「あれ……三枝(さえぐさ)先生、おられないんですか?」
 診察室に入ったミクは、開口一番に言った。

「父は去年、引退しましたよ。いまは僕が院長やってます。よろしくお願いしますね」獣医師が言った。
 淡い水色の、爽やかな半袖の診察着を着た、若い男性医師である。先代の院長はいたって普通の気のいいおじいちゃん先生だったが、目の前の若い獣医師は髪も目の色も薄く、初対面で「ハーフの方ですか?」と聞かれそうな外見だった。イケメンの若先生に代替わりして、オーナーの女性たちも喜んでいるかもしれない。
 『三枝(さえぐさ)ペットクリニック』は、ミケを飼いはじめてからお世話になっている町内の動物病院であった。

「ワンちゃんも飼いはじめたんですね」
「はい。譲渡会で……」
「いいことだ。最近は、譲渡会を利用してくれる人が多くなって、獣医としては嬉しいですよ。……ミケちゃんの調子は、最近、どうですか?」
「元気いっぱいで、我が家のボスです……。『ちゅ~るる』が大好物で」
「ちょっと塩分高めのおやつなので、あげすぎに注意してくださいね」
 ミケのあとはクロの話になり、飼いはじめて三日間の様子を簡単に報告した。もちろん「夜になると人型に変化する」部分は避けて話すことになるが、そうなるとクロは手のかからない良い犬だという話に終始してしまう。

 しかし、診察台の上のクロは、普段の落ち着きが嘘のようにそわそわしていた。吠えたり逃げ出そうとしたりこそしていないが、せわしなく歩きまわるので、ミクが身体を押さえておかなければいけないくらいだった。
「クロ、どうしたの?」
 首をかしげて愛犬のマホガニー色の目を見る。「今日は診察だけだよ、注射はないんだよ」
 ワクチン接種は譲渡会の段階で済んでいると聞いていて、今日はその確認と市への畜犬登録を依頼するために来院したのだった。
 昨晩の話を聞くかぎり、クロを『犬』として扱うのは無理があるだろうし、となるとワクチンも畜犬登録も去勢手術も必要ないのかもしれない。こうやって獣医に連れてくるのも、ミクの自己満足のような気もする。
 そう考えると、クロに申し訳ない気持ちになった。耳の下から首にかけて撫でてやり、「大丈夫、怖くないよ」と声をかけた。