「クロ」
 顔をあげてもお腹のあたりしか見えないが、見間違えようのない体格だ。彼女が座るソファの前に、クロが立っていた。キース・ヘリングのプリントTシャツにジーンズという、あまりあか抜けない格好で。
「ミク」
 クロは、ソファに座るミクの前にひざまずいた。「この姿でいるうちに、話しておきたいことがある」
 眠たかったせいか、ミクはクロの姿に、昨日ほど威圧感も恐怖も感じなかった。変化するときは身体が痛いのだろうか、などとぼんやりと考えていた。
「ソファに座りなよ」
 二人掛けのソファの隣を手でぽんぽんと叩いた。
 クロは考えるような顔になって、「いや、このままでいい」と言った。
 
 その顔に、どうやら真面目な話らしいとミクは眠気が覚めてきた。ひじ掛けに載せていた頭を起こす。
「どうかした?」

「俺は犬だから、ミクが大好きだし、ずっと一緒にいたいんだけど」
 クロは、ためらいがちに切りだした。
「もし俺が危険な魔獣だったら、ミクの妹だという魔女のところに行こうと思う」
 昼の、あの動物病院での怖がりかたが嘘のような、落ちついた声だ。

 思いがけない言葉に、言葉がすぐには出てこなかった。
「……クロは危険じゃないし、悪者でもないでしょう? そうだよね?」

 ソファの前に片膝をつく格好の男は、目線の位置が犬のときと同じだった。犬の姿なら顔を手で挟むのだが、男性の姿では、ただ目を合わせるだけでもちょっと緊張する。
 赤みがかった琥珀色の、古いワインのような色の、嘘のないまっすぐな目がミクを見ている。
「わからない」クロは初めて、ためらいを見せた。「でも俺には、あの譲渡会であなたに会うより前の記憶がない……危険な魔獣でないという保証はどこにもない」
「それは、てぃあらやポロロさんにも確認してみてからでも――」
 クロはその言葉をさえぎった。「ミク、少なくともあなたは、俺を怖がっている」

 図星をつかれて、ミクは言葉を失った。
 バスルームでこっそりと変化していたクロは、彼女の恐怖に気づいていたのだ。

「俺を妹のところに預けることを、考えてみてくれる?」
 責めることなく、穏やかな声でそう尋ねられた。ミクは迷いながらも、うなずくしかなかった。
 それを聞いたクロはようやく笑顔らしきものを見せて立ちあがった。そして、去り際に優しくこう言った。

「あの日、俺を選んでくれて嬉しかった。……おやすみ、ミク」