*
時間を指定した通りに、河野はプールに現れた。
来るかどうかは賭けだった。偽りの誘いをかけたものの、直前に気が変わってしまう可能性もあったのだ。それでも、淡い闇のなかに河野の姿を見つけたとき、僕はいつもと同じ息苦しさを胸に覚えた。
ここまで河野との距離をつめたのは、これが初めてだ。
彼女は、プールサイドにいる僕に奇妙な眼差しをむける。
(なんであんたがここにいるの?)と、その目が語っていた。彼女の疑問と猜疑は正しい。そもそも、呼びだしたのが僕ではないからだ。河野を呼びだしたのは、メッセージアプリのグループに所属している久米だった。
『クラスで集まるから来ない?』という名目で。その嘘がバレなかったのは、ほとんど僥倖と言っていい。
河野は、僕を無視して帰ろうか決めかねているようだった。暗闇のなかでも彼女の目が困惑に揺れているのが分かる。河野はスマホを取りだした。誰かに連絡を取ろうとしているのだろう。メッセージを打つ前に僕は彼女に近づいて、最初の問いを解きはなつ。
「今日が何の日か知ってる?」
液晶から漏れる光が、河野の顔を照らしだす。
彼女は、困惑の合間にわずかな苛立ちをのぞかせた。
でも、僕としてはこいつの感情なんてどうでもよかった。
「さあ、ハチミツの日とかじゃない?」
続けて河野が何か言おうとするのをさえぎって、
「大切な人が死んだ日だよ」
僕はそう告げてから、彼女にスマホを突きつけた。ひるんだ河野が一歩しりぞく。そこには、suzuと澪が交わしたやり取りが映しだされていた。
澪が自殺する前日。その引き金になった言葉。
河野は、スクショした端末の画面を見ようともしなかった。
「何それ。意味分かんない。みんないないなら、もう帰るから」
「僕はずっと、君が許せなかった」
きびすを返した河野の背中を追いかけるように僕は言う。
ずっとため込んでいた言葉を。
「沢井さんを不登校にしたのも、君の仕業だろ?」
河野がふりむく。
その瞳にハッキリと憎悪の光があった。
普段教室では、決して見せない歪んだ顔。
「何の話?」
「グループから外した後、加工した写真をばらまいて、クラスのさらし者にした」
河野は肯定も否定もしないまま、僕をにらみつけていた。
だから? とその目が語っている。
「一連の会話はスクショで保存したよ。沢井さんにも連絡して、画面を残しておくように言った」
「それが何? 何がしたいわけ? そんなことを言うために、久米とグルになって私をここに呼びだしたの? そっちだって卑劣じゃん」
「君ほどじゃないよ」
僕は笑う。
河野がひるんだのが分かった。
「言っただろう? 僕はずっと、君が許せなかった。君のくだらない暇つぶしに巻き込まれて、澪は死んだ。どうせ佐納澪のことも、もう覚えていないんだろう?」
それくらい、こいつにとって澪の死は「ささいなこと」でしかなくて、今何を言ったとしても、ひとかけらの後悔さえきっと掬いだせないだろう。だから、僕はこんな形で河野鈴香を呼びだして、憎しみをぶつけるしかなかった。
果てなき夜の底のような終わりのない感情で切り刻んでしまいたかった。
河野が僕を見返す目に、わずかに怯えの色が混ざる。
その瞬間に、僕は分かった。
結局こいつのなかには「何もない」ということが。表面だけは優等生で「可愛い女子」のふりをして、余興のように誰かをいたぶり、自分がつけた傷の深さを想像さえしていないことが。
「死んで償ってほしいくらいだよ」
僕は彼女の肩をつかむ。背後には、夜のプールが拡がっていた。
彼女の体がゆっくりと、夜のなかへ落ちていく。
『本当に、それで良いのか?』
話を持ちかけたとき、久米は僕にそう言った。
もちろん、僕もこれが「正しい」なんて思わない。死んだ澪も、今痛めつけられている沢井も、こんなこと望まないかもしれない。
でも――どれだけ幼稚で稚拙でも、僕は「復讐」したかった。その元凶の害悪が今も誰かを苦しめるなら、たとえエゴでしかなくても、思い知らせてやりたかった。
(幼稚だな)
改めて思う。口に自嘲の笑みが浮かぶ。
倒れていく河野の目が一瞬驚愕に見開かれて、残虐な気持ちが湧きあがる。
「痛めつけたい」と思う時点で、結局僕も河野と同じ類いなのかもしれない。
そんなことはどうだっていい。僕は河野が澪を忘れて、今も誰かを的にしてもてあそんでいることが、どうしても許せなかったのだ。
静寂ののち、盛大な水音が辺りにこだまする。
悪意を吐きだし続けていたスマホもこれで壊れただろう。僕たちはきっとこの先も、永遠に分かりあうことはない。僕が抱えていた痛みも憎悪も胸の空洞も、すべて底の見えない夜に呑まれていくだけだ。
僕はこの三年間――澪を傷つけた河野を、同じ亀裂のなかにずっと突き落としたかった。
「こんなことして、ただですむと思ってるの?」
両手で水を掻きながら、ずぶ濡れで河野は悪態をつく。
「誰にでも言えばいいさ」
僕は彼女を見下ろした。
「でも、僕と二人で夜のプールに忍びこんだなんて、あんまり言いたくないんじゃない?」
それ以上、言いたいことはなかった。河野がそれからどうするかなんて、少しの興味もなかったから。
(好きにすればいい)
自分のスマートフォンを取りだす。
久米に『終わったよ』とメッセージを送ってみる。
0803
僕は澪の命日をパスコードに使っていた。彼女が受けた痛みを、ずっと忘れないように。
その日に、澪の存在を少しでも刻みつけたかった。
『やりすぎだよ』
そんな風に、澪は言うかもしれないけれど。
月のない夜の闇は茫漠とどこまでも続いていて、ぬるい空気がまとわりつく。成功したはずの「復讐」は、終わってみるとあっけなくて、声にならない叫びまで静かな夜の水底に沈んでいくようだった。僕の憎悪も一緒に溶けてしまえば楽なのに。
(僕が復讐にこだわっていたのは、そうすれば澪と少しでも繋がっていられる気がしたからだ)
そんなことに今さら気づく。
河野が何か言っている。僕にはもう聞こえなかった。切り離された言葉だけが、暗いプールの水面に意味を成さない欠片となって浮かんでいるようだった。
時間を指定した通りに、河野はプールに現れた。
来るかどうかは賭けだった。偽りの誘いをかけたものの、直前に気が変わってしまう可能性もあったのだ。それでも、淡い闇のなかに河野の姿を見つけたとき、僕はいつもと同じ息苦しさを胸に覚えた。
ここまで河野との距離をつめたのは、これが初めてだ。
彼女は、プールサイドにいる僕に奇妙な眼差しをむける。
(なんであんたがここにいるの?)と、その目が語っていた。彼女の疑問と猜疑は正しい。そもそも、呼びだしたのが僕ではないからだ。河野を呼びだしたのは、メッセージアプリのグループに所属している久米だった。
『クラスで集まるから来ない?』という名目で。その嘘がバレなかったのは、ほとんど僥倖と言っていい。
河野は、僕を無視して帰ろうか決めかねているようだった。暗闇のなかでも彼女の目が困惑に揺れているのが分かる。河野はスマホを取りだした。誰かに連絡を取ろうとしているのだろう。メッセージを打つ前に僕は彼女に近づいて、最初の問いを解きはなつ。
「今日が何の日か知ってる?」
液晶から漏れる光が、河野の顔を照らしだす。
彼女は、困惑の合間にわずかな苛立ちをのぞかせた。
でも、僕としてはこいつの感情なんてどうでもよかった。
「さあ、ハチミツの日とかじゃない?」
続けて河野が何か言おうとするのをさえぎって、
「大切な人が死んだ日だよ」
僕はそう告げてから、彼女にスマホを突きつけた。ひるんだ河野が一歩しりぞく。そこには、suzuと澪が交わしたやり取りが映しだされていた。
澪が自殺する前日。その引き金になった言葉。
河野は、スクショした端末の画面を見ようともしなかった。
「何それ。意味分かんない。みんないないなら、もう帰るから」
「僕はずっと、君が許せなかった」
きびすを返した河野の背中を追いかけるように僕は言う。
ずっとため込んでいた言葉を。
「沢井さんを不登校にしたのも、君の仕業だろ?」
河野がふりむく。
その瞳にハッキリと憎悪の光があった。
普段教室では、決して見せない歪んだ顔。
「何の話?」
「グループから外した後、加工した写真をばらまいて、クラスのさらし者にした」
河野は肯定も否定もしないまま、僕をにらみつけていた。
だから? とその目が語っている。
「一連の会話はスクショで保存したよ。沢井さんにも連絡して、画面を残しておくように言った」
「それが何? 何がしたいわけ? そんなことを言うために、久米とグルになって私をここに呼びだしたの? そっちだって卑劣じゃん」
「君ほどじゃないよ」
僕は笑う。
河野がひるんだのが分かった。
「言っただろう? 僕はずっと、君が許せなかった。君のくだらない暇つぶしに巻き込まれて、澪は死んだ。どうせ佐納澪のことも、もう覚えていないんだろう?」
それくらい、こいつにとって澪の死は「ささいなこと」でしかなくて、今何を言ったとしても、ひとかけらの後悔さえきっと掬いだせないだろう。だから、僕はこんな形で河野鈴香を呼びだして、憎しみをぶつけるしかなかった。
果てなき夜の底のような終わりのない感情で切り刻んでしまいたかった。
河野が僕を見返す目に、わずかに怯えの色が混ざる。
その瞬間に、僕は分かった。
結局こいつのなかには「何もない」ということが。表面だけは優等生で「可愛い女子」のふりをして、余興のように誰かをいたぶり、自分がつけた傷の深さを想像さえしていないことが。
「死んで償ってほしいくらいだよ」
僕は彼女の肩をつかむ。背後には、夜のプールが拡がっていた。
彼女の体がゆっくりと、夜のなかへ落ちていく。
『本当に、それで良いのか?』
話を持ちかけたとき、久米は僕にそう言った。
もちろん、僕もこれが「正しい」なんて思わない。死んだ澪も、今痛めつけられている沢井も、こんなこと望まないかもしれない。
でも――どれだけ幼稚で稚拙でも、僕は「復讐」したかった。その元凶の害悪が今も誰かを苦しめるなら、たとえエゴでしかなくても、思い知らせてやりたかった。
(幼稚だな)
改めて思う。口に自嘲の笑みが浮かぶ。
倒れていく河野の目が一瞬驚愕に見開かれて、残虐な気持ちが湧きあがる。
「痛めつけたい」と思う時点で、結局僕も河野と同じ類いなのかもしれない。
そんなことはどうだっていい。僕は河野が澪を忘れて、今も誰かを的にしてもてあそんでいることが、どうしても許せなかったのだ。
静寂ののち、盛大な水音が辺りにこだまする。
悪意を吐きだし続けていたスマホもこれで壊れただろう。僕たちはきっとこの先も、永遠に分かりあうことはない。僕が抱えていた痛みも憎悪も胸の空洞も、すべて底の見えない夜に呑まれていくだけだ。
僕はこの三年間――澪を傷つけた河野を、同じ亀裂のなかにずっと突き落としたかった。
「こんなことして、ただですむと思ってるの?」
両手で水を掻きながら、ずぶ濡れで河野は悪態をつく。
「誰にでも言えばいいさ」
僕は彼女を見下ろした。
「でも、僕と二人で夜のプールに忍びこんだなんて、あんまり言いたくないんじゃない?」
それ以上、言いたいことはなかった。河野がそれからどうするかなんて、少しの興味もなかったから。
(好きにすればいい)
自分のスマートフォンを取りだす。
久米に『終わったよ』とメッセージを送ってみる。
0803
僕は澪の命日をパスコードに使っていた。彼女が受けた痛みを、ずっと忘れないように。
その日に、澪の存在を少しでも刻みつけたかった。
『やりすぎだよ』
そんな風に、澪は言うかもしれないけれど。
月のない夜の闇は茫漠とどこまでも続いていて、ぬるい空気がまとわりつく。成功したはずの「復讐」は、終わってみるとあっけなくて、声にならない叫びまで静かな夜の水底に沈んでいくようだった。僕の憎悪も一緒に溶けてしまえば楽なのに。
(僕が復讐にこだわっていたのは、そうすれば澪と少しでも繋がっていられる気がしたからだ)
そんなことに今さら気づく。
河野が何か言っている。僕にはもう聞こえなかった。切り離された言葉だけが、暗いプールの水面に意味を成さない欠片となって浮かんでいるようだった。