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(1時間も残業したら、きっと2人とも帰っちゃうよね……)
澄恵は1人で書類と格闘しながら、先に帰った2人のことを考える。
今頃美味しい料理が運ばれている頃かな……。
そう思った瞬間腹の虫がグーッと音を立てた。
「お腹減ったなぁ……」
右手でお腹を押さえて呟く。
今日はフレンチだと思っていたから、お昼御飯はおにぎり一個にとどめておいたのだ。
こんなことになるなら、ちゃんと食べておけばよかった。
今さら後悔していた時だった。
「これ、食べる?」
不意に後ろから声を掛けられて澄恵は驚いて振り向いた。
会社内にはもう自分1人しかいないと思っていたのだ。
「安田君!」
そこにいたのは同僚の安田だった。
安田はスラリと手足が長く、顔のパーツも整っている。
仕事もできて出世間違いなしと噂されているため、女子社員の中じゃ狙っている人が多い。
紺色のスーツに薄い灰色のネクタイを閉めた安田が、澄恵へ向けてサンドイッチを差し出してくれている。
澄恵はおずおずとそれを受け取る。
「あ、ありがとう……」
普段安田と会話することがない澄恵は、ドキドキしてしまう。
「福森さんも残業なんだね?」
「う、うん……」
本当は押し付けられてだけだけど、それは言えなかった。
「俺も。今度の企画通るかもしれないんだ」
「そ、そうなんだ! さすがだね!」
新企画の話をしているときの安田は目を輝かせている。
本当にこの仕事が好きなんだなぁと、わかる瞬間だった。
「それにしても仕事多くない? っていうかこれ、本当に福森さんの仕事?」
ハムとレタスのサンドイッチを口に入れたところで安田にそう質問された。
「えっと、これは……」
どう返事をしようか悩んでいると、安田が澄恵の書類を確認しはじめた。
「これ、京野さんの仕事じゃないか」
京野とは、久美の名字だ。
澄恵は仕方なく頷く。
安田にバラしたと思われたら後々面倒だから、黙っていようと思ったのに……。
「まったく。困った人だな」
安田はそう言うと書類の半分を自分の席へと移動させた。
「2人でやれば速く帰れるよ」
「そんな……!」
「遠慮しないで。俺はどうせ毎日残業してるんだからさ」
【美穂:フレンチ超美味しいよ! 早くおいで!】
【文音:今美穂と2人で久美についての悪口で盛り上がってるよぉ!】
ようやく仕事が終わったのは30分後のこと。
それでも、安田が手伝ってくれたおかげで随分早く終えることができた。
これなら、今からフレンチへ行っても間に合いそうだ。
ちょうど2人からメッセージも来ていたことだし……。
「福森さん、これから真っすぐ帰るの?」
安田の言葉に振り向くと、安田も帰り仕度を進めているところだった。
「え、いえ……。安田さん、仕事は?」
「俺ももう終り」
「え……?」
(まさか、自分の仕事はとっくに終わってたんじゃ……?)
そんな期待が膨らんでいく。
「よかったら、一緒に御飯でもどう?」
安田の言葉に澄恵は咄嗟にスマホをカバンに入れて隠した。
2人からメッセージを見られたくないと思ったからだ。
(今日くらいいいよね? 2人とも、仕事を手伝ってくれなかったんだし……)
「ぜ、ぜひ!」
澄恵は大きく頷き、安田と共に会社を出たのだった。
☆☆☆
安田の行きつけだという居酒屋はとても繁盛していた。
仕事帰りの男性客が多いが、出される料理はどれも絶品だ。
「このボンジリが絶品なんだよ、食べてみて」
「はい」
串を一本口に入れ、肉を噛むとジュワッと脂分が広がる。
「うわっ! おいしいですね!」
「だろ? ボンジリは脂分が多いから、口の中でとろけるんだ」
普段居酒屋で食事をしない澄恵向けに、安田は色々な部位を注文してくれる。
鳥の心臓部分のハツ。
レバーに砂肝に白子。
どれも絶品だ。
「フレンチなんかよりずっと美味しい……」
「ん? フレンチ?」
思わず呟いた言葉に、ビールを飲む手を止めて安田が問いかけてくる。
「な、なんでもないです」
澄恵はすぐに左右に首を振った。
今頃2人は料理を食べ終えた頃だろう。
メッセージを確認したほうがいいかもしれないと思いつつ、澄恵はこの時間を大切にしたかった。
「それにしても、今井さんと京野さんはどうにかならないかな」
ある程度お酒がすすんだところで、安田さんがポツリと呟く。
「あの……あの2人って……」
そこまで言って口を濁す。
すると安田は大きく頷いた。
「付き合ってるらしいね」
(やっぱりそうなんだ)
みんなその事実を知っていて、なにも言えずにいるみたいだ。
上司の不倫に首を突っ込んで、会社での立場が悪くなるようなこと誰だって避けたい。
「別に、付き合うなって言うつもりはないんだけど、そのせいで今日みたいに京野さんが誰かに仕事を押し付けるだろ? それがダメなんだよなぁ」
安田はそう言いながらレバーを口に運ぶ。
ねっとりとした食感が舌に絡みつき、たまらない。
「とにかく、今度同じようなことがあったら俺に言って?」
「安田さんにですか?」
「うん。今日みたいに手伝うことはできるからね。1人で抱え込まないで。それに、俺たち同僚なんだから敬語はやめようよ」
安田の言葉に、今まで胸につっかえていた気持ちがフッと楽になるような気がした。
「あ、ありがとう!」
澄恵はそう言い、赤くなった頬を両手で隠したのだった。
「これ、昨日の分です」
翌日、澄恵は入力し終えた書類を久美へ返した。
データ化されたものはすでにメールで提出している。
「あぁ、ありがとぉ」
久美は澄恵の方を見もせず、手鏡を取り出してリップを塗り直している。
「おばあさんの様子はどうなんですか?」
「え? おばあさん?」
久美が鏡から顔を上げて怪訝そうな表情を澄恵へ向ける。
「昨日早く帰ったのは、おばあさんが骨折したからじゃないんですか?」
その問いかけに久美はようやく思い出したように目を見開く。
「あ、あぁ。そうねぇ。たぶん大丈夫かなぁ?」
首をかしげて曖昧に返事をする。
きっと、これからも同じような手で仕事を押し付けるためだろう。
それがわかっていても、澄恵にはなにも言えない。
ただ「そうですか」と、冷たい返事をするのが精いっぱいだ。