「いっくんって、ギターはどこで習ったの?」

 そんな僕の気持ちに気付かない咲果は、ここまで解いてきた問題をノートに書き写しながら口を開く。家で復習でもするつもりなのだろうか。

「小さい頃にじーちゃんに少し習っただけ」

 知らずのうちに、卑屈さが心臓を緊張状態にしてしまっていたらしい。しかし、ギターの話をしたことでそれがふっと緩むのがわかり、僕は小さく安堵の息を吐き出した。

 たまに襲ってくる自己嫌悪感。ここでサッカーの話を出されていたら、僕は無言で教室を出ていったかもしれない。いつだって心に酸素を送り込んでくれるのは、じーちゃんと、じーちゃんがくれたギターの存在。

 この土地は僕にとって、全くの無縁な場所というわけではない。父方のじーちゃんばーちゃんの家がここにはあった。過去形にしたのは、その場所には今、僕らの住む新築の家が建っているからだ。つまりこの引っ越しは僕にとってだけ〝突然〟の出来事であって、両親は一年ほど前から──もしくはそれ以上前から──ここへ移住することを考えていたというわけである。
 確かにじーちゃんの家は老朽化も進んでいたし、台風のときには雨漏りもひどかった。それでも僕にとってそこは、今はもう会うことのできないふたりとの大事な思い出が詰まった場所であり、それが何も知らないうちに取り壊され、白い外壁がやたらと眩しい新築の家になっていたという事実もまた、この新生活を大腕を広げて受け入れられずにいる理由のひとつでもある。

 まあともかく、そういった意味ではこの土地は僕にとって懐かしい日々が刻まれている特別な場所でもあるわけだ。小学生の頃は、毎年夏休みになるとじーちゃんの家に預けられた。僕の両親は共働きで、大人たちに夏休みなんてないようなものだったからだ。

「あのギターも、おじいちゃんの?」

 咲果はシャープペンシルを動かしながらそう聞く。数学の問題を書き写しながら話すなんて、結構高度な技術のように思える。それとも女子は、そういうことが得意なのだろうか。確かに教室でも、女子たちはスマホをいじりながらおしゃべりに興じるという器用なことを日常的にやってのけている。

「そう。じーちゃんがくれた、唯一のプレゼント」

 僕のじーちゃんは、とても優しい人だった。大らかで穏やかで、海の凪のように感情の起伏がほとんどない。
 そんなじーちゃんの信条は『本当に大切なものは、見えないところにこそ宿る』。そのためか、小さい頃から何か物を買ってもらったことはない。
 夏休みが終わって東京へ戻ると、みんなが祖父母からプレゼントされたというスケートボードや、もらったお小遣いで買ったゲームなどを見せびらかし合う。そんなとき、僕はいつも会話には加わらず、ひとりでサッカーボールを蹴って過ごした。
「どうしてうちのじーちゃんはケチなんだろう」と思ったことも一度や二度じゃない。あの頃は今よりももっと単純で、目に見えるものが全てだったのだ。

 そんなじーちゃんが唯一僕にくれたのが、大事にしていたアコースティックギターだった。毎年夏にだけ、じーちゃんの家で触ることのできるギターは僕にとっては特別だった。ときには家から持ってきたサッカーボールを放っておくくらい、ギターに触れることは純粋に楽しかったのだ。
 楽譜なんて読めない僕に、じーちゃんはギターのコードを教えてくれた。最初に弾けた曲は『チューリップ』。さいたー、さいたー、でお馴染みのあの曲だ。

 その話をすると、咲果は楽しそうに声をあげて笑った。

「樹には音を楽しむセンスがある、なんて言って。小六の夏休みに、突然くれた」

 何かを予感していたのだろうか。その年の冬に、何の前触れもなくじーちゃんはこの世を去った。
 その後、中学でサッカー部に入った僕は、部活だけにひたすら明け暮れる日々を過ごしていた。ギターはケースに入れられたまま、クローゼットの奥で数年間眠ることとなる。

「そのギターは、おじいちゃん自身なのかもしれないね」

 いつの間にか、咲果はノートに書き写す作業を終えていたらしい。頬杖をついたまま、僕の方をじっと見ていた。その瞳があまりにも優しい色を含んでいて、僕は思わずそっと顔を背ける。なるべく不自然にならないように、さりげなく。

 こんな風に僕の話なんか聞いて、退屈じゃないのだろうか。そんな思いがよぎったけれど、咲果はじっと話の先を待ってくれていて、僕は素直にその感覚に身を任せ彼女と一緒に過去を辿る。