カフェ〈イヴェンチュア〉の営業は三時までとなっている。店舗の片づけを早めに切りあげて、念願のクロの初散歩に出ることにした。
 トイレは済ませたし、リードにも慣れているようで嫌がらない。初日は家の周りだけにしようと思っていたが、歩かせてみるとクロが控えめにとても興奮していたので、ミクはもう少し足を延ばすことにした。あいかわらずおとなしく、尻尾だけをちぎれんばかりに振っている。愛犬の健気なかわいさ、プライスレス。
 大型犬は、歩けなくなった時に主人が抱えて帰ることができない。だから、あまり最初から遠出しないように――と、犬の飼育雑誌などには書いてある。おまけに、クロは日没後のどこかのタイミングで人間の男性に変化する可能性がある。できるかぎりの準備はしてあるが、ミクは用心しいしい近所のお堀公園に入った。
 文字どおり、昔のお城とお堀の跡地を利用して作られたかなり広い公園で、都市部の人々の絶好のランニングコースになっている。中心の中州にはドッグランもあって、犬を遊ばせる人の姿も目立った。
 晩夏の夕方、思ったよりもまだ陽は高く、蒸して暑かった。セミの鳴き声がいっせいに響くと、まるで世界からそれ以外の音がなくなってしまったかのようにうるさい。
「まずはあっちに行ってみようか、クロ」
 大型犬の散歩だから、と気構えていたミクが拍子抜けするくらい、クロは礼儀正しく紳士的にふるまっていた。はしゃぎすぎてリードを引っ張ることはほとんどないし、小型犬に吠えかかられても自分は吠えないし、あいさつをしてくる犬がいればお尻の匂いを嗅がせてやっている。しつけのために持ってきたおやつの出番がないくらい、完璧なジェントルマンぶりだった。

 クロはベンチや水場を発見しては、いちいち立ち止まって真剣になにかを確認している。はじめての散歩コースを、見ているこちらがほほえましくなるくらい堪能している愛犬に、ミクもうれしくなった。
 ベンチで休憩しながら、彼にも水を飲ませてあげた。満足げな犬に向かって、ミクはふと話しかけた。
「さっきお店に、看護学校からの友だちが来てね」
 見あげてくる黒い犬の、筋肉質な首あたりを撫でてやる。「わたし、看護師さんだったんだよ、クロ。もう辞めちゃったけどね」