開店直後から、予約の客の対応で忙しかった。

 席に案内し、注文を聞き取り、キッチンに伝える。そのくり返し。料理を運ぶのは兄もやってくれるが、まだまだ、彼女自身が不慣れで慌てることも多い。

(でも、今日がんばったら、あの犬が家に来るんだ……)
 そう考えると、嬉しくて頬がゆるむ。

 玲央(れお)は生き物を飼うのには慎重なタイプだ。だから犬を飼うことを勧めてくれたときは本当にびっくりした。同時に、そんなに心配をかけているのかとちくりと痛む部分もあったのだけれど……。
 でも、大きな、優しそうな犬だった。犬はまだ少し怖かったが、譲渡会のスタッフからはめったに吠えない穏やかな性格だと聞いていた。
 あんな犬と暮らせたらどんなに幸せだろうか。あのうっとりするようなマホガニー色の目。檻のなかから出て、ドッグランで思いっきり走れるようにしてあげたら、喜んであのふさふさした尻尾を振ってくれるだろうか。走ったらきっと、あの短い体毛と皮膚の下に、みっしりと筋肉のかたまりが動いているのが感じられそうで……。

「わっ」
 客の声に、ガシャンッ、と固い音が続いて、ミクははっと我に返った。音からしてランチプレートだろう。落ちたか、机の上で割れたのだろうか?
「痛っ」
 首をめぐらすと、窓際の女性二人組だった。中腰になっているところを見ると、庭の写真を撮ろうとスマホを構えていたところ、身体のどこかが皿にぶつかってしまった、と言ったところだろうか。
「大丈夫っ!?」
 もう一人があわてて立ちあがるのと、ミクが駆け寄るのは、ほぼ同時だった。「大丈夫ですか?」
「わあっ、すみません」
 女性は痛みに顔をしかめながらも、恐縮した様子だった。その指から鮮血がしたたっているのを見て、どきんと心臓が跳ねる。皿のかけらを拾うふりをして、とっさに目をそらした。
 頭上から、二人組の会話が聞こえた。
「もうー、気をつけなよ。びっくりしちゃうじゃない」
「ごめんごめん」
「けっこう血、出てるね、大丈夫かな」
 一瞬静まり返った店内も、すでに落ち着きをとり戻していた。