犬を家族に迎えて過ごすはずだった一日が、全裸の男の出現という予想もつかない方向へと転がった昨晩。
 ふわふわと落ち着かない夜を過ごし、ミクは自宅兼店舗のキッチンへと下りてきていた。普段は、自宅側の狭いダイニングキッチンで朝食を取るのだが、今朝は兄がそこにいなかった。おそらく、彼女の犬(仮)には手狭だからだろう。


 店舗スペースは吹き抜けになっていて、天井近くの明り取りの窓から朝の清潔な光が差しこんでいた。キッチンにある小さなTVが、早朝の天気予報を流している。

「わたしの犬!」ミクは声を弾ませて駆けよった。「犬が戻ってきてる!」

 黒い毛並みにマホガニー色の目をした彼女の犬は、彼女の前までてってっと歩いてくると、控えめに尻尾を振って朝の挨拶をした。
「ああ……よかった……」
 やっぱり、昨日のあれは夢だったんだ……。
 ひざまずいて首に腕をまわし、頬をすり寄せる。「昨日は急にいなくなって、心配したんだよ」
 黒犬は彼女に抱きつかれるまま、アイドリング中の車のように「ハッハッ」と静かに呼吸していた。
「本当によかった、保健所にも見つかったって連絡しないと……」

 Tシャツにトレパン姿の兄は、欠伸をしながらうなずいた。眠れなかったらしく、顔にはありありとショックを浮かべている。
「まさかあの男が、本当に犬だったとはな」
「え?」
 昨晩の《《あれ》》を夢にしてしまいたかったミクだが、玲央(れお)の言葉に顔をあげた。

「夜中に一回、騒々しい音を立ててたけど、どうもそのときに犬に戻ったらしくてな」
「騒々しい音って……」
「なんか、『びちゃっ』とか『ごぎっ』とか、そういうわりとスプラッタ系の音だった。俺、朝メシ食えるかな……」
 ひえー……。
 スプラッタが苦手なミクは、想像して恐ろしくなった。眠りにつく前、犬が人間になる事象(あるいはその逆)について思いを()せないではなかったが、もうすこしこう魔法っぽい、《《ふわっ》》としたものを想像していたからだ。

「それで、どうするつもりだ? これから」牛乳のカートンから直接飲みながら、兄が尋ねた。
「これからって……」
「どんなファンタジーかは知らないが、昼は犬で夜は人間なんて生き物、飼えるのか? ってことだけど」
「はぁ……そうだよね……」
 犬に抱きつくためにしゃがみこんでいたミクは、彼をひと撫でしてから立ちあがった。犬はマホガニー色の目で彼女を見あげている。
「とりあえず、《《詳しい人》》に相談しようと思うんだけど」