その日の放課後、咲果と僕は補講のために教室に残っていた。

 補講とは言っても名ばかりで、誰もいない教室で先生から出されたプリントを解いているだけだ。みっちりとした監視のもと行われるものだと思いこんでいたが、どうやら教師という仕事は授業以外にも色々とやることがあるらしい。
 プリントの内容は赤点者向けだからか、実にシンプルなものだった。授業をちゃんと聞いていない僕でも、教科書を見ながらやれば解けるようなものばかり。基礎をしっかりやりなさいということなのか、もしくは教師がいなくても解けるようにわざと簡単にしているのか。

 一通りの問題を解き終わった僕がシャープペンシルをくるりと回すと、後ろの席でウンウンと頭を捻っている咲果の姿が目に映った。
 自分の席で解けばいいものの、「一人より二人のがいいでしょ」と言いながらその席に座ったのが三十分くらい前のことだ。
 ちらりとその手元に視線をやれば、プリント中盤の問題で躓いているようだ。何度も教科書をペラペラとめくってはメモ用紙に計算をして、それでもだめだと頭を抱えている。

「ここ、使う公式が違う」

 僕は椅子ごと体の向きを変えて、芯をしまったシャープペンシルの先で彼女の教科書をトン、と指した。そのページには二種類の公式が説明されていて、どうやら彼女は必死にもうひとつの公式を使おうとしていたようだ。

「これをこっちに当てはめて、それで計算してみたらいいかも」

 小さい頃からサッカーばかりやってきたから、勉強はほとんどしてこなかったと言ってもいいと思う。高校だってスポーツ推薦での入学で、受験らしい受験は経験していない。それでも数学は割と好きな方で、褒められる点数ではないが赤点を取ることもなかった。──少なくとも、以前の学校では。まあ、赤点を取ったら一週間部活禁止という決まりのもと、ギリギリのラインはキープするようにしていたのも理由のひとつではあるけれど。

「まず、この途中式の解き方がわからないの……」

 しばらく考えた表情を見せたあと、咲果は深刻そうな声でそう懺悔する。
 どれ、と手元を見ると、そもそも今までに学んできた部分が理解できていないらしい。前に通っていた高校と教科書自体は同じだから、二学期には授業で学んでいるはずだがよっぽど数学が苦手なのだろうか。

 パラパラと教科書のページをいくつも戻した僕は、その内容をひとつずつ説明してみる。咲果はそれを、ふんふんと真面目な表情で聞いていた。

「できた……かも」

 ゆっくりと時間をかけて一問解いた咲果は、答え合わせを待つ子供のようにじっとこちらを見上げてくる。
 どんぐりのようなころんとした瞳と、透き通るような白い肌。一瞬、彼女の姿が限りなく透明に近いものに感じてしまい、僕はゆっくりと瞬きを繰り返した。

「いっくん、答え合わせしてくれる?」

 くっきりとした輪郭を持つ彼女の声で、僕ははっと我に返る。なんだか今の一瞬だけ、夢を見ているような感覚だった。現実から切り離された瞬間、みたいな。
 僕は彼女に気付かれないようにさりげなく咳払いをすることで、どうにか気持ちを切り替える。それでもまだ、心臓がドッドッと細かく波打っているようだ。

「……うん、僕の答えと同じ」
「やった!」
「いや、ふたりで間違えてる可能性もあるから」
「それでもいっくんと一緒ならいいや!」

 なんだよそれ、と僕は思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えた。また「笑った!」だなんて言われたら気恥ずかしいし。

 だけど僕は感じていた。咲果と一緒にいると、心の中に光が生まれてくることを。すっからかんになった自分の中に、コロンとビー玉がひとつずつ転がっていくような感覚を、確かに僕は感じていたのだと思う。

 咲果はとても自由だ。何にも捕らわれていなくって、まっすぐに差し込む太陽の光みたいに眩しくて。こうしたらいいとアドバイスされれば素直にそれに従い、がんばれと言われればひたすらに努力ができる、そんな人。その姿は、今の僕とはまるで正反対だ。

 ──咲果が光だとしたら、僕は影だな。

 途端に卑屈な自分が顔を出しそうになり、僕はぎりっと奥歯を強く噛み締めた。