夜の空に向かって、今宵も僕は白い息をまるく吐き出す。
今夜はさらに冷え込むでしょうと気象予報士がテレビで言っていたけれど、今の僕に限っては厳しい寒さだって通用しないみたいだ。さっきから心臓がうるさくて、そのせいなのか暑く感じる。ダウンコートでしっかりと覆われている首元はなんならうっすら汗をかいているくらいで、僕は顎まで引き上げていたファスナーを少しだけ開け、ふぅーと大きく息を吐き出した。
──ついに、曲が完成した。
三日三晩、ほぼ眠らずに作業に集中した。僕の中にこれほどの集中力があったなんて、自分でも驚くくらい盲目的にそれに取り組んできたのだ。
咲果に早く謝りたい、早く今までのように話したい。その思いにはいつしか、早く咲果にこの曲を聞かせたい、早く彼女にこの歌を歌ってほしい、という願いが含まれるようになっていた。
だから今朝僕は、学校で咲果に言ったのだ。「今夜、いつもの場所に来てほしい」──と。
「こんばんは、いっくん」
じゃりっと靴と小石が擦れる音に、待ち人の声が転がる。いつも通りの明るく透き通った声。だけど心なしか、緊張しているようにも感じられるのは僕が緊張しているからなのだろうか。
「あ、うん……」
我ながらその返しはどうかと思う。来てほしいと言ったのは他でもないこの僕なんだから「来てくれてありがとう」とか「寒いのにごめん」とか「そのマフラー似合うよな」とか、そのくらい言えてもいいと思う。だけど僕は自分で自覚している以上に、この状況にとても緊張してしまっていたのだ。
「……隣、いい?」
いつもは何も言わずに隣に座るのに、遠慮がちにそう尋ねる咲果に僕の胸はツキンと痛む。
きっと彼女は今日も、僕の気持ちを優先させようとしているのだろう。いつだってそうだ。何も考えていないようで、自分が思うがままに行動しているように見えて、彼女の言動の全てには相手への思いやりが隠されている。僕は咲果のそんな部分に、今まで何度も知らずのうちに救われてきたのだ。
こくんと顎を引くと、咲果はほっとしたように眉を下げて笑う。ふわりと隣に落ちてくる、懐かしい柔らかな香り。
たったの三日だ。それなのに僕にとってこの瞬間は、ひどく懐かしいもののように感じられた。
「……あの、さ」
すうと息を吸い込んでから口火を切ったものの、若干声が震えてしまう。
ああ、かっこ悪いな。
僕はごまかすように咳払いを挟むと、「これ」と咲果に一枚のルーズリーフを差し出した。
首を傾げつつもそれを受け取ろうと伸ばした彼女の指先は、寒さで赤くなっている。真冬でも関係なく外で運動をして過ごしてきた僕と女の子である咲果では、どれほどしっかり着込んでも気温の感じ方は違うはずだ。きっとこれまで彼女は寒さに耐えながらも僕と一緒に過ごしていたのだろう。それなのに僕は今の今まで、そんな風に考えたことが、一度もなかったのだ。
己の不甲斐なさをまたひとつ思い知る。だけどそれでやさぐれるのは、もう終わりにしたい。
僕は差し出していたルーズリーフを一度自分の膝の上に置くと、羽織っていたダウンを脱いで彼女の膝下へと広げた。ふわりと優しく、なんてスマートにはできなくて、そっけなくパサリと掛けるような形になってしまう。
「え?」
「寒そうだし」
「わたしなら大丈夫だよ、いっくんが風邪ひいちゃう」
「暑いから」
「……え?」
「僕、今暑いから平気」
言葉までもが多少無愛想になったのは許してほしい。僕だって、こういうことをするのは初めてで、なんだか照れ臭いんだ。
かっこつけているなんて思われただろうかと、不安が頭をもたげたけれど、隣の咲果は柔らかな表情で「そっか」と言ってから僕のダウンで足元をすっぽりと覆い、小さな両手でそれをきゅっと握りしめた。
ダウンと一緒に心まで彼女に掴まれたような感覚に包まれる。視覚というものは、ダイレクトに心へと影響を与えるものなのかもしれない。
僕はもう一度咳払いをひとつすると、改めてルーズリーフを彼女へと手渡した。
「咲果に伝えたいことを、歌にしたんだけど」
「…………」
「最終的には、咲果に歌ってほしい曲になったっていうか……」
「…………」
「僕がギターを弾くから、咲果はこれを歌ってくれないかなって……」
「…………」
いつまで経っても返事はない。
もしかしたら歌を作ったなんて言われて、引いているとか? これって、俗に言う〝想いが重い〟というやつだったのだろうか。付き合っているわけでもないのに、一方的にこんなことをしても怖がらせるだけだったりして。
僕はまた、自己満足な行動をしただけだったのか。
「……だめ」
ぐるぐると冷や汗と共にネガティブな思いが回る頭の中に、静かな、だけどしっかりとした彼女の声が響いた。
『だめ』、すなわち『ノー』。つまりそれは、明らかな否定の言葉だ。
どこかで咲果は喜んでくれるんじゃないかとまで淡い期待をしていた僕は、その言葉に大きくダメージを受けてしまう。ぐわぁん、と金ダライで殴られたような衝撃だ。
しかし咲果は泣き出しそうな顔のまま、優しく笑ったのだ。
「わたしのために作ってくれたなら」
ひゅうと、冷たいけれど透明で滑るような風が彼女のおくれ毛をさらう。
「──いっくんが、歌ってよ」
今思えば、咲果が僕に歌ってと言ったのはあれが初めてのことだった。僕が音痴であることは誰よりも彼女が知っていたはずなのに、それでも歌うことが〝嫌いではない〟ことも、きっとお見通しだったのだろう。
もちろん僕が披露した歌は、それはそれはひどいもので、せっかく作った曲がどんなにうまくできていようと全てを台無しにしてしまうほどのものだったけど、それでも彼女は笑い飛ばしたりはしなかった。目を閉じて、耳だけじゃなく五感全てを研ぎ澄ませて、僕の歌を聞いてくれた。
まさか自分で歌うことになるだなんて、僕は想像もしていなかったから。ほとんどぶっつけ本番みたいな感じで、何度も躓いたり止まってしまったりもしたけれど、あれが僕にとっては人生で初めての〝誰かのために作った曲〟を自分で歌うという経験。
──きみが教えてくれたんだ。
空っぽになってしまった僕の頭上にも、星はたくさん輝いているんだってことを。
「今の段階でのイメージでいいから、ちゃんと書いてくること。来週の月曜に提出だから忘れてくるなよ」
担任のふじやんはそう言うと、がしがしと後頭部を掻きながら教室の扉から出ていった。それを追うように、ホームルーム終了のチャイムが鳴り響く。普通はチャイムを合図に帰りのホームルームが終わりそうなものだが、ふじやんは必ずチャイムよりも早くに教室を出ていくのだ。
手元に残されたのは、一枚の簡素なプリント用紙。上下にやたらと大きな余白があるA4サイズの中央に、三段の枠組みが印刷してある。枠の左には、〝第一志望、第二志望、第三志望〟の文字。
──進路希望調査だ。
「樹、大学もう決めてんの?」
いつの間にか荷物をまとめたボウが僕の前に立っていた。未だに制服姿ということは、今日は部活がオフなのだろう。普段ならば掃除の時間に着替えたジャージ姿のまま、ボウは部室へと向かうのだから。
「……いや、何も決めてない」
だけど僕はボウの放課後について、何も言わない。そしてボウもまた、それについて説明をすることはない。それが僕にとってはありがたくて、だけどここ最近では少しだけヒリヒリとした痛みを生じさせるのも事実だった。
僕たちは割といろいろなことを話すようにはなったと思う。ボウは倉田が好きだと真っ赤になりながらも打ち明けてくれたし──ちなみに言われる前から知っていた。あいつは本当にわかりやすいから──、妹の反抗期がひどい話も聞いたし、ハマっている漫画を全巻貸してくれたりもした。お気に入りのアイドルがいることも楽しそうに教えてくれたし、僕もまた、少しずつながら自分自身のことを話すようになった。
しかし、未だに〝サッカー〟という単語はお互いに一度も出したことはない。僕にとってサッカーはこれまでの人生の一部だったし、ボウにとってのそれは現在進行形で生活の大事なパーツに違いない。そんなものが会話に出てこないというのは、友人同士の会話として不自然でしかなかった。
ボウは卒業後をどう考えているのだろうか。やはりサッカーを続ける前提で大学を選ぶのだろうか。
──僕にはできない選択を、彼はするのだろうか。
グンッと一気に暗闇にいたもうひとりの僕が、僕自身の腕を強く引く。そこにいるのは、怪我をしてサッカーを失ったばかりの頃の僕だ。この世の中に絶望して、信じてもいなかった神様を憎み、空っぽとなった自分を呪った。死にたい、などと思ったわけではない。それでも『もうサッカーはできないでしょう』と医者から宣告されたあのときから、僕が〝生きている〟と実感することはなかったのだ。
なんでもいい。
どうでもいい。
何もかも、関係ない。
そんながらんどうな日々を東京で一年ほど過ごした。そして引っ越してきてからも、それは変わらなかったはずだ。──咲果と出会うまでは。
心の闇の中にいる僕は、光を持たない、黒い絵の具で塗りつぶしたような瞳で僕を見上げる。
『ひどいじゃないか。人生をかけていたサッカーを失ったのに、どうして笑えるんだ? サッカーのない生活に、なぜ慣れることができる? 僕が必死に費やしてきた時間や努力を、なかったことにするのか? 新しい生活なんて、必要ないだろう?』
恨めしげな顔で、僕は僕にそう訴えるんだ。忘れそうになった頃に、何度も何度も。
「ふたりで何話してたのー?」
鈴の転がるような声が、暗闇に光を照らす。その瞬間、奥深くへと引き込まれそうになっていた僕の視界はパッと明るくなった。
「あー、進路の話だよ。お前らは決めてんの?」
小さく安堵の息を吐き出した僕は、そっと顔をあげる。そこにはボウと咲果がふたりで話す姿があった。ほっとする自分に、思わず苦笑いしてしまいそうになる。気付かないうちに、ずいぶんと彼女に救われているのかもしれない。
僕が彼女に歌を通して謝ってから、僕らはほぼ毎日のように夜の川沿いの公園で時間を過ごすようになった。不思議なことに雨の夜は一度もない。咲果が僕に歌ってと言ったのはあの一度だけで、それ以降は僕がギターを弾いて咲果が歌うということが続いている。
観客は咲果が〝マル〟と名付けたまんまるの猫だけ。それでも以前と異なるのは、ただ演奏するだけでなく、ふたりで曲を作り始めたということだ。僕がメロディを考えて、ふたりで歌詞を綴る。それはまるで、自分で小説や漫画を書いたことはないけれど、ひとつの物語を作ることと似ているんじゃないかと僕は思った。
「主人公はどんな子にする?」
「心に傷を負っているかもしれないよね。自分の過去に後悔しているとか」
「それでね、一度は落ちるとこまで落ちちゃうんだけど、ある出来事で光を見つけるの」
「ねえ、季節は夏がいいなぁ。夏ってすごく、前向きになれるパワーがあったりするじゃない?」
「ねえねえ、お祭りのシーンもいいんじゃないかな? あの雰囲気、わたし大好きなんだよね。たこ焼き、わたあめ、金魚すくい! そういう言葉全部入れて!」
「初恋の歌、作ってほしいなぁ! 流れ星と初恋っていうタイトルとかどう?」
咲果はこんな感じでいろんな場面やアイデアを出してくれて、僕がそれを歌詞に落とし込む。メロディに綺麗に乗る言葉がどれか、同じ意味でもどちらの響きが雰囲気にぴったりくるか、僕たちはふたりで話しながら曲を作る。
お互いに翌晩までに新たなアイデアや歌詞のサンプルみたいなものを書いてきたりしているからか着々と作業は進み、一週間ちょっとで僕たちはすでに二曲も完成させていた。
曲を作る人たちが、どんな方法でそれを生み出しているかを僕は知らない。それでも僕たちは僕たちなりの方法で、ただひたすらに楽しいことを追求するかのように音楽で遊んでいたのだ。少なくともその間、過去の自分が出てくるようなことはなかった。
そんな僕と咲果だけど、お互いに進路の話題を出したことは一度もない。黒板を背にしてボウとやりとりをしている咲果にちらりと目をやるも、そこから彼女の心境を読み取ることはエスパーでもない僕には不可能だった。
「ちなみにさぁ……倉田はどこ狙ってんの?」
「都内私立」
いつの間にか現れていた倉田にさりげなく探りを入れるボウ。咲果はそんなふたりを微笑ましく見守っている。そこで、彼女が僕の視線に気付いた。
「いっくんも、やっぱり東京?」
彼女は、僕がまだ東京に未練があると思っているのかもしれない。
こちらへ来た当初は、何もないこの場所が好きになれなかった。退屈で空っぽな場所だとそう思っていた。だけど本当は、自分自身が空っぽだったからそう感じていただけだったのだと、今ならばわかる。
「いや、特に場所がどうっていうのはないかな。咲果はどうすんの?」
その証拠に、投げやりな気持ちは以前と比べるとだいぶ薄くなってきている。どうでもいい、なんでもいい、というのは今の僕には当てはまらないと客観的に見ても思う。だからといって、何かやりたいことがあるとか、将来どうなりたいという情熱のようなものはない。きっとこのまま適当な大学に進んで、適当に受かった企業で働くサラリーマンにでもなるのだろう。
ずっとこれまで、サッカー選手になることだけを夢見てきた。万が一選手になれなくても、サッカーのコーチだとかトレーナーだとかクラブチームのスタッフだとか、サッカーに関わる仕事に必ず就くのだとそう思い込んできた。ところがいざ怪我をしてみれば、選手以外でサッカーに関わる意思など自分にはなかったと気付いてしまったのだ。
流れるように、流れていく。そこに身を任せるくらいしか、夢を失った僕にできることはない。
「わたしは……」
普段、咲果は物事をすぱっと言う方だ。思ったことが口から飛び出るタイプ、と言ってもいいかもしれない。だけどたまに、こんな風にずいぶんと長い不思議な沈黙を作るときがある。そしてその後は、だいたいへらっと誤魔化すように笑う。
「先のことなんて、考えられないや」
やっぱり咲果は今日も笑った。だけどその笑顔は、いつものそれとは少し違う。きっと彼女の本心から発された言葉なのだろうと僕は思った。それと同時に小さく胸を撫で下ろす。自分だけじゃない、彼女だってまだ先のことはわからないのだ。
高校二年生。クラスメイトのほとんどが、明確な進路が決まってはいないものの進学を希望している。春が来れば受験生と呼ばれる立場になるのは避けようのない事実だ。だけど実際の受験は、まだ一年も先。今から将来のことを焦って考える必要はない。
「だよな、まだまだ時間はあるし」
カタチだけの志望校のアンケート。僕はそれを乱雑に鞄に押し込んだ。その行動を後悔することになるとは、思いもしなかったけれど。
「大学について、どう考えているんだ?」
その日僕は、珍しく早い時間に帰宅していた両親と久しぶりに食卓を囲んでいた。味噌汁に口をつけたところでその話題を出され、思わず咳き込んでしまう。
どうしてその話が出たのか。母とだって大学の話などしていない。ところが父はペラリと今日学校で配られた進路希望のアンケート用紙を顔の前に出したのである。
父曰く、廊下に落ちていたとのこと。帰宅して鞄を開けた際にでも滑り落ちたのだろう。ちゃんとノートに挟むなりすればよかったと後悔しても、もう遅い。
「都内でもここから通える大学もあるし、一人暮らしがいいというならそれでもいい。興味のある大学はあるのか?」
「まだ特には決めてない」
たしかに僕は、なんとなくただぼんやりと、高校を卒業したら大学に行くのだろうとは思っていた。それでも僕の人生なのに、何も聞かずに大学進学という道のみに決めつけてくる父に対し、小さな苛立ちが芽生える。
「この間、赤点だったらしいじゃないか。一流大学に入れとは言わないけど、ある程度はやっておいたほうがいいんじゃないか」
「今、興味があることはないのか? 学びたいこととか、ジャンルとか。大まかでもいいから」
「必死に追いかけなければ叶わないような夢ではなく、もっと現実的な将来を考える時期が来ていると思うぞ」
ひたすらにおかずの餃子に箸を伸ばし、無言でそれを口に運ぶ。僕にとって、餃子は一番の好物だ。それなのに、どれほど咀嚼しようとも、どれほどに味わおうとも、全く味を感じられない。その原因は間違いなく、父の放つ言葉が僕の神経をビリビリと刺激し続けているからだ。
母は黙ってもぐもぐと口を動かしているばかり。父の小言が多いのは、今に始まったことではないのだ。
「そう思うとな、これはいい機会だったんじゃないかと父さんは思うんだ」
「──は?」
しかし、したり顔で頷く父の言葉に、僕の手は動くことをやめた。代わりに尖った声が腹の底から漏れ出てしまう。
〝これ〟というのは僕が怪我をしたことで、〝いい機会〟というのは僕がサッカーから離れざるを得なくなったこの現実を指しているということは、父の声や表情が表していた。
「樹、現実はお前が思うよりもずっと厳しい。お前はずっとサッカーしかしてこなかっただろ? やらなきゃいけない勉強もしてこなかった。これからは、もう少し地に足をつけてだな──」
「なんだよそれ……」
ギリッと奥歯が鈍く擦れる。箸を持つ手が小刻みに震え、僕は箸を静かに下ろした。そうでもしないと、細い二本の棒を思い切りへし折ってしまいそうだったからだ。
母が目の色を変え、たしなめるような視線を寄越したがどうでもいい。僕は目の前に座る父を思い切り睨みつけた。眼球が痛くなるほどに強く、全ての憎しみを込めて。視線で人を刺すことができればいいのに。
「地に足をつけてって、こんな状況になった僕によく言えるな……」
僕の全てはサッカーだった。ただただ漠然と夢を見てきたわけじゃない。簡単にレギュラーを取ったわけでもないし、サッカー推薦だって容易に手に入れたわけでもない。必死に努力をして、ひたすらに練習を重ね、色々なものを我慢して積み上げてきたものだ。
それを自分の意志ではどうにもできないことで手放すことになったのだ。絶望感、自分への失望感、周りに対しての劣等感と羞恥心。同情されるのが嫌で拒んだ、チームメイトや友人からの連絡。
毎日を生きているのか死んでいるのかよくわからず、笑い方も忘れて、空っぽになった僕を、家族は一番そばで見てきていたはずなのに。何が〝地に足をつけて〟だ。なにが〝いい機会〟だ。──ふざけるな。
それでもさらに腹が立つのは、これほど感情的になっている僕に対し、父は表情ひとつ変えないこと。どれほどに苛立たせようと僕が汚い言葉を吐いても、どれほどに嫌な気分にさせようと僕が睨みをきかせても、父は冷静なままなのだろう。それが悔しくて、腹立たしくてどうしようもない。
「足なんて最初から地についてんだよ! サッカーをやることは僕にとっては夢なんかじゃなくて、現実だった。それくらい、見ていたらわかるだろ!? 親のくせにそんなこともわかんないのかよ! 父親失格だな!」
今抱いている嫌悪感を、余すことなく全てぶつける。感情に任せた口調と声。それでも怒りは収まらない。もう一言何かを言ってやろうかと口を開きかけたとき、目の前の父が静かに、だけどきっぱりとした口調で僕にこう言った。
「樹、甘えるな」
だから僕は、家を飛び出したんだ。いつもならば必ず連れていくギターですら部屋に置いてきぼりのまま。コートも羽織らず、スマホも財布も持たない僕は、冬の夜へと逃げ込んだのだった。
気付けばいつもの公園に来ていた。ぶるりと寒さが身体中を駆け上る。やっぱり上着は着てくるべきだった。だけど今更戻れない。僕は「さみぃ」と独りごちると、両手で自らの腕をさすった。
家を飛び出したとき、年甲斐もなく涙がこみ上げてきていたのに、冬の寒さというのはすごい。あっという間に目の奥の熱を冷やし、それと同時に体中を支配していた怒りからも熱を奪ってしまった。──だからこそこんなにも今、寒さに震えているわけなのだが。
「甘え、なんかじゃない……」
いつもの場所にしゃがみこんだ僕は、その場に落ちていた石を川へと投げ入れる。ちゃぽん、と頼りない音が星空へと吸い込まれていく。
──本当は、図星だった。
怪我をしてからの僕は、ずっと周りに甘え続けてきていたのだ。気遣ってくれる仲間たちの優しさに甘えて彼らを遠ざけ、怪我をして投げやりになっていた僕にどう声をかけたらいいか悩む両親に対してその苛立ちを遠慮なくぶつけてきた。
悲劇の主人公になったつもりで悲運を嘆き、嘆いても仕方ないとわかると匙を投げる。死ぬ勇気もないくせに、生きていても仕方がないなんて嘯いたりもした。多分僕はそうやって周りに心配をかけることで、気にかけてもらうことで、「サッカーができない僕でも、無意味じゃない」と安心したかったんだと思う。とんだ〝かまってちゃん〟だ。
ボウに対しても同じだろう。最初にぶつけたナイフのように尖った言葉。律儀にあの言葉を守っている彼の優しさに甘え、そのくせ同情されているのではと卑屈になる。だけどボウがいつまでもサッカーの話題を僕に振れないのは、僕自身が未だにその呪いから解き放たれていないからだ。
「なんだよ……」
膝を立てて目頭をそこに押し付ける。一度引いた涙の波が、じわりと上ってくるのを感じたからだ。
保育士をしている従姉妹のねーちゃんが言っていたっけ。子供が本気で泣き出すときは、自分のしてしまったことの罪の重さに気付いたときだ、と。
「ガキと一緒かよ……」
地面に向かってそう呟いたとき、暗闇の中で柔らかな香りが舞った。足音もなくやって来たというのだろうか。だけど不思議と、嫌な気持ちはしなかった。こんなかっこ悪いところは、正直に言えば見られたくはない。だけどそれ以上に、彼女に隣にいてほしかった。
首元にふわりと温もりが降りてくる。強く香る、彼女の香り。目を開けなくとも、いつものオレンジ色のマフラーが僕の首元に巻かれたのだとわかる。僕がダウンも着ていないことに気付いたからかもしれない。
咲果が何も言わないのをいいことに、僕はポツリと言葉を口先に乗せていく。
「……ほんと、情けないよな。十六にもなって、こんなのさ」
「まだ十六だもん。いいじゃないそれくらい」
咲果の声はいつもと同じ響きのままで、だけど普段よりもずっと柔らかな色を持って、ピンと張り詰めた冬の空気を解いていく。
「自分勝手でひとりよがりで、どうしようもないだろ……?」
「まだまだたくさん、伸びしろがあるってことだ」
僕の吐き出すマイナスを、彼女はひとつずつ掬い上げる。そしてそれを否定するわけではなく、プラスの言葉へと変換させる。
「僕が女子だったら、こんなかっこ悪い男、ダサいって思う」
「人間誰にだってダサいところくらいあるでしょ。っていうか女子ってひとくくりにしないでよね」
どれほどにネガティブな言葉を投げても、彼女が返してくるボールは全てポジティブなものだ。そこには何の迷いも、躊躇もない。きっとどれほど僕が自分の不甲斐なさを嘆こうと、彼女はそれを受け止めてきちんと光に変えてくれるのだろう。少しだけ唇を尖らせている彼女の横顔が脳裏に浮かび、僕は小さく笑うことができた。
「はやく大人になりたい……?」
そんな咲果の声に、ようやく僕はゆっくりと顔を上げた。
ジンジンと目の奥が痛むのは、ずっと膝に押し付け圧迫されていたせいかもしれない。チカ、チカ、と数回光が散ったあと、やっと僕の視界にはいつもの見慣れた川沿いの公園の景色が映り込む。その視界の端では、咲果が遠くを見つめるようにしていた。
「大人になりたいっていうよりは──」と僕は前置きをしてから静かに答える。
「……今の僕たちって、どこにいるんだろうって思うんだ。子供というほど子供じゃなくて、大人かと言えばそういうわけでもない。気持ちとしては自立しているはずなのに、実際は親の言いなりにならざるをえなかったりもする」
なんでもかんでもやってもらう時期はもうずいぶん昔に過ぎた。大人たちだって「もう子供じゃないんだから」と口々に言う。それなのに大事なことは、全部大人が決めるんだ。引っ越しだって、進路だって、大事なことなのに僕の意見は受け入れられない。
この中途半端な位置から、はやく抜け出したい。子供でも大人でもないこの自分が、ひどくもどかしく感じることがある。
「──いっくんは、どんな大人になるんだろう」
咲果の言葉は、僕に向けて放たれたというよりは、ひとりごとにも近いように聞こえた。その証拠に、彼女は僕の方を見ない。瞬く光を繋ぐ星座の合間に、大人になった僕を探すかのようにじっと夜空を見上げている。それがとても綺麗に見えて、僕は思わず呼吸をするのを忘れてしまった。
「きっとかっこいい男の人になるね!」
パッと明るい笑顔が向けられ、僕はそこで我に返る。
何秒息を止めていたのだろう。心臓がばくばくと脈打っている。僕はそっと、そんな彼女の視線から逃げるように顔を背けた。
このときに僕は、気付いてしまったのだと思う。彼女の存在が、僕の中でどうしようもないくらいに大きくなっていたことに。
だって僕はこんな風に思ってしまっていたのだ。
──大人になった僕の隣には、大人になった彼女がいてくれればいい。
なんてさ。
◇
「いっくん、もう帰れる?」
鞄を掴んで今すぐにでも教室を飛び出したい気持ちをぐっと抑え、僕は平静を装いながら「ああ」と余裕があるような相槌を返す。咲果はにっと口を上げたまま、肩にかけた通学鞄の持ち手を握っている。
──彼女も楽しみにしてくれているのだろうか。
そんな小さな期待が持ち上がりそうになり、いやいや冷静になれただの友達だ、と僕は自分に言い聞かせた。
今日は職員会議があるとかで、午前中だけでは学校は終わり。そんな少し早めの〝放課後〟に遊びに行こうと咲果に誘われたのは、昨夜のことだ。
昨日の僕はギターもダウンジャケットも持っておらず文字通りの身一つだったため、一時間もたたずに家に帰ることにした。あれほどに持て余していたイライラはいつの間にか姿を消して、卑屈を含めた自己嫌悪感も、咲果が川へと投げ入れた小石と共に下流へと流されていった。
時間がそこまで遅いわけではなくても、あたりは暗い。僕は咲果のことを家の前まで送って行った。玄関に入る直前、振り向いた彼女は言ったのだ。
「明日学校が終わったら、ちょっと付き合ってよ」──と。
ふたりで過ごすのは、別に初めてなわけではない。肩を並べて歩くのだって、言ってしまえば昨夜も同じようにしたばかり。それでも今日は、今までとは違っていた。
まず最初に、放課後というちょっと特別な時間帯だ。普段僕はそのまま家に帰ることが多いし──寄るような場所もないというのが事実だ──、咲果はいつも倉田とふたりで帰っている。もしかしたら僕とは違ってショッピングモールにアイスを食べに行ったりプリクラを撮りに行ったりしているのかもしれないけれど、どちらにしても今日はそんな友人との楽しい時間を僕のために空けてくれたわけである。
次に、服装。僕らが共に過ごしてきたのはいつも夜の帷が降りてからだ。僕はスウェットやパーカーにダウンジャケット。咲果は大抵風呂上りのようで、もこもことした洋服にスエードブーツと、ちょっと見た感じぬいぐるみのような印象を受ける格好をしていた。しかし今日は、お互いに制服だ。いくら冬とはいえ、制服の下に着膨れするほどのものを着込むのは難しい。さらに女子は、寒かろうが何かろうが、制服のスカートの長さは決して変えることがない。すらりとした脚がスカートから伸びているのをつい見てしまい、僕は慌てて視線を逸らす。
それにしても、オレンジ色のマフラーをしているのはいつも同じだというのに、組み合わせだけでこうも違う印象を受けるのか。明るく笑う咲果によく似合っている。だなんて思っている時点で、もう僕はかなり彼女に惹かれてしまっているみたいだ。
そして最後に、他人の目がある中で僕らが並んで歩くのは、初めてだということ。僕たちがあの川沿いの公園で会うときには、周りに人は誰もいない。真夜中なわけでもないのにどういうことか、本当にいつもひとっこ一人歩いていないのだ。同じ時間帯を切り取っても、僕が生まれ育ったあの街とはずいぶん違う。きっと住んでいる人たちの時間の使い方が異なるんだろう。まだ日が降りきらないうちに学校の外で一緒に過ごすのだって初めてのことなのだ。
ちなみに、僕たちが毎晩のように会っているということは誰も知らない。それは咲果に口止めされていたから。とは言え、そんなことをされなくても誰かに言うつもりなんて最初からなかった。ギターを弾くのが好きだということを仲良くもないクラスメイトに知られるのもなんとなく嫌だったし、付き合っているだのと冷やかされるのも避けたかったし。
だけど多分一番の理由は──僕の小さな独占欲だ。
咲果との時間を、彼女の笑顔を、透き通ったあの歌声を、僕だけの記憶に閉じ込めたかったのかもしれない。
「いっくん、お腹空いてるよね? お蕎麦食べよう!」
「……蕎麦?」
学校の駐輪場にカチャンッという自転車のロックを外す小気味良い音が響く。
通学に自転車を使っている生徒は、全体の半分ほど。幸か不幸か、咲果も僕も自転車通学だ。もしも彼女が電車やバスを利用していたら、こんなときにふたり乗りができたのかもしれない。いや、交通違反なんだけどさ。それでもやっぱり、好きな子を自転車の後ろに乗せて走るのは男のロマンでもあるわけで。
「なにしてんの? 早く行こ!」
気付けばそのままロマンに浸っていたらしい。首を傾げる咲果に促され、僕は自分の自転車に跨った。
僕らの高校は、長い坂を上った先にある。登校時、それも時間ギリギリの生徒たちにとっては避けて通れない厳しい厳しい鬼門でもある。引っ越してきたばかりの頃、この坂を上りたくないがために他の高校に転校できないかと考えたほどだ。
それでも不思議なもので、毎朝のようにこの坂を上っていれば、もちろん疲れはするものの、そこまで大きな問題ではなく思えてくるのだ。じーちゃんが言う通りここでも僕はまた、この坂に〝慣れ〟を覚えていたのだろう。
柔らかな香りが、僕の横をするりと滑り抜けていく。上りがきつい坂の上にあるということは、帰りは気持ちの良い下り坂が待っているということだ。咲果はまるで漫画のワンシーンのように両足を自転車のペダルから投げ捨てて風を切る。「ひゅーっ」と楽しげな擬音語まで発している彼女は、僕よりも長くこの坂を下ってきているはずなのに、今でもそれを楽しむことができるみたいだ。
「いっくーん! はやくー!」
僕の数メートル先を行くポニーテールがひらひらと気持ちよさそうに揺れている。咲果はほんの少しだけこちらに顔を向け、楽しそうに笑った。
「──すぐ追いつくよ」
僕はそう言って、ぐんっとペダルを強く踏み込む。
時折すれ違う色とりどりの車たち。頬を切る冬の風は冷たいのに、前を走る彼女の通り道だからかどこか甘い香りを含む。高く澄んだ青空と、眼下に広がる住宅地。その真ん中を流れる川を辿っていけば、その向こうには山々が連なっている。
僕はそっと目を閉じて、この場所の、この瞬間の空気を吸い込んだ。
──ああ、この場所ってこんなにいいところだったんだ。
結局、僕らは二十分近く自転車を走らせた。
咲果に案内された先は、細い道を三度ほど曲がったところにある小さな蕎麦屋。家と学校、そしてあの公園の往復ばかりしていた僕にとっては足を踏み入れたことのない未踏の地だ。
「ここのお蕎麦がね、ほんっとにおいしいの!」
こちらにもファミレスやファストフード店はある。実際に僕も部活がオフのボウに連れられて、学生にも優しい価格設定のファミレスには行ったし。だけどこんな感じの純・蕎麦屋には家族以外と入ったことはなく、なんとなく立ち止まってしまう。
しかし咲果は薄茶色の木の板でできた引き戸を何の躊躇もなくガラガラと開けた。
──こっちでは蕎麦屋に高校生が入るのが当たり前とか……?
いらっしゃい、と声をかけてくれたおばちゃんに「ふたりです!」とニッと二本指を立てた咲果は、またもや何の躊躇もなくスタスタと奥の席へと歩いていった。僕も慌ててそれを追う。
昔ながらの家屋を改装したのかもしれない。しっかりとした丸太の柱で支えられた店内は、天井が高く、そこまでの広さがあるわけでもないのに開放感がある。
「いっくん、何にする? わたし盛り蕎麦」
「冬なのに、冷たい蕎麦食べるの?」
「んー……そしたらおつゆは温かいのにしよっかな。じゃあ鴨蕎麦!」
「そしたら僕もそれで」
そう言えば、咲果は嬉しそうに笑う。何がそんなに嬉しいのか。あまりの笑顔に面食らった僕は、赤くなった耳を悟られないようにそっと両手でふさいだ。
「ここのお蕎麦、ずっと食べたかったんだ」
手際よく注文を終えた咲果は、未だ耳の熱を抑えることができていない僕には気付かず、ぐるりと店内を見回しながら懐かしそうに話す。
「小さい頃から家族でよく来たの。外食しようってなると、いつもお蕎麦で」
考えてみると、咲果が家族の話をするのを聞くのは初めてのことだった。夜に出歩いていることを親が心配しないのかと尋ねたときにはやんわりとはぐらかされたから、なんとなく聞かれたくない部分なのかと思い込んでいたのだ。だけど今の咲果の表情は純粋に懐かしんでいるようで、僕の考えすぎだったのかもしれないと心の隅でほっとする。
「いつも何食べてたの?」
「うんとね、お父さんが天ぷら蕎麦でお母さんが鴨蕎麦。わたしと妹はいっつも盛り蕎麦で──」
そこで、咲果がハッとしたような表情を浮かべたのを僕は見逃さなかった。だけどその表情の理由を、僕は追求したりはしない。誰にだって簡単には打ち明けられないことのひとつやふたつはあるものだ。咲果が僕にしてくれたように、僕も彼女の心の中に土足で入るようなことはしたくない。
「咲果って、妹がいるんだな。うちの高校?」
だから僕は、それに気付かないふりをしたまま会話を繋げたのだ。
「……うん。いつか、いっくんにも紹介するね」
「楽しみにしてるよ」
ちょうどそのとき、僕らが注文していた鴨蕎麦が運ばれてきた。顔を輝かせた咲果に、僕の心はじんわりと温かくなる。
咲果にだって、色々なことがあったのだろう。それはちょっとした両親との喧嘩かもしれないし、妹とのすれ違いかもしれないし、僕には想像のできない何かかもしれない。咲果の力になりたい、支えになることができたら、と思わないことはない。だけどそれが、まだ出会ってから日の浅い僕にできるかどうかはわからない。それならば、今の僕が確実にできることをしていきたいと、そう思うんだ。
咲果と並んで自転車で坂道を下るとか──。
くだらない話をして笑うとか──。
おいしい蕎麦をたらふくに食べるとか──。
夜にふたりで、音楽を楽しむとか──。
彼女のために、僕が曲を作るとか──。
ほら、こうやって挙げていけばこんな僕にもできることはいくつかある。
蕎麦をずるずるっとすすった咲果は、「やっぱり世界一おいしい!」と幸せそうな笑みを浮かべた。