鬼の花嫁2~出逢いと別れ~


***

 覚えることは多いが、柚子の大学生活は一応順調である。

 しかし、この大学で友人を作ることはあきらめた。
 やはりどうしても鬼龍院というのを切っても切り離せないようで、皆が皆柚子よりも柚子の後ろにいる玲夜の存在を意識してしまうようだ。

 まあ、無理はないのだろう。
 あやかしの世界だけでなく、人間の世界でも、政界、経済界に強い影響力を持つ鬼龍院の次期当主の花嫁なのだ。
 媚びる者、怯える者、妬む者、関わり合いになりたくない者。反応は様々だが、対等な友人関係は築けそうになかった。

 だが、これも玲夜の花嫁であることを受け入れた以上は仕方がないとあきらめるしかない。
 幸いなことに、柚子には透子と東吉がいるし、東吉を通して蛇塚とも仲良くなった。最近ではその友人の中に浩介も加わった。
 桜子とも良好な関係を築けているので、居心地が悪いということはなかった。

 残念ながら梓とは、蛇塚と仲良くしているために警戒心を持たれてしまっているようで、話をすることはなくなってしまった。当初は同じ花嫁同士で仲良くなれるかもと思ったのだが、梓と蛇塚の関係が今のままだと少し難しそうだ。


 そんな梓は、蛇塚と言い争いをしている場面を大学内でよく見られることから、周囲の者もあまり関わり合いになりたくないようで、仲のいい相手を見つけられずいつもひとりでいるのを見る。

 蛇塚によると、梓はもともとかくりよ学園とは別の短大に入る予定だったのが、蛇塚の花嫁になったことで急遽変更となった経緯があるそうだ。

 行きたかった大学を諦め、突然通うことになった大学では仲のいい相手も見つけられず、蛇塚とも険悪な関係でいる梓に同情心が芽生えないわけではない。

 しかし、蛇塚のことに関してはもう少し歩み寄れないだろうかと思ってしまうのは、己が恵まれた環境にいるからなのだろうか。
 できることなら、蛇塚の優しさに梓が気付けばいいなと柚子は思う。
 少し難しいことなのかもしれないが……。

 そんな心配事はありつつも、平穏な日常を送っていたある日。
 柚子は帰宅するために迎えの車が来る駐車場へ行く途中の道で猫の声がした気がして、道の横に生えていた草をかき分けて覗くと、汚い段ボール箱に入った猫を二匹見つけた。

 一匹は、ちょっとぽっちゃりだが凛々しい顔で、瞼の上あたりがハゲて白っぽい黒猫。
 そしてもう一匹の茶色いヒョウ柄の猫は、しなやかな体躯で、顎下だけ毛が白く、黒猫より一回りほど小さい。


「アオーン」

「ニャーン」


 ちょっと黒猫の方は猫らしくない鳴き方をしているが、どちらもかわいい。


「捨て猫?」


 周囲を見渡してみるが、一緒にいる透子と東吉以外誰もいない。
 拾って下さいと言わんばかりに見つめられて、柚子は見て見ぬふりできなかった。
 手を近付けると、自分から頭を差し出し擦り付けてくる。
 とても人懐っこい。なおさら放っておけなくなる。


「どうしよう?」


 透子と東吉を見ると、ふたりも困った顔をした。


「どうしようと言われてもねぇ……」

「こんな所で箱に入れられているんだ、捨て猫っぽいな」


 じーっと猫達と視線が合う。そして悲しそうに「にゃーん」と鳴かれる。


「うっ……」


 柚子はその眼差しに負けた。


「こんなところに置いとけないよぉー」


 猫二匹を抱き上げた。
 ぽっちゃりした黒猫の方が重かったが、抱き上げても嫌がる素振りはなく大人しくしていた。


「柚子、置いておけないっていってもその子たちどうするのよ」

「……どうしよう」


 計画性はない。ただ、こんな人気のないところにおいてもいけない。


「にゃん吉君……」


 今度は柚子が助けを求めるように東吉を見ると、東吉は仕方がなさそうにした。


「とりあえず俺の家に連れてくるか?」

「ありがとう」


 猫屋敷といっても過言ではない東吉の家には、たくさんの猫がいる。
 ひとまずこの子たちを避難させるにはいいだろう。
 後のことはそれから考えることにした。




 そうして東吉の家にやって来たが、二匹の猫は柚子のそばから離れない。

 お腹が空いているだろうと、透子が餌で釣ろうとしているが、透子に近付きもせずに柚子の膝の上に座り込んでいる。

 代わりに柚子があげるとガツガツと食べ始め、完食してひと息ついたかと思ったら、茶色い猫が黒い猫に襲いかかる。黒い猫がミギャーと叫び、慌てて引き剥がし黒い猫を抱き上げるとほっとしたようにしていた。茶色い猫は喧嘩を仕掛けたというよりは遊んで欲しそうな感じだったけれど、黒い猫はひどく迷惑そう。

 よくこれで一緒にいたものだと不思議に思う。
 これまでどうしていたのやら。

 黒い猫が遊んでくれないと分かると、茶色い猫は部屋の中を走り回り始めた。
 捨て猫のわりに元気はいっぱいのようだ。

 次に、この猫たちを今後どうするかの話し合いが始まった。


「にゃん吉君のとこで引き取れる?」


 東吉は猫たちを見て難しそうな顔をした。


「もともとうちは猫が多いし引き取るのは問題ないが……」


 東吉が、柚子に抱っこされている黒い猫に手を差し出した。驚かさないようにゆっくりと距離を縮めたが、東吉が近付くだけで黒い猫は威嚇している。そして、助けを求めるように柚子に縋りついた。


「うーん、これだけ懐いてないとかなり厳しいぞ。ご飯も俺らから食べようとしないし」


 東吉の言う通り、拾ってきたこの猫たちは柚子以外からご飯を食べようとしない。
 逆になぜこんなに柚子にはべったりなのかと疑問に思うほど柚子に懐いている。
 猫又のあやかしだけあって東吉は猫に好かれやすいのだが、この猫二匹は東吉に見向きもしない。
 すると、そんな猫たちを見ていた透子から提案が。


「柚子は飼えないの?」

「えっ、私が?」

「そうそう。それだけ柚子に懐いているなら、その子たちも柚子に引き取られた方が幸せなんじゃないの?」

「うーん……」


 柚子は抱っこしている黒い猫を見下ろす。じーっと見ていると、黒い猫の方も柚子の顔をじっと見る。そして、まるで何かを訴えかけるように一声鳴いた。


「アオーン」


 すると、茶色い猫も走り回るのを止めて柚子のそばに寄ってきた。
 ちょいちょいと前足で、柚子の腕をタッチしてくる。


「……ちょっと玲夜に電話してみる」


 玲夜の家に居候している身としては、柚子の独断で猫を飼うと言えない。
 その場で玲夜に電話をかけると、すぐに出た。


「もしもし、玲夜?」

『どうした? 珍しいな、柚子から電話してくるなんて。なにかあったか?』

「なにかあったって言ったらあったんだけど。ちょっと相談というかお願いというか……」

『なんだ?』

「猫を拾ってね。それで、にゃん吉君のところで引き取ってもらおうと思ったんだけど、私にすごく懐いててね。ものすっごくかわいいの。それで……」


 柚子はなんと言ったら玲夜が猫を飼うことを了承してくれるかと必死で考えを巡らせながら話すが、決定的な言葉が思いつかない。
 すると玲夜の方から切り出してくれた。


『飼いたいのか?』

「うん。駄目かな?」


 そもそも玲夜は動物が好きなのか知らなかった。もし動物嫌いならどうしようか。
 そう不安になっていると、玲夜の優しい声が耳に入ってくる。


『柚子が飼いたいと思うならそうしたらいい』

「いいの? 玲夜は猫嫌いじゃない?」

『好きでも嫌いでもないな。だが、柚子が飼いたいなら猫の一匹ぐらいいてもかまわない』

「あっ、一匹じゃなくて二匹なの!」


 そこをしっかり言っておかねばならない。


「それでもいい?」

『ああ。屋敷の者には俺から言っておく。帰る頃には必要な物が揃っているはずだ』


 すんなりと許可をもらえて柚子は自然と笑みがこぼれた。


「ありがとう、玲夜!」

『ああ。礼は後でちゃんともらうからな』


 いつものおねだりのためのキスのことを言っていると理解して、柚子の頬が紅くなる。
 そうして電話を切った柚子は、膝の上にいた黒い猫を高く抱き上げて喜びを表す。


「玲夜がいいって。今日からうちの子だよー」

「アオーン」

「ニャン」


 猫たちも柚子の言葉が分かっているかのように鳴き声を上げた。


「よかったわね、柚子」

「うん。ありがとう。透子、にゃん吉君」

「俺らはなにもしてないさ。……けどなぁ」


 東吉は突然猫たちを睨むように真剣に見つめたかと思ったら、首を傾げた。


「うーん……」

「何よ、にゃん吉」

「いや、こいつらなんか普通の猫とどこか変わっているような……」

「なによ、懐かれなかったから根に持ってるの?」

「ちげーよ。けどなんか、言葉にしづらいんだがこう、どことなく……。お前らなにも感じないか?」


 柚子と透子は猫たちを見た後、目を合わせて互いに首を傾げた。


「全然」

「にゃん吉の気のせいじゃない?」

「そうか?」


 はっきりとしない東吉は、自分でもよく分かっていないようだ。
 猫の専門家とも言っていい猫又に分からないことが、普通の人間の柚子や透子に分かるはずがない。




 そんな話は透子により断ち切られる。


「そんなことより、この子たちの名前はどうするの?」

「そっか、名前……」


 柚子はまず黒い猫を見ると、すぐに思いついた。


「黒い猫はまろね」

「あー、確かに目の上が白くて眉毛みたいになってるから、麻呂って感じ」

「でしょう。それで、こっちの子は……」


 次に茶色い猫を見て考えるが、なかなかいい名前が浮かんでこない。
 しばらく考えたのち。


「この子はみるくにしよう!」

「どうして?」

「かわいいから」


 二匹共、ごくごく単純な名付けだ。

 二匹の猫を連れて猫田家を後にし屋敷に戻ってくると、使用人たちが迎えてくれた。
 その中にいた雪乃が、笑顔で寄ってくる。


「柚子様。猫を引き取られたとお聞きしました。必要な物は柚子様のお部屋にご用意いたしましたが、よろしかったですか?」

「はい。ありがとうございます。今日から家族の一員になる、まろとみるくです」


 まろとみるくを見せると、使用人たちは皆ニコニコと微笑み、嫌そうな顔をした者がいなかったのでほっとした。猫嫌いな人はいなさそうである。


「あらあら、かわいらしい子たちですね」


 雪乃が手を差し出すと、みるくがべしっと猫パンチを繰り出した。


「あっ! 雪乃さん大丈夫ですか?」


 雪乃の綺麗な手に傷跡が残ったら大変だと柚子は慌てたが、雪乃は笑みを変えたりしなかった。


「大丈夫ですよ、柚子様。鬼である私はそんなやわにできてはおりませんから」

「ごめんなさい。この子たち、まだ人に馴れてないみたいで」

「よろしいのですよ。それよりお部屋へどうぞ」

「はい」


 まろとみるくを連れて部屋に行くと、キャットタワーやトイレ、猫用のベッドから玩具まで必要な物はすべて揃えられていた。
 玲夜に連絡してからそう時間は経っていなかったのに、さすが鬼龍院の使用人。仕事が早い上に完璧だ。

 しばらく猫の玩具で二匹と遊んでいた。
 子鬼たちも最初は警戒していたが、まろとみるくを気に入ったようで、いつしか二匹に馬のようにまたがって遊び始めた。
 まろとみるくも子鬼たちには友好的で、一緒に遊んでいるのを柚子は微笑ましく見ていた。

 そうこうしていると、玲夜が帰宅し部屋に入って来た。


「それが拾った猫か?」

「玲夜、おかえりなさい。そう、黒いのがまろで、茶色いのがみるくって名前にしたの」

「嬉しそうだな」


 いつも以上に明るい笑顔の柚子に、玲夜も柔らかな笑みを向ける。


「実は前から動物飼ってみたいなって思っていたの。前は花梨が動物嫌いで飼えなかったんだよね」


 妹の花梨が最優先のあの家で動物を飼いたいなどと言って許されるわけもなくあきらめていた。
 それに、柚子もバイトをたくさん入れて家には帰らないようにしていたので、動物の世話などできなかったというのもある。


「だから飼えるのが嬉しくって」

「柚子が喜んでいるなら、俺も嬉しいよ」


 よしよしと頭を撫でる玲夜に笑みを向ける。


「玲夜も触ってみる? ちょっと人見知りするみたいだから触れるか分からないけど、子鬼ちゃんとは仲良いから子鬼ちゃんを作った玲夜なら大丈夫かも」


 玲夜の手を引いて、猫じゃらしを持った子鬼とじゃれている二匹の前に連れていく。
 猫の前に座った玲夜が、猫に触れようとした時、玲夜が手を止めた。


「……これは」


 なにかに驚いたような表情をする玲夜に、柚子は首を傾げる。


「玲夜?」

「……柚子。この猫はどこにいたんだ?」

「大学から駐車場にいく途中の、草むらの中よ。大学で飼っている猫かと思って一応問い合わせたけど、知らないって」

「そうか……。おかしなところはなかったか?」

「ないけど……この子たちがどうかしたの? にゃん吉君もなんか普通の猫と変わってるみたいなこと言っていたけど」

「……いや、大事にしてやるといい」

「うん」


 なんとなく歯切れの悪い玲夜が気になったが、柚子の足にすりすりと擦りついてくるみるくのかわいさに心を持っていかれ、すぐにそんなことも忘れてしまった。


「まさかと思うが父さんに確認してみるか……」


 そんな玲夜の呟きは柚子には聞こえなかった。




五章


 普段柚子と玲夜は別々の車で通学・通勤しているのだが、今日はいつもと違い、玲夜の車で大学まで送ってもらっていた。
 車の中で柚子は玲夜から今度あるパーティーの話を聞かされた。


「親睦パーティー?」

「そうだ。戦後、あやかしが表の世界に出るようになり、人間と共存していくことになった。その両者の仲を深めるためにと始まったパーティーだ。当初の、両社の中を深めるという目的は一応達している。一部では未だに人間とあやかしの間での差別はあったが許容範囲のことだ。今ではこの親睦会も形だけのものになりつつあり、人間で出席するのは資産家や政治家がほとんどだがな」

「そこに私も出席するの?」

「そうだ。いつもは俺が父さんの名代として出席していたが、今は柚子もいるからな。あやかしへのお披露目はこの間の酒宴で行ったから、今度は人間へのお披露目だ」

「これで煩わしい女たちから解放されますね」


 助手席に乗っていた高道がクスクスと笑いながらそう言った。


「まったくだ」


 玲夜はうんざりしたような顔をしている。


「女たち……」

「ええ。人間の女たちの欲望は尽きることはありませんから。毎回玲夜様は大人気です」

「高道」


 言うなと叱責するように玲夜が高道の名を呼ぶ。


「玲夜様。柚子様を煩わしいものから遠ざけたいのは分かりますが、柚子様にもあらかじめお教えしていた方がよろしいでしょう? その女たちがなにかしでかさないとも限りません。柚子様自身にも警戒して頂かなくては」

「えっ、なにかされるの?」


 頬を引き攣らせ玲夜を見上げると、安心しろと言うように柚子の肩を抱き寄せる。


「大丈夫だ。だが、奴らは欲の塊だからな」

「ええ。玲夜様の伴侶になろうと必死ですから。花嫁でない限り人間が伴侶になることなどないというのに」


 やれやれというように高道はこめかみを押さえる。


「それはそうと、柚子様」

「はい」

「大学ではなにか嫌がらせなどはありませんか? 今話した女たちのように花嫁のことを理解せず、柚子様を排除すれば自分が成り代われると勘違いしたお馬鹿さんはどこにでもいますから」

「それは大丈夫です」

「それはよかった。なにかありましたら、すぐに桜子に相談してください」

「はい」

「……本当に大丈夫だな?」


 玲夜が念を押して聞いてくる。
 それに対して、柚子が「大丈夫」と笑って安心させると、玲夜も納得したようだ。

 が、しかし、大学のトイレなどでひそひそ話しながら明らかにいい感情を向けているとは思えない目で柚子を見てきたり、あからさまに聞こえる声で「あんなのが花嫁?」とか「鬼龍院家の若様と全然釣り合ってないじゃない」といった悪意ある言葉を耳にすることはあった。

 しかも、聞かれるとマズいことはその子たちも分かっているのか、陰口が聞こえてくるのは必ず柚子がひとりになるトイレなどでだけ。子鬼も連れていない時なので、玲夜には今のところ気付かれていない。

 それを言ってしまうと、大変なことになりそうなのは目に見えているから、柚子はなにもなかったことにした。言ったが最後、柚子でもどこの誰か知らないその人物を特定して、玲夜が般若と化すのが想像できた。

 実際に嫌がらせではないのだ。ただの陰口であって、気にしなければ実害はないので、放置しておくのが一番だった。

 けれど、悪意ある言葉は地味に刺さるのだ。釣り合ってないことを、誰よりも柚子自身が分かっているから。
 かと言って、柚子から玲夜と離れるつもりはないので、心を強く持つしかない。


 だが、高道の話を聞いていると、その親睦パーティーにはかなり気合いを入れて挑まなければならないようだ。
 他人には冷たい玲夜だが、彼の持つスペックは他を圧倒する。手に入れたいと必死になる女性たちの気持ちもよく分かった。

 だからこそ、大学での陰口程度ではすまなそうな気がして、柚子は今から憂鬱な気持ちとなった。

 こんな素敵な人の隣に立つのが、こんな平々凡々な子供なのだ。
 玲夜を狙う女性たちに認められるとは思えなかった。
 きっと桜子ならば、どんな女性が来ても黙らせることができたのだろうにと、柚子は自分の至らなさに溜息が出た。




 嫌だ嫌だと思っていると、あっという間にその日が訪れてしまう。


 酒宴の時は玲夜から振袖が贈られたが、今回は薄水色の膝丈のドレスを渡された。
 レースがあしらわれた可愛らしいデザインで、それと合うように、雪乃が髪をアップにし、メイクもしてくれる。
 すると、見間違うほどに綺麗に完成され、いつもながら、雪乃の完璧さと万能さに驚かされる。


「お綺麗ですよ、柚子様」

「あい」

「あーい」


 子鬼たちも雪乃に呼応するように声を上げた。
 そして、まろとみるくは新しいドレスの裾をクンクンと嗅いでいる。
 抱き上げたかったが、服に猫の毛が付くと困るので、頭を撫でるだけに留める。
 撫でた頭を擦り付けてくるまろと、その間も熱心にドレスの匂いを嗅ぐみるくに癒されていると、黒いスーツを着た玲夜が部屋に迎えに来た。


「柚子、準備はいいか?」

「うん」


 玲夜は上から下へ柚子の姿を見やるや、満足そうに笑みを浮かべた。


「柚子は淡い色も似合うな」

「ドレスをありがとう、玲夜」


 玲夜自らが選んだらしいドレスを褒められ、柚子ははにかむ。


「こんな綺麗な柚子を他の男の前に出したくないが、仕方ない」

「多分そう思っているのは玲夜ぐらいだから大丈夫だよ」


 お世辞ではなく、本気でそう思っているらしい玲夜の目には、何重ものフィルターがかかっているに違いない。
 雪乃によっていつもよりは見栄えがよくなっているが、平凡であることに変わりはないのだ。
 まろとみるくは留守番で、子鬼たちを連れて、玲夜と一緒に車に乗り会場となるホテルへ向かう。

 国内でも有名な高級ホテルの大広間を借りて行われるパーティー。
 玲夜にエスコートされ入場した瞬間から人々の注目が集まるのが分かる。
 ざわざわと話している声が聞こえてくる。


「鬼龍院様だわ。相変わらずお綺麗ね」

「女性を連れているわよ。お珍しい」

「どこのご令嬢だ?」


 ただただ、居たたまれない。
 普段の玲夜は女性には特に冷たく、こういうパーティーの場に女性を連れて来たことはないという。
 それ故、玲夜が大事そうにエスコートしている柚子に興味が集まっている。
 今はまだ柚子が花嫁だということを知らぬ者の方が多いようだ。


「大丈夫か、柚子?」

「う、うん」


 とてつもなく緊張しているが、玲夜が隣にいるおかげで足が震えずにすんでいる。
 まあ、玲夜と一緒だからここまで注目されているのだが。
 玲夜に連れられ、主催者に挨拶に向かう。

 ひと際たくさんの人に囲まれた老年の男性は、政治に疎い柚子でも知っている大臣だ。


「お久しぶりです、大臣」


 そんな人に気安く声をかける玲夜に、柚子は改めて住む世界が違うと遠い目をする。


「ああ、これは鬼龍院さん」


 お互いに握手をして会話が始まったが、柚子にはさっぱり分からない専門用語が飛び交っていて、ただにっこりと笑っていることしかできない。
 大学の花嫁学部で政治経済学が必須科目になっている理由がよく分かった。
 これは真剣に勉強しなくてはいけないと考え直す。

 それと同時に、大臣と対等に話す玲夜に尊敬の眼差しを向けていると、不意に玲夜と目が合った。
 大臣の目も柚子へと向けられる。


「これは失礼、お嬢さん。鬼龍院さんと話をしているとどうも話しすぎてしまうようで」

「いえ、とんでもありません」

「ところで、鬼龍院さん。こちらの素敵なお嬢さんは、どちらのご令嬢ですかな? 確か鬼龍院さんは鬼山のご令嬢と婚約されていたと思いましたが」

「桜子との婚約は白紙になりました。彼女という花嫁を見つけることができたので」


 大臣は花嫁と聞いて目を大きくした。


「花嫁ですと?」

「ええ」

「これは驚きました。あやかしで花嫁を見つける方はごく少数とお聞きしていますが」

「その通りです。彼女に出会えた俺は幸運な男です」


 そう言って、玲夜は柚子に向かって微笑んだ。
 その瞬間、どこからともなく女性の悲鳴が聞こえた。
 普段こういう場でも無表情だという玲夜の微笑みは破壊力抜群だったようだ。
 見慣れた柚子ですら、くらりとする玲夜の美麗な笑みにノックアウトされた女性は少なくなかった。顔を赤くして玲夜に見惚れている人が数え切れない。




「はははっ、あやかしは花嫁を溺愛すると聞きますが、聞きしに勝る愛しっぷりですな。あてられてしまいそうですよ」


 豪快に笑う大臣を一瞥した玲夜は、周囲に視線を巡らせてから大臣に視線を戻す。


「他にも挨拶回りをしなければならないので、これで失礼する」

「ええ、そうですな。私ばかりが独占しているわけにもいきますまい。話したい者は他にたくさんいるようだ」


 くるりときびすを返した玲夜に付いていくと、次から次へと挨拶をしに人がやってくる。

 その半数が年頃の女性を伴っており、女性は玲夜に熱い眼差しを向けていたが、玲夜はそれを黙殺。女性と目すら合わせない。

 代わりに、見せつけるかのように柚子に蕩けんばかりの笑みを向ける。
 それを見た女性は、表情を暗くする者。ショックを受ける者。憎々しげに柚子を睨む者と、三者三様の反応を見せた。

 隣に玲夜がいるからか、あからさまに柚子を攻撃してくる者はいないが、女性たちからの視線が痛くて穴が開きそうだ。
 いや、その前にストレスで胃に穴が開くかもしれない。
 早く解放されたいと思うも、人が途切れずやってくる。
 笑みを絶やさないようにしていた顔がさすがに引き攣ってきそうになる頃、やっと波が引いた。
 それを見計らったようにやってきたのが、透子と東吉だ。


「柚子」

「透子~」


 見知った顔を見て、緊張していた心がほっと緩む。


「お疲れ様ね」

「ほんとに……」


 あやかしの酒宴の時はこれほどに女性たちからの敵意を感じなかったので、緊張はしてもそれほど疲れなかったが、今回は本当に疲れた。
 精神がゴリゴリと削られた気がして、柚子は深い溜息をついた。
 すると、それを見ていた玲夜が柚子のセットされた髪を崩さない程度に優しく撫でる。


「本当はまだ挨拶回りをしておきたいんだが……」


 頬を引き攣らせた柚子を見て、玲夜は苦笑し、それから東吉と透子を見た。


「柚子を任せていいか?」

「かまいませんよ~」


 と、透子が軽く返す。


「一緒に行かなくていいの?」


 自分は役に立たなかったかと柚子は不安に思ったが、玲夜はそんなことを気にしてはいなかった。


「柚子はここまでよくやっている。まだこういう場は二度目なんだから、完璧にする必要はない。疲れただろうから、ふたりと一緒にゆっくりしているといい」

「そうよ。若様の言う通り、最初っからできるわけないんだからさ。後は若様に任せて私たちは食事でもしてましょう。あっちにスイーツコーナーあったのよ。制覇しに行かないと」

「お前はもう少し柚子の真面目さを見習え」


 東吉にツッコミを入れられたのを無視して、透子は柚子の手を引いて歩き出す。


「じゃあ、若様、柚子を借りていきますね~」

「ああ、任せた」


 玲夜に対しても透子は透子らしく態度を変えたりしない。まあ、多少ぽーっと見惚れている時もあるが許容範囲の反応である。
 玲夜もそんな透子を柚子の友人として認めているようだ。
 大事な柚子を任せるほどには。


 柚子は透子と東吉と一緒に、料理やスイーツが並ぶテーブルにやってきた。
 さすが誰もが知る高級ホテルの食事。色鮮やかでどれも美味しそう。
 お皿を取って気になったものを乗せていく。
 一口食べて、その美味しさに感動する。


「このローストビーフ美味しいっ」

「こっちのソースも、うまっ」

「お前ら、一応パーティーなんだから、お淑やかに食べろよぉ。フードファイトしにきたんじゃないんだから」

「分かってるわよ、にゃん吉は一々うるさいわね」

「にゃん吉君て、おかんだよね」


 柚子がそう言うと、透子がケラケラ笑った。


「誰が、おかんだ!」

「あははっ、その通りじゃない。ナイスだわ、柚子」


 そんな他愛ない会話をしながら食事をして、次にスイーツコーナーに移動する。
 さすがに種類が多すぎて全種制覇は無理だったが、満足するほどいろいろな種類を食べまくった。




「う~、満腹」

「食べ過ぎだ」


 柚子が東吉からツッコミを入られる横では、まだ透子がお皿にスイーツを乗せているところだった。


「お前はよく食べるな」


 さすがの東吉も呆れを通り越して感心している。


「だって美味しいんだもん」

「うちが満足なもの食わしてないみたいだからいい加減止めてくれ」

「いいじゃない。デザートは別腹ってね……あっ」


 突然動きを止めた透子につられて、透子が見ていた方向に目をやると、蛇塚と梓の姿を見つけた。


「あのふたりも来ていたんだ」

「俺達もそうだが、基本あやかしの花嫁は、あやかしと人間の友好の象徴みたいなものだからな。あやかしと人間が揃うパーティーなんかには大抵呼ばれるんだよ」

「本人たちは全然仲良くないけどね」


 そう言った透子に、東吉は苦虫をかみつぶしたような顔をする。


「それ絶対に蛇塚の前では言うなよ」

「さすがの私もそれぐらいの分別はあるわよ」


 ふたりの様子を見ていると、梓は蛇塚から一定の距離を保っており、その顔は不快感を滲ませていた。
 花嫁がいながらエスコートをしないのは、あまりにも外聞が悪い気がする。
 蛇塚が梓の手を取ったが、すかさず梓は手を払いのけていた。
 さすがにこんな場で声を荒げるまねはしなかったが、見ていれば分かるほどに険悪だった。

 まあ、梓が一方的に険悪な空気を出しているだけで、蛇塚の方は仲良くなろうと必死のようだが。

 けれど、梓にはその必死さが伝わらないのか、それをウザいと感じているのか、蛇塚から離れていった。
 ひとりとなり、しょんぼりしている蛇塚のもとに行く。


「おーい、蛇塚」


 東吉が声をかけると、蛇塚は気が緩んだように目を潤ませ、泣くまいとするように顔を歪めた。
 怖い顔がさらに怖いことになっている。


「分かった分かった。お前の気持ちは分かったから、ここでは泣くなよ」


 蛇塚はこくりと頷いたが、いつ涙腺が決壊してもおかしくない。
 こんな人目のある場所で泣き出したら注目を浴びてしまう。
 それでなくとも、玲夜の花嫁ということで柚子には視線が集まっているというのに。
 そうなると、蛇塚にとっても梓にとってもよくない噂を呼び起こしかねないので、我慢してもらわねばならない。


「とりあえず、なにか飲む?」


 柚子が気分を落ち着かせるべく、ウェイターから飲み物をもらい蛇塚に差し出すと、小さな声でお礼を言って飲み物を手にした。
 ちびちび飲み始めた蛇塚。
 柚子たちがいることで少し落ち着いてきたようだ。
 あのままだったら、確実に泣いていたかもしれない。


「相変わらず話できてないの?」


 無言でこくりと頷く蛇塚に、柚子たち三人はなんとも言えない顔をする。


「こんなにいい奴そうそういないんだけどな」


 蛇塚との付き合いも長い東吉も歯痒いようだ。


「ねえ、梓なんか止めて他の子を好きになることはないの?」


 透子が口にした素朴な疑問。
 花嫁を見つけたあやかしは他の女性を好きになることはあるのか?
 それはあやかしの本能が分からない人間である柚子たちが一度は考えてしまうことだ。

 その問いに対して、蛇塚は寂しげな笑みを浮かべ、東吉は首を横に振った。


「そう簡単にできたら楽なんだろうけどな……。一度花嫁と出会うと駄目なんだよ。こればっかりは、花嫁を見つけたあやかしにしか分からないだろうな」
「そう……」

 まるで呪いのようだと柚子は思った。決して口にはしなかったが。


「梓が蛇塚のよさに気付いてくれたらいいのにね。って、そんなことを私たちから言ったところで、梓は余計に反抗するんでしょうけど」


 透子のもどかしさが柚子にも伝わってくる。
 柚子も、蛇塚の優しさを知ったためにどうしても蛇塚側の視点でものを見てしまう。そんな柚子たちが梓になにかを言っても、さらに梓を意固地にさせてしまうだけだろう。
 透子も学習したのか、架け橋になろうなどと言い出すことはなかった。




「……そもそもさ、梓の好きな人って誰なの? いっそ、その人にこっぴどくふってもらえば、梓もあきらめて蛇塚に目を向けるかもしれないわよ」

「蛇塚、知ってるのか?」


 東吉が問いかけるが、蛇塚は知らないらしく首を横に振った。


「好きな人ってことは、別に恋人ってわけじゃないわよね?」


 透子の推理に柚子も頭を働かせ始めた。


「だと思う。けど、両片思いで本当は恋人同然だったっていう場合も……」


 柚子はそこまで言ってから、蛇塚の顔が泣きそうになっているのに気付き、慌てて訂正した。


「いや、あくまで可能性の話だからね。実際に相手も好きだったら、なにかしらアクションを起こしているだろうし。そういう男の人が現れたことないんでしょ?」


 蛇塚は頷いたが、その可能性を考えていなかったのか、不安そうな顔をしている。
 その時……。


「お願いします!!」


 ひと際大きな女性の声が聞こえてそちらを向くと、玲夜の姿があった。
 玲夜のそばには先ほどの声の主と思われる若い女性と、その女性を止めようとする複数の人がいた。


「君、鬼龍院様に失礼だよ」


 男性がそう言って女性に声をかけていたが、女性の目には玲夜しか入っていない様子。


「私の恋人になってください!」


 どうやら女性が玲夜に言い寄っているようだ。


「二番目でもいいんです! 一番になんて我が儘言いません。二番目が駄目なら三番目だって……。好きなんです」


 必死に訴える女性に向ける玲夜の眼差しは、柚子が見てもぞくりとするほどに冷たい。
 柚子には決して見せない冷酷な一面。
 女性もそんな玲夜の眼差しに気が付いたのか、怯えを見せた。


「目障りだ」

「玲夜様!」


 玲夜に縋り付こうとした女性を、すかさずそばにいた高道が間に入って阻止する。


「どうも躾のなっていない子供が紛れ込んでいたようですね。あなたごときが玲夜様の二番目だろうと三番目だろうとなれるとお思いですか? 身の程を知りなさい」


 高道が女性を威圧していると、主催者である大臣が慌てたようにやって来て、警備員らしき黒服の人たちに指示を出して、女性を会場から連れ出していった。
 へこへこと頭を下げる大臣を遠目に見ながら、玲夜はやっぱりモテるな、などと柚子は呑気に思っていた。
 あまりにも玲夜の態度が冷たすぎて、女性に好かれる玲夜に嫉妬を感じる前に、女性を不憫に思ってしまった。


「ほんと、若様って柚子といる時と他の女に対してだと表情も雰囲気も違うわよね。今、背後にダイヤモンドダストが見えたわ」


 そう言って透子は両手で腕をさする。


「鬼龍院様はもともとああいう方だ。他人なんてその辺の石ころと同じ、誰に対しても冷酷だ。だから、本当に頼むから失礼なことするなよ、透子」


 東吉はいつか玲夜の勘気に触れないか気が気でないようだ。


「なによ、私は別に失礼なことしてないわよ」

「その気安さが失礼なんだよ! 分かるか、お前が鬼龍院様に軽口叩く度に縮み上がりそうな俺の心臓がっ」

「にゃん吉が小身者なだけじゃないの?」


 東吉の心配は透子には伝わらないようだ。

 ふたりのやり取りを笑って見ていた柚子は、視線を玲夜に向ける。
 まるで示し合わせたかのように玲夜も柚子を見て、ふたりの視線が絡み合う。
 すると、先ほどの冷たい顔が嘘のように柔らかな笑みを浮かべた。
 それは柚子へ向けたものであったが、ふたりの距離は離れていたために、勘違いした者が続出しただろう。

 玲夜と目と目で会話していると、ツンツンと横っ腹をつつかれる。
 見ると、透子が肘で柚子を突いていた。


「なに?」

「あれ、あれ」


 柚子にだけ聞こえるような小声で指を差す方向にいたのは梓だった。
 梓はじっと一方を見つめていた。
 その視線をたどると、その先にいたのは玲夜。
 梓は他など目に入らないというように熱心に玲夜を見つめており、その表情はうっとりと見惚れる女の顔だった。
 柚子に嫌な予感が走る。


「透子……」

「うん。もしかして梓の好きな人って……」


 透子の表情も芳しくない。
 考えていることは同じようだ。
 幸い、話をしている東吉と蛇塚は梓の様子に気が付いていないようだ。


「蛇塚君には言わない方がいい、よね?」


 言ったら、蛇塚が再起不能になりそうだ。きっと涙腺は決壊することだろう。


「そうね。まだ確定したわけじゃないし。私たちの気のせいかも……」


 できるなら気のせいだと思いたかった。

 だが……。

 玲夜がこちらに向けて歩いてくる。
 当然だが、梓など目もくれず横を通り過ぎ、一直線に柚子のもとへ。
 柚子は玲夜ではなく、梓から目が離せなかった。
 梓は自身の横をあっさり通り過ぎた玲夜にショックを受けた顔をし、さらに玲夜が柚子に笑いかけ肩を抱くのを見て、それ以上に信じられないといった顔をしていた。

 透子に目を向けると、透子も梓の様子を見ていたようで、互いに視線を合わせ苦い顔をする。
 どうやら、嫌な予感が当たってしまったようだ。
 思いもよらず、梓の好きな人を知ってしまった柚子は、蛇塚に言うべきか頭を悩ませることとなった。



***


 柚子を透子に任せた玲夜は、高道を連れて挨拶回りに勤しんでいた。
 正直言うと、あまりこういう場は好きではない。

 面倒臭いというのもあるが、玲夜に寄ってくるのは鬼龍院というネームバリューに惹かれた強欲な者たちばかりだ。
 そうでない者も中にはいるのだが、そういう者はわざわざ自分から近づいてはこないので、欲深い自己主張の激しい者たちの勢いに負けてしまう。
 できれば、玲夜はそういう者たちとこそ話をしたい。その方が有益な会話ができそうなのにと、年下の玲夜相手に媚びへつらう者たちに冷めた眼差しを向けた。


 そんな玲夜は現在、とある政治家からしつこく支援を求められていた。
 汚職問題で揺れる地位の上にいる、名ばかりの腐った政治家。次の当選はないだろうと言われており、そのため鬼龍院の力を欲しているのだ。


「お願いいたします、鬼龍院様。どうか、どうにか私に力をお貸しいただきたい!」

「申し訳ないが、鬼龍院が手を貸すことはない」


 オブラートに包むことなく切り捨てれば、もう孫でもいそうな年齢の男は絶望の色を浮かべる。


「頼む! 鬼龍院にならばどうにかできるだろう? 私はこんなところで終わる男ではないんだ!! いずれ国のトップに立つべき人間なんだ。きっと後悔はさせない。だから……」


 玲夜の腕を掴んで縋りついてくる男の手を乱暴に振り払う。
 後悔させないとは言うが、とっくに後悔している。こんな男に目を付けられたことに。
 そもそも汚職問題を抱えている者を国のトップなどに立たせるわけにはいかない。それこそ鬼龍院の力を使ってでも阻止するだろう。


「しつこい」


 氷のように冷たい目で睨め付ければ、男はためらいを見せたが、男にはもう後がないのだろう。玲夜のひと睨みだけで追い返すことはできなかった。


「私がこんなに頭を下げているんだぞ!」


 顔を真っ赤にし、逆ギレを起こす男のなんと醜悪なことか。
 確かに鬼龍院ならばこの男が抱える汚職などなかったことにするのは容易い。
 だが、それだけの力を持っているからこそ、鬼龍院はこの男のような者には手を貸さない。

 戦後、政界にも強力な発言力を持つまでになったからこそ、鬼龍院はその力を使うことには慎重だ。
 こんな見るからに腐った政治家とは話しをすることすら時間が惜しい。だが、こういうのに限って無駄にしつこいのだ。


「面倒な」


 舌打ちをして、さらに顔が険しくなった玲夜を見て、これ以上機嫌が悪くなるのはよろしくないと感じた高道が男との間に入る。


「失礼ですが、玲夜様は他の方とお話がありますので、この辺で失礼いたします」

「そんな、待ってくれ!」


 追いすがる男を視界から外し、背を向けようとしたその時、玲夜の足を止める声がした。


「いいじゃないか、鬼龍院。もう少しぐらい話を聞いて差し上げたら」


 声を発した人物を見る。
 それは先日も会った、玲夜の同級生であった陰陽師の一族、津守幸之助だった。
 相変わらず人のよさそうな笑みを貼り付けた男は、玲夜を前にしてもその表情を変えることはない。


「ああ、津守君」


 先ほどまで玲夜に縋っていた政治家の男が、津守を見て表情を明るくする。


「お久しぶりですね、先生」


 どうやらふたりは知り合いらしい。


「津守君からも彼に言ってくれないか? 私について損はない。きっと鬼龍院のためになると」


 幸之助は男から玲夜へ視線を向けると、さらに笑みを深めた。


「だそうだ。どうだろうか、鬼龍院。先生には俺もお世話になっているし、ここは同級生のよしみで、せめて話だけでも聞いて差し上げてくれないか?」


 穏やかで紳士的な空気をまとわせ、玲夜と対峙する幸之助は、一見すると好青年に見える。
 だが、玲夜の心の欠片すら動かす力はなかった。


「だからなんだ? 同級生だからといって、お前とはほとんど関わりはなかっただろう。そんな奴に頼まれてなぜ俺が耳を貸さなければならない?」


 どこまでも冷たい玲夜の眼差し。
 だが、冷たい以上に、その目には興味や関心というものが一切なかった。
 同級生といえど、玲夜には幸之助も今日初めて会った政治家の男と対して変わらないのだ。
 あるのは無関心。