「てぃあら、遅れるってよ」
玲央がスマホを操作しながら言った。
「なにかあったのかな?」
夏休みなので、学校の用事ではないはずだ。玲央も首をひねった。「さあ、どうしたんだろうな? ……」
八月終わりの生ぬるい夜の、じっとりとまとわりつくような湿った空気のなかを、三人で歩いていく。ひときわ背が高いクロは人ごみのなかでも目立ち、通りすがりの浴衣女子たちが「きゃあ」と華やいだ声をあげた。子どもたちが屋台を見つけて、一目散に走っていく。
地元歴の長い玲央は、中州へわたる橋の近くに適当なスペースを見つけだして、レジャーシートを敷きはじめた。
じきに、公園内にアナウンスが流れ、花火がはじまった。
動きを止めた観客たちが、いっせいに空を仰ぎ見る。切り裂くようなヒュウッという音に続いて、ぱあっと空が輝き、パァンという破裂音が残る。花開いた光の輝きに、ミクは思わずみとれた。
クロは意外にも、音に驚くことなく自然に花火を見あげていた。精悍な顔の上で、光の筋が躍っている。
かなりの数の花火が、そうやって夜空を彩っては、散っていった。
内気な性格はどうしようもなくても、せめて流血への恐怖だけでも克服できればいのに、と隣で花火を見あげるミクは思った。そうしたら、少しは自分に自信がもてると思うのに。
どこかで子どもが転んだようで、ばたんっ、という音とともに泣き声が響いた。大人の笑い声がしたから、そこまで大げさなものではないのだろうが、一瞬どきっとする。
自分にも、転んでひざをすりむいても気にもかけないくらい活発だった時期があったのに、と思う。そう考えてから、ふと頭の中に疑問符が浮かんだ。
少なくとも小学生くらいの間は、男子にも負けないくらいやんちゃをしていた記憶がある。中学生の頃は、走るのが早くてリレーの選手に選ばれたこともあったはずだ。
いったいいつから、こんなふうに内気で怯えやすい自分になったのだろう? たしかあの頃から、犬を飼いたいと思うようになって……。
だが、その疑問はあまりにも漠然としていて、すぐに霧散してしまった。
(てぃあら、まだ遅くなるのかな)
それよりも、妹のことが心配になってきた。こんなに混雑していてはスマホも繋がりにくい。あの子、ちゃんと合流できるかな。
(それに、遅れるって――あの子の用事って――)
《《魔法少女の仕事なんじゃないだろうか》》。
視界の端、足もとあたりに、ふいにキラキラしたものが見えた。花火を見つめすぎたかなと頭を振ってみる。が、キラキラしたものは消えない。飛び散った花火のかけらが、そのまま地面に落ちたように見えるが、もちろんそんなはずはない。
キラキラしたものは、輝きを放ちながらちらちらと地面を飛び跳ねていた。キラキラ、ケタケタ、キュワキュワと、小さいながらもにぎやかな音を立てている。サイダーの泡がはじけるのにも似て、どこか陽気で音楽的な音だった。
(不気味だけど、ちょっとかわいい……)
「何……?」
ミクが思わず手を伸ばしかけたのと同時に、クロが体当たりしてきた。小柄なミクは、吹きとばされるように思いっきり植え込みに倒れこむ。
「危なっ――」
クロどうしたの、といいかけた声は、喉の奥で固まった。キラキラした何かは、くるくるっと勢いよく回転しながら、クロに飛びかかる。キィンと澄んだ音がして、その腕が鈍く光った。
「クロ!」
ミクの声は悲鳴じみたものになった。クロの腕は凍っていた。鈍く光って見えたのは、氷だったのだ。
「下がっていろ! 《《それ》》に触るな!」
聞いたこともない恐ろしい声で命じて、クロは腕を押さえたまま周囲を確認した。植え込みに伏しているミクからは背中しか見えない。グルルッ、と喉の奥から漏れるような唸り声が聞こえた。
「なんだこりゃ!? 花火……氷か!?」
玲央が片足をあげて、きらきらしたものを避けている。「落ちてくるはずはねぇよな!? わっ、冷たっ」
ぱりん、ぱりん、と薄い氷を踏み抜くような音が、そこここで聞こえてきた。
それがなんなのかもわからないうちに、今度は花火を打ち上げる音が続き、大輪の光が夜空を昼のように明るく彩った。そのまばゆい光を背景にして、なにかが影絵のようにうごめいているのが見えた。四つ足の、犬に似た生き物の群れだ。
犬に似たなにかの一匹は、不気味な暴風に似た獣の唸りをあげながら、ほうぼうに散らばっていく。そのうちの一匹が、クロたちのすぐ目の前に降りたった。
足もとのキラキラと同じように光を受けてきらめいていて、真夏にもかかわらず、ミクにはそれが霜だとわかった。そして、犬に似た姿には、首がどこにも見当たらなかった。
オオーン……ァオオーン……
暴風のうなりにも、犬の遠吠えにも似た声があちこちで重なって聞こえた。
熱気に満ちた大勢の見物客たちが、いっせいに動きを止めた。なにかおかしい、とミクは思う。これほどの人数が、頭部のないオオカミのような生物を目の前にして、パニックにならないはずがないのに。まるで時間が止まっているかのように、あたりは静まりかえっていた。ぱりん、ぱきん、という薄氷のような音が続いている。
夜空を見あげると、大輪の花火が、開いたまま貼りついたように光をとどめていた。
人ごみは花火を見あげる姿勢そのまま、凍りついたようにやはり動きを止めていた。
《《本当に時間が止まっているんじゃ》》、とミクが思いかけたとき、火がついたような子どもの泣き声で、はっと顔をあげた。彫像のように静止する人影のなかに、ちらりと動く浴衣の切れ端が見える。
「子どもが――」
ミクが言いかけるのと同時。首のない獣は、くしゃみの直前のように固まると、緊張感のある一瞬の間を置いて、爆発した。――いや、爆発したのではなく、殖《ふ》えた。音とともに一気に分裂し増殖したのである。
「ひぃっ」
「きゃぁああ」
悲鳴は思ったよりも近くで聞こえた。動かない人影のあいだから、子どもや女性など数名がわらわらっと出てきて、出口のほうへと走って逃げようとする。獣たちが向きを変えて、じりっと彼らに近づいた。
「急に動くな!」クロが鋭く命じた。
「背中を見せて逃げるな。ばらばらにならず、子どもを中心にして固まって。足を出して追い払うんだ」
よく通る低い男性の声が奏功《そうこう》したのか、動いていた数名は慌てて言われたとおりにした。
だが、獣たちはすでに標的を決めてしまったように、子どもと数名が固まっているほうへひたひたと近づいていく。
クロは近くにあったゴミ箱を持ちあげて、獣たちに向かって中身をぶちまけた。ビンや缶が甲高い音を立てて落ちると、獣たちはびくっとして後ずさる。ひるんだところを、クロがゴミ箱で打ちかかると、一匹がガラスの彫像のように砕け散った。周囲の獣たちはオンオンと警告の鳴き声をあげて散っていく。
クロに手で合図され、ミクはあわてて玲央とともに見知らぬ集団に混じった。クロは持っていたゴミ箱を、その五、六名の集団の前に置き、また手近にあったベンチを抱えて、これもバリケードのように置いた。
「クロ、すげぇな」
「うん……」
兄の言葉に、ミクもうなずくしかない。パニックを起こしかけていた場面でのとっさの判断といい、備えつけの重いゴミ箱やベンチを軽々と持ちあげる膂力《りょりょく》といい、愛犬クロはあきらかに常人ばなれしていた。
「クロがいてよかった――」
だが、当の本人は賞賛を聞いていなかった。けわしい表情で、さっきまで花火があがっていたあたりの中空を見つめている。
「まだ来る」
その警告は、残念ながら当たっていた。
静止画のように空中にとどまったままの花火を背景にして、獣の影がいっせいにはじけ飛び、落下した。もし流れ星が隕石となって降りそそいだら、こんな光景だろう。
「落ちてくる!」
「間に合わない!」
誰かが叫び、ミクはなにかにのしかかられた。クロが自分の身体を盾にしているのだ、と一瞬遅れて気がつく。なにが起こっているかほとんどわからないまま、こんなところで死にたくない――
そうミクが思ったとき、明るい声が響いた。
「タイムフリーズ!」
危機的な場面にそぐわない、りんりんと鳴る鈴のように快活な少女の声。
「クラッシュ!」
その声に呼応するように、ぱらぱらとなにかが舞い落ちてくる。自分に覆いかぶさる男の背中にも。だが地面に落ちたものを横目で見るかぎり、粉砕された破片は外傷を与えるほどのサイズではないようだった。
月と花火の煌々《こうこう》とした光を背景に、小柄なシルエットが浮かびあがった。
フリルとリボンがあしらわれたかわいらしいコスチュームと、二つ結びにした長い黒髪が、はたはたと夜風になびいている。
「楽しい花火大会を邪魔するなんて、ゴーストの群れは許さない!」
なんの説明もなく空中に浮かぶ少女が、《《ろうろう》》と宣言した。
「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 正義の心に燃える光の白魔法! わが鉄拳、受けるがいい! 魔女ガートルードの血を継ぐシャイニング・ティアラ、ただいま魔女修行中っ♡」
夜闇に蛍光ピンクのハートマークが飛び散り、勇ましいんだか、可愛いんだかよくわからない口上が決まった。ミクは、こういうときは拍手をしたほうがいいのか、それとも黙って見守るのが観客のマナーなのかと場違いな心配をしてしまった。
「遅れるって……こっちの用事だったのかよ」
ふだん物事に動じない玲央も、さすがにぼうぜんと呟いた。二人とも、妹が魔法少女をやっていることは知っていても、その活動実態をじかに見るのは初めてだったのだ。
クロがミクの上からすっと離れて、また目線をあげた。
てぃあらが杖を振ると、夜闇にネオンブルーの光がほとばしり、その先の獣たちが触れもせずになぎ倒されて粉砕されていく。映画かショーを観ているようで、現実でなければ爽快な場面だっただろう。
「あれが、魔法」
はじめて見る魔法らしきものと、妹の出現とに、ミクは恐怖も忘れて見入ってしまった。
ひらりと空中を舞い飛んでは、杖を振り、ゴーストなるものを消失させていく。はじけとんだ破砕片が、月の光を反射してきらめいた。
「てぃあら、大丈夫かな……」
ミクは呟いた。
クロはまだ中空をじっと見つめている。
粉砕された獣たちは、しばらくはふわふわと空中を漂っているが、時間が経つとふたたび獣の形に戻っていく。しかも心なしか、粉砕される前よりも大きく、数も増えているように見える。しだいに破砕片の数そのものも増えて、ゆったりと渦を巻きながらひとつの形を取ろうとしはじめた。
巨大な首なしオオカミの姿に集まったものが、うなり声をあげ、てぃあらに体当たりしていった。
「危ない!」
ミクは思わず叫んだが、遅かった。少女は吹っ飛ばされて、三人の視界から消えた。
「てぃあら!」
走って追いかけようとするミクの腕を、クロがつかんだ。
「止めないで、クロ、妹が……」
振りきろうとするも、目の前になにかの固まりが飛んできて、それをクロがすばやくキャッチする。ばしんっ、といういい音がして、ミクは驚いて目をぱちぱちさせた。
「痛《い》ったぁ」
野球ボールのようにクロの手におさまっている《《もの》》が、声をあげた。ぬいぐるみのようなものがぷるぷると身体を震わせている。
「あ! マスコットの人!」
「……ミクちゃん! 犬!」
パステルカラー(ユニコーンカラー?)の仔馬型ボディにきらきらしい声で紛らわしいが、先日相談に乗ってもらった、魔法少女てぃあらのマスコットキャラ、ポロロだった。てぃあらのお伴《とも》でいるときは、《《こっち》》の姿なのだろう。が、彼女とは違う方向に飛ばされてしまったらしい。
『犬』と呼ばれたクロは、手の中のぬいぐるみめいたマスコットをじっと見つめ、おもむろに投手の格好で大きく振りかぶった。
「ごめん! やめて! 投げないで!」
「……主人のところに投げてやろうと思って」
「ちょっとその善意は受けとめられない! 私、犬じゃないから! かよわいマスコットだからっ」
慌てているせいか、口調が『ジェシカ』のままであった。
「おい! マスコット!」玲央があわただしく割って入った。
「そんなことはいいから、早くてぃあらを助けるんだ!」
お堀公園は、中央に中州のある水景公園で、遊歩道と緑地と森とに囲まれている。てぃあらが落ちていったのは浮島のあたりと思われた。すぐに、がさがさっと音をさせ、葉を落としながら空中へと舞いもどったのが見える。
なにか魔法の力で宙に浮いているのだろうが、ともあれ落ちても無事だったことにミクはほっとした。
だが、ポケットのなかのビスケットのように増殖するゴーストに、なおも苦戦しているらしい。
「くっ……」
見あげる玲央は拳を握りしめ、悔しそうにつぶやいた。
「愛する妹の危機に、兄である俺がなにもしてやれないっていうのか……! 俺は……無力だ……!」
「もう一人の妹の危機に、パンツも貸してくれなかった兄のくせに……」数日前の出来事を思いだし、思わず恨み言が出るミクだった。
クロの手のうえから、ポロロがおもむろに告げた。
「わが身の無力を嘆くおまえの声、しかと聞いたぞ――市ヶ谷《いちがや》兄弟の長男。力が欲しいか? 愛する妹を救う力が」
なんだか、急に口調まで変わっている。
「俺に妹を……救えるというのか!?」
「魔女の血を受け継《つ》ぎしおまえなら……できる! 契約により、力を得るのだ!」
「おお、俺にそんな力が」
玲央とポロロは、芝居じみた熱い口調で語りあっている。
「どうする? あの子みたいにはいかないけど、それぞれに残った魔力分に応じて力を付与《ふよ》してあげることはできる。期間は、そのほんのちょびっとの魔力が尽きるまで」
「代償はどうなる? たいていこういう話だと、魔女は力の代償に魂とかを要求すると相場が決まっているが」
玲央はいろいろなことを知っているなぁ、とミクは感心した。サブカルチャー全般に強い兄である。
「魂にしろなんにしろ、特に代償は要らないわよ。言っとくけど、魔女の力はほとんどがあの子に行ってて、残りはほんっとにちょびっとしかないんだから。化粧水のサンプルくらい」
「少なっ」
玲央が失望の声をあげるのと、森のほうでドォンと激しい音が聞こえたのは同時だった。「と、とにかく、てぃあらの役に立ちそうなら、どうとでもしてくれ」
「オーケー。契約書はあとで送るわ、これ今回限りの特別措置よ」
「アルファ個体がいるはずだ」
それまで黙っていたクロが、冷静な声で言った。
「アルファ?」玲央が問い返す。
「群れを統率するリーダーのことだ。たぶん、凝集したり攻撃したりするときに、中心となるゴーストが一体いるんだと思う」
「……ありえるわね。さすがは犬と言うべきか」ポロロがうなった。「とすると、そいつを重点的に攻撃するよう、てぃあらを誘導できればいい?」
クロはうなずいた。
「アルファがどの個体かわかる?」
「いいや」クロは首を振った。「頭がないと、アルファが見分けにくいんだ。もうちょっと近くにいけばわかるかもしれない」
「んじゃ、市ヶ谷長男の能力はこれにしましょう」
ポロロが言った。「空中に移動可能なステップを生み出す魔法よ。あんたが空中を駆け回って最大3分保つわ」
「百五十キロなら?」
「保って1分くらい」
「よし、わかった」玲央が深くうなずいた。片手を銀縁眼鏡にあて、もう片方の手を前に出して、いかにも格好つけたポーズを取る。
「大気の精霊よ、盟約により我に力を貸せ。出《い》でよ、天国への階だ――」
「魔法の名前は〈スカイラダー〉よ」ポロロが無慈悲に宣告した。
玲央は興《きょう》が削《そ》がれた顔になった。『おれのかんがえたかっこいい呪文』が使えなかったのがつまらなかったらしい。
「……〈スカイラダー〉」
呪文は短く、それでなにかが起こるとにわかには信じがたいほどシンプルだった。だが、玲央がそう唱えると、空気がふわりと動いたような感じがして、目の前に蛍光グリーンの光が出現した。