鬼の花嫁2~出逢いと別れ~


プロローグ


 多くの国を巻き込んだ世界大戦が起き、その戦争は各国に甚大な被害と悲しみを生み出した。

 それは日本も例外ではなく、大きな被害を受けた。

 復興には多大な時間と労力が必要とされると誰もが絶望の中にいながらも、ようやく終わった戦争に安堵もしていた。

 けれど、変わってしまった町の惨状を見ては悲しみに暮れる。
 そんな日本を救ったのが、それまで人に紛れ陰の中で生きてきたあやかしたち。


 陰から陽の下へ出てきた彼らは、人間を魅了する美しい容姿と、人間ならざる能力を持って、戦後の日本の復興に大きな力となった。
 そして現代、あやかしたちは政治、経済、芸能と、ありとあらゆる分野でその能力を発揮してその地位を確立した。

 そんなあやかしたちは時に人間の中から花嫁を選ぶ。

 見目麗しく地位も高い彼らに選ばれるのは、人間たちにとっても、とても栄誉なことだった。
 あやかしにとっても花嫁は唯一無二の存在。
 本能がその者を選ぶ。

 そんな花嫁は真綿で包むように、それはそれは大事に愛されることから、人間の女性が一度はなりたいと夢を見る。


 しかし、花嫁に選ばれたからといって、すべての女性がそれを望むわけではない。
 あやかしは本能で花嫁だと分かるが、ただの人間である花嫁にはそれが分からない。
 あやかしが心から愛したとしても、人間の花嫁が必ず愛情を返してくれるとは限らないのだ。
 そのことで、苦しみ、悲しむ、あやかしと花嫁がいることを忘れてはならない。




一章


 柚子の通う高校では、大学受験の日が迫ってきて、進学組の三年生はなにかとピリピリし出してきた。


 そんなとある日、柚子は教師に呼ばれて職員室にやって来た。

 基本真面目で授業態度も成績もそこそこよく、教師からの評価も高い柚子が、教師に呼び出しをされることはこれまで滅多になかった。

 けれど最近では、子鬼のやらかしで呼び出されることが増えていた。

 柚子を花嫁に選んだ玲夜が柚子の護衛のために作り出したふたりの子鬼は、その見た目のかわいさに反して、そこらのあやかしぐらいなら倒してしまえるほどの霊力を込められている。

 柚子以外にはクールな玲夜から作られたとは思えない愛想のよさを持った子鬼たちだが、やんちゃな面も兼ね備えていたので、最近は柚子の頭が痛い問題を起こすことがあった。

 例えば、男子生徒に見せられたゲームの動画を見て、主人公の必殺技を真似して花瓶を破壊したり。
 例えば、全校集会で、イケメンと人気だった教師のヅラを取りキャッチボールを始め、全校生徒の前で若ハゲを暴いたり。
 例えば、雨の日の水溜まりでスライディングをして全身を汚したまま廊下を走って泥だらけにしたり。

 他にも多数、例を挙げればきりがない。

 だいたいは、目をウルウルさせた上目遣いの子鬼のかわいさに撃沈し、最終的には仕方ないねという空気になるのだが、さすがにヅラを全校生徒の前で取られた教師は不憫だった。

 これには、子鬼に甘い教師たちも雷を落とし、柚子は若ハゲ教師に菓子折を持って謝りに行くことになった。


 なので、また子鬼がなにかやらかしたのだろうかと思いながら職員室に入り、担任の教師のところへ行く。


「おお、来たか」

「先生、また子鬼ちゃんたちがなにかしましたか?」


 子鬼たちは怒られるのではないかと、柚子の肩の上でビクビクしている。
 怯えるということは、心当たりがあるのだろう。今度はいったいなにをやらかしたのやら。

 今度という今度は柚子も甘い顔はせず玲(れい)夜(や)から叱ってもらおうかと考えていると、担任は柚子の肩に乗った子鬼たちを苦笑交じりで一瞥した後、柚子に視線を戻した。


「いや、今回は違うぞ」


 それを聞いて子鬼たちは、あからさまにほっとしていた。


「じゃあ、もしかして私ですか?」

「ああ。これだよ、これ」


 そう言って差し出された一枚の紙。それは柚子の進路の希望を書いたものだ。


「進路希望の紙は出していたはずですけど、不備がありましたか?」

「いや、お前その進路で本当にいいのかと確認しておこうと思ったんだよ」

「なんの確認ですか?」

「お前花嫁になったんだろう?」

「はい」


 今さら確認せずともこの学校の人間なら誰でも知っているはずなのに、なぜ聞くのかと柚子は不思議に思う。


「花嫁なのに、そんな遠くの大学でいいのか?」

「……あっ!」


 そこでようやく合点がいき、マズいことに気が付いた。


「全然よくないです!」

「なら早めに保護者と話し合って訂正してこいよ。じゃないと受験日なんてあっという間に来るぞ」

「はい」


 気を利かせてくれた担任に感謝しながら職員室をあとにした柚子は、教室に戻って頭を抱えた。



「うーん……」

「またなんか悩んでるわね」


 頭を抱える柚子を、小学校からの腐れ縁である友人の透子が呆れたように見ている。


「年中悩んでないか、こいつ?」


 透子の恋人である猫田東吉も透子に同意する。
 柚子や透子からはにゃん吉と呼ばれている東吉は猫又のあやかしで、透子はそんな東吉の唯一無二の花嫁だ。


「この間は子鬼ちゃんの躾について悩んでたわね」

「若ハゲ教師に持ってく菓子折になにを持ってくかでも悩んでたな」

「あんなやつに持ってく必要なかったのにね」


 なぜか透子は不満そうに眉をひそめる。


「なんでだよ? さすがにかわいそうだろあれは」

「知らないの? あいつイケメンなんて騒がれていい気になってたけど、一部の女子にセクハラギリギリのことしてて嫌われてたんだから。むしろ、子鬼ちゃんグッジョブって思った女子は、ひとりやふたりじゃないはずよ」

「そうなのか? エロ教師め。まさか透子は被害に遭ってないだろうな?」

「花嫁に手を出す馬鹿ではなかったみたいよ」

「それならいいが……」


 そうでなかったら、東吉によって社会的に制裁されていただろう。
 だが、透子に害がないなら動かないところが、花嫁を持つあやかしらしい。


「で、柚子はなにに悩んでんだ?」

「子鬼ちゃんたちがまたなにかやらかしたの?」


 問うてくる東吉と透子に先ほど渡された進路希望の用紙を見せる。


「これって進路希望の用紙じゃない。それがどうしたの?」

「志望の大学のところ……」


 柚子の第一志望はここからずっと遠くの地方にある大学であった。
 そして、第二志望は就職。場所は同じくここから遠い場所を希望している。


「マズいよね?」

「そりゃマズいわね」

「お前、花嫁の自覚ないだろ」

「仕方ないじゃない。この希望用紙提出したのは玲夜と出会う前だったから」


 その時の柚子はというと、妹の花梨とあからさまな扱いの差をつけられながら過ごしていた。我が儘な花梨と無関心な両親にあきらめを覚え、我が家でありながら居場所のない孤独を感じるその家から早く出ることを切に願っていた。

 早く家族と関わりのない遠い地へ行きたい。

 その時はそればかりを考えていたので、第一志望の大学は家から通学するのが難しい遠い場所を選んだ。

 無関心なあの両親が柚子にこれ以上お金をかけることを嫌がった場合も考えて、就職という道も視野に入れていたが、その場所もやはり家から離れ一人暮らしができる遠い地と決めていた。

 だから、進路希望に書かれた志望先は、すべてここから離れた土地のものばかり。


 しかし玲夜の花嫁となかった今、ひとり暮らしが必要な遠い地へ行くことを玲夜が許すはずがなかった。


「この大学選ぶのにもかなりの時間をかけて悩んだのに、今から新しく大学を捜すなんて……」


 受験までもう目前。柚子の学力で合格できそうなランクで、玲夜の屋敷から通える大学を早く決めなければ。

 一応担任が柚子の成績を鑑みて、いくつかの大学をピックアップしてくれていたのは助かる。その中から、早めに選ばなければいけない。

 就職という道もあるが、玲夜がいい顔をしないだろう。今のバイトも玲夜の会社で玲夜の目の届くところにいて仕事を手伝う分には目を瞑ってもらっているが、以前玲夜の秘書の荒鬼高道からも、花嫁が働くのはあまりよろしくないと聞かされていたので、反対されることが予想される。

 花嫁ひとり養えないのかと取られて、恥ずかしいことなのだそうだ。
 柚子自身はそんなこと気にしないが、どこにでも上げ足を取りたい者はいるのだろう。




「困った……」


 とりあえず家から出て、いずれ就職することを視野に入れて選んだ以前の大学と、就職する必要がなく、玲夜のすねをかじりまくりながら花嫁として生きる今の柚子が選ぶべき大学ではまったく変わってくる。将来への方向性が激変してしまった今、本当に最初から選び直しだ。

 もっと早くに気付いておくべきだったが、今さら後悔しても遅い。


「どうしよぉぉ」


 子鬼がよしよしと頭を撫でるが、それで悩みが払拭されるわけではない。まあ、癒されはするけども……。


「そんなに悩まなくても、私と同じかくりよ学園の大学部に進学すればいいじゃない」


 柚子はぱっと顔を上げた。


「かくりよ学園?」

「そうよ。そもそもあやかしや花嫁の大半はかくりよ学園に通っているものよ。私は柚子と一緒の高校に行きたかったからこの高校にして、にゃん吉もついてくることになったけど、にゃん吉だってもともとはかくりよ学園に通っていたんだから」


 東吉を見ると「そうそう」と頷いた。


「さすがに大学は柚子が遠くにするって言うから、私も大学はかくりよ学園の大学部に入ることにしたけどさ」

「かくりよ学園……」


 その選択肢は柚子にはなかった。けれど、よく見たら担任から渡された大学のパンフレットの中にかくりよ学園のものもあった。


「でも、あそこ入学金も授業料も半端なく高いんだよね」


 妹の花梨は小学生からかくりよ学園の初等部へ入っていたので、入学金と授業料の高さを柚子はよく分かっていた。
 花梨が妖狐のあやかしである狐月瑶太の花嫁に選ばれて狐月家から支援を受けるようになるまでは、両親は親類に借金をしてなんとか通わせていたほどだ。

 その頃はなにかあるたびに金がないと愚痴をこぼしていた両親のことを覚えている。

 そんなに困っているなら花梨を公立の学校に行かせればいいのにと、子供ながらに何度思ったことか。
 なので、授業料の高いかくりよ学園は頭に浮かびすらしなかった。
 けれど、そんな柚子の心配を透子が一蹴する。


「なに言ってるのよ。天下の鬼龍院の若様の庇護下にあるあんたには無縁の心配でしょうが」

「まったくだ。鬼龍院の財力なんて俺の家なんか足下にも及ばないんだぞ」


 東吉も呆れたように同意する。
 しかし、生真面目な柚子は金持ちと分かっていても、玲夜にお金を使わせることをよく思わなかった。
 玲夜は普段から柚子にお金を掛けることに糸目を付けない。
 衣食住。すべてに最高級のものを用意しようとするのだ。
 未だに一般庶民な感覚から抜け出せない柚子には、玲夜のお金の使い方に気後れする時がある。


「あんまり玲夜に頼るのもなぁ」

「柚子は真面目すぎるのよ。もっと若様に甘えなさいよ」

「十分甘えているつもりだけど……」


 甘えているつもりだが、返せるものがないのを分かっているから、柚子は自分から玲夜になにかをおねだりすることは滅多にない。
 お金を必要とすることならなおのこと。


「見返りを求めていたら、柚子を花嫁になんかしないわよ」

「それは分かってるけど……」


 柚子に渡せるものがなにもないのは自分がよく分かっていた。それでも選んでくれた玲夜にあまり迷惑はかけたくない。玲夜にとってはそんなこと迷惑のうちに入らないと思っていても。


「うーん、どうしよう。花嫁になるなんて想定外だったからなぁ」

「まあ、まだ時間あるから若様に相談してみたら?」


 どっちにしろ、大学に進むなら入学金や授業料、その他備品を揃えるのにも玲夜の庇護が必要になる。
 柚子としてはとてつもなく気が引けるのだが、強引な玲夜のことだ。うまく柚子を言い負かして、結局払ってもらうことになるのだろう。
 けれど、できるだけその金額は抑えたいと思うのは柚子の自己満足だ。


「そうだね、要相談かな……」


 帰ったら玲夜に相談することにした。





 その日はバイトがなかったので、そのまま屋敷に帰り、担任から渡されたパンフレットを見ながらネットで大学を検索して、情報を仕入れながら玲夜の帰りを待った。


「ここは公立だから入学金も授業料も他より安い……けど、教育内容はあんまり興味を引かれないなぁ。こっちの大学の講義は気になるけど、私立で高い。まあ、かくりよ学園ほどじゃないか……。けどなぁ、うーん」


 調べながら唸っていると、不意に声が掛けられた。


「なにをぶつぶつ言っているんだ?」


 突然の声にびっくりして、体が震える。
 振り返ると、いつの間にか帰ってきていた玲夜がすぐ後ろに立っていた。


「あ……玲夜、おかえりなさい」

「ああ。今帰った」

 スーツの上着を脱いでソファーの上に投げると、玲夜は柚子を後ろから抱きしめるように座った。
 今日も今日とて麗しい容姿をした玲夜に、こうして抱きしめられると未だにドキドキしてしまう。
 吸い込まれそうな紅い目と漆黒の髪は、玲夜の人間離れした美しい顔を際立たせている。

 玲夜は最強のあやかしである鬼であり、あやかし界のトップに立つ鬼龍院の次期当主である。それだけにとどまらず、人間の世界でも鬼龍院は政経界において強い発言力を持っている鬼龍院グループの社長もしているのだ。
 そんな鬼龍院の次期当主の花嫁が自分だなどと、未だに柚子は夢ではないかと思う時がある。

 当然の流れのように頬へキスをする玲夜に、柚子は恥ずかしそうに頬を染める。
 そんな未だに初々しい反応をする柚子に玲夜は小さく笑む。


「なにを調べていたんだ?」


 後ろから柚子の見ていたパソコンの画面を見た玲夜は、次にテーブルの上に置いていた大学のパンフレットと共にあった進路希望の用紙を手に取り目を通す。


「見事に遠いところばかりだな」

「うん。早くあの家を出たくて決めたところだから。でも、今はそんな必要ないでしょう?」


 こんな聞き方ができるのは、玲夜が自分を好きでいてくれていると信じているから。
 少し前の柚子には考えられなかったことだ。
 顔だけ後ろに向けて玲夜に問うと、唇を塞がれる。


「当たり前だ。行きたいと言われても、こればかりはどんなに柚子がねだったところで許すことはない」

「うん。だから、早くどこの大学行くか希望出さなきゃいけないの。でも、これまでは家から出たいとか、その後の就職のしやすさとかを第一に考えて選んでいたから、どう選んだらいいか分からなくて」

「柚子の学びたいことを選べばいい」

「それが難しいんだよ。学びたいことより、どう生きていくかの方が大事だったから、なにを学びたいか考えたことなくて」


 そう。これまで優先してきたのは、ひとりで生きていくこと。大学に行くのもそのための手段だった。

 今さら好きなことをしたらいいと言われても逆に悩む。
 家を出たいという願いを失った今の柚子には、目的も目標もなかった。
 それまで強固に持っていた目標がなくなったことで、まるで突然迷子になってしまったような心もとなさを感じる。

 玲夜はそんな柚子の表情を見て不安定な心に気付いたのか、こめかみに優しいキスをして、より柚子を抱きしめる手に力を入れた。


「どの大学も決定打に欠けるなら、かくりよ学園にしたらどうだ?」

「それ透子にも言われた。あやかしや花嫁の多くはかくりよ学園に通っているって。透子とにゃん吉君も大学はそこに行くらしいけど、玲夜もそこに通ってたの?」

「ああ。俺も卒業生だ。あやかしはだいたい入るな。割合はあやかしが人間より多い。そもそも、かくりよ学園はあやかしに人間の中で暮らせるように教えるために作られた学校だから当然だが」

「そうなんだ」

「昔はもっとあやかしの割合が多かったが、最近ではだいぶ人間が入ってくるようになったようだな。だが、まあ、そのため今の学園は多くなった人間への配慮もされているから、柚子が入っても困ることはないはずだ。それに今なら桜子が大学部に通っている」

「へえ、桜子さんは大学生なんだ」

 元玲夜の婚約者で、才色兼備と聞く鬼山桜子。
 柚子が出会った女性の中で一番綺麗だと思った人だ。
 あやかしは年齢が分かりづらく、桜子は大人っぽいので大学生とは思わなかった。
 思ったより自分と年齢が近いことを知った。
 だが、まあ、少し前に問題となった、玲夜と高道を主人公にした過激な漫画は、漫画同好会なるところで作られたらしいので、そう考えると学生であることが分かる。




「桜子さん綺麗だから大学でも大人気だろうね」


 桜子に恋焦がれる男子学生たちの姿が目に浮かぶようだ。


「……まあ、ある意味人気だろう。今の大学部で一番権力があるのが桜子だからな」

「権力?」

「あやかしが多いからな。それに授業料も高いから、通っている人間の多くも資産家の子が多い。そうなってくると、鬼であり鬼龍院の筆頭分家で、あやかしとしても霊力が強く社会的地位も高い鬼山家の娘に逆らえる者は今の大学部にはいない。きっと学園を支配する女王のように振る舞っているはずだ」

「女王?」

「そう、女王だ」


 儚げでお淑やかな印象の桜子と女王という言葉が繋がらなかった。どちらかと言うと、お姫様の方が相応しいように思うのだが。


「まあ、それも柚子が入学すればひっくり返るがな」

「えっ、なんで?」

「鬼龍院の次期当主である俺の花嫁である柚子が、分家の桜子の下になるわけがないだろう。柚子が入学すれば柚子が女王だ」


 ニヤリと玲夜が笑う。


「え……」


 柚子の頬が引き攣る。


「学園を牛耳ってみるか?」


 玲夜は甘い睦言を言うように耳元で囁く。


「それ聞いて、余計に行きたくなくなったんだけど……」


 小市民な自分が学園を支配するなど冗談ではなかった。


「俺の花嫁となるということは、そういうことだ。まずは学園で体感してくるのも勉強になる。媚びへつらう人間のあしらい方とかな。この間の酒宴のように、俺の隣でパーティーに参加する機会も多くなってくるんだ。かくりよ学園での生活はいい経験になると思うぞ。大学には桜子とは別の分家の鬼もいるから、なにかあった時も安心だしな」

「けど、かくりよ学園は授業料とか高いし……」


 躊躇いがちにそう言うと、首筋をがぶりと噛まれた。


「ひゃっ」


 甘噛みだったので痛くはなかったが、柚子は突然の玲夜の奇行に驚く。
 顔を見ると、どうやら怒っているようで、紅い目が鋭く煌めいている。


「いい加減に慣れろ。お前は俺のなんだ?」

「花嫁です……」

「その通りだ。俺はお前のために金を惜しむつもりはない。そもそもそれぐらいで傾くほど鬼龍院は小さくないぞ。それともお前は俺が授業料ごときでガタガタ言う小さな男だと思っているのか?」

「思ってないし、鬼龍院の凄さは分かっているけど……。どうしても値段を見ると、前働いていたバイトの時給で換算しちゃって。これで何時間分の給料になるって思ったら、気軽に払ってなんて言えないんだもん!」


 鬼龍院の花嫁になったところで急に性格や価値観が変わるわけがないのだ。


「……生真面目なのも考えものだな」


 呆れたように溜息をつく玲夜。


「透子と同じこと言うし」


 柚子はそれほど自分を真面目とは思っていないので不服そう。
 だが、働いてお金を稼いだ経験のある一般庶民なら、普通に気になることだと柚子は思うのだ。


「金持ちが憎い……」


 お前のために金を惜しむつもりはない!などと、一度は言ってみたいものだ。
 衣食住を玲夜に頼っている柚子には一生掛かっても言えないだろうが。
 まあ、それは置いておいて、これ以上ごねたとしても玲夜が不機嫌になるだけだろう。それは後々よくない形で自分に返ってくるのでそれ以上言うのは止める。


「かくりよ学園か……」

「入るならこちらで入学の手続きをしておく」

「えっ、試験は?」

「一般の者ならあるが、花嫁は簡単な面接だけだ。言っただろう、あやかしのために作られた学校だと。あやかしや花嫁なら願書を出せば全員受かる。面接も建前上のものだしな」


 そう言われて思い返すと、確かに透子や東吉は、受験に向けて休み時間も勉強する者がいるぴりついた教室の空気の中、進学するとは思えないのほほんとした雰囲気で過ごしていた。勉強しなくて大丈夫なのかと心配していたが、そもそもする必要がないからなのかと納得する。


「どうする?」


 問う玲夜に、柚子は眉間に皺を寄せて唸る。


「うーん、受験勉強から解放されるのは心惹かれるけど、どういう学校なの? 講義内容とか」

「それは今通っている者に聞いた方がいいだろう。俺がいた時とは多少変わっているだろうし、男と女では感じ方も違うだろうから」

「今通っているって桜子さん?」

「ああ。週末に来ることになっている。報告があるらしい」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ、その時にでも聞いてみようかな」

「ああ、それからどうするか決めたらいい」

「うん。ありがとう、玲夜」


 どこまでも柚子に甘い玲夜は、かくりよ学園に行くことを強制はしなかった。
 恐らく玲夜としてはかくりよ学園に行った方が玲夜の力も及ぶし、同じ鬼も通っているので柚子を守りやすく、色々な面で都合がいいだろうに。
 感謝を述べると、玲夜は柚子にだけ見せる優しい笑みを浮かべた。




 迎えた週末。

 桜子が屋敷にやって来た。

 てっきり玲夜への報告かと思ったが、なぜか柚子も同席を求められる。
 自分も?と確認したがそれに間違いはないようで、玲夜の隣で桜子を迎えると、これまた不思議なことに桜子のすぐ隣に高道が座った。

 向かい合わせで座る四人。
 上座に座る玲夜と柚子に、桜子と高道が仰々しく頭を下げる。


「この度、桜子との婚約が決まりましたのでご報告に上がりました」


 その高道の言葉を玲夜は静かに聞いて頷いたが、柚子には寝耳に水。
 目を大きく見開き、思わず「えぇー!!」と叫んでしまった。


「嘘! ふたりが!? いつの間にそういう仲に!?」

「柚子、落ち着け」


 そう冷静に玲夜が言ってくるが、柚子はとても落ち着いてなどいられない。


「玲夜こそ、どうしてそんな冷静なの! 高道さんと桜子さんだよ!?」


 玲夜の元婚約者の桜子と玲夜の秘書の高道。ふたりは昔からの知り合いであることは聞いていたが、柚子には予想外の組み合わせだった。
 しかし玲夜はどこまでも冷静そのもので、驚きなど微塵もない。


「当然の成り行きだ。俺に柚子が見つかって、桜子との婚約が白紙になった時点でそうなるとは思っていた」

「どうして?」


 柚子にはどうしてそうなるのか分からない。
 そんな柚子に、玲夜は丁寧に説明した。
「桜子の鬼山家も高道の荒鬼家も分家の中では最も鬼龍院に近く、古くから当主を近くで支えてきた。だから信頼のあるこの二家には鬼龍院の者が嫁や婿に行くこともあり、そのせいか鬼の中でも霊力が強い。基本的にあやかしは霊力の強さの釣り合いを考えて婚姻が決められる。俺に釣り合う年齢と霊力を持つ女が桜子だったために婚約者に選ばれたが、それが白紙となったら次に桜子と釣り合う未婚の男は高道だ」

「そういうことなんだ……」


 しかし、あやかしの世界とは無縁の世界で生きてきた柚子には少し疑問が。


「ふたりはそれで納得しているんですか?」


 昔と違い政略結婚というものを時代後れと感じている現代っ子の柚子には、大きなお世話と思いつつふたりがそれでいいのか心配になった。


「ええ、私は納得していますよ」

「私もですわ」


 淡々と答えた高道と違い、わずかに頬を染めて高道をちらりと見上げて嬉しそうにはにかむ反応を見せた桜子に、柚子はおやっと思う。
 これはもしや……。
 柚子はひとり心の中で興奮し始めた。


「まあ、桜子のことは昔から知っていますし、いずれは玲夜様の奥方として仕えると思っていたのでまだ少し変な感じはしますが、玲夜様の婚約者に選ばれるほどの器量のよさは分かっていますからね。不満などありません」


 それを聞いて、桜子は恥ずかしそうに手を頬に添える。


「まあ、そんな。器量よしで素敵なお嫁さんをもらえて天にも昇りそうだなんて。高道様ったら」

「そこまでは言っていませんよ」


 うふふっと笑う桜子はどこか上機嫌で、うかれているように感じる。
 これはやはり……。
 柚子の女としての勘が働く。


「結婚はいつするんだ?」


 玲夜がそう問うと、高道は少し考えてから……。


「そうですね。恐らく桜子が大学を卒業してからになるでしょう。もしくは玲夜様と柚子様の婚姻を見届けた後か……。ですが、おふたりのお子様に仕える跡取りは早めに欲しいとも思いますので、両家の話し合いで早まる可能性もあります。桜子も学生結婚になったとしても問題ないと言っていますし」
「そうだな。のちの当主の側近となる者は早めに教育していてもらいたい。俺に高道がつくようになったのも子供の頃だしな。高道の子ならば俺の子供も安心して任せられる」

「玲夜様にそう言っていただけて光栄です」


 玲夜に褒められて、玲夜至上主義の高道の頬が緩んでいるが、柚子はそれどころではない。
 高道の話に出てきた玲夜との結婚……。
 花嫁としてここにいるのだから、いずれは結婚となるのは分かっていたはずなのに、いざ話に上ってくると急に実感が湧いてきて、恥ずかしいやらなんやら。
 しかも、子供の話とか早すぎると、頬が熱くなるのを感じる。
 ちらりと玲夜の顔を見ると柚子との結婚と聞いても顔色ひとつ変えていない。
 淡々と子供のことを話している玲夜と高道に、あやかしは淡泊というか現実的なのかもしれないと感じる。
 柚子は結婚やら子供やら色んな妄想が頭を駆け巡って大騒ぎになっているというのに。