「古谷って、河野のこと知ってんの?」
放課後、たまたま隣になった男子に話しかけられた。自己紹介をすませたばかりだったから、なんとなく名前を覚えていた。確か、久米という名字だった。
「あー、同じ中学だったし」
曖昧に答えると、久米は意味ありげな視線を寄こす。
「なんか、すっげえ見てたじゃん。もしかして、もう狙ってるとか?」
いかにも軽薄な質問に、辟易して久米を見た。
ワックスで整えられた髪に愛嬌のある童顔が、どことなく不釣り合いだった。だらしなく着くずした制服から白いシャツがのぞいている。
そんな風に見られた事実に、苦いものが広がった。僕は、あえて質問の真意に気づかないふりをする。
「そんなんじゃないよ」と小さな声で応えるのがやっとだった。
そして、それは本当だった。
僕は彼女のことを、ほとんど何も知らなかった。彼女が視界に入るたび、胸に複雑な感情が嵐のようにおそってくる。
(こんな気持ちは、もう忘れてしまうべきなんだ)
良心的な『僕』が言う。
けれど、同じ学校で同じクラスと知ったとき、僕は宿命を感じたのだ。
それが他者からすれば、滑稽にしか見えなくても。たったひとつだけ守りたかった僕の痛切な後悔を、解消する機会なんだと。とはいえ消極的な僕は、目の前の彼女と繋がりをもつことなんてできなかった。動かなければ目的を遂行することもなく、日々は流れていってしまう。そう知っているはずなのに。
僕は気づけばいつも、彼女を目で追っていた。
彼女が――三年前のあの日から、少しでも変わったのかどうか、見極めたいと思ったのだ。
「河野さんって、男子に人気あるの?」
休み時間にさりげなく、僕はそう聞いてみた。
「まあ、あるかもな。見た目も可愛いし、勉強もできるし」
久米がスマホを見ながら応える。
それは、なんだか僕にとっては意外だった。
教室のなかで笑う彼女は、僕の知ってる『彼女』とは、かけ離れているように思える。かけ離れていて当然なのかもしれない。しょせん僕は彼女にとって、いないのも同然なのだから。そして、だからこそ今もなお、拘泥するのだと分かっていた。
僕は、三年前の出来事を「なかったこと」にしたくなかった。たとえ僕以外の人が気にとめないのだとしても、彼女と関わった日々を消してしまいたくなかったのだ。
高校でも相変わらず、見えない階層は存在する。
狭い教室のなかでは陽キャラと呼ばれる人と陰キャラと言われる人がいて、僕は圧倒的に後者だ。僕自身はそのことを、特に気にとめなかった。
一方、そのなかで苦しい思いをしている人がいることに、僕は全然気づかなかった。以前とまったく同じように、すべての物事は見えない場所で行われていた。