ブラックドッグ・フェアリーテイル ~君と13回目の主従関係~


 
 犬を家族に迎えて過ごすはずだった一日が、全裸の男の出現という予想もつかない方向へと転がった昨晩。
 ふわふわと落ち着かない夜を過ごし、ミクは自宅兼店舗のキッチンへと下りてきていた。普段は、自宅側の狭いダイニングキッチンで朝食を取るのだが、今朝は兄がそこにいなかった。おそらく、彼女の犬(仮)には手狭だからだろう。


 店舗スペースは吹き抜けになっていて、天井近くの明り取りの窓から朝の清潔な光が差しこんでいた。キッチンにある小さなTVが、早朝の天気予報を流している。

「わたしの犬!」ミクは声を弾ませて駆けよった。「犬が戻ってきてる!」

 黒い毛並みにマホガニー色の目をした彼女の犬は、彼女の前までてってっと歩いてくると、控えめに尻尾を振って朝の挨拶をした。
「ああ……よかった……」
 やっぱり、昨日のあれは夢だったんだ……。
 ひざまずいて首に腕をまわし、頬をすり寄せる。「昨日は急にいなくなって、心配したんだよ」
 黒犬は彼女に抱きつかれるまま、アイドリング中の車のように「ハッハッ」と静かに呼吸していた。
「本当によかった、保健所にも見つかったって連絡しないと……」

 Tシャツにトレパン姿の兄は、欠伸をしながらうなずいた。眠れなかったらしく、顔にはありありとショックを浮かべている。
「まさかあの男が、本当に犬だったとはな」
「え?」
 昨晩の《《あれ》》を夢にしてしまいたかったミクだが、玲央(れお)の言葉に顔をあげた。

「夜中に一回、騒々しい音を立ててたけど、どうもそのときに犬に戻ったらしくてな」
「騒々しい音って……」
「なんか、『びちゃっ』とか『ごぎっ』とか、そういうわりとスプラッタ系の音だった。俺、朝メシ食えるかな……」
 ひえー……。
 スプラッタが苦手なミクは、想像して恐ろしくなった。眠りにつく前、犬が人間になる事象(あるいはその逆)について思いを()せないではなかったが、もうすこしこう魔法っぽい、《《ふわっ》》としたものを想像していたからだ。

「それで、どうするつもりだ? これから」牛乳のカートンから直接飲みながら、兄が尋ねた。
「これからって……」
「どんなファンタジーかは知らないが、昼は犬で夜は人間なんて生き物、飼えるのか? ってことだけど」
「はぁ……そうだよね……」
 犬に抱きつくためにしゃがみこんでいたミクは、彼をひと撫でしてから立ちあがった。犬はマホガニー色の目で彼女を見あげている。
「とりあえず、《《詳しい人》》に相談しようと思うんだけど」
 それは、昨晩から考えていたことだった。
 兄には『運命の相手』などと言ってしまったが、ミクがそう信じていた相手は大型犬であって、大型男性ではない。ひと晩じっくり考えるうちに自信がなくなってきて、「たぶん無理」のほうに気持ちが傾きかけていた。しかし犬のほうの姿を見てしまうと、あの譲渡会での運命の出会いを思いだし、ミクの心は千々に乱れるのだった。
 知らない男性のほうには、ぜひお引き取り願いたい。
 でも、この犬は飼いたい。
 それがミクの偽らざる本音である。

 彼を家族に迎えるために準備していた、ドライフードと馬肉を皿に出して前に置く。黒犬は皿を見てミクを見て、また皿を見てミクを見た。
「どうぞ、召し上がれ」
 声をかけると喜んで食べはじめる。その仕草に昨晩の男の名残りを見つけてしまい、よけいに胸がしめつけられた。見知らぬ男だと思うと不審なだけの行動が、自分の犬だと思うと、信じがたいほどかわいいのだから現金なものだ。

 玲央はそんな妹の百面相をちらっと見た。
「……《《あいつ》》に連絡するのはいいが、詳細を知らせるのはすこし待ったほうがいいと思う」
「どうして?」
 食事中の犬に目が吸い寄せられていたミクは、上の空で尋ねた。
 兄はそれを説明した。

 ♢♦♢

 その五分後、兄の説明に納得したミクは、《《詳しい人》》、つまり妹にLINEを送った。

『こないだぶり! 夏休みの宿題は終わった?』
『あのね、急で悪いんだけど💦』
『あのマスコットみたいな人、貸してくれない?』
『語尾に「ポロ」ってつけてしゃべる人😆』

 妹のLINE返信は早い。すぐに、トライトーンの音が通知を知らせた。

『読書感想文おわった! あと美術館行くやつが残ってるー』
『いーよん✨』
『おねーちゃんちおくるね💕 おひるは図書館連れてくから、夕ごはんのときでいー?』
 その下には、いいのか悪いのか判別しにくい、不気味なゆるキャラのスタンプが踊っている。

「これでいいかな?」
 返信を見せると、兄は思案がちにうなずいた。「飼うにしても、飼わないにしても、どういう生き物なのかの情報は要るからな」

「ところで、名前、決めたのか?」
「うん」ミクはうなずいた。「『クロ』にしようと思って」
「おまえは猫を名づけりゃミケ、犬を名づけりゃクロなのか」
 兄はあきれたように言った。
「黒いからクロ、っていうだけじゃないんだよ」ミクは主張した。「譲渡会で、名前ありますかって聞いたら、なんか長い名前があったの。クロなんとかって……いちおう、そこから取ったつもりなんだけど」
 その名前を聞いたときのミクの正直な感想は、「うわぁ長い」だった。由緒のありそうな立派な名前ではあったが、呼びにくそうなのは困ると思い、自分なりに考えての命名である。猫のミケと一緒にしてもらっては困る。
 たしかに、ミケのときは毛の柄だけで決めたけれども。
「『クロ』って呼ぼうと思うんだけど、どうかな?」
 ミクが声をかけると、犬は尻尾をメトロノームのように振って賛同の意を示した。
「わたしの言ってることがわかるんだ……はぁー、賢い。クロ賢い……」
「いや、昨日の状態でも、それくらいは賢かっただろ。いくら犬がかわいいからって、ちょっと態度が違いすぎやしないか?」
「昨日は知らない男の人だったもん、今日の姿がわたしの犬だもん」
 顔を持ちあげて、横の毛をくしゃくしゃと撫でても、犬――もとい、クロはおとなしくされるがままだった。彼女がキッチンに入ってからというもの、片時もそばを離れようとせず、食事のとき以外はずっと目で追っているのがけなげだ。

 ともあれ、相談相手を確保し、名前も決まったわけであった。

「なんか、ふつうの名前が良かったんだよね」
 冷蔵庫から取りだしたクロワッサンをレンジで温めながら、ミクはふと言った。
「ああ」兄もわかったふうにうなずく。
「キラキラネームは嫌だって意味だろ。まあ、うちの親の名づけを振り返ると、わからんではないな。俺だって今はいいけど、老人ホームに入るときちょっと恥ずかしいかなと思うもん」

 兄妹のファミリーネームは「市ヶ谷(いちがや)」。
 長男の名前は玲央(れお)、二十四歳、カフェ経営者。
 長女の名前は三久(みく)、二十二歳、カフェ店員。 
 そして、十四歳と年の離れた末妹の名前は、「星冠(てぃあら)」と言うのである。ザッツ・キラキラネーム。

 この、市ヶ谷てぃあら――
 キラキラネームをものともしない、市ヶ谷(いちがや)家の台風の目。平凡なる一家のなかに燦然(さんぜん)ときらめく溌溂(はつらつ)たる美少女。

 そして、一家をファンタジーの渦に巻きこむ魔法少女、なのだった。
「よしっ」
 今日は、やることが山積みだ。ミクはカフェエプロンの紐をしっかりと結んで、気合を入れた。手もとのメモにはこう書いてある。

『11:30~ アヤたち来る
 ◎やることリスト
  ・獣医の予約(水曜休診! 電話番号→○○-××××-□□)
  ・服を買う(大きいサイズのお店)』

「それじゃ、お仕事してくるね。終わったら散歩に行こうね」
 長く優美な鼻口部を手で挟むと、クロは「ウォン」と小さく応じた。まるで、『自分が大きく吠えると、みなさんを怖がらせますから』とでも言っているかのようで、遠慮がちでとてもかわいらしい。

「いい子、いい子」
 まだ、たった数時間しか一緒に過ごしていないというのに、しかも非現実的な事情を背負っていそうなのに、ミクはもうすっかり、目の前の黒犬に夢中になっている。昔から動物全般が好きだし、愛情表現の「あ」の字もない猫だってかわいくてたまらないのだから、犬を飼ったら犬バカになる運命に決まっているのだ。

「クロはかわいい。世界一かわいいよー。はぁー……」
 離れるのが名残惜しくてわしゃわしゃと撫でる。クロは、彼女が撫でやすいようにお行儀よく座って固まっていた。
 ミケに同じことをやると、「おまえが触った部分が(けが)れた」というような顔をされ、触った場所を必死に毛づくろいされるのが常なので、クロの反応は新鮮だ。まあ、猫はそういう生き物だから、それはそれで全然愛せるのだが。

「おまえ、それ、中身はあの全裸の男だぞ」
 兄が、キッチンから水を差すようなことを言った。
「中の人などいない。……ねー、クロ」
 クロの尻尾が賛同するように揺れていた。

 元気いっぱいに仕事を開始したミクだったが、開店から三十分過ぎ、一時間すぎると、しだいに緊張しはじめてきた。
 今日の予約リストには、友人の名前がある。
 カフェで働きはじめて二か月。知りあいが客としてやってくるのは、これがはじめてのことだった。

 同年代の女性四人組は、時間どおりに来店した。仕事中だからと気を遣って、「久しぶり」のあいさつは控えめにしてくれている。庭の見える人気のテーブル席を確保してあると告げると、「ありがとう」と口々に言って移動していった。
 別のお客に皿を運びながら、ちらっと見ると、メニューを前に顔をつき合わせて楽しそうだ。ミクと目があうと、目立たないように小さく手をふってくれた。
 ミクは注文が決まったころを見はからって、彼女たちのテーブルにまわった。

「ネットで見て、前から気になってたんだぁ。この店、ミクのお兄さんがやってるんだね」
 予約の電話をかけてきた、綾乃(あやの)が言った。
「うん」
「サラダ美味しそう。日替わりと……フォカッチャを頼むか迷うなぁ」結衣(ゆい)はメニューを前にまだ真剣そうだ。
「お隣がパン屋さんで、そこの朝の焼きたてだからおいしいよ。ゼンメルもおすすめ」ミクが言った。
 梨沙(りさ)は立派な一眼レフを構えていて、ひとしきり内装や庭を褒めてくれた。SNSに投稿してよいか尋ねられ、快諾する。
「素敵な内装だね。エントランスのグリーンも、すごいセンス良かったよ」 
「ありがとう。兄に言っておくね、喜ぶと思う」と、ミク。

「あっ、この子がメールでもう一人連れてくるって言ってた子。おんなじオペ室なんだ」綾乃(あやの)が、隣に座る女子の名前を紹介してくれた。四人のうち、唯一ミクが知らない子だった。
「綾乃ちゃんによくお話聞いてます、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。今日はすみません、あんまりゆっくりできなくて」
「いえいえ、お仕事中なのに、こっちこそすみません」
 それから二、三言葉を交わし、話のきりが良いところで、『じゃあ、またあとで』と言ってミクは他の接客に戻った。その後も、あまり長話はできなかったものの、料理を運ぶたびに少しずつ会話が進んだ。職場のこと。彼女がいなくなってから、最近の話。ミクは愛想よく相づちを打った。
 デザートのタイミングになり、手作りの素朴なパンナコッタとコーヒー、紅茶を運んでいくと、綾乃と梨沙から声をかけられた。
「今日はごちそうさま」
「ミク、元気そうだったから安心したよ」
「そうかな」
「うん。最近メールだけだったもんね」これは綾乃。
「ミク、アラタにあんまりメール返してないって? あいつ、がっかりしてたよ」梨沙がスマホをチェックしながら言う。
「あ……まだ、カフェの仕事に慣れてなくて」
「そっかぁ、じゃ、そう言っとくね。なんか、嫌われたんじゃないかって心配してたから」と、梨沙。
「まさか、そんなことないよ」
「飲食店も大変だろうけど、カフェの店員とかちょっと憧れるね。わたしなんか潤いのない社会人生活だもん」
「夜勤あると、ほかの仕事の子と予定合わせづらいしね」
「ミクにはこの仕事が合ってるんじゃないかな」結衣が言った。「一緒に働いてたときはさ、やっぱりキツそうなときがあったから。良かったんじゃないかな、いまの仕事に変えて」
「そうかも。ありがとう」ミクは強いて微笑んだ。

 カフェ〈イヴェンチュア〉の営業は三時までとなっている。店舗の片づけを早めに切りあげて、念願のクロの初散歩に出ることにした。
 トイレは済ませたし、リードにも慣れているようで嫌がらない。初日は家の周りだけにしようと思っていたが、歩かせてみるとクロが控えめにとても興奮していたので、ミクはもう少し足を延ばすことにした。あいかわらずおとなしく、尻尾だけをちぎれんばかりに振っている。愛犬の健気なかわいさ、プライスレス。
 大型犬は、歩けなくなった時に主人が抱えて帰ることができない。だから、あまり最初から遠出しないように――と、犬の飼育雑誌などには書いてある。おまけに、クロは日没後のどこかのタイミングで人間の男性に変化する可能性がある。できるかぎりの準備はしてあるが、ミクは用心しいしい近所のお堀公園に入った。
 文字どおり、昔のお城とお堀の跡地を利用して作られたかなり広い公園で、都市部の人々の絶好のランニングコースになっている。中心の中州にはドッグランもあって、犬を遊ばせる人の姿も目立った。
 晩夏の夕方、思ったよりもまだ陽は高く、蒸して暑かった。セミの鳴き声がいっせいに響くと、まるで世界からそれ以外の音がなくなってしまったかのようにうるさい。
「まずはあっちに行ってみようか、クロ」
 大型犬の散歩だから、と気構えていたミクが拍子抜けするくらい、クロは礼儀正しく紳士的にふるまっていた。はしゃぎすぎてリードを引っ張ることはほとんどないし、小型犬に吠えかかられても自分は吠えないし、あいさつをしてくる犬がいればお尻の匂いを嗅がせてやっている。しつけのために持ってきたおやつの出番がないくらい、完璧なジェントルマンぶりだった。

 クロはベンチや水場を発見しては、いちいち立ち止まって真剣になにかを確認している。はじめての散歩コースを、見ているこちらがほほえましくなるくらい堪能している愛犬に、ミクもうれしくなった。
 ベンチで休憩しながら、彼にも水を飲ませてあげた。満足げな犬に向かって、ミクはふと話しかけた。
「さっきお店に、看護学校からの友だちが来てね」
 見あげてくる黒い犬の、筋肉質な首あたりを撫でてやる。「わたし、看護師さんだったんだよ、クロ。もう辞めちゃったけどね」
 太陽光の下では、彼の目はほとんどルビー色のように燃えあがって見えた。真剣に耳を傾けている愛犬に向かって、ミクは続けた。
「昔から血が苦手で……実習のときから心配されてたんだけどね。資格を取って、卒業するまでは、なんとか大丈夫だったんだけど。春から働きはじめて、救急部とオペ部は避けてもらえたし、がんばってやっていくつもりだったんだ。
 でも……病棟で、お年寄りの患者さんが、食堂で倒れちゃったことがあったの。すごく血がたくさん出ていて、それを見てパニックになっちゃってね……」
 目の前に広がる鮮血と、そのなかで動かなくなっている身体。
 それを見たときの自分の衝撃と、そのあとのコントロール不可能な状態は、いまでも不意に記憶によみがえって、ミクの動悸を激しくさせる。
 点滴スタンドに足をひっかけて倒れた患者は、実際には見た目ほど重症というわけではなかった。ドレーンバッグが破けて、大量に出血したように錯覚しただけだったということも後でわかった。
 それなのに、ミクはその後、前にもまして血に恐怖を感じるようになり、ついには業務に支障をきたすまでになってしまったのだった。

「仕事を辞めてすぐは、情けなくて、本当に外にも出られないくらい落ちこんでたんだけど、最近は元気になってきたんだよ。今日会った友だちにも、そういわれたんだ。
 嬉しかったけど、ちょっと寂しい気持ちもあったな。みんなはわたしと違って、ちゃんと働けてるんだもんね。新しい友だちも連れてきてて……」
 しゃべっているうちに、本当に寂しくなってきてしまい、ミクは目の端を強くこすった。
 アヤは髪型変えてたな。
 梨沙、いつのまにカメラ買ったんだろう。
 結衣ちゃんと一緒に行こうって言ってたパンケーキのお店、結局行けてないや。
 一歩ずつ前に進んでいる気持ちになれるときもある。でも、自分ひとりが社会から取り残されているような気持ちになることもある。
 しゃがみこんでクロの首筋に顔をうずめていると、古いラグのような肌触りで、心地よかった。
「ウァウ」
 喉の奥で軽くうなるような、穏やかな声がした。もっとその声が聞きたい、と思うような、心落ち着かせる声だった。
「……クロ。わたしの話がわかるんだよね? たぶん……」
 そう思うと恥ずかしくなった。「そろそろ戻ろっか。外で昨日みたいなことになったら大変だし――」
 言いかけたミクの言葉が、ふと止まった。

 ぐごっ。
「へ?」

 抱きかかえるような体勢になっているクロの喉の奥あたりから、奇妙な音が聞こえたような気がする。
 そう思う間もないほど早く、音は激しさを増していった。

 ぴちゃぴちゃ、ぐぎっ、メリメリッ……

『夜中に一回、騒々しい音を立ててたけど、どうもそのときに犬に戻ったらしくてな』
 頭のなかに、早朝の兄のセリフがよみがえってきた。
『なんか、「びちゃっ」とか「ごぎっ」とか、そういうわりとスプラッタ系の音だった』

 ミクは恐怖で血の気が引いていくのを感じた。