それから数日経っても、僕のまわりで何か特別なことは起こらなかった。何もないということは、河野はあの出来事を誰にも明かさなかったのだろう。二学期になったら変化があるのかもしれないと思いつつ、僕としては、河野を突き落としたことで「区切りがついた」と思うしかなかった。
 何をしても、澪はこの世界に戻ってこない。
 ただその事実だけが、何度も僕の胸を穿った。

 久米からは『やりすぎじゃね?』と言われた。『どう考えても物理的に攻撃するなんて悪いだろ』と。その感情に一部の理解は示せるものの、(そうだろうか?)と僕は思った。
目に見える仕返しの方が(褒められる行為とは言えなくても)分かりやすくて良いのではないか、と。精神的な攻撃(例えば河野の写真を加工してネットに流す)とかの方が、よほど大きな暴力になり得る。河野がやったのは、『そういうこと』なのだ。

 指ひとつで、河野は人を殺した。

 世間的に見過ごされても、そうだったことは僕だけが知っている。しかも河野は、自分が右手の指で澪を殺したことを、ほとんど自覚していない。無意識にしても意識的に行われたことにしろ、それは断罪されるべきだと僕はずっと思っていた。河野はすでに、取り返しのつかないことをやったのだ。その罪に比して、プールに落とされるくらいが、一体何だというんだろう。
 それでも(・・・・)、河野は気づかないかもしれない。僕が言いたかったことの半分もきっと伝わらない。僕のしたことの一部は咎められるべき種類のことだろうとは思う(傍目にはか弱い女子を突き落としたとしか見えないし、相対的にもそうだろう)
 誰かに責められても致し方ない。でも、三年前、河野は誰にも責められなかった。そうやって今もある悪意が誰かを傷つけるのを、僕はもう見たくなかった。
 
 部屋に置いてあるスマホが鳴る。
 沢井からの言葉が、画面に映しだされていた。
『本当にプールに突き落としたの?』
 僕はあの後、沢井にも事の顛末を話していた。
『うん』
 そう答えると、
『やりすぎだよ』
 沢井にもそう言われてしまった。
 まあ、見方によればそうだろうなと思わなくもない。
『でも、私、最初に古谷くんからメッセージをもらえたとき嬉しかった。クラス中の人に笑われてる気がしてたから。そんな私を気にかけてくれる人もいるんだなって』
 保健室で見かけた後、僕は個人的に沢井にメッセージを送った。
 実際に何が起きたのか。今どういう心境で、どんな気持ちでいるのか。沢井は突然のメッセージを警戒しつつ、僕に他意がないと知ると、ひとつずつ質問に答えてくれた。加工した写真を投稿したのが河野だったことも話した。
『写真のこと、学校に言わないの?』
 河野には「沢井にも画像を残しておくように言った」って伝えたけど、見て気持ち良いものじゃないし、これ以上打ちのめしたくないから、スクショ画面は久米にもらって自分のスマホに保存した。河野がいじめの主犯だったといつでも訴えられるように。
『言いたくないな。親にバレたらやだし』
『そっか』
 証拠があっても当人が望まなければ、僕に提示する権利はない。本当はそうすべきだと、いくら思っていたとしても。沢井は『被害者』になりたくないのだ。その気持ちも、よく分かる。澪もきっとそうだった。だから結局、誰にも言えないまま、世界から消えることを選んだ。「死ぬべきだ」とそそのかされて。何の根拠も理由もなく。もっと早く手を差しのべていられたらって、いくら考えても足らない。
『何かあったら、またいつでも連絡して』
 フリック入力した後に、思った。
 僕らはどうしようもなく、誰かと繋がっていたいのだ。
 それがいつか消えてしまう、はかない紐帯でしかなくても。
 そう実感できることで、永遠に続くかに思える「今」を生きていけるから。
『ありがとう』
 そんな言葉がすぐに届いて、最後に残された五文字が、僕の心の底にある未だ消えない後悔をそっと優しく照らしだした。

 正しいか正しくないかなんて、何も重要じゃない。僕たちは不完全で傷つきやすく、簡単に孤独になれてしまう。ささいなことがきっかけで絶望の淵にはまり込む。弱い自分が嫌だった。彼女を守れなかった自分が。その非力さが許せなくて、復讐することで少しでも過去を清算したかった。思いをぶつけることに、たとえ何の意味もなくても。

「己の醜さを思い知れ」

 そう言いたかったのだ。届いた気はしない。今も、痛みだけがずっとある。何度河野を突き落としても、この痛みは消えやしない。分かっていた。最初から。それでも、しないではいられなかった。
 僕は全然優しくないし、身勝手で自己中心的で、沢井にお礼を言われる資格なんてきっとない。それでも、彼女の心が少しでも軽くなったなら、僕の心も同じ温度で救われるような気がしていた。
『二学期になっても学校来なよ。保健室でもかまわないから』
 そう打とうとして、やめた。
 そんなことわざわざ言われなくても、沢井は来る気がしたから。
(澪にも報告しないとな)
 もう、彼女とメッセージアプリで繋がることはできないけれど。
 でも、澪は僕と「繋がりたい」と思ってくれた。その事実がどれだけ僕を今まで温めていたか知れない。
(パスコードを変えよう)
 唐突に僕はそう思った。
 次は彼女の誕生日に。澪が生まれてくれた日をずっと忘れないように。
 今さら涙が出そうになって、それを必死でこらえながら、僕は忘れられない四桁を液晶画面に打ちこんだ。