『怖がらないで』
 自分の言葉に、ふとクロが最初の夜に自分に言ったセリフを思いだし、なんとなく恥ずかしくなる。
(あれは結局、怖かったけど、クロは怖がらないでくれるといいんだけど)
 しかし、飼い主の思いとは裏腹に、クロの挙動不審は続いた。獣医の触診から逃げまわり、しまいには、ミクの腕と身体の隙間に頭を潜りこませるようにして顔を隠してしまった。よっぽど怖いのだろうか。
「あはは、身体(なり)は大きいけど、ビビリな男の子だね」
「怖がりな子ではない……と思うんですが。すみません」
「ほとんどの子が病院は嫌いだからね、慣れてます」

 診察が終わって会計を待つあいだも、家に帰るまでの道のりも、クロはかわいそうなくらいしょげていた。
「病院はみんな怖いんだから、怖くても恥ずかしくないよ」
 ミクは愛犬をなぐさめたが、どうにも、尻尾は物憂(ものう)げな様子だった。

 ♢♦♢

 二人と二匹が住んでいる店舗兼住宅は、レトロモダンで(おもむき)はあるのだが、一部屋が狭い。店舗でないほうのダイニングキッチンで作り置きの簡単な食事を済ませると、ミクは狭いリビングへ移った。実家から譲ってもらった旧型のTVをつけて、なんとなくスマホをチェックする。
 仕事を辞めたあたりから、SNSからも遠ざかっているので、通知もなく静かだった。洋服の通販アプリなどをぼんやりと眺めていたが、頭には入ってこなかった。

 クロは病院から帰ってくると、そのままバスルームにこもってしまった。変身する姿をミクに見られたくないのだろう。犬の姿でもヒトの姿でも、およそ他人を傷つけるとは思えないのに、自分がおびえた姿を見せてしまったせいでクロに気を使わせていると思うと、複雑に心が痛んだ。しかし、ミクにしてみれば、あの変化途中の姿がショッキングだったのも事実なわけで……。

 難しいな。でも、やっぱり、飼ってあげたい。
 というより、むしろミクのほうが、クロと一緒にいたいと思っているほうが正しい。
 犬といえども、ミクにとっては『運命の相手』なのだ。ほかの誰かにわかってもらえなくても、自分だけはそう信じている。
(ちゃんと説明したら、てぃあらにもわかってもらえるんじゃないかと思うんだけど……)

 考えこんでいるうちに、眠りかかっていたらしい。裸足の足音がして、ミクは目を開けた。