カチッカチッと社内の時計の秒針が動くたびに、澄恵の気持ちは美味しいご飯へと向かっていく。
定時になるまであと3分ほど。
今日は同僚の美穂と文音の2人とご飯に行く約束をしていた。
先月オープンしてからあっという間に人気が出て、ようやく予約が取れた人気フレンチだ。
美穂と文音が「どうしても行きたい!」と言うので、澄恵は毎日スマホとにらめっこをして、ちょうど空きが出たタイミングで予約を取ることに成功した。
話題のフレンチレストランには澄恵も前前から行きたいと思っていたため、今日の定時を心待ちにしていたのだ。
(あと少しで終わる……)
すべての仕事を片付けて、机の上を整頓しはじめたとき、どこからかスマホのバイブ音が聞こえてきた。
ふと顔を上げて確認してみると、澄恵の前の席の久美がピンク色のスマホをいじっているところだった。
久美は少しふっくらしていて、体のサイズは2人分。
少し歩くだけで息切れをしてしまうため、会社の階段を使っているところは見たことがなかった。
澄恵たちよりも3つほど年上で、この会社に入って5年目だと聞いたことがある。
そんな久美が「よいしょ」と声を出して立ちあがる。
澄恵は久美から視線を反らして時計へ視線を向けた。
あと数秒で5時だ。
わくわくする気持ちを抑えて足元に置いてあった鞄を手にする。
その時だった。
「ごめぇん福森さぁん」
と、甘ったるい声が聞こえてきてギクリとした。
思わず鞄を取ろうと身をかがめたままの姿で停止した。
顔だけ動かし、甘ったるい声の相手を確認する。
思ったとおり、相手は久美だ。
久美は分厚い唇を突き出し、ついでに大量の書類を澄恵へ向けて突き出していた。
「え……」
思わず変な声が出た。
嫌な予感がする。
今すぐ鞄を持って席を立たなければ。
そう思って行動するより早く、久美は書類の束を澄恵の机に置いていた。
「今、田舎の祖母が骨折しちゃったって連絡が来てぇ。今日今から行かないといけないのぉ。残ってる仕事はこの書類だけだからぁ、お願できるぅ?」
クネクネと体をくねらせて言う久美に澄恵は唖然とする。
久美が持ってきた仕事はどう見ても『これだけ』で終わるようなものではない。
これ1人でやろうとしたら1時間は残業だ。
そうなれば、フレンチは……。
顔面蒼白になったとき、久美はすでにその場にはいなかった。
逃げ脚だけは早いようだ。
澄恵は大きく息を吐き出して机の上の書類を見つめた。
いまからこれを全部データ化していかないといけないなんて……。
上司の今井に助けを求めて視線を送る。
すると今井は鞄を持ち、逃げるように出て行ってしまった。
澄恵は唖然として後ろ姿を見送る。
「あ~あ、あれは絶対約束してたね」
そう声をかけてきたのは美穂だ。
美穂は長い髪の毛を後ろでポニーテールにしていて、ボーイッシュな感じ。
後ろに立っているのは文音で、こちらは背が小さく、小動物みたいな可愛さを持っていた。
「約束?」
澄恵は美穂へ聞き返す。
「知らない? 今井さんと久美って付き合ってるらしいよ?」
しれっと言う美穂に澄恵は目を見開いた。
上司の今井は去年結婚したばかりだ。
「そういう関係だから、仕事もほとんどしなくていいってわけぇ。おばあちゃんの骨折だって、何度目よ」
文音が書類の束を指さして言った。
なるほど、そういうことかとため息をつく。
(2人に仕事を手伝ってほしいけど……)
澄恵は心の中で思い、チラチラと2人へ視線を向ける。
2人の話題はすでに京のフレンチへと移っている。
よほど楽しみにしていたのか、お店のメニューをスマホで確認しているようだ。
(……頼めないよね)
澄恵はまたため息を吐き出す。
こんなに楽しそうにしている2人に仕事を頼むなんてできない。
「2人は、先にレストランに行ってて?」
澄恵の言葉に美穂は驚いたように目を丸くした。
「え、いいの?」
その声には澄恵の言葉を待っていたような雰囲気が混ざっている。
「うん。私も早く終わらせて、すぐに行くから」
「ごめんねぇ澄恵。予約まで取ってもらっちゃったのにぃ」
文音は申し訳なさそうに言うが、その実早くここから立ち去りたそうにしている。
「ううん、大丈夫だよ」
澄恵は手を振り、大量の書類へと向き直ったのだった。