黒く輝く美しい毛が、ずるりと音を立てて動いた。手袋をひっくり返すように、被毛の下のピンク色の肉がめくれて見えた。
 ごきっ、ごりごりっ、と骨同士がこすれるような音が続く。
 ミクはほとんどパニックを起こしかけていた。頭は真っ白で、呼吸が浅くなり、身体中が心臓になってしまったかのようにどくどくと脈打っている。
「あ……ぐ……」
 喉が詰まったような声は、犬ではなく、自分のものだった。
 かろうじて悲鳴をあげずに済んでいるのは、次になにが起こるかわからなくて、目が吸い寄せられて離れられないせいだ。
 さっきまで一人と一匹がいた場所は、ベンチと植え込みがある。もやもやと黒い物体はその植え込みでいくらか紛れていたが、それでも人目につくことは避けられなさそうだ。もっとも、そのときのミクにはそれを気にする余裕はなかった。

 皮膚の下は暗い空洞のように見えたが、内側に青白く光る部分があった。魚の腹のように白くて柔らかそうで、目をそむけたくなるほどグロテスクだった。
 だが、ミクの頭が目の前の情報を処理するよりもすばやく、そのグロテスクな固まりは青白く光りながら男の姿に変わった。

(だめ、もう()たない)

 喉の奥から悲鳴が漏れようとしたとき、「すん」と鼻を鳴らす音がした。
 うずくまったままの裸の男は、ミクの恐怖を嗅いだようだった。その周りには、明らかに不自然な黒い霧のようなものがまとわりついている。
 二人の目があった。
 クロはぴくりと身体を動かすと、足の筋肉に力をこめた。ミクのいない方向に向かって、四つ足のまま獣のように走りだそうとしている。
「待って」
 足裏が地面を蹴った瞬間、思わず、そう叫んでいた。

 それは自分でも言葉になっていたかわからないほど、かすれて弱々しい声だった。だが、走り去ろうとしてた塊は立ちどまり、闇のなかで赤く輝く目が、ためらうようにまたたいた。
 ミクは激しく咳きこみながら、もう一度口を開いた。
「行か……ないで」
 あまりにも呼吸が浅く激しくなっていて、どうして声が出たのか、不思議なくらいだった。
 いま離ればなれになったら、もう二度と会えない。そう思ったら、自分の意志に反して声が出ていた。