩いていた。
頭の中でリフレクションを繰り返し、実戦ではじめて使用した炎魔力や試合展開など、反省点と課題をあげていた。
炎魔法の制御が甘く、発動までに時間を要した点は、修練を積むしかない。
しかし、序盤の試合展開は、事前に防げていた。しかも、対戦相手の肩書に踊らされた感がある。
アルベルトは、選手控室の扉の前で立ち止まり、納得するように一度うなずく。
事前の情報が不十分だったと反省し、情報収集能力を高める必要があると判断する。
ふと、腕にある赤いリボンが激しく揺れていることに、アルベルトは気づいた。
「これはっ」
咄嗟に赤いリボンを掴み、周囲を警戒する。
アルベルトに渡された赤いリボンには、もうひとつ、効果が付与されていた。
その効果は『同調』。水の精霊アクアが施した精霊魔法を感知できる魔法だ。
控室の扉の前で、どうするべきかとアルベルトは悩む。
『罠にみすみす嵌まるのも一興か。膠着状態を打破するきっかけになるかもしれない。しかし……』
告発後、アルベルトは、『武道大会爆破テロ』の阻止に全力を注いだ。
その行動もあって、競技場内に設置された小型魔道具は、ほぼ撤去された。
今はアーベル家の影が、小型魔道具が残っていないか、他に怪しい魔道具が設置されていないか、競技場内を再捜索中だ。
撤去した小型魔道具は百を超え、首謀者が本気で競技場を爆破させる計画だったと、アルベルトたちは確信している。
告発がもう少し遅ければ、アーベル家の影が動かなければ、ボフール製の魔道具がなければ、少なからずとも被害があったといえる。
しかし、疑問もある。これほどまでに大掛かりな計画を立て、実行しているのに、第三者からの妨害は想定していなかったのか、小型魔道具を撤去しても相手側に動きがなかった。
ちぐはぐな印象に、大きななにかを見落としている切羽詰まった思いがアルベルトにはあった。
「アルベルト様、どうなさいました?」
背後から突然声をかけられたアルベルトは、咄嗟に身構え、警戒態勢に入る。
「ユリアーナ嬢。どうしてこちらに?」
「トビアスが動いたようで……」
周囲を気にしながら話すユリアーナに、警戒心を下げたアルベルトは、すぐに彼女へ警告する。
「すぐにお戻りください。ここは危険です」
「なにかあるのですね」
聡いユリアーナが、選手控室を見て、アルベルトに目配せする。
それにアルベルトはうなずいて答えると、彼女は音を立てずに後退し始め、一度も振り向くこともなくその場を去った。
腕の赤いリボンが、いまだ激しく揺れているのを見て、『彼女はやはり無関係のようだ』と、安堵したアルベルトは、再び控室の前で静止した。
すると、アーベル家の黒い影が姿を現す。
「アルベルト様、彼の配下の者たちが控室に入り、しばらくしたあと、出て行きました」
ユリアーナが言っていた、『トビアスが動いた』に関係しているのだろうと、アルベルトは思った。
「中の様子は?」
「いえ、確認できておりません」
影の回答に、アルベルトが怪訝そうに影を見る。
「配下の者と入れ違いに、ひとりの女性が中に、アルベルト様!」
影の言葉を遮り、アルベルトが緊迫した顔で控室の中に入っていった。
思わず影が、アルベルトの名前を呼び、静止を促したが、その歩みを止めることはなかった。
控室の奥ばまった場所で、女性が気を失って倒れているのを発見したアルベルトは、躊躇なく駆け寄る。
彼女の脈や呼吸を確認し、息があることに安堵した。
その間も、腕の赤いリボンは激しく揺れ続け、敵の罠にまんまと嵌まった自身に苦笑いする。
『敵は、俺の性格を熟知しているようだ』
そう思いながら、魔法袋から『回復薬』を出し、女性の口元にあてる。
すると、女性から光が溢れ出し、アルベルトものとも、光に包み込まれた。
「アルベルト様!」
影が取り乱した口調で、アルベルトの名を呼び、そのそばへ寄ろうとすると、強圧的な声がそれを止める。
「近づくな。俺は大丈夫だ。なにか羽織る物を持ってこい。叔父上に報告を」
「すぐに」
アルベルトの指示に、すぐさま影たちが動きだす。
全身を覆う光に、「『回復薬』が、起爆剤だったか」と、自嘲気味な声を出す。
腕の赤いリボンは、役目を終えたように、静止していた。
「ジーク、元気がないね」
「うっ、ヴィリー叔父さん、わかってて聞いてるでしょ」
昨日の醜態を思い出し、俺は赤くなった顔で、叔父を睨みつける。
大人たちの生暖かい目を思い出し、なんとも言えないむず恥ずかしい気持ちになる。
「大人びていたかわいい甥が、まだまだ子供だってことに喜んでいるんだよ」
「うっ、なんとでも言ってください」
ヴィリー叔父さんが、俺の頭を優しくなでる。
そんなふうに優しくされても、俺の心は簡単になびかないんだからね。
「それより、準決勝前に呼び出した理由はなんでしょう」
観客席に着いたとたんに、『報告』で俺を呼び出した叔父は、以前作製した『異空間』を作るよう指示した。
昨日、叔父の気配が、伯爵家になかったことも含め、何か緊急の用ができたのだと想像できる。
「うん。ちょっと厄介なことになりそうなんでね」
叔父の緩んでいた頬が引き締まり、空間内の雰囲気が変わったのを俺は肌で感じる。
「厄介なことですか」
「うん。昨日、アルが襲われた」
「えっ!?」
告げられた内容に、俺は目を丸くして驚いた。
いやだって、昨日のアル兄さんはいつもと変わらず、俺が、『試合すごくかっこよかった』『今度一緒に修練したい』と話したら、上機嫌で俺を抱き回して離さなかった。
今日の朝食の席でも、にやけた表情で俺を見つめていて、普段と大差なかったと思う。
「襲われたといっても、怪我はなかったしね」
「よかった」
俺は、ほっと胸をなで下す。
「ただね、精霊が関与しているっぽいんだよね」
「えっ!?」
叔父の爆弾発言に、思考が停止した。
この人、いまなんて言いました? 精霊が関与しているなんて、言いませんでしたか?
《はい。ヴィリバルトは、精霊の関与を仄めかしましたが、断言はしていません。しかしながら、この発言は関与が非常に高いと確信があるようです》
ヘルプ機能が、俺の心の声に答えてくれる。
有難いことだけど、ねぇ、ヘルプ機能。なんで昨日は、俺を止めてくれなかったのかな。
《…………。黒歴史、万歳》
なるほど。身内に敵がいたのか。
「精霊の意思なのか、従わされてやっているのか、そこがわからないから問題だよね」
「ヴィリー叔父さん。それって精霊を隷属しているってことですか」
「その可能性が高いと私は思っているよ」
叔父の目が細くなり、口角が上がる。その赤い目から、怒りが滲み出ていることに、俺は気づく。
精霊の隷属は、世界で禁止されている行為だ。
約八十年前、奴隷術を用いて横行した精霊狩り。人々の欲望によって精霊たちは傷つけられ、怒り狂い、その膨大な力で世界中の国々に天変地異を引き起こした。
人々と精霊の間に生じた大きな亀裂は、世界の過ちとされており、子供たちは幼い頃からそれを教訓として学ぶのだ。
「準決勝に出場した国は、帝国の属国が二か国。あとはディライア王国と我が国だ」
「ディライア王国って、数日前突然伯爵家を訪問してきたサンドラ王妃の国ですよね」
「そうだね」
叔父の頬が引き攣ったのを俺は見逃さない。
サンドラ王妃、元マンジェスタ王国の第一王女で、叔父の親衛隊『赤貴公子会』の初代会長でもある人だ。
武道大会がエイ選手の棄権で中断されている間、先ぶれもなく突然彼女が、バルシュミーデ伯爵家を訪問し、ヴィリー叔父さんに突撃していった。
叔父が、物理的な圧力に負けて、たじたじになっている様は、傍から見ると面白かったが、矛先が俺に変わった時は、心底怖かった。
ディアーナたちの鉄壁の守りで、俺は難を逃れたけどね。
生命力に溢れたとてもパワフルな人物だったが、知らせを聞いたユリウス殿下が、サンドラ王妃の首根っこを掴んで連れ帰ったのも、とても印象的だった。
「ディライア王国の関与はかなり薄いけど、帝国の属国が気にはなるね」
叔父の意見に俺は賛同する。
サンドラ王妃が率いているディライア王国の関与はないと思う。
あの人柄は暗躍できそうにないし、もし側近が悪事に手を染めていたなら、速攻で締め上げそうだしね。
「精霊を隷属させるには、奴隷術が必要になる。闇の魔術師で呪魔法が使用できる者となると、おそらく『ザムカイト』の者が関与している」
「それはなぜですか」
「闇の魔道具が、裏で頻繁に出回っていたんだ。その出所は、ほぼ帝国を経由していた。帝国の魔術師で、闇魔法を得意としている者は少ない。その中で、呪魔法を習得できる者がいるとは考えづらい。闇魔法を得意とするザムカイトが、関与していたと考えていいだろう」
「なるほど」
叔父の説明に俺は納得する。
魔道具の供給がザムカイトを介していたのならば、精霊を隷属する闇の魔道具を手に入れることも容易い。
「しかし彼らは、帝国から姿を消した。その後に、アルが襲われているんだよね」
叔父は深刻な表情で、言葉を切り出した。
その表情から、何か重要なことがあるのだと感じ取った俺は、叔父に説明を促すように見つめ、口を開く。
「術者がいなくても、魔道具が壊れなければ、精霊を隷属できるのでは」
「そこはね。アルの襲撃で使用された魔法が、精霊魔法と闇魔法なんだよ」
「闇魔法ですか」
「そうなんだよ。私の把握では、武道大会の関係者で、高度な闇魔法を使えるのは、ジークとザムカイトの者だけだ」
「それは……」
叔父の断言に、俺は言葉が詰まる。
要するに、叔父の把握していない第三の人物がいるということだ。
「いまのところ、実質的な被害はアルだけだから、術者を特定するのが難しい」
「実質的な被害って、どういうことですか」
俺の問いかけに、叔父が軽く言った。
「あぁ、アルの自業自得とはいえ、火魔法と炎魔法を一時的に使用できなくなっちゃったんだよ」
「えっ!? それ大問題じゃないですか!」
「まぁ、アルだし、大丈夫だよ」
俺がひとりで混乱している中、叔父の視線の先には、試合会場に足を踏み入れたアル兄さんの姿があった。
準決勝が、始まろうとしていた。
アルベルトは対戦相手を前に、昨日のヴィリバルトととの会話を思い出していた──。
「火魔法と炎魔法が、一時的に使用できなくなっているね」
「そうですか」
ヴィリバルトの診断に、アルベルトは気にした様子がない。
「それより、女性は無事でしたか」
「詳しく聞かないでいいのかい」
「叔父上が、あまり問題視していないようなので、後遺症もないと判断しましたが、なにかあるのでしょうか」
アルベルトは、さもありなんといった態度で、疑問を口にした。
その態度に、ヴィリバルトは苦笑いをこぼす。
「君は本当に子どもと女性に弱い」
「母上の教えでもありますから、自分より弱い者に手を差し伸べることは、上に立つ者として当たり前です」
胸を張って堂々と答えるアルベルトを、ヴィリバルトは、まるで眩しい者を見るように目を細めると、小さな溜息を吐いた。
「はぁ、義姉さんの教育の賜物だよ。彼女の体には異常がないよ。拘束はさせてもらったけどね」
「それは仕方ありません」
ヴィリバルトの処置に、アルベルトは大きくうなずく。そして、安堵したかのように、肩の力を抜いた。
アルベルトを襲った光は、精霊魔法と闇魔法が混在している『混合魔法』と呼ばれるもので、一般の魔術師で繰り出せる代物ではない。
他者の能力に干渉し、その能力を封印する力は、聖魔法、呪魔法といった上級魔法だ。
精霊を隷属していることから、術者は、相当な腕前の闇魔術師で、光の精霊が隷属されていると考えるのが妥当だ。
加害者の女性は、ただ単に駒として使われた被害者であり、そこに彼女の意思はなかったと思われる。
なぜなら、彼女の胸元付近には、奴隷紋が刻まれていたからだ。
痩せた体や、皮膚の状態から判断しても、日常的に暴力が振るわれていたことがわかる。
アルベルトが、回復薬を彼女に飲ませたのも、体の負担を考えての優しさからだ。
回復薬を体に摂取することで、魔法を起動させる。
敵はアルベルトが回復薬を彼女に飲ませることを想定した上で、計画を立てていた。
アルベルトの性格を熟知している。敵の情報収集力は、アルベルトたちが考えるより長けているようだ。
「アル、明日の試合はどうする」
「あまり得意ではありませんが、土魔法で距離を縮め、接近戦に持ち込みます」
「うん。それがいいね。遠隔戦だと相手の魔術師が優位に立つ。その前に討つことが望ましいね。長期戦に持ち込み、相手の魔力切れを狙うのも戦略的にはありだけど、今日の炎魔法で相手が短期戦を見越し、全力で攻撃してくる可能性もある。アル、気をつけるんだよ」
「はい」
***
手で血を拭いながら、『叔父上の予想が的中したな』と、アルベルトは思う。
序盤から怒涛の魔法攻撃を浴び、土魔法の『土壁』で防御していたアルベルトだが、とうとう対戦相手フランク・ノイラートの風魔法、『狂風』が防御壁を壊した。
アルベルトの頬から、うっすらと血が滲む。
フランク・ノイラート、帝国の属国ヴィンフォルクの代表選手で、予選から準々決勝まで危なげなく勝ち進んできた。
魔属性は風のみ。洗練された風魔法と技量、風魔法のスペシャリストと称していいだろう。
幾度かアルベルトが、接近を試みるも、ノイラートがそれを読み『飛行』で、空へ逃避する。
隙をついた攻撃も交わされ、ノイラートが、闘い慣れていることがわかる。
「アルベルト・フォン・アーベル! なぜ火魔法を使わない」
上空から、ノイラートの怒声が聞こえる。
その声に反応して、アルベルトが顔を上げると、いくつもの『疾風』が舞い降りアルベルトめがけて飛んでくる。
それを剣でいなしながら、次の攻撃へ備えるアルベルトの姿にノイラートは、さらに声を荒げた。
「火魔法を使えと言っている!」
彼は額に筋を浮かべながら、アルベルトを睨みつけた。
ノイラートが、怒るのも仕方がない。対戦相手が得意とする火魔法を出し惜しみしているのだ。
アルベルトが、ノイラートの立場なら、同じく憤慨するだろう。
「そうか、俺との試合は全力を出す気にはならないと」
火魔法を使う気配がないアルベルトに、ノイラートは落胆した様子を見せ、アルベルトを軽蔑する。
本来の実力を出せないアルベルトは、それを否定することができないため、沈黙する。
その後、ノイラートの風魔法をアルベルトが防ぐ、攻防戦が続き、闘いは平行線を辿る。
すでに一時間以上、試合時間が経過していた。
アルベルトもノイラートも、魔力が底をつきはじめ、接近戦に入るも、ノイラートの卓越した戦闘能力が全面にでた。
彼は槍の使い手でもあった。
剣を槍で抑える様子は、覇気迫るものがあり、ノイラートの実力を証していた。
アルベルトは、難敵を前に、思わず笑みがこぼれる。
「なにがおかしい!」
アルベルトの笑みに、ノイラートが反応する。
「家族以外の相手で、本気の剣を交えるとは……なんて楽しいんだ」
アルベルトはそう言うと、全身の力を抜く。
一見無防備に見える構えだが、どこを突いても隙がない。動けば確実に反撃にあうことが予想でき、ノイラートは動けなくなった。
大量の汗が、ノイラートの額から流れる。
それを拭うことも許されない緊迫した状況の中で「化け物め」と、ノイラートが苦し紛れに発した。
何度イメージしても、アルベルトの間合いに入れば、負ける。そのイメージを払拭できないノイラートは、自身の負けを悟るしかない。
しかし、ここで何もせず負けるのは、己の仁義に反する。
ノイラートは、アルベルトへ向け、渾身の一撃で、槍を突いた。
「見事だ」
ノイラートが、地面に倒れた。
「勝者、アルベルト・フォン・アーベル!」
競技場内に、勝者の名前があがる。
満身創痍の姿で立っているアルベルトは、拳を握りしめ勝利を掴んだことを喜んだ。
アルベルトの準決勝が終わった。
手に汗を握る熱戦を制したアル兄さんが、会場の出口付近でふらついた。
目ざとくそれに気づいた俺は、「アル兄さん!」と、声を上げる。
もうそれだけで、俺は居ても立っても居られなくなり、観客席から走りだした。
「ジークベルト様!」
「お主、どこへ行くのじゃ」
「えっ、え、え」
「ガウッ<ハクも>」
三人の戸惑う声をあとに、ハクを連れて選手控室に急ぐ。
アル兄さんが、火魔法を一時的に使えなくなったのを、俺はヴィリー叔父さんから聞いていた。
それは試合直前であったが、叔父が俺に話すタイミングはもっと早くてもよかったはずだ。
ヴィリー叔父さんは、意図して俺に話さなかった。
それは俺が、家族に俺の秘密を隠しているからだ。
きっと俺ならアル兄さんにかけられた魔法を解除できたはずだ。
俺はまた判断を間違えてしまった。
大切な人を失くすことを、後悔をしないと誓ったはずなのに。
「ガゥ?<大丈夫?>」
突然足を止めた俺に、ハクが寄り添うように俺を見上げる。
俺の頬を涙がとめどなく流れる。
感情が揺れ動いて、平常心を保つことができない。
「どうして俺はこんなにも弱いのだろう」
ぐっと口を噛みながら、俺はつぶやく。
すると「そんなことはないよ」と、慣れ親しんだ声が聞こえ、後ろから優しく抱きしめられた。
「ジークは優しすぎるんだよ。でもそれでいいんだよ」
「テオ兄さん」
俺をいつも肯定してくれるテオ兄さん。その包容力が、嬉しい反面、俺を苦しめる。
俺の心の葛藤に気づいたテオ兄さんが、「ジークのタイミングでいいんだよ」と、優しく諭した。
その言葉に、俺は全身の力が抜ける。
あぁ、俺が何かを隠しているのは、家族も気づいているんだ。
今までの家族の態度が腑に落ちて、心の重荷が少し軽くなった。
「ピッー<主、スラきた。もう大丈夫>」
「ガウッ!<ハクも!>」
テオ兄さんの肩の上からスラが降りて、俺の頭の上で存在を主張し、ハクが尻尾を俺の足に絡ませる。
俺が泣き笑いながら、「ふふふ、そうだね。ありがとう」と、テオ兄さんの腕をぎゅっと掴んだ。
「スラは、ユリウス殿下の元を離れて大丈夫なの」
「ピッ<ヴィリバルトがそばにいる>」
「スラが急に騒ぎ出して、大変だったんだよ。叔父様がね、ジークが泣いているかもしれないって言ってね」
「ヴィリー叔父さんが……」
俺は頬がサッと赤くなるのを感じた。
叔父は、俺の思考と行動をよく理解している。
本当に敵わない人である。
「僕もつい本気で、『倍速』を使って追いついたんだ」
「えっ!?」
「まぁ、ほんのわずかな時間だし、ばれてないと思う」
テオ兄さんが、あっけらかんとした様子で、まるで何事もなかったかのように告げる。
競技場内で、魔法を施行するのは御法度で、正当な理由がなければ、相当重い罰が下される。
俺が少年に施した『癒し』のように、わからないように隠蔽しているのだろう。
俺は家族に愛さているなぁと、改めて実感する。彼らの優しさや支えがあるからこそ、今の自分がいるのだと感じた。
テオ兄さんと他愛無い話しをしている間に目的の選手控室に着いた。選手控室を覗くも、アル兄さんの姿はなく、テオ兄さんとともに救護室へ向かう。
「MP回復薬の所持を怠るなんて、アル兄さんにも少なからず動揺があったってことかな」
「テオ兄さんは、いつ知ったのですか」
「昨日の夜だね。アル兄さんが突然土魔法を教えてくれって、懇願されてね。夜遅くまで、土魔法の修練に付き合わされたよ。俺もニコライも」
「そうなんですね」
目に見えて落胆する俺を見て、テオ兄さんは優しい微笑みを浮かべる。
「アル兄さんは、自分の弱いところをジークに見せたくなかったんだよ。アル兄さんの土魔法はね、火魔法と比べて、まったくと言っても過言ではないぐらい駄目でね」
「そうなのですか」
「うん。ジークの方が上手だよ。たった一日でよく様になったものだよ。本当に」
テオ兄さんの言葉を遮るように、突然ハクとスラが声を上げた。
「ピッ!<アルベルト!>」
「ガウッ!<アルベルト!>」
視線を前に向けると、柱の影にアル兄さんの後ろ姿を見つけた。
俺が「アル兄さん!」とたまらず呼びかけると、アル兄さんは驚いたような表情で振り返り、その後嬉しそうに笑顔を見せる。
「ジークにテオも、どうしたんだ」
元気そうな姿のアル兄さんを見て、俺は安堵のあまり全身の力が抜けてしまう。
そんな俺の様子に気づいたテオ兄さんが、そっと俺の肩に手を置いた。
「はじめまして、皆さま」
アル兄さんの後ろから、柔らかくも凛とした声が聞こえた。
そこにいたのは、お忍び姿のユリアーナ殿下だった。
初めてユリアーナ殿下と対面した俺は、いいようもない嫌悪感に襲われた。
ユリアーナ殿下が近づいてくると、それに反応するように、ハクとスラが、ユリアーナ殿下に対して警戒心を強め、身構えるような態度を見せた。
「ガルゥ!<近づくな!>」
「ピッ!<危険!>」
彼女の無意識な『魅了』が、防衛本能を刺激したのだと思う。
ハクたちの反応に、アル兄さんが戸惑った表情で、「どうしたんだ、ハク、スラ」と近づくも、彼らが警戒を解く様子はない。
「嫌われてしまったのかしら」
ユリアーナ殿下は心配そうな表情で、不安げにつぶやく。その声には寂しさと残念さが混じっていた。
「申し訳ありません。人と関わることがあまりなく、初対面で動揺したのだと思います」
テオ兄さんが、ハクたちの行動をフォローした。
しかし、このままハクたちを近くに置くのは危険だと判断したのだろう。「ジーク、そろそろ行かないと次の試合に間に合わないよ」と、俺を急かした。
俺はテオ兄さんの言葉に従い、アル兄さんたちに別れを告げると、足早にその場を去った。
俺たちがアル兄さんたちから離れて、彼らの姿が見えなくなると、ハクとスラは警戒心を解いてリラックスした様子になる。
「魅了に反応したようだね」
「はい。とても気持ち悪い感じがしました」
「ガルゥ<気持ち悪い>」
「ピッ!<嫌!>」
「わかるんだね。ハクもスラも、とても敏感なようだね。これは困ったね」
テオ兄さんが、眉間に皺を寄せて困ったように唸った。
そのすぐそばで俺は、別の唸りを上げる。
【鑑定がレジストされました】
ユリアーナ殿下を鑑定した結果が、これだった。
この事実は、どういう意味を指しているのか。
俺は途方もない迷路に彷徨った感覚に陥る。問題は蓄積されていく一方だ。
アーベル家、エスタニア王国内某拠点に、赤い髪をしたふたりの人物が姿を現した。
ヴィリバルトとテオバルトだ。
彼らの雰囲気は普段の温かさや親しみやすさがなく、鋭い目つきと冷たい態度で周囲を圧倒するような印象を与えた。
影が、ふたりを一室へ案内する。
彼らが部屋に入ると、窓際にあるベッドの上に痩せこけた女性が静かに座っていた。
「気分はどうだい」
「……」
ヴィリバルトが女性に声をかけたが、彼女は無言のまま、何の反応も示さない。
「目覚めてから、この状態のようです」
テオバルトが、影からの情報を伝える。
「精神を完全に壊されているね。生きてはいるが、感情のない人形だね」
女性は、口を半開きにして、まっすぐと一点を見つめている。
しかし、彼女の目の焦点は合っていない。
「新薬の実験台になったようだね。初めから捨て駒だったか、とても残念だよ」
ヴィリバルトは女性に向かって、感情のこもらない冷たい目で見つめ、意味深な言葉を発した。
その言葉に、テオバルトが反応する。
「知り合いですか」
「少しね。アルの善意で体は回復したけど、心が壊れていてはね。存外、残酷なことをしたね」
ヴィリバルトの言葉の端々から、女性に対する嫌悪が感じられる。
テオバルトは、女性がヴィリバルトの逆鱗に触れたのだと想像した。
「叔父様、どうしますか」
テオバルトの問いかけの意味を正しく理解したヴィリバルトは、遠回しに言葉を繋ぎ、思案したかのように答える。
「彼女に話を聞くにもこの状態ではね。記憶を覗いても、肝心な部分は視れないだろうし……。エリーアス殿下に、彼女の処遇を決めてもらおう」
「エリーアス殿下にですか?」
ヴィリバルトの判断に、テオバルトが目を見開き驚いた。
「彼なら、適切な判断をするだろう」
「では、すぐに連絡をとります」
テオバルトは、ヴィリバルトの真意を汲み取る。
エリーアスが導くのに相応しい人物かを、アーベル家に牙を向くものかどうかを、試しているのだ。
「テオ、頼むよ。あと、アルには秘密にね」
「わかっています」
当然とした態度を示したテオバルトに、ヴィリバルトが関心する。
「テオは、覚悟ができたようだね」
それに答えることは、テオバルトはしない。
アルベルトは表を、テオバルトは裏を引き継ぐ。生まれた時より決まっていたことに、不服はない。
アーベル家のために。いまは、ジークベルトのために。
テオバルトは無言のまま、先に部屋をあとにした。
部屋の中で女性とふたりになったヴィリバルトは、深い闇に包まれた瞳で、彼女をじっと見つめ続けた。
その視線は、彼女の心の奥底まで届いているかのようだ。
「ジークベルトなら、きっと君を助けるだろう。残念ながら私は慈悲深くなくてね」
ヴィリバルトの冷たく、無機質な声が部屋中に響き渡り、女性の名前を呼ぶ。
「人の欲は身を滅ぼす。自業自得だよ。ダニエラ・マイヤー。優しい夢の中で、生涯を終えるがいい」
ダニエラが、それに答えることはない。
「エリーアス殿下! テオバルト殿から、至急面会の連絡が入りました」
夕食を終え、就寝の用意を始めていた矢先、侍従のルートヴィヒことルイスが喜色した様子で寝室へ入室してきた。
その内容に表情を変えることなく、エリーアスは「そうか」と答えた。
主人の反応にルイスは、おやと眉を顰める。
エリーアスはお忍び用の服を用意するよう指示し、椅子に腰を掛けたまま目を閉じた。
エリーアスがテオバルトに協力を求めてから、かなりの時間が経過していた。
その間、彼からの接触はもちろん、連絡さえ一切なかった。テオバルトはエリーアスに、何の返事もしなかったのだ。
エリーアスは、『アーベル家に不要と判断され、見限られた』と、思っていた。
しかしここにきて、テオバルトから緊急の要請が届いた。
武道大会の決勝を明日へと控えた夜に、わざわざコンタクトを取ってきた意図をエリーアスは考える。
『本日の試合で、アーベル家の嫡男が、なぜか火魔法を使用しなかったが、そこに起因する何かがあるのだろうか』
『それとも、マティアスの王位継承権を脅かす何かが起きたのか』
『ただ単に私の協力の回答を伝えにきた。いまさら?』
『相手の思惑が見えない。これで立志に協力とは、誰も従わないだろう』
エリーアスは自分の思考力の低さ、情報力のなさに、自嘲気味な笑みが漏れた。
着け慣れた眼鏡が重く感じられ、そっと触れて元の位置に戻した。
『ここでぐたぐた考えても埒が明かない』
ルイスがお忍び用の服を寝室へ運んできたのを確認し、エリーアスは椅子から立ち上がった。
***
夜の闇が深まる中、彼らはテオバルトが指定した場所へと足を運んだ。
辺りは静まり返り、人影はまったく見当たらない。エリーアスとルイスは周囲を見回し、人の気配がないことを確認した。
「ルイス、指定場所に間違いはないんだね」
「あっ、はい。この『魔手紙』が指す方向へとの指示でした」
ルイスが手元の魔手紙をエリーアスへ渡した。
魔手紙を受け取ったエリーアスは、ひと目見てこの魔手紙が、普通の物とは違うことを感じとった。
アーベル家の底知れぬ力を見せつけられたようで、背筋が冷えるほど恐ろしい感覚を覚えた。
そこに突然、大きな魔力の波動を感じ、エリーアスたちは警戒する。
「ルイス、下がれ」
「殿下。私が盾になります」
ルイスの力強い声が、エリーアスに届くと同時に、赤い髪の青年が姿を現した。
その立ち姿に安堵とともに、長いため息が漏れた。
「驚かせてしまい、申し訳ございません」
テオバルトは、彼らが恐怖していたことに気づき、申し訳なさそうに目を伏せて謝罪した。
しかし時間も空けずに、エリーアスに対して申し出る。
「エリーアス殿下、申し訳ございませんが、我々の拠点へ来て頂きたく、目隠しをして頂けませんか」
「テオバルト殿、それは無理なお願いです。エリーアス殿下が護衛もつけず、城外へ出たことだけでも異例なのです。それを目隠しして連れていくなんて、もってのほかです!」
「それを重々承知の上で、お願いしています」
テオバルトはルイスの反論を異にせず、落ち着いた口調で話すと、ただエリーアスだけを見つめた。
その物言わぬ目が、エリーアスを試しているように思えた。
「必要なのですね」
「はい。傷一つ危害は加えないと誓います」
エリーアスの問いかけに、テオバルトは深くうなずいて、彼を安心させるように言葉をかける。
「わかりました」
「エリーアス殿下!」
ルイスの非難めいた声に、エリーアスは優しく微笑み、「ルイス、君はここで待っていなさい」と、指示する。
しかしルイスは、「いいえ、私も一緒に行きます」と、エリーアスの前で、臣下の礼をとった。
ふたりのやりとりを尻目に、テオバルトが「では、こちらを」と、魔道具と思われる布を渡すと、エリーアスが、躊躇なく眼鏡を外した。
暗闇の中でも、その変化に気づいたテオバルトが、胸に手をあて敬意を伝える。
「エリーアス殿下のご覚悟、しかと、テオバルト・フォン・アーベルが受け取りました」
テオバルトが突然敬意を表したことに、ルイスは驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべる。その様子を感じ取ったエリーアスは、優しく微笑みながら「置いていくよ。ルイス」と、声をかけ促した。
慌てて目に布を着けたルイスをテオバルトが確認すると、彼は柔らかな口調で、「それでは行きましょう」と伝えた。
そこからは早かった。
『移動石』を使って、アーベル家の拠点に到着すると、建物の中に入り、少し歩いてから、部屋に入ることができた。
テオバルトが合図を送ると、エリーアスたちは視界を遮る布を取り外した。
彼らの目の前にある窓側のベッドには、痩せた女性が静かに座っていた。
女性の顔に見覚えがないエリーアスは、隣にいるルイスに目配せをする。ルイスは眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと口を開いた。
「だいぶ痩せていますが、ダニエラですね。たしか、新しく加わったディアーナ殿下の護衛騎士のひとりだったと記憶しています」
ルイスの説明に、エリーアスは無言でうなずき、じっとダニエラを見つめる。
彼女は痩せ細っており、その体は細くて折れそうなほど弱々しい。ダニエラの姿は、鍛え上げられた筋肉質の護衛騎士とは程遠いものだった。
「彼女の本来の名は、ダニエラ・マイヤー。父親の不正で取り潰しとなった元男爵家のご令嬢で、現在は母親の正家で身を寄せている商家の娘です」
「なっ、ありえません。平民の娘が、ディアーナ殿下の護衛騎士となるなんて」
エリーアスたちが抱いていた疑問に対して、テオバルトは冷静に事実を語り始めた。話の途中で、ルイスが驚きの声を上げるも、テオバルトはそれには目もくれず、話し続ける。
「ダニエラは、ビーガー侯爵の推薦で護衛騎士となりました。その後すぐ、ディアーナ殿下たちと一緒に行方不明に」
「まさかっ」
「そのまさかです。ディアーナ殿下を襲ったのは彼女です。反乱の首謀者と接点があります」
テオバルトの断言に、エリーアスたちが驚きと衝撃で息をのむ様子が伝わる。
「コアンの下級ダンジョンで身柄を確保することはできず、行方を捜していました。そして一昨日、我が兄アルベルトへ接触し、精霊魔法と闇魔法を兄へ向けて使用しました。兄はその影響で、火魔法を一時的に使用できなくなっています」
「精霊魔法と闇魔法の混合魔法……」
エリーアスは、その話しを聞いて、事の重大さに気づき、体が震えるのをただ抑えることしかできなかった。彼の心は混乱し、恐怖に満ちていた。
なおもテオバルトの話は続く。
「少なくとも今回はダニエラの意思の上で、魔法を行使したのではありません。彼女の体には奴隷紋がありました。回復薬が起爆剤となり、魔法が解除されたと聞いています。これは仮定ですが、彼女の体を媒体に魔法が施されており、回復薬を体に摂取することで、精霊魔法と闇魔法を解除する仕組みだったのでしょう。後で詮索をされないよう、術後に彼女の体から奴隷紋が消えたのだと考えています」
エスタニア王国では、奴隷は合法だ。
ただし、奴隷紋を付けている奴隷は数が少ない。これは、奴隷紋が貴重な呪術師でしか付けられないからである。
奴隷紋の取り外しを容易にできる呪術師が、エスタニア王国内にいるなど、エリーアスは、聞いたことがない。
奴隷紋は、相手に隷属を強いることができる手段であり、所有権を主張できるものである。
元々奴隷ではないダニエラへ奴隷紋を施し、道具として使用し、詮索されないために、意図的に奴隷紋を消した。
ダニエラの背景には力のある首謀者がいて、彼女を不要と判断し切り捨てたことが、テオバルトの説明でわかった。
だとすれば、彼らがエリーアスに求めているのは、王族としての処断だ。
「アーベル家はダニエラの処遇の判断を私に一任するのですね」
「はい」
エリーアスの答えに、テオバルトは神妙な面持ちで静かにうなずく。
「ダニエラへの罰は、生きることですね」
「エリーアス殿下!」
テオバルトの話が事実だとすれば、ダニエラの行為は極刑が適切な判断である。それにも関わらず、エリーアスの判断は存命。
ルイスは、エリーアスの処断に対して異議を唱えるよう、批判的な声を上げ、主人の考えが変わることを願った。
「処刑することは簡単だ。すでに彼女は意思がないのはあきらか。私たちの会話に顔色一つ変えず、呆然と前を見ている。精神に何らかの負荷が加わっているのだろう。幽閉して生涯を終わらせるのが、常人であったダニエラへの罰となる」
「素晴らしい洞察力ですね。現在の彼女は、帝国で開発された新薬の実験台の結果、精神を壊されています」
パチパチと拍手を送りながら、テオバルトに似た赤い髪の端正な顔の男が、室内に入室してきた。
彼は優雅に歩みながらも、その表情はどこか冷たく、人を圧倒する覇気をまとっていた。まるで王者のような風格があった。
「赤の魔術師」
「初めてお目にかかります。エリーアス殿下」
「貴方がたは、私の味方となってくれますか」
突然のエリーアスの質問に、ヴィリバルトを取り巻く空気が少し和らいだ。しかし、彼はそれに答えることなく、自分の要件を伝える。
「きな臭い動きが、城内であります」
「トビアスがとうとう動きましたか」
「えぇ、残念ながら、国王の寝室は闇と化しました。エスタニア国王は、もって数日でしょう」
エリーアスは、淡々とした表情で、自分に与えられた情報を受け入れた。
その落ち着いた態度を見て、ヴィリバルトは「覚悟をしていた様子だ」とほのめかした。
「一週間前に、陛下の寝室で動きがあり、状況を見守っていました。今朝、急変との報告が入りました。いずれそうなるだろうと予測していました」
「なるほど。その病も、元から計画されていたものだったとしたら、貴方はどうしますか」
ヴィリバルトの衝撃的な発言に、エリーアスは動揺する。
彼はその先の真実を知り、その恐ろしさと悲しみに心が覆われる。自分の体が小刻みに震える中、彼はただ立ち尽くしていた。
しばらしくて、エリーアスは目を閉じて深呼吸し、自分自身を落ち着かせると、決意を固めた。