俺たちはアーベル家の屋敷に戻ると、室内で魔力循環の修練を始めていた。

「ディアは、魔力循環が苦手なんだね」

 苦戦している様子のディアーナに、俺はつい声をかけてしまった。

「はい。つい集中が途切れてしまうのです」
「こればかりは、日々の積み重ねがとても大事だよ」

 不甲斐ないそぶりを見せたとうつむいて話すディアーナに、毎日の修練が大事であることを俺は伝える。

「ジークベルト様は毎日魔力循環されているのですか」
「そうだね。時間があればハクと魔力循環しているよ」

 魔力循環は瞑想に近いものだ。
 体内の魔力の流れを感じ、均等に魔力を循環させ、高質な魔力循環を行う。
 この行為を長く持続でき、また瞬時に質のいい魔力循環ができれば、戦闘においてとても有利に立てる。
 だから日々感覚を忘れないよう努力している。
 実は、魔力循環が『魔力制御』の修練にもなることはあまり知られていない。

「ハク様は『魔力制御』をお持ちなのですか」
「ガウ!〈持ってる!〉」

 ディアーナの質問にハクはうれしそうに尻尾を振りながら肯定し、それを俺が補足する。

「最近Lv2になったんだよね」
「ガルゥ!〈がんばった!〉」

 ハクは『魔法色』の影響で、魔力循環ができない状態だったが、その後『浄化の石』で体内の魔法色を消し、魔力循環ができるようになった。
 できないものを克服したハクは、魔力循環を好み毎日欠かすことなく行った結果『魔力制御』を早い段階で取得した。そして氷魔法の修練も順調に進み、氷魔法スキルを取得したのだ。


「ディアは、風魔法スキルを取得できているんだよね」
「はい。Lv1ですが取得はしております」
「魔属性は、風と無だったよね。生活魔法は?」

 唐突な俺の質問に、意図が読み取れないのであろう。ディアーナは何度か瞬きを繰り返しながらも素直に応えてくれる。

「生活魔法は取得できていません。修練では風魔法の取得が最優先でしたので」
「なるほど……。なら当分の目標は『魔力制御』と『生活魔法』の取得だね。『空間魔法』は今のディアの魔力値では取得はできないからね」
「えっ『空間魔法』ですか?」
「うん。今は無理だけど、レベルを上げて『魔力制御』のレベルも上げれば『空間魔法』を取得できると思うよ」
「本当ですか!」

 ディアーナは驚いた表情で俺を見ると、すごい勢いで俺のそばに近寄ってくる。
 そんな彼女に「うっ、うん」と俺はうなずく。
 それを見たディアーナが、ぱぁと花が咲いたような笑み顔を浮かべた。
 めちゃくちゃかわいい。
 俺の婚約者、めちゃくちゃかわいいんですが。

「魔力循環、がんばろうね」
「はい! 高い目標があればがんばれます!」

 ディアーナに気合いが入ったのがわかった。
 魔力が高い彼女のステータスなら『空間魔法』の取得条件である魔力値200は、Lv24で到達可能であると予測できる。


 ***********************
 ディアーナ・フォン・エスタニア 女 7才
 種族:人間(先祖返り)
 職業:エスタニア王国第三王女
 Lv:5
 HP:34/34
 MP:39/39
 魔力:42
 攻撃:28
 防御:30
 敏捷:26
 運:10
 魔属性:風・無
 ***********************


 本人の強い要望もあり、今後パーティーを組んで一緒に行動するので、レベル上げの心配はいらないし、その前に『魔力制御』を取得できれば、ステータスの数値に反映されない魔力値が補填されるので、魔力値200に到達しなくても取得が可能なのだ。

「いいなぁ。私も魔法が使えれば、皆様と同行できますのに……」

 俺たちが盛り上がっていると、エマが、ぼそっとささやいた。その声を俺は見逃さず拾う。

「エマなにを言ってるんだ? ディアが僕の出した条件をクリアできれば、君も一緒にパーティーを組むんだよ」
「えぇ! そうなのですか!? 私なにも聞いてませんし、足手まといになりますよ。えっ?」

 見当がつかない不測の事態に、エマが混乱し始める。

「エマは、今アンナに体術を叩き込まれているよね」
「はい! アンナ様にご教授いただいております」
「戦闘スキルを取得できれば、戦えるよ?」

 俺はエマにわかりやすいように言葉を選び誘導すると、眉をひそめながら自信なさげにつぶやいた。

「えっ、でも、皆様のように強くありませんし……」
「自分の身を守れれば大丈夫だよ」
「えっ?」
「旅先の料理をお願いするって話だったよね?」
「えっ?」

 エマが疑問を再度口にしたところで、あきれたと言わんばかりの口調でディアーナが言った。

「聞いていなかったのね、エマ」
「姫様、申し訳ありません」

 エマが恐縮して頭を下げると、しかたがないといった様子でディアーナが、俺たちがパーティーを組む条件を説明しだした。
 自身を守れる魔法スキルを自由に操れること。これがディアーナとパーティーを組む俺の条件だった。
 次の日からディアーナは『守り』の修練を始め、エマはアンナに体術を習い始めた。てっきり話を聞いて、体術を習い始めたと思っていたが、ただの偶然でどうやら俺の勘違いだったようだ。
 どうもエマは俺が出した条件を聞いて、自分はその対象にさえ入れないと思い、ショックのあまり話を最後まで聞いていなかったようだ。
 俺が出した条件はあくまでもディアーナのみであり、エマに該当はしない。けれどディアーナが条件をクリアしたら、エマともパーティーを組む。ただしエマは戦闘スキルを所持することとしたのだ。
 一般的な冒険者は、魔法スキルを所持していない。魔属性がない平民が多いからだ。そのかわり戦闘スキルを所持して冒険者になり活躍している。
 ディアーナの説明が終わったので、俺がエマに声をかける。

「エマは、戦闘スキルの取得が目標だ」
「はい! ジークベルト様と姫様に同行できるようがんばります!」
「ガゥ!〈ハクも!〉」
「すみません。ハク様も一緒にですね」
「ガウッ!〈そうだ、忘れるな!〉

 ハクがエマにツッコミを入れる。
 その微笑ましいふたりのやり取りを見つつ、俺は魔力循環の修練に戻り集中するのだった。



 叔父ヴィリバルトの伯爵の爵位授与式は、王城の玉座の間で粛々と挙行された。
 赤い絨毯が敷かれた先には玉座があり、威光のある美丈夫が腰を据えて臣下たちを見下ろしていた。
 マンジェスタ王だ。その横には、王妃が立ち、王太子と王子王女が並ぶ。
 そして玉座から見て右下側に、父ギルベルトを先頭にアーベル家の面々が並んで立つ。
 俺もそこにいた。
 近衛騎士よりも、俺たちのほうが王に近い場所にいる。
 この位置に誰も疑問が浮かばないようだ。
 王族、アーベル家を守るように近衛騎士が両側に立ち、少し離れた左側に国の重鎮たち、高位貴族、下位貴族と続く。
 玉座からの位置で、貴族の力関係を表している。
 アーベル家が『第二の王家』と称されるのも納得だ。

 この場所へ案内された時、俺はひどく緊張した。
 その様子に年に数回ほどしか会わない祖母ラウラのフォローが入る。

「ジークベルト、私のそばにいらっしゃい」
「はい。お祖母様」

 手招きをする祖母のそばに俺は移動する。
 その位置は少しだけほかの場所よりも奥になり目立ちにくい場所だった。

「驚くのも無理はないわ。玉座が近いものね。私も最初はすごく驚いたのよ。なのにこの人は涼しい顔をして平然としていたのよ」

 祖母が眉をひそめ視線を隣に向ける。
 そこには年齢のわりに体格がしっかりした父上によく似た赤い短髪の男性が立っていた。
 俺の祖父ヘルベルト・フォン・アーベルだ。
「ラウラ」と祖父が表情をゆがめる。
 どうやら祖父にとって祖母の言葉は心外だったようだ。
 その様子に祖母が、やや声のトーンを落とす。

「あら本当のことじゃない。とても心細かったのに」
「心細かったのか?」

 祖父が労わるような眼差しで祖母を見て、その腰を引き寄せる。

「えぇ。権威とはほど遠い男爵家の娘だった私が、玉座に近い場所に案内されれば、驚くし心細くもなるわ。ましてや玉座の間に入室することさえ想像つかなかったのによ」
「気づいてやれなくてすまない。君はとても堂々としていたから」

 徐々にふたりの距離が近づく。
 そして祖母が「あなたに恥をかかせることはできないわ」と、頭を微かに振ると祖父が「ラウラ」とその手を祖母の頬に置いた。
 ふたりの世界に入った祖父母は、人目を気にせずいちゃつきだす。
 あぁこれはもう、完全に俺のこと忘れてる。
 幼少時によく目にした父上と母上、ふたりの仲睦まじい姿を思い出した。
 血は争えないようだ。
 いちゃつくふたりの横で、どうしようかと途方に暮れていると、テオ兄さんの救済が入った。
 自然と俺がテオ兄さんの横に移動したように誘導してくれた。

「ありがとうございます。テオ兄さん、助かりました」
「お祖父様たちは、相変わらず仲がいいね」

 テオ兄さんはあきれた表情で祖父母の様子を見るが、その声色はとても優しい。

「人目は気にしてほしいですけどね」
「ははは。幼いジークにそれを指摘されたらお祖父様たちは立つ瀬がないね」

 玉座のそばで雑談ができるぐらい、テオ兄さんはこの場に慣れているようだ。
 どうも俺はこの立ち位置に慣れない。妙に落ち着かないのだ。
 その様子に気づいたテオ兄さんは、俺の気を紛らわすように、この場の心構えを教えてくれた。この位置は、マンジェスタ王国の建国以来『初代王が決めた慣例』で、深い意味はなく、ただの慣例だと考えなさいとのことだった。
 今後も国の関連行事に出席すればこの位置になるので、自然と慣れてくるそうだ。
 そうは言われても、七歳児には受け入れがたい場所だ。
 兄さんたちは年齢的にも余裕があるからだと拗ねていたが、精神年齢は俺のほうが上だったことを思い出し、少し反省した。
 授与式は滞りなく進み、過去の叔父の戦歴をたたえ、国にいかに貢献したか読み上げられた。
 盛大な拍手の後、王が右手を上げると一瞬にして静寂に包まれる。王が言葉を述べる。

「ヴィリバルト・フォン・アーベルに、伯爵の爵位を与える」
「謹んでお受けいたします」

 玉座の下で胸に手をあて叔父が拝礼する。

「うむ。こたびの授与に異論のある者は前に出よ」

 その言葉に誰も動かず、玉座の間が再び静寂に包まれる。
 王が満足そうに大きくうなずくと、叔父に視線を向ける。

「アーベル伯爵、今後もマンジェスタ王国、ひいては民のため、その力を存分に発揮せよ」

「御意」と、叔父の力強い声が玉座の間に響いた。


 ***


 きらびやかなシャンデリアが並ぶ大広間で、生演奏が途切れると、雑談していた人々が口をつぐみ、大広間の中央扉に注目が集まる。
 ファンファーレの奏と同時に扉がゆっくりと開く。
 扉の奥から王と王妃がその姿を現すと、人々は頭を下げその動向を見守る。
 正面の一段と高い王族席に腰を据えた王が右手を上げると、再び生演奏が流れ舞踏会が始まった。
 昼間の授与式と異なり、夜の王城は一変した。

 ダンスホールの中央では国王夫妻のファーストダンスが終わり、招待客が静観している中で、今夜の主役であるヴィリバルトがパートナーであるフラウと踊り始める。続いて、王子王女たちがそれぞれのパートナーと、アーベル家の成人組がそれに続く。
 ちなみに、マンジェスタ王国の第三王女アメリア・フォン・マンジェスタのパートナーが、テオ兄さんだったことには驚いた。

「婚約者がいない王族は、叙爵した家の独身者がエスコートをする決まりなんだ。本来は長子のアル兄さんがエスコートする予定だったんだけどね。アメリア殿下は男性が苦手でね。幼い頃から面識があり、マルクス殿下と三人でよく遊んでいたので、免疫のある僕がエスコート役に指名されただけなんだよ」

 要するに男性が苦手なアメリア様が、唯一平常心を保てるテオ兄さんが抜擢された。との理由らしいが、そんなに述べなくても、誤解はしませんよ。だって、ユリウス王太子殿下のパートナーは、マリー姉様ですしね。
 だけど、テオ兄さんにその気がなくとも、アメリア様は確実にテオ兄さんを狙っていると思います。ほらテオ兄さんへの熱視線。完全に恋する乙女の顔ですよ。
 それに男性は苦手かもしれないけど、アル兄さんとも面識はあるはずだし、わざわざそれを理由にテオ兄さんを指名するには少し無理があるんだよね。
 現在マンジェスタ王国で独身の王女はアメリア様だけなので、滅多なことがない限り、テオ兄さんが婚約者にはならないとは思うが、外堀を埋められないように気をつけてくださいね。
 ちなみに、マンジェスタ王国の現王には、五名の王子と王女がいる。
 すでに王女ふたりは嫁いでおり、王家からは離れている。
 現在王家に籍があるのは、ユリウス王太子殿下、第二王子マルクス様、第三王女アメリア様だ。
 嫁いだふたりの王女とは年が離れており、ユリウス王太子殿下が、アル兄さんと同じ年で二十二歳。マルクス様が、テオ兄さん同じ年で十七歳。アメリア様は十五歳のはずだ。
 お三方とも婚約者がおらず、誰が射止めるか社交界ではその話でもちきりだ。以前、王太子妃候補にマリー姉様の名前があるとの噂が流れたが、マリー姉様自身が「ありえないわ』と鼻で笑い一蹴したとの情報もある。
 マリー姉様ならやりかねない。
 今宵の舞踏会は特例で、成人前の子息令嬢も出席をしている。
 テオ兄さんが体面を気にするのもしかたないが、アメリア様のあからさまな態度で、周囲の認識は覆い隠せない。今まで噂にならなかったのが奇跡のようだ。
 社交界での話題は、しばらくテオ兄さんとアメリア様だろう。
 テオ兄さんって、ここぞって時の運が極端にないような気がする。本当に不憫すぎる。

「ワー」と、周囲から感嘆の声があがる。
 その先には、叔父とフラウが華麗にダンスを踊っていた。
 難易度が高い曲が演奏されているようで、ダンスホールには、叔父フラウペアと、王太子姉様ペア、そのほか二組、四組しかいない。
 その中でも、叔父フラウペアは息がピッタリと合っており、速い曲調のリズムにアップテンポなステップが踏まれているが、難しい曲を踊っているようには見えない。ふたりとも終始笑顔で楽しそうだ。
 叔父はスマートになんでもできるイメージがあるので、それほど驚きはしないが、フラウが踊れることに衝撃を受けたのと敬畏したのは内緒だ。
 さてそろそろ出番だ。



「ディアーナ王女、私と踊ってくれませんか?」

 俺はおどけた口調で、ダンスをディアーナに申し込む。
 ディアーナは満面の笑みで、差し出された手を重ね「はい」とうなずく。
 ダンスホールの中央にたどり着くと、タイミングよく曲が終わり、叔父たちがその場を俺たちに譲ってくれる。
 今日は俺たちのお披露目でもあるのだ。
 管弦楽団のナイスアシストで、俺たちに合わせたスローテンポの曲が演奏される。

「このテンポなら大丈夫そうだ」
「ジークベルト様にも苦手はあるのですね」
「この年齢で舞踏会に出席するとは思ってなかったからね」

 俺は肩をすくめながら、にわか仕込みのステップを踏む。
 お披露目をすると決まった日から、アンナの猛特訓が始まったが、いかんせん相性が悪かった。
 運動神経には自信があったはずだが、曲に合わせてステップを踏み、かつ相手をリードすることは並大抵のことではなく難しかった。
『慣れだよ』と兄さんたちは言っていたが、頭では理解できているが、体がついてこないのだ。
 もうここはスキルに頼ろうと、貴重なスキルポイントで取得を試みたが、スキル解放レベルが、まさかのLv20だったため、スキル取得ができなかった。

 俺の幸運どうした!? 残念すぎる。

 ディアーナは王女教育の一環で習い、物心ついた頃には、ほとんどのステップをマスターしていたそうだ。
「アドバイスできず申し訳ありません」と恐縮していたが、記憶がないだけでたくさん練習をしたのだろう。
 なかなか上達しない俺を見てアンナが「不覚。ジークベルト様にこのような弱点があるとは……。幼児期の教育カテゴリーを間違えたわ」と自身をかなり責めていた。
 出来の悪い生徒ですみません。
 必死に練習した俺は、なんとかアンナに合格点をもらい、今に至るわけだ。
 練習していた曲よりも、だいぶ難易度が低い曲に、内心緊張していた糸も切れ、ダンスを楽しむ。
 大勢の人は、俺たちのダンスを微笑ましく見ていたが、あからさまに好奇な目を向ける者が数人いた。
『地図』スキルの機能で、要注意人物として登録はしておく。敵対心はないとは思うが用心に越したことはない。

「ジークベルト様、とても楽しいです」

 うふふと可憐に微笑むディアーナに、俺の心臓は跳ね上がる。
 なにこのかわいさ! やばい、まじやばいんですが!
 今日のディアーナは一段と磨きがかかり、超美少女にランクアップしていた。
 ターンをするたびにフワッと裾が揺れる淡いイエローのドレスは、華やかでかわいらしい印象を与え、身に着けている装飾品も良質で小粒な宝石を使用しており、上品な輝きを放ち、その効果を上げていた。
 もちろんディアーナ本人が、光り輝いていて、かわいいんだけどね。
 ディアーナ王女の噂を一掃するにはもってこいの状況である。
 誰が見ても、純粋で可憐な少女が、反乱を首謀したとは考えられない。
 エスタニア王国の王位継承権が、複雑怪奇であるとの噂が流れていた。
 王女で唯一王位継承権があったディアーナ王女を陥れ、実兄の王太子の立場を揺るがそうとしたのではないか。誰かが意図したのだろう。今日のディアーナの姿で信憑性が増した。
 俺は手応えを感じて、ニヤッと口もとを緩めた。

「どうしました?」

 その表情の変化に気づいたディアーナが俺の耳もとでささやく。
 俺は音に合わせながらステップを踏み、彼女との距離が開くと、顔を見合わせる。

「ドレスとても似合っているよ」
「ありがとうございます。ジークベルト様が選んで贈ってくださったものですから……うれしいです」

 はにかんで頬を赤らめながらお礼を伝えるディアーナの表情は、素晴らしくかわいい。
 ディアーナの意識を逸らすことに成功した俺は改めて、彼女のドレス姿に見惚れた。
 うん。あの時の俺、よくやった。


 ***


 アーベル家の仕立室に、女性たちが集まっていた。
 授与式の後に行われる舞踏会のドレスの仕立てに侍女たちも心を躍らせていた。特に俺の婚約者として披露されるディアーナのドレスには、気合いが入っていた。
 長時間の拘束に、そろそろ俺の忍耐も悲鳴をあげている。
 するとある侍女が「ジークベルト様の瞳に合わせて──」と新たな提案をする。
 せっかくドレスの方向性が決まり始めたのに、振り出しに戻ってしまう。
 そう思った俺は「その色より……」と、つい口を出してしまった。
 視線がいっせいに俺に集まる。
 せっかく傍観者として周囲に認識されていたのに、自ら注目を集めてしまった。
 まぁ、せっかくの晴れ舞台だし、ディアーナがかわいく着飾るのは、俺もうれしいしと、言い訳を心の中でつぶやきながら、重い腰を上げると、机に並んでいる多くの布の中から、暖色系の淡い色をいくつか選択し、その生地をディアーナにあてる。

「うん。僕はこのイエローがいいな。とても似合うよ。うん。かわいい。ほかはこれとこれ」
「そっそうですか」

 今まで傍観していた俺が、突然生地を選びだしたことにディアーナは戸惑っている。周囲も黙ってその様子をうかがっていた。

「うん。僕の瞳の色に合わせて紫を選んでくれるのはうれしいけど、今のディアにはこの色がかわいいと思う」

 俺は自信を持って、発言した。
 色はシックより淡いほうが似合うし、寒色系より暖色系が合う。背伸びせず、今のディアーナの年齢に合わせた色がいい。

「たしかに……ジークが選んだ色のほうが似合うわ」

 女性たちの中心でドレスを選んでいたマリー姉様が助言した。
 ディアーナもうれしそうな表情をして、俺の意見を受け入れてくれる。

「ジークベルト様が選んでくださったイエローにいたします」
「次はドレスのデザインね」

 マリー姉様が次の段階に進もうとしたため、ディアーナがそれを止める。

「マリアンネお義姉様は、ドレスを新調なさらないのですか」
「以前作ったものがあるの……。そうね! せっかくだし私も作るわ!」

 マリー姉様はチラチラ俺に目配せしながら、生地を選んでいるふりをする。
 はいはい。俺が選ぶんですね。苦情はいっさい聞きませんからね。
 なんとかマリー姉様のドレスの色を決めて、解放されると思いきや、俺が甘かった。
 ドレスのデザインまで、意見を求められ、一日拘束された。
 うん。女性の買い物に口を出すのはダメだと学んだ日だった。



「ガルゥー!〈やったぞー!〉」

 勝利の雄叫びをあげているハクの横で、ドロップ品を素早く回収している俺。
 ただいまコアン下級ダンジョンで、ハクのレベル上げの真っ最中である。

「ハク様、見事な討伐でした」
「あの動きは私には無理です。姫様どうしましょう」

 ディアーナが拍手をしてハクの討伐を褒める横で、青白い顔をしたエマが両手を頬にあて叫ぶ。
 エマ、大丈夫だ。君に戦闘能力は望んでいない。最低限の身を守る技術があればいいのだ。

「ハク、魔物を弱らせてくれるかい。エマが一撃で倒せるぐらいに弱らせてほしいんだけど」
「ガウ!〈わかった!〉」
「ありがとう。ハク」

 俺の意図を正確に読み取ったハクは、尻尾を大きく振り同意してくれた。
 俺がハクの頭をなでていると、エマが遠慮がちに恐縮して言う。

「あっあの、ジークベルト様、それではハク様に申し訳ないというか。私でも、なんとかひとりで倒せるようにがんばりますので」
「死ぬよ。エマ、君のステータスは説明したよね。甘く見ていたら死ぬよ。ここは下級ダンジョンだけど推奨は冒険者ランクC。君ひとりで格上の魔物と戦闘できるわけない。ここはハクに任せるんだ」

 俺がいつになく厳しい態度を示したことで、エマの表情が引き締まった。

「はっはい。すみません。ハク様お願いします」
「ガウッ!〈まかせて!〉」

 ハクがLv6に到達したため、本来の目的であるエマのレベル上げをする。
 エマのステータスは、尋常じゃないほど低かった。早急に対応する必要があるため、パーティーを組むための条件などと悠長に述べている場合では なかったのだ。
 横着してエマのステータスを確認していなかった俺にも問題はある。もう後悔はしたくない。


 ***********************
 エマ・グレンジャー 女 12才
 種族:人間(エルフクォーター)
 職業:侍女見習い

 Lv:1
 HP:8/8
 MP:1/1
 魔力:2
 攻撃:3
 防御:6
 敏捷:1
 運:7

 技能スキル:料理Lv3、家事Lv2、作法Lv1

 加護:精霊の祝福(封印中)
 ***********************


 このステータスでよくダンジョン踏破についてきたと思う。
 俺の鑑定眼の情報でエルフのクォーターであることもわかった。本人は認識がないようだ。
 非常に残念なことにエマは、魔力がない。精霊の祝福があるにもかかわらず、精霊と魔契約できるだけの魔力がない残念なエルフなのだ。

 二年前にディアーナに拾われたエマだが、それまでは山奥に母親とふたりでひっそりと住んでいた。母親が亡くなり、たまたま訪れた王都でディアーナと会い、そのまま侍女見習いとして仕え始めたそうだ。
 いや、本当に今までよく生きてこられたと感心するステータスだ。


 ***


 エマのステータスに衝撃を受けた俺は、すぐにエマのレベルを効率よく上げるため、コアンの下級ダンジョンを選択した。
 子供じゃないのだから、白の森でホワイトラビットを追うような、のんきな狩りはできない。
 それにハクやディアーナ、そして俺の戦闘経験を増やす必要もある。経験がものをいうことを踏破で実感した。
 しかも、叔父の伯爵の叙爵後、アーベル家は多忙を極めていた。
 そのおかげで俺たち子供たちへの監視が甘くなっていたことを俺は見逃さなかった。
 絶好の機会に、ディアーナたちを引き連れ、普段通り修練場に向かうと迷わず『移動魔法』でコアンの町へ移動した。
 転移した瞬間、ディアーナは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻し「『移動魔法』やはり使えたのですね」と冷静にひとりで納得していた。対するエマは「えっ、えーー? 修練場にいたはずですが、ここはどこです?」と、かなりのパニックに陥っていた。
 そんなふたりをよそに、俺はすぐ指示をして歩きだした。

「説明は後で、すぐにダンジョンに入るよ」
「はい」
「ガウ!〈わかった!〉」
「あっ、ジークベルト様、姫様、ハク様、置いていかないでくださいっ」

 事前に認識阻害の魔法をかけていたので、周囲から不審な目で見られることもなく階層スポットに入る。
 そこから十七階層の洞窟に転移した。
『地図』スキルを発動させる。近くに人がいないことを確認し、半径一キロ以内に接近した場合、アラートが鳴るよう設定する。

「ガルゥ!〈早く狩りに行こう!〉」
「ハク、待って。先にディアたちに説明しないといけないから」
「ガウ!〈わかった!〉」

 ダンジョンに興奮して急かすハクを止める。ハクはご機嫌な様子で俺のそばに寄り、尻尾を俺の足に絡ませた。どうやら催促しているようだ。
 そんなハクの頭をなでてから、ディアーナとエマの態度に注視する。
 ディアーナは、洞窟内を注意深く見回し「前回の場所とは違うようですね」と、周りの状況を把握していた。エマは、その横で唖然と突っ立っていた。
 これは性格の差かもしれないが、致命傷となる。この部分も改善しなければならない。
 あと二ヶ月、いや抜け出せる機会はそうそうない。そう考えると時間が足りない。
 ネガティブに考えてはダメだ。今できるところまでやろう。最善を尽くすんだと気合を入れる。

「僕が出した条件だけど、反故にしてごめんね」
「いいえ、なにか事情があるのですね」

 俺が話を切り出すと、ディアーナが姿勢を正して反応する。エマも緊張した面持ちで俺を見る。

「近々エスタニア王国で武道大会があるよね」
「はい」
「それにディアは同行するね。名目は僕の婚約者となったことの報告だ」
「はい」
「先日の反乱の根が深いのは、わかるね」
「はい」
「ディアは表向き、王位継承権は第四位だ。父上は『降嫁すると決まった時点で、王女の王位継承権は消滅する』と言っていた。『降嫁すると決まった時点』とは、いつの段階を示すのだろう。婚約をした時点? 結婚をした時点? 多くの人は結婚をした時点であると考える」
「それは……」

 ディアーナが目を見開き、言葉を詰まらせる。
 それを目視した俺は、確信めいたことを告げる。

「たしかにアーベル家は他国であり、婚約した時点で婚約破棄される可能性はないに等しい。だけど王位継承権が消滅したと考えない人もいるんだ」

 一瞬でディアーナの顔色が変わった。俺が言いたいことを悟ったようだ。

「また狙われるのでしょうか?」
「わからない。だけど用心に越したことはない」
「はい。では今回の同行は、私共のレベル上げでしょうか」
「うん。ディアもレベル上げが必要だけど、早急に対応しないといけないのは、エマだよ」

 突然話を振られたエマは「わっ私ですか!?」と、狼狽する。そんなエマに、俺は真剣な表情で尋ねる。

「エマ、君のステータスは絶望的に低い。というか、いまだLv1だよね」
「Lv1ですが、絶望的なんて大袈裟に言いすぎですよ」
「エマ、あなたLv1なの?」
「はい。姫様、なにかおかしいでしょうか?」

 ディアーナの態度から、なにかを察したエマがその様子をうかがいながら尋ねるが、彼女がそれに答えることはなかった。
 エマの肯定に絶句していたのだ。
 俺はそれに気づくと、ディアーナの代わりにエマの質問に答えた。

「エマの年齢でLv1なんて、ほぼいないんだよ。最低でもLv5はある」
「そうなんですか? 今まで不便を感じたことはありませんが?」
「そこが不思議なんだよね。ステータス値はあくまで数値化されているだけで、基礎体力は比例してないのかもしれない。だけど、エマの数値だけを考えれば、あしで足手まといになる。エスタニア王国に行くまでに、最低でもLv10にするんだ。これは、ハク、ディアもだ」
「「はい」」
「ガウ〈わかった〉」

 全員が神妙にうなずく。事の大きさをわかっているようだ。
 安心した俺は、各自のレベルとステータスを書いた紙を『収納』から出して各々に見せた。

「現在の各自のレベルはこれだよ」


 ***********************
 ジークベルト・フォン・アーベル
 Lv:12
 HP:230/230
 MP:1310/1310
 魔力:1310
 攻撃:230
 防御:230
 敏捷:230
 運:420
 ***********************


 ***********************
 ハク
 Lv:6
 HP:275/275
 MP:235/235
 魔力:255
 攻撃:215
 防御:185
 俊敏:290
 運:125
 ***********************


 ***********************
 ディアーナ・フォン・エスタニア
 Lv:5
 HP:34/34
 MP:39/39
 魔力:42
 攻撃:28
 防御:30
 敏捷:26
 運:10
 ***********************


 ***********************
 エマ・グレンジャー
 Lv:1
 HP:8/8
 MP:1/1
 魔力:2
 攻撃:3
 防御:6
 敏捷:1
 運:7
 ***********************


 ステータスを見たエマが「ほぉわぁー」と、歓声をあげる。

「ジークベルト様やハク様のステータスは、すごく高いですね。お強いのも納得です」
「エマ、あなたのステータス……っ」

 エマの横で小刻みに震えながら言葉をつなぐディアーナ。

「今までどうしていたの。わたくし、無理をさせていたのかしら? 主人として失格だわ!」
「姫様? 無理などしてませんよ。主人失格なんて、姫様は最高のご主人様ですよ。あっ今はジークベルト様もですけどね」

 ディアーナの嘆きに、その意味を理解していないエマが慌てて否定するも、彼女にその声は届いていない。
 ディアーナのあからさまな動揺は、しかたがないことだ。
 エマの年齢から考えても、このステータスはありえないのだ。
 基礎体力がステータス値に比例していないとしてもこの数値では、悪病にかかり命を落とすこともあるはずだ。
 レベル上げは、戦闘経験値、魔物を倒すほかにも方法がある。一般の人が戦闘をすることは難しいが、日々生活をしている中で人は体力をつけ、行動する。それが蓄積され、成長と共に若干だがレベルが上がるのだ。
 エマにはその蓄積がない。原因は『精霊の祝福』だ。
 気になってヘルプ機能で調べた。


 ***********************

 エルフクォーター……。
 まさか身近にいたとは、気づけず不覚。

 ***********************


 ヘルプ機能? 何か言った?


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 いいえ、なんでもございません。失礼しました。
 エマ・グレンジャーが、なぜLv1なのか、原因は『精霊の祝福』です。
 精霊の祝福は、精霊と魔契約するのが大前提のものです。
 魔契約をすれば恩恵がもらえますが、しなければ弊害があります。

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 その弊害が、経験値が蓄積されないってことなのか。だけどエルフは、誕生時に精霊の祝福があるはずだ。
 だとすれば、魔契約するのに相当時間を要することになる。


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 エルフは種族特性で、初期ステータス値が人間より高いのです。
 特に魔力は、魔契約できるだけの値があります。
 以前にも申し上げましたが、たまに魔契約できないほど魔力がないエルフもいます。

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 あぁ、残念エルフね。
 といことは、エマの種族は人間だから、人の初期ステータスで魔契約できず、経験値の蓄積もできないってことだね。
 さんざんな結果だ。
 しかも、HPや防御以外の数値が極端に低すぎる。こればかりは個人の才能なので、どうしようもないが、歯がゆすぎる。
 ヘルプ機能、精霊の祝福の封印中は、なにか影響があるのか。


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 影響と申し上げていいのか、封印中のスキル・加護は、『鑑定』時に他者には見えません。
 封印は、先天性・後天性があり、エマ・グレンジャーの『精霊の祝福』が封印されたのは、後者です。
 母親が封印したようです。

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 俺にそれが見えるのは、転生特典でもらった特別な『鑑定眼』があるからだろう。
 母親が封印した経緯は、おそらくトラブルに巻き込ませないためだと予想がつく。
 しかし、エマ本人は精霊の祝福があることを知らない。知っていたなら、魔契約を望むだろう。
 なぜ母親が本人に教えなかったのか、疑問は残る。もしかしたら、エマの魔力値の低さに絶望したのかもしれない。今のエマの魔力値では、魔契約できる精霊がいないのだ。
 精霊との魔契約は、ランクが低い精霊でも魔力値が最低30はいる。
 精霊のランクが上がれば、必要な魔力値も当然上がる。
 ただし例外がある。『精霊の祝福』を与えた精霊はどのランクであろうと、魔力値が30で魔契約ができる。
 エマの場合、魔力値の初期値が2のため、レベルアップ毎に増える値は1~2である。最低でもLv15、最高でLv29で魔契約に望めるのだ。
 できれば精霊の祝福を与えた精霊と魔契約させてあげたいが、いつどこで精霊の祝福を受けたのか不明だ。


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『精霊村』で情報を確認することができます。

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 うん。ヘルプ機能、ごめん。
 まだ『精霊の森』には行かないよ。
 そもそも今のエマでは、魔契約できないしね。


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 くっ…。またしても機会ではなかった。

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「今度こそこれで最期です。ヤァッ!」


 瀕死状態のオークにエマが、何度目かのとどめを刺す。
 簡単なお仕事のはずが、なぜかオークはドロップ品にならない。HP1から動きがないのだ。
 オークはEランクの魔物だ。ホワイトラビットはFランク、1ランクの差がこれほどまでも大きいとは予想外すぎる。
 攻撃力3は伊達ではなかった。
 そうだ、ここは武器に頼ろう!
 俺は『収納』からミスリル製の短剣を出して、戦闘中のエマに声をかけ、それを渡す。

「エマ、短剣を交換しよう。これで刺すんだ」
「ヤァッ! えっ? あっ、はっはい。わかりました」

 急な俺の指示にエマは戸惑った表情で動きを止めるが、素直に短剣を交換する。
 するとエマの顔つきが変わる。その短剣が別格だと気づいたようだ。

「これで、倒せるよ」
「はいっ! 頑張ります!」
「エマ、頑張って!」
「ガウッ!〈がんばれ!〉」

 温かく見守っていたディアとハクがエマを激励する。
 はにかんだ顔をしたエマが、瀕死状態のオークと対峙する。
 勢いをつけ、オークに短剣を刺す。
「グサッ」と今までに聞いたことのない音がオークの体から聞こえ、オークの肉がドロップされた。

「やっ、やり……レッ、レベルが上がりました!」
「よかったわね、エマ!」
「はい。姫様! うれしいです!」
「ガゥ!〈よかったな!〉」
「よくやったね! この調子でレベルを上げていこう!」
「はいっ! ハク様、ジークベルト様、ありがとうございます!」

 すごく喜んでいるエマに水を差すことはしたくないが、ステータスの上昇がほとんどなかった。


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 エマ・グレンジャー
 Lv:1 → 2
 HP:8/8 → 13/13
 MP:1/1 → 2/2
 魔力:2 → 3
 攻撃:3 → 4
 防御:6 → 8
 敏捷:1 → 2
 運:7 → 7
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 一番数値が高いHPで5上昇したが、あとは1~2である。
 これはLv10で、どうにかならないかもしれない。
 とっ 、とりあえず、今はやれるだけのことをしよう。
 吉報はオーク一匹で、ホワイトラビット四匹以上の経験値を得たことだ。
 となると、オーク三匹を倒せば、Lv3になる計算だ。これは思ったより早くレベル上げできそうだ。
 早速、次の獲物を探すために『地図』を起動させると、オーク五匹の反応がある。

「ハク、正面右側200m先にオーク五匹を確認。できれば全部瀕死状態にしてほしい。できるかい?」
「ガウッ!〈がんばる!〉」

 返事と同時に走りだすハクを見送る。ハクは、ほっておいても大丈夫だ。

「エマ、次もオークだ。三匹倒せばレベルが上がるはずだ。ディアも今回は参加してほしい。おそらくレベルは上がらないけど経験値は稼げる。エマが四匹、ディアは一匹を頼む」
「「はい」」
「では行こう。ハクが先行してオークを瀕死状態にしてくれているはずだ」

 俺たちがハクに追いついたところで『地図』に、反応があった。ランクDのキラーバット二匹が、少し先で現れたようだ。
 詳細を確認すると、近くにある小部屋でも、大量の魔物の反応がある。
 とてもおいしい状況に、頭の中で計算をしてハクに声をかけた。

「ハク、ありがとう。この先にキラーバット二匹いるんだけど、倒してくるかい?」
「ガゥ?〈いいの?〉」
「うん。お願いしていいかい」
「ガゥ!〈わかった!〉」

 尻尾を激しく振り、うれしそうに走り去るハクを見送りながら、我儘な主人で『ごめんね』と、心で謝罪する。
 小部屋での戦闘で、ハクのテンションはさらに上がるだろう。
 よし! フォローは完璧だ。
 俺の目の前には、瀕死状態のオーク五匹が整列して倒れている。もちろんHP1の状態だ。
 倒れているオークの上から、エマがミスリルの短剣を刺す。一撃でオークはドロップ品に変わる。
 その様子にエマが素っ頓狂な声をあげ、歓喜する。

「ふぇっ? 一撃ですっ!!」
「すごいわエマ! レベルが上がった効果ね!」

 喜んでいる二人を後目に、攻撃値1しか上がってないんだよ。
 ミスリルの短剣の攻撃力のおかげであるとは口が裂けても言えない。
 エマは続けて、残りのオーク三匹を倒し、ディアも一匹倒した。ハクもキラーバット二匹を倒したようだ。反応がなくなっている。
 予想通りエマのレベルは上がり、ステータス値の増加は相変わらず低いが、順調ではある。
 この調子でレベルを上げ、エマは平均並みのステータス値を目指そう。


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 エマ・グレンジャー
 Lv:2 → 3
 HP:13/13 → 18/18
 MP:2/2 → 3/3
 魔力:3 → 4
 攻撃:4 → 6
 防御:8 → 11
 敏捷:2 → 3
 運:7 → 7
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 攻撃値が2上昇! 防御が3上昇! しかも防御は二桁だ!
 よしよしよーし!
 この調子で、Lv4を目指そう!
 今日は小部屋まで足を運び、階層スポットに戻ることにする。
 修練の時間と、侍女たちの見回り時間を逆算すれば、妥当な判断だ。

「ハクに合流したら、少し先にある小部屋へ向かうよ。そこには大量の魔物がいるので、ぼくとハクで倒すよ。できればディア達に魔物を残すよう努力はするね」
「はい」
「私は今日Lv3になりましたので、充分です。もう満足です!」
「そうだね。よく頑張ったよ」

 嬉しそうに報告するエマに、ステータスの事実を伝えるのはよしておこうと心に決める。
『ステータス表示』で確認はできるが、おそらくエマはありのままの数値を受け入れ、喜ぶだろう。
 あの様子から既にステータスを確認しているかもしれない。
 まぁ、他と比べることができないから、ステータスの低さはわからないだろう。
 ん? しまった!
 俺各自にステータスの紙を見せたのだった。
 回収はしたが……、エマは……気にしてない。うん、大丈夫そうだ。
 そうこうしている内に、ハクと合流し、小部屋の前まで辿り着く。

「ジークベルト様、ハク様、ご武運を! 私共はここでお待ちしております」
「うん。小部屋以外に魔物の反応はないけど、気は抜かないでね」
「「はい」」
「うん。ハク行こう!」
「ガゥ!〈行く!〉」

 小部屋の扉を開け『疾風』で飛んでいる魔物の羽を落とす。
 ハクは前足で次々と落ちてくる魔物を切り裂く。ドロップ品がドンドンと落ちていく。
 スライムの塊に目を向けるが、ハクが『氷結』でスライムを凍らす。そのファインプレーにその手があったかと感心する。
 ラッキーなことに、羽の落ちたキラーバットが三匹凍っている。これはディア達に倒してもらおう。
 そこから俺とハクの無双が始まる。
 時間をかければ、ひとりでも倒せる魔物だが、いかんせん数が多い。
 その数、二百二十八匹。
 これはおいしくいただきましょう。
 その結果、ハクがLv8になり、なんと俺もLv13になった。ランクDのキラーバットが大量発生していたのが、幸運だった。
 あれ?
『地図』の表記が、小部屋からキラーバットの巣に変わっている。
 ダンジョン内の魔物の復活って、だいたい一週間ほどだから、それを見越して定期的に訪問しよう。
『地図』に、日付と印をつけて、アラームで忘れないように設定する。
 最後に残した凍っている魔物を倒すため、小部屋の扉を開けて、ふたりを呼び込んだ。

「「お疲れさまでした」」
「ガウッ!〈がんばった!〉」
「うん。今からはふたりの出番だよ。ランクFのスライムが十五匹、ランクDのキラーバットが七匹ある。先にディアのレベルを上げよう」
「はい。がんばります!」
「姫様なら一撃です!」

 俺の指示に、ディアーナが魔物のそばに寄る。そして勢いよく短剣を突き刺すと、キラーバットが一撃でドロップ品に変わる。
 さすがディア。的確に急所を狙って、確実に仕留めている。

「さすが姫様!」
「ジークベルト様、レベルが上がりませんでした」
「気にしなくても大丈夫だよ。あと六匹もいるんだ。必ずレベルが上がるから、がんばろうね」
「はい」

 その後、四匹目がドロップ品に変わったところで、ディアーナの表情に変化があった。
 彼女はとてもうれしそうに笑ったのだ。
 その様子に、そばで見守っていた俺もうれしくなる。

「レベルが上がりました!」
「よかったね」
「ガゥ!〈よかったな!〉」
「姫様、さすがです!」

 各々が声をかけ、しばらく喜びを分かち合った。
 さてここからが、本日最後の戦闘だ。俺の声にも気合いが入る。

「さぁ最後はエマだよ。すべての魔物を倒すんだ」
「はい! では早速キラーバットから……。あれ? あれれ? うまく刺さらない?」

 なぜだエマ! なぜ刺さらない!
 キラーバットはランクDのため、エマの攻撃値では倒せないが、ミスリルの短剣の攻撃力を合わせれば倒せるはずだ。
 まさかっ……。

「エマ、スライムを先に倒そう」
「はい! あれ? やはりうまく刺さりませんっ!」

 念のためスライムが倒せるか試そうとしたところ、やはり俺の予想は当たっていた。

「エマ、目の前にいるのは魔物ではない」
「えっ? なにを言ってるのですか? 魔物ですよ」
「魔物ではない。凍った野菜だ」
「ジークベルト様、頭がおかしくなったのですか!?」

 その発言に、俺のこめかみがピクッと動く。
 そして満面の笑みでエマに近づくと、その両頬を挟み、顔を近づけて言いくるめる。

「いいかいエマ。君には短剣を扱う技術が足りていないんだ。だから魔物を野菜だと思い込んで刃物を扱うんだ。わかるね。俺は頭がおかしくなったのではなく、アドバイスをしているんだ」
「はいぃっ」
「よろしい。先にスライムを倒してごらん」
「はいっ! スライムは野菜、凍った野菜、凍った野菜──」

 エマは、半狂乱したようにつぶやきながら、スライムを刺した。ザグッといい音がして、スライムが真っぷたつになり、ドロップ品へと変わっていく。
 思った通りの結果に、俺は満足そうに大きくうなずく。
 エマは、短剣を扱う技術が不足している。短剣を包丁代わりに使用することで、料理技術が高いエマがそれに対応したのだ。
 これで当分なんとかなるだろう。
 短剣の技術の向上は……テオ兄さんにでも相談してみるかな。

「ジークベルト様、やりました!」
「うん。残り全部、その要領で倒してごらん」
「はいっ! がんばります!」

 ザクッザクッと、リズミカルな音が続く。
 エマの討伐の様子を確認しながら、ディアーナが俺のそばに寄ってくる。

「ジークベルト様、今回の件、大変申し訳ございません。エマがまさかのLv1だったとは。わたくしの監督不行き届きです」
「いや、今回のことはしかたないことなんだ。自然とレベル上げができないほかの要因があったから。エマ自身それを知らないしね」
「ほかの要因ですか?」
「うん。今は言えないけど、時期がきたら話すよ。だからディアが気にすることはないよ」
「わかりました。だけど、やはり謝罪は必要かと思いましたので、お手数をおかけいたします」
「ディアは律儀だね。そこがいいところだけどね」

 俺は目の前にあるディアーナの金色の髪をなでる。
 獣耳がないことは残念ではある。今度お願いして、姿隠蔽解いてもらおう。婚約者だから許されるよね。許される範囲だよね。
 俺の葛藤をよそに、手は正直でディアーナのサラサラの髪を堪能していると「ジークベルト様、あのっ、そろそろエマの討伐が終わります」と、頬を真っ赤にして彼女が俺を見上げる。
 めちゃくちゃかわいい。はぁ、天使がいる。俺の婚約者、天使だった。
 名残惜しく髪から手を放し「また触らしてね」とお願いする。
「はいっ」と、さらに頬を赤くさせたディアーナのかわいさに悶絶する。
 さてさてお仕事をしよう。
『微風』を使用して、辺り一面のドロップ品を一気に『収納』へ回収する。
 そこへ魔物の討伐を終えたエマが帰ってきた。

「ジークベルト様、姫様、すべての討伐が終わりました。私Lv4になりました!」
「うん。今日は全員レベルが上がってよかったよ。じゃあそろそろ屋敷に戻ろう。抜け出しているからね、ばれないように帰宅しよう」
「「はい」」
「ガゥ〈わかった〉」

 こうして俺たちのダンジョン一日目のレベル上げは、無事に終了した。


 俺は屋敷内である人物の帰宅を今か今かと待っていた。
 ディアーナたちはマリー姉様とお茶会中だ。俺も誘われたが適当な理由をつけて断った。
 女性の話は長いし、気を使う。幼児の時はただ座っているだけでいろいろと情報を得られたが、今は必ずといってもいいほど、意見を求められるし、言葉選びを間違えると集中砲火だ。
 普段優しい姉様や侍女たちの冷めた目は、実に心にくるものがある。
 その現場を思い出し、背筋が一瞬震えるが、ハクのなめらかな毛をなで心を落ち着かせる。
 動物には癒しの効果があると前世の書籍で読んだ記憶がよみがえる。
 動物と接することで、心を癒すなんとかホルモンが分泌されるのだ。
 ハクは動物ではなく聖獣だし、異世界の人間の構造に果たして同じ成分のホルモンがあるかは不明だけど、このモフモフは最高だ。
 ハクの背中に顔をうずめる。

「はぁーー落ち着く」

 癒されているところで、階下が慌ただしくなった。
 俺はハクの背中から顔を上げ、私室の廊下を出る。
 すぐにテオ兄さんの姿を見つけ、駈駆け出したい気持ちを抑えながら挨拶をした。

「テオ兄さん、おかえりなさい」
「ただいま、ジーク。その顔は、なにかお願いがあるんだね」
「さすがテオ兄さん! 話が早いです」と、俺の声色が一段階上がる。
「うん。長年の付き合いだからわかるよ。僕の部屋に行こうか。ハクもおいで」
「ガゥ?〈いいの?〉」
「うん、もちろんだよ。ジークがいない間は僕にベッタリだっただろう。遠慮しなくても、僕の部屋には自由に入っても大丈夫だよ」
「ガゥー〈ありがとう、テオバルト〉」
「テオ兄さん、改めてあの時は、ありがとうございました」
「ジーク。もう何度目の感謝だい。感謝の気持ちは十分もらったよ。だから気にしなくていいんだ。さぁ行こう」

 これ以上の言葉は不要だと、テオ兄さんは手を前に出し制すると、自分の部屋へ歩きだす。
 そのスマートさに、男の俺でもほれぼれするし、マンジェスタ王国の王女様が、夢中になるのもしかたがないと思う。
 これで本人は、まったくもって無自覚なんだ。すごいよね、本当。
 テオ兄さんと関われば、女性は必ず恋に落ちると確信が持てる。ただ親密な関係になるまでに、テオ兄さん特有の存在感の薄さが影響して、発展しないのだろう。
 難儀だよなぁ。兄さんを正しく評価して、支えてくれる人が、この先現れることを願う。

「ガウ?〈行かないの?〉」

 ハクの呼びかけに、俺は思考を戻すと、その頼りがいのある背を追った。

「なるほど、エマの短剣技術を上げたいと」
「はい。僕ではもう限界で、短剣の扱いに優れているテオ兄さんに協力いただきたいのです」
「うーん、それはいいけど……修練場での指導だけでは、短期間でそうそうの上達は難しいよね。エマはその、なんというか、筋金入りのお間抜けさんだよね。武道大会での留守番に含むことは難しいか。ディアーナ様の侍女見習いだしね。たしかにジークの懸念事項はないとは断言できないし、最低身を守る術は必要だね。そういえばアンナの体術指導は……うん、ごめん。聞いた僕が悪かったよ」

 アンナの体術指導の言葉が出ると、俺は目に見えて落胆する。
 あのアンナに『指導教育を再勉強するため、お暇が欲しい』と、追いつめたのだ。この申し出に、そこにいた全員が驚き、アンナをなんとか説得した。
 そしてエマの体術指導は、当分延期となった。
 アンナの心を折ったエマをなぜテオ兄さんに頼むのか。それにはテオ兄さんの短剣技術の高さと、面倒見のよさが関係している。
 エマがこの先何年も地道にがんばれば習得できそうな戦闘スキルが、唯一短剣だったからだ。
 テオ兄さんも、少なからずエマの噂は耳にしているようだ。
 だけど、指導は引き受けてくれるようで安心する。
 ただ、修練場での指導に難色を示している。
 そりゃー、実戦での指導が一番身につくけど、その提案は俺からできない。
 しばらく考え込んでいたテオ兄さんが、大きくうなずく。

「よし。父様に相談しよう」
「えっ?」
「数年前に発見された『アン・フェンガーの迷宮』は、ジークたちが踏破したコアンの下級ダンジョンより、初心者向けの迷宮なんだ。そこの踏破を目指そう。戦闘経験も稼げるし、レベル上げも考えれば一石二鳥だね。早速父様に許可をいただいて、アン・フェンガーの迷宮へ挑もう」
「父上の許可は下りるでしょうか」
「大丈夫。あてはあるから心配不要だよ。ジーク!」

 自信満々にテオ兄さんが宣言する。
 その姿に、すべてを託すしかない俺は頼もしいと思うが、話の展開が早すぎて、いささか頭が混乱していた。
 あれ? これって、俺にとって一番都合のいいことになっている。
 エマの短剣指導、迷宮の踏破、レベル上げ、父上の説得、全部テオ兄さんが主動だよね。
 これは、俺が、楽をできるパターン。
 テオ兄さん、ありがとう!
 降って湧いた幸運を、じっくりと噛みしめるのだった。


 ***


「アン・フェンガーの迷宮に挑むと」
「はい。僕もジークも適正は十分ありますし、ジークの懸念はもっともです。すべてを網羅できると自負するのはいささか傲慢だと考えます。いざとなれば身を守る技術は必要ですし、守る対象を見誤らないためにも必要かと判断しました。父様がご心配されるのでしたら、護衛に冒険者を雇いましょう。もしよければ腕のいいBランクの冒険者をひとり紹介できます。彼は信頼できる人物です。父様さえよければ、武道大会での護衛も頼んではいかがでしょうか」
「その冒険者の名は」
「ニコライ・フォン・バーデンです」
「バーデン家のせがれだな」
「ご存じでしたか」
「あぁ、バーデン家は先々代の当主が騙され没落したが、先代はとても優秀な人だった。お家再興半ばにして病に倒れたのだ。惜しい人物を亡くしたと一時噂になったぐらいだ。そして最近噂になっている『金の獅子』とは、ニコライ・フォン・バーデンであろう」
「はい。彼とは討伐を共にしたことがあり、その技術の高さは筋金入りです」
「わかった。一度屋敷に連れてきなさい。その際に信頼に値する人物かどうか を見極める。彼と契約できたならアン・フェンガーの迷宮への挑戦を許そう」
「ありがとうございます」

 テオ兄さんが頭を下げる。俺もそれに追従した。
 俺が口を挟む間もなくトントン拍子に話が進んだ。
 ほぼ間違いなく迷宮挑戦が決まった。
 俺もテオ兄さんも、ニコライが信頼に値する人物であると確信しているし、本人は隠しているが、ぶっきらぼうな態度の反面、とても面倒見がいいのだ。
 どんな条件であっても俺たちとの契約を断ることはない。
 テオ兄さんが、俺に向かってにっこりと微笑む。
 うっわーー、貴公子がいる。ここに貴公子がいる!
 一瞬、叔父と重なって見えたのは、秘密にしておこう。



 アーベル家に金髪の長身が訪れた。
 この日、屋敷内にいたのは、屋敷の主であるギルベルト、ヴィリバルト、アルベルト、マリアンネだった。
 テオバルトは魔術学校、ジークベルトとディアーナたちは、修練場もといコアンの下級ダンジョンにいた。
 当事者たちが不在の中、それは極秘に進められた。
 執事ハンスが、その人物を応接室に案内すると、ギルベルトが立ち上がる。

「バーデン殿、よく来てくれた」
「悪いが、家名で呼ぶのはやめてくれ」
「失礼。では、ニコライ殿とお呼びしよう。私はギルベルト・フォン・アーベルだ。隣にいるのが弟のヴィリバルト、そして息子のアルベルトだ。ふたりの同席も許していただこう」
「ニコライ・フォン・バーデンだ。ふたりの同席はかまわないが、俺は礼儀なども知らないただの冒険者だ。丁寧な言葉遣いもできない。この場での不敬は許してもらうぞ」

 ニコライの挨拶に、ギルベルトは好感を持つ。
 言葉はぶっきらぼうだが、己の態度に対し許可をもらう姿勢は、相手を尊重している証拠だ。
 ヴィリバルトも好感を持ったようで、口角が少し上がっていた。
 テオバルトが、高く評価し、懐いただけはある。

「あぁ、普段通りでかまわない」

 ギルベルトはそう言って、ソファに腰を掛ける。対面にいるニコライも静かに腰を下ろした。

「早速だがニコライ殿とは、専属契約を結びたいと考えている」
「Bランクになりたての冒険者にか?」

 ニコライの疑問に、ヴィリバルトが口を開く。

「君のことは少しばかり調べさせてもらったよ」
「赤の魔術師、直々にとは結構なことで」
「前々から君には興味があったんだ」
「へぇーそれで。お眼鏡にかなったか」
「あぁ、実に興味深い研究対象だ。ぜひ君を『深奥』に送りたいね。そして行動を監視し、その能力がどこまで」
「ヴィリバルト」

 ギルベルトが、ヴィリバルトの言葉を遮る。

「すみません、兄さん。ついね。見込みのある若者を見ると、つい癖が出てしまうんですよ」
「ニコライ殿、愚弟が失礼した。まず父親として、テオバルト、ジークベルトと共に行動をしてくれて感謝する。特にテオバルトとは、長年にわたり活動を共にしているだろう。テオバルトは優秀だが、本人にその自覚がない。ニコライ殿と討伐することで自信をつけ、最近は意見を述べるまで成長した。今回の話もテオバルトが発案者だ。息子の成長ほど親としてうれしいことはない」
「ははは。テオ、バレてるぞ。だが感謝されることなどない。テオが俺の手助けをしてくれているだけだ。特に最近は、ジークベルトが参加したことで魔物討伐の効率が上がり、実入りがいい。率先して高価なドロップ品を回してくれるからな。俺は金がいる。テオやジークベルトには、俺のほうが感謝しているぐらいだ」
「その資金が必要な妹さんの病のことで提案がある」
「セラの病で提案だとっ」

 ギルベルトの発言に、ニコライは狼狽した声を出し、その表情を険しくした。
 ヴィリバルトの調査通り、ニコライの妹セラは、難病『風船病』を患っているようだ。
 風船病、体のあらゆる箇所が膨らむという。
 時に顔の一部や、腕や足、腹であったりと、対処をしなければ、体が膨らみ続け破裂する。皮膚や肉が裂け、骨まであらわになる。
 その痛みは想像を超え、ショック死する者も多い。余命が短いのもこの病気の特徴だ。
 現在治療方法は、ないとされている。
 唯一の対処法が『魔草』を煎じて飲むことで緩和されるが、それは破裂を抑える対処で、完治するわけではない。
 また魔草は、大変貴重で非常に高価であり、入手困難とされ一般にほぼ流通していない。
 ニコライはそれを確保するため、闇市で相場の五倍の金を積み『魔草』を手にしている。
 ギルベルトは、ヴィリバルトと目を合わせる。ヴィリバルトが小さくうなずくのを見て、ニコライに提案する。

「一度、ヴィリバルトに見てもらうのはどうだろう」
「赤の魔術師は、医療までできるのか」
「私は医者ではないが、見る能力はある。『鑑定眼』で君の妹の病気を判定しよう。本当に医者の診断通りであるか。また『鑑定眼』は、その病について明確な情報をえることができる。そう、例えば完治する方法などもね。不治の病でない限りは答えは出るよ」

 ヴィリバルトから出た『完治』との言葉に、ニコライは息をのむ。
 そして眉間にしわを深く寄せると「本当に可能なのか」と、再び尋ねた。

「疑い深いね、悪いことではないが、今の時点では悪手だよ。そうだね、ではこうしよう。今まで、テオやジークがお世話になった。そのお礼に『鑑定眼』を使用しよう。これは君や妹さんにとって絶好の機会だ。迷う必要などない。妹さんを助けたいのだろう」
「助けてぇ、だがセラの病は、難病認定された『風船病』だ。いくら赤の魔術師でも解決できねぇことはある」
「言っただろう。私は不治の病ではない限り答えは出せると。難病認定の『風船病』ね。対処法は魔草だったね。君がいくらがんばっても魔草では追いつかない時期がくる。かわいそうに兄のくだらないプライドで、妹さんは『死』を待つだけだ」

「なっ」

 ニコライは激昂して腰にあるはずの剣を握ろうとするが空を切る。
 応接室に入る前に執事に渡したことを思い出し、大きく舌打ちをする。
 ニコライの苛立ちが、伝わってくる。

 冷静になれよ。いまの俺は赤の魔術師にいいように踊らされている。
 あいつは俺を怒らせ判断力を鈍らせたいだけだ。
 考えろ……。アーベル家は、俺を専属にしたいと申し出ているんだ。
 なにか意図があるはずだ。読み違えるな。
 セラの病気を『鑑定眼』で見る提案は、後々厄介だと考えての手段だ。それで完治できたら俺たちもアーベル家にとってもいいことなのだろう。
 でもなぜ今なんだ。
 本当に信用してもいいのか。
 極端に人との接触を嫌がっているセラに会わせ、何も結果がでなかったら……。
 またセラが傷つくだけだ。
 くそっ、考えがまとまんねぇ!

 なにかを考えて黙り込んでしまったニコライに、今まで静観していたアルベルトが、言葉を発した。

「ニコライ殿、私は妹や弟たちが、何物にも代えがたい唯一無二の大切な存在です。特に末弟ジークベルトに危害を加える者がいれば、迷わず排除します。それが長年の友人であったとしても即断するでしょう。ニコライ殿も同じではないですか」

 アルベルトの突然の問いかけにニコライは戸惑った視線を向けるが、アルベルトはそれを無視して続ける。

「私がニコライ殿の立場なら、どのような方法でも藁にでもすがる思いで試します。この機会を逃すなんて馬鹿なまねはしない。冷静に考えてみてください。叔父は最高峰の魔術師です。その叔父が不治の病でない限り助かると断言しています。妹さんは助かる。私共を信じて、提案を受け入れてください」
「あぁーわかったよ。『鑑定眼』で見てくれっ」

 アルベルトの真摯な態度に、ニコライが折れた。
 そうだった。こいつらは、テオとジークベルトの家族だった。
 裏があるんじゃねぇかと、深く悩んだ俺が馬鹿みてぇじゃねぇか──。
 ニコライはアルベルトを見る。 
 テオと同じ赤髪だが瞳の色が違う。背格好は一見細身だが、ほどよく筋肉がついており凄腕だ。
 俺より相当強い。
 ただ纏う雰囲気がテオやジークベルトのそれと同じだ。
 結局はあまちゃん一家……いや約一人違うのがいるけどな。

「受け入れてくれてよかったよ。アルは助かると言ったが、こればかりは見てみないとわからない。だけど、どのような結果であっても、妹さんはアーベル家が尽力すると保証しよう」
「頼む。ただ施しを受けるだけってのは、俺には合わねぇ」

 ヴィリバルトの話を聞いて、ニコライは頭を下げた。
 そしてギルベルトに視線を合わせ、そう伝える。

「それで先ほどの話だが、貴殿と専属契約を結びたい」
「一般的な専属契約とは違うってことだな。中身と時期は」
「まず貴殿には今後も冒険者として活躍してもらう。我々が必要な時に、アーベル家の仕事に専任してもらうことになる。最初の仕事は、テオバルトとジークベルトとの護衛だ。一緒にアン・フェンガーの迷宮を踏破していただく。またその後、エスタニア王国で開催される武道大会でのジークベルトの護衛についていただく。その後は未定だが、貴殿が戦闘できる間、半永久での契約だ。細々とした条件は後ほど、契約書に記載があるので確認してほしい」
「アーベル家に飼われるってことか」
「その認識でかまわない」
「わかった。契約を結ぼう」
「条件を見る前だがいいのか」

 その決断の速さにギルベルトは、思わず声を出していた。
 するとニコライが、不敵な笑みを浮かべる。

「はっ、よく言うぜ。肯定以外の言葉を出してみろ。そこの赤の魔術師が黙っていねぇぜ。ただし、俺の主人はあなただ。よろしく頼む。ギルベルト様」

 ニコライはソファから立ち上がると、胸に手をあて深く一礼した。



「さて兄さん、彼と契約書を交わす前に、妹さんに会いに行きましょう」
「待てっ、今妹は顔の腫れがひどい。魔草を数日連続して飲めば、ある程度腫れが引く。それまでは外には出せない」

 ヴィリバルトの発言をニコライが慌てた様子で止める。
 その慌てように、ヴィリバルトは首をかしげると、諭すように話しだした。

「君が心配している顔の腫れについてだが、私は顔を見ないでも『鑑定眼』を使用できる。顔を隠す服を用意しよう。屋敷までは『移動魔法』を使うので、誰かに見られる心配はない」
「……そうだなっ。早く原因がわかったほうが、セラのためになる。頼む」
「我々より、女性同士のほうがいいだろう。ヴィリバルト、マリアンネを呼んでくれ」
「了解。『報告』」

 ギルベルトの指示にヴィリバルトが魔法を使うと、魔力が応接室の外に流れていく。
 ヴィリバルトがニコライに質問する。

「さて、マリーが来るまでに確認したいんだけど、君は今、第三市内の一般区に部屋を借りているね」
「調査済みかよ。あぁそうだ。バーデン家の屋敷は魔草の費用のために売り払った。だから今は借家に妹とふたりでいる」
「年配の夫婦も一緒ではないのかい?」
「彼らは元バーデン家の家人だ。俺たちが屋敷を手放した際、ほかの使用人たちは他家へ再雇用の手配をしたが、彼らだけは断固として他家への雇用を嫌がった。結果、俺たちの隣に部屋を借りて、厚意で妹を見てくれている」
「では、君の家族はその家人も含め、三名だね」
「そうだなぁ。彼らはもう家族だ」
「調査通りでよかったよ。用意していたものが無駄になるところだった。あぁ君は専属の条件をまだ確認していないから知らないとは思うけど、家族も含め、アーベル家に住んでもらうよ」
「はぁーーっ?」
「なにを驚いているんだい? 君はアーベル家の半永久的な専属になるんだ。住まいも移してもらうよ。ちなみに住む場所はここではなく、私の屋敷だけどね」

 ニコライの「なぜ、お前の屋敷なんだ」と反抗する声に「トントン」とノックする音が重なった。
 その扉が静かに開くと、茶色の髪を束ねたマリアンネが、大きな黒い瞳を瞬かせ、一瞬戸惑った表情を見せながらも入室する。
 部屋をサッと見回すと、ギルベルトのほう方へ歩きだした。
 ピンッと背筋が伸び歩く姿は上品だが、かなり気の強そうな女だとニコライは思った。

「お父様、お呼びとのことですが」
「マリアンネ、急に呼び出してすまない」
「大丈夫です」
「早速だが、ヴィリバルトと一緒に、ニコライ殿の妹さんに会いに行ってほしい。そして身支度を整えて屋敷に連れてきてほしいのだ」
「わかりました。身支度を整えるにしても失礼があってはいけません。どれぐらいのお年の方でしょうか」
「十一歳のはずだよ。あとマリー、彼女は長い間床に臥せており、現状病気が悪化しているようだ。『移動魔法』を使用するけど、顔まで覆えるようなフード付きのローブを用意してあげてほしい」

 ヴィリバルトの珍しい気遣いに、マリアンネはその大きな目を瞬かせる。

「わかりました。どちらに滞在なさるのでしょうか」
「病気が完治するまでは、こちらで滞在してもらう。完治後は、ヴィリバルトの屋敷に住むことになる」
「ヴィリー叔父様の婚約者候補ですか?」
「ふざけるなっ」

 ニコライの怒声が、応接室に響き渡る。
 俺の大切な妹が一瞬でも赤の魔術師の婚約者候補だと勘違いされただけでも不愉快だ。
 セラは……ないとは思うが、万が一、赤の魔術師に好意を抱いても絶対に、俺は反対だ。

「マリー、いくら私でも許容範囲ってものがあるよ」
「申し訳ございません」
「あっ、そうだ。紹介するね。彼はニコライ・フォン・バーデン。ジークたちの専属護衛として雇うことになった。彼とは長い付き合いになる」
「ジークの専属護衛ですか?」

 マリアンネが、ニコライに品定めするような視線を向ける。
 そのぶしつけな視線にニコライは眉をひそめるが、感情を抑えて挨拶をした。

「これから世話になる。ニコライ・フォン・バーデンだ」
「私はマリアンネ・フォン・アーベルです。あなた、貴族なの。それにしては品がないわ」
「もう貴族じゃねぇよ、没落済みだ。あんたはもう少ししとやかさを学んだほうがいいんじゃねぇか」
「まぁ失礼な方ね。ヴィリー叔父様、ジークの教育によくない影響を与えそうです。私は反対ですわ」
「マリアンネ、彼はジークたちの護衛になってもらう。これはアーベル家での決定事項だ」
「わかりました。お父様。私はこの屋敷の管理を任されています。屋敷内でなにかあれば報告してください。あなたはジークの護衛になるとのことですが、ジークと接する時は上品にお願いします」
「悪いがそれはもう無理だ」
「マリアンネ、彼はテオバルトの友人でもある。ジークベルトとはすでに面識はある」
「なんてことなの。最近、一人称が、僕ではなく俺と話す時があるんです。あれはこの人の影響のせいね! 私のかわいいジークが──」

 そう言って、マリアンネは自分の世界に入ってしまった。こうなると、ギルベルトかジークベルトの声しか聞こえなくなる。
 とても厄介な状態だが、本人が折り合いをつけて現実に戻ってくるまで、今回は時間がかからないとギルベルトは判断し、ここは放置することにした。

「悪いね、妹は極度のブラコンなんだ。悪気があるわけではないんだ」
「いや、前にテオから聞いていたが、聞くと見るでは大違いだなぁ」
「あれでもだいぶマシなんだ」
「あれでマシなのか。ジークベルトは苦労してるな」
「はははっ、そうだね。兄としてはなんとかしてあげたいが、こればっかりは無理だ」

 アルベルトは、乾いた笑いをして、あきらかに落胆する。
 ニコライは身を乗り出すと、落胆したアルベルトの肩を叩き「お互い、がんばろうぜ」と、励ました。
 長男同志の小さな友情が、芽生えたのだった。



 アーベル家の客間に、三人の女性が入っていく。
 ひとりはアーベル家の長女マリアンネ、そのうしろにフードを目深にかぶった女性、その横には年配の女性が付き添っている。

「セラさん、こちらへどうぞ」
「マリアンネ様、ありがとうございます」
「セラお嬢様、足元に気をつけてください」
「大丈夫よハンナ、ありがとう」

 バーデン家の元侍女長ハンナの手を借りて、セラが部屋の中に足を踏み入れた。
 その部屋は、セラの好みのど真ん中で、かつてのバーデン家の自分の部屋を思い出させるような調度品であった。白で統一された中に、細部まで凝ったデザインの家具が配置され、明るく上品な雰囲気に気持ちが上がる。
 思わず「素敵な部屋」と口に出していた。
 その声が聞こえたのだろう。マリアンネがうれしそうに微笑む。
 とてもいい方だわ。私の顔を見ても表情ひとつ崩さず、逆に気遣われてしまった。
 高貴な方なのに身支度の手伝いまでしてもらい、あげくの果てには、髪結いまで。フードをかぶるだけと断ったのに「髪は女の命よ」と、高価なオイルをふんだんに使い、綺麗にまとめて流行の髪型に仕上げてくださった。
 ドレスも私の病を配慮して、一見、地味に見える配色とデザインだが、見る角度によりスタイルをよく見せ、落ち着いた配色が大人の女性を感じさせる。質のよさは一級品で、肌触りに違和感もない。
 この方のセンスのよさだわ。こんなお姉様がいたら素敵だわ。
 今日は驚きの連続。
 初めての『移動魔法』には驚いたし、噂の『赤の貴公子』を目の前で拝見できたことは、一生の記念になる。
 そしてなにより、この病を完治できるかもしれない。

「またお前を傷つけるかもしれない。癪だが最高峰の魔術師がお前の体を見てくれる。アーベル家の全面的サポートの中での治療だ。みすみすこの機会を逃したくはない。少しでも可能性があるなら、セラ、この話を受けてほしい」

 お兄様のその説明を受けて、私はすぐに承諾した。
 私はお兄様の足枷。病を克服して、お兄様を自由にしてあげたい。
 今までの恩を返せるなら、なんだってやってみせる。たとえそれが過酷な試練となっても、もう逃げたりしない。
 そう、極端に人との接触を避けていた私がそう思ったの。
 それになぜかしらもう大丈夫、私は助かると思ったの。だけど、助けてくれるのはここにいる人たちではないとも思った。
 我ながら不思議な直感だわ。
 ベッドに腰を掛けたセラは、フードをはずした。
 顔の右側は腫れ、皮膚が膨らみすぎて右目を覆い隠している。体のいたるところに小さな気泡のようなものができていた。
 これが予備軍であり、対処しなければ膨らみ破裂する。
 今日の分の『魔草』は、屋敷を訪れる前に煎じて飲み終わっている。少しでも良い状態で人に会いたいと願った結果である。

「お兄様たちは、後ほどこちらへ来られるんですね」
「えぇ、今はお父様に報告に行っているところです。治療が終わるまでセラさんのお部屋はここになります。必要なものがあれば言ってくださいね。後から侍女たちを紹介しますね」
「お兄様のお部屋はここから近いのでしょうか」
「バーデン殿の部屋は隣になります。あの内扉が隣の部屋につながっているので、わざわざ廊下を出ることなく会えますよ。ハンナさん夫婦の部屋も用意していますから安心してくださいね」
「私ども使用人にまで、お心遣いくださりありがとうございます。ですが、私どもの部屋は結構でございます。セラお嬢様が治療中の間は通いますので、ご心配無用です」
「いいえハンナさん、バーデン殿からお話があると思いますが、今のお住まいは引き払っていただきます。今後はアーベル家で過ごしていただくことになります」
「それはどういうことでしょうか」
「私の口から説明しても納得なさらないでしょう。バーデン殿にご確認ください」

 マリアンネは淡々とそう説明すると、ベッドから離れていった。
 ハンナは訝しげに離れたマリアンネを目で追っていたが、セラの不安気な表情に気づきやめた。
 ハンナ自身、今までマリアンネにした対応が不敬であることは重々承知していた。
 バーデン家の評判を落としている自覚もあるが、夫であるヤンがいない状況で、ハンナができる最大限は、セナを守ることだ。
 ニコライ様の言葉を信じたい。だが万が一騙されることがあってはご主人様に顔向けできない。
 バーデン家は騙されて没落したのだ。
 目の前にいるアーベル家の長女マリアンネが、良人であることは、セラの身支度でのきめ細かい配慮と、お嬢様の好みで統一されたこの部屋でわかる。
 だが、なにか不測の事態となった時、ニコライ様ではなくセラ様を一番に守る。
 ヤンと決めた、たった一つの約束だ。
 ニコライ様は病気治療のため屋敷を売り払い、今まで務た家人に退職金と次の職場の斡旋までし、最後まで手厚い対応をされた。
 そのご配慮に感激し成長を喜んだ。お給金などもう必要ない。今後、市井で過ごすご兄妹のお世話を続ける。ご主人様に拾って頂いた命、お子様たちに捧げようと決意した瞬間でもある。
 そして、ニコライ様が大事にされているセラ様を一番に考えることにしたのだ。


 ***


「──ニコライ様にお伺いいたします」

 ハンナの言葉にマリアンネは、そっと息を吐く。
 ハンナの疑心を払拭させるには、ハンナが信頼する人からの納得いく説明が必要なんだと、先ほどからのやり取りでマリアンネは感じていた。
 セラを迎えに行った際も、ハンナの説得に苦労した。
 ハンナは、元バーデン家の侍女長だった人物だ。主の危険を感じたのだろう。
 セラの部屋の前で、ハンナは立ちはだかり「セラ様は臥せっておいでです。今日のところはお引き取りくださいませ」との一方通行で、ニコライさえ、セラに会わせようとはしなかった。
 ニコライの説得で、どうにかセラとは対面できたが、部屋の中に入ることを許されたのはマリアンネのみだった。
 身支度のため、侍女たちを伴ったがそれは許されなかった。

「身支度であれば私一人でもできます」

 ハンナが頑なに拒否したからである。
 マリアンネは表情に出さないが、使用人が主の意向に背く姿はとても新鮮であり衝撃だった。
 アンナやハンスは、ギルベルトを叱ったり、お小言や注意することもあるけれど、主の意向に背くことはない。どのような理不尽な命令であっても否とは言わない。
 ギルベルトの命令は絶対だ。
 これはあきらかに主の重きがニコライではなくセラにあるようだ。
 その後もニコライが「セラの治療のためだ」と伝えたが、セラがアーベル家に伺うことに難色を示したのもハンナだ。

「治療のためになぜアーベル家にセラお嬢様が伺う必要があるのですか」と詰め寄り、ヴィリバルトが「では、ハンナさんもご一緒にどうぞ」と提案しなければ、ここでまたひと悶着あったに違いない。
 当の本人のセラは、兄の説明に納得して素直に受け入れていた。
 このかたくななまでの対応になにか理由があるのかともマリアンネは思ったが、今は深く考える必要はないと切り離した。
 だがハンナにもアーベル家の『教育』を受けてもらう。
 ヴィリバルトが、すでにアーベル家の屋敷に住む許可を出している人物である。きっとアーベル家の『教育』をクリアできる者なのであろう。
 その結果、主君が、アーベル家とバーデン家のふたりの主人になることもヴィリバルトの中では、想定内なのだろう。もちろん最優先はアーベル家であることに疑いはない。
 扉のノックの音がしたため、マリアンネはセラに目配せし、フードをかぶったことを確認してから返事をする。アンナが部屋に入ってきた。

「ギルベルト様よりご伝言です。女性の部屋へ大勢の男性が伺うのは失礼だろうとの配慮で、隣のニコライ様の部屋で待機するとのことです」
「お父様らしいわね。わかりました。セラさん、申し訳ないけど隣の部屋へ移動してくれないかしら」
「わかりました。ハンナお願い」
「はい。お嬢様」

 セラがハンナに補助されながら、内扉へ近づくそのうしろ姿を確認し、マリアンネはアンナに合図する。
 アンナは一度うなずき、その場を後にした。