「随分と呆気なかったな。鬼龍院も口ほどにもない」


 そう言った香炉を持った男に、柚子は先ほどからどこかで見たような既視感を覚えていた。


「あなた、誰?」

「覚えていないとは残念だ」


 やはり会ったことがあるようだが、すぐに思い出せない。


「津守幸之助。陰陽師の一族で、鬼龍院とは同級生だった。ホテルで一度会ったな。ここまで言えば分かるか?」

「……あっ!」


 以前に玲夜と食事に行った時にホテルで会った人物だと、ようやく思い出す。
 玲夜を見ていた憎々しげな目が頭をよぎる。


「そんな人が私になんの用なの? 帰るからそこをどいて」

「それは聞けないな。お前は餌だ。鬼龍院に一矢報いるための」

「鬼龍院に……?」

「花嫁は危険だと教えられなかったのか? こんな簡単に誘い出されるとは、鬼龍院は花嫁の躾がなっていないようだな」

「つっ……」


 その通りだった。
 相手が梓だからと気を緩めてしまった。
 あれだけ東吉にも高道にも、普段から気を付けるようにと言われていたのに。
 見知った梓だからと気を抜くべきではなかった。

 桜子だって言っていたではないか。今後出会う人には気を許すなと。それなのに、まんまと騙されてのこのこついてきてしまった。
 だが、そのことで気になることがあった。


「梓ちゃんがおかしかったのはあなたのせい?」


 あの能面のような顔と、焦点の合わない目。どう考えても変だった。
 そのことにもっと早く気付いていたらよかったのだが、今さらそんなこと思っても遅い。
 幸之助はニヤリと気味の悪い笑みを浮かべる。


「ちょっとした暗示だ。あの娘は鬼龍院に並々ならぬ想いを抱いていたようだからな。弱っている人間の強い負の感情は暗示をかけやすい」

「ひどい……」


 梓の恋心を利用するとは。


「ははっ、ひどい? ひどいか。それがどうした? 鬼龍院相手に手段を選んでなどいられないからな」


 柚子の前に立った幸之助は、柚子の腕を掴んだ。


「来てもらおう」

「離して!!」

「ここは津守の手の中だ。ひとりで来た自分の愚かさを恨め」


 強くなる手の力に顔をしかめながらも、柚子は幸之助を睨め付けた。


「たったひとりなんて誰が言ったの? いくら私でも、そこまで警戒心がなくはないわ」

「はっ、なにを言って……」

「子鬼ちゃん!」


 そう叫ぶと、柚子の着ていたパーカーのフードから、子鬼が飛び出した。


「やー!」

「あーい!」


 子鬼は柚子の腕を掴んでいた幸之助の手に噛みつく。


「いっ! この!」


 痛みに顔を歪め、緩んだところで柚子は幸之助の手を振り払う。
 そして、柚子を守るように子鬼が前に立った。


「ちっ、鬼龍院の使役獣か」


 幸之助は忌まわしそうに舌打ちをする。


「あい!」

「あいあい!」


 そこをどけと言うように、子鬼たちは青い炎を出して威嚇する。
 柚子は子鬼たちに守られながら門を目指した。
 後もう少し……。
 そう急いたその時。


「今だ、やれ」


 冷たく低い幸之助の命令が下った瞬間、柚子たちを取り囲んでいる狩衣の者たちが印を組んだ。
 すると、子鬼を中心に地面に紋様が円形に描かれていく。


「なに?」


 子鬼たちもわけが分からない様子で、きょろきょろとしていると、紋様が完成されて地面が光り、突然子鬼たちが苦しみ始めた。


「子鬼ちゃん!?」


 柚子は子鬼たちを抱き上げた。子鬼たちは柚子を気にしている余裕はないほどに苦しんでいる。
 柚子は特になにも体に変化はないのに、子鬼だけが影響を受けていた。
 この光る地面が原因かと思った柚子は子鬼を連れ出そうとしたが、まるで見えない壁があるようにそこから出られない。


「あーい!」


 柚子の腕から飛び出した子鬼は、最後の力を振り絞るようにして見えない壁に向かって青い炎をぶつけたが、それは見えないなにかにぶつかった瞬間に消え去った。
 子鬼の攻撃は意味をなさず、その場に倒れ苦悶の声を上げる子鬼に、柚子は泣きそうになる。


「子鬼ちゃん!」

「あう~」

「あーい……」


 大丈夫だと言うように無理をして笑う子鬼は、そんな状態になってもなお柚子を守ろうと柚子の方に歩いて来ようとする。
 慌てて近付こうとしたが、子鬼に気を取られていた柚子は背後から近付く存在に気が付かなかった。
 後ろから布で口を塞がれ子鬼たちから離される。


「んうっ」


 反射的に息を吸うと、すぐに頭がくらりとして体の力が抜けてくる。
 子鬼たちを助けなければ。
 そう頭では思うのに体が思うように動いてくれない。
 だんだんと薄れゆく意識の中、子鬼たちのもとに、黒と茶のなにかが走って行くのが最後に見えた。


***


「幸之助様、この使役獣たちはいかがなさいますか?」

「祓え。主のもとに帰られたら面倒だからな。そんな力はもう残っていないと思うが念のためだ」

「かしこまりました」


 狩衣の者たちが子鬼たちを囲んで印を結んだ瞬間、黒色と茶色の猫が飛び込んできた。


「な、なんだこいつらは!?」

「ただの猫だ、追い払え」


 しかし、二匹の猫は子鬼をそれぞれ咥えると軽やかに塀の上に飛び乗り、狩衣の者たちを一瞥した後、塀の向こうに姿を消した。
 残された者たちはおろおろとしていたが、幸之助の一喝で静かになる。


「落ち着け! どうせあれだけ弱っていれば、鬼龍院のもとに着く前に消えるだろう。捨ておけ」


 そう言って、幸之助は意識をなくした柚子を抱え上げ、屋敷の中に入っていった。