絶対に兄ではない。それがわかっていたので、あまりにも怖くてとっさにふり向けなかった。心臓はまるで、乾燥機にいれたスニーカーのように激しく跳ねまわっている。心臓にとっては本当に慌ただしい一日だった。ああ、こんなに酷使したら、今夜にも止まってしまうのではないだろうか?
 肩に手を置く、という動作ができるのは、一般的には人間だけだ。いや、大型犬にもできるのかも。そういう動画を見たことがある気もするし――?

「えっと」
 犬のことを考えたらよけいに混乱してきた。いまなにか、また声を聴いた気がする。「えっと」?
 なにかが、顔をのぞきこんでいた。いや、なにかが、ではない。《《誰か》》が。
「あ、わ……」
 またも、悲鳴は出なかった。顔はほとんど横倒しに見えた。あまりに背が高いので、上半身を倒すような格好になっているのがわかる。
 そのことに気がついて、恐怖はほとんどパニックになろうとしていた。スマホを持つ手がじっとりと汗ばみ、口のなかがからからに乾く。《《誰か》》は男だ。しかも、かなり大柄な。
 店舗兼住宅で、この回廊はトイレに行く客も通る場所だが、店はランチタイムにしか開けていない。だから、もちろん客ではない。そもそも、今日の予約客に男性はいなかった。
 でも、このあたりには飲食店が多く、夜遅くまで営業している店もたくさんある。そのなかの客の一人が酔った勢いで侵入してきた、というのは、まったく考えられないことではない。酒の匂いはしないけれど……
 男はかすかに鼻を動かした。洋画で見る俳優の横顔のように、高くて形の良い鼻だ。匂いを嗅がれた、と気がついてさらにぞっとする。なぜかはわからないが、男はミクの恐怖とパニックを嗅ぎとったような気がした。

「しーっ。怖がらないで」
 急に降ってきた声は穏やかで低く優しく、そのことがいっそう恐怖をあおった。男は怖がっていない。怖い思いをしているのは、ミクだけなのだ。
 ああ、あの犬がいまここにいたら。
 もしかしてこの悪漢(?)に噛みついて、追い払ってくれたかもしれないのに。
 祈るような気持ちでスマホを握りしめていると、ぺた、とまた音がした。意識の片隅で、ようやくそれが裸足の足音であることに気づく。背後から、彼女の前に移動したのだ。