「ミク」

 名前を呼ぶ彼の声に、顔をあげることはまだできない。パニックを(しず)めるために、呼吸だけに集中しようとしていたからだ。

「ゆ、ゆっくり戻ってきて」
 しゃがみこんで、胸をおさえながらミクは言った。「そしたら、たぶん……平気だから。お願い」

 男は、その『お願い』にすぐには答えなかった。かわりに、彼女を落ち着かせようとするような、静かな声で言った。

「ミク、俺の服を出して」

「……は……」呼吸が、まだ整わない。
「服は袋のなか?」 
 こくこくとうなずく。
「近づいて、開けます」クロは言った。「向こうを向いていて」
 ミクは言われたとおりにした。まだしゃがみこんだまま、跳ねまわる心臓をなんとか抑えようとしながら。

 《《もぞもぞ》》と布と肌がこすれる音がして、しばらくすると「こっちを見ても大丈夫」と言われた。
 直視する勇気を出すのに、呼吸五回分の時間が必要だった。
 ふりむいたミクは思わず固まった。ただ、その理由は恐怖ではなく……どちらかと言えば、困惑に近かった。
 クロは人間の大きな身体で、苦労して服を着ようとしたのだろう。ただ、着なれていない服、しかも浴衣(ゆかた)というのは無理があったようで、『着る』というよりは『巻きつける』としか言いようがない格好になっていた。
 さっきまで犬の姿だったクロが、ミクの語った流血へのトラウマを聞いて、理解していたかどうかはわからない。
 だが、最初に人間の姿で会ったとき、ミクが大柄な男に怯えていたのを、彼は覚えていたのだろう。犬の姿のときとは違う彼女の恐怖の反応を見て、その原因が『服を着ていない』ことと思ったらしかった。
 まだ残る恐怖に、安堵(あんど)とおかしさがないまぜになって、ミクはなんだか泣き笑いのような顔になってしまった。
 激しい鼓動が、少しずつ収まりつつあるのを感じはじめていた。
 クロは、真剣な顔で彼女の様子をうかがっていた。距離をとったまま匂いを嗅ぐそぶりをして、「まだ怖い?」と聞いた。