里津は言葉を選ばなかった。若瀬はさっきとは違う意味で、冷や汗をかく。
秀介は唐突な暴言に、言葉を失う。
「どうしてもまだ納得がいかないって言うなら、話を続ける。まあ時間の無駄だろうけど」
里津のそれを最後に、室内は沈黙に包まれる。秀介は言葉に迷い、里津は秀介の答えを待っている。そして若瀬はそんな二人をひやひやとしながら見守っていた。
沈黙を破ったのは、病室のドアが開く音だった。一番近くにいた若瀬が、肩をびくつかせる。
「なんだ、先輩か……驚かさないでくださいよ」
「なんだとはなんだ。お前が呼んだんだろ」
ドアを開けたのは、若瀬の本当の相方、柴村だった。
若瀬は病院に到着する前に、柴村に犯人がわかったことと、病院に向かうことを報告していた。それを受けて、駆けつけてきたらしい。
「それで、犯人は?」
また沈黙が訪れる。里津も若瀬も、犯人が目の前にいるとは言わなかった。
「おい、どうした? わかったから連絡してきたんだろ?」
すると里津は立ち上がって、柴村の前に立つ。柴村は里津のことを苦手に思っているため、距離を保つために数歩下がる。
「あとは任せた」
そして詳しく説明しないまま、病室を出た。
柴村は頭が追いつかなかった。
「任せるって言われても、俺、犯人知らないんだけど」
「あー……」
若瀬は言葉を濁し、目を泳がせる。少し考えて、秀介に背を向けた。柴村の体の向きも変える。
「木崎の推理だと、瀬尾秀介、あの人が犯人らしいんです。ただ、証拠がないのに疑うな、的な展開になりまして」
小声で簡潔に説明していく。柴村は当然の疑問を抱く。
「証拠になりそうな情報、教えなかったか?」
「そうなんですけど、木崎の奴、それを一切使わずに話を進めたので」
柴村はそれだけである程度理解した。
「……わかった、ここは引き受ける。若瀬はまだ木崎の世話係なんだろ? 行ってこい」
柴村は応援の意味を込めて、若瀬の背中を軽く叩く。
「すみません、ありがとうございます」
若瀬は里津を追って、病室を後にした。
先に出ていた里津は、駐車場で若瀬を待っていた。近付くと、不満そうにしていることがわかる。
「遅い」
「お前が変なタイミングで抜けるからだ、バカ」
里津に言い返しながら、車の鍵を開ける。若瀬が乗るよりも先に、里津が助手席に乗り込む。
「そういえば」
シートベルトを着用しながら言う。
「お前を殺そうとしたのも、瀬尾だったのか?」
「瀬尾は朝から今日の計画を実行しないといけなかったはずだから、私を殺しに来てはいないと思う。多分だけど」
エンジンをかけ、安全確認をしてアクセルを踏む。
「多分って。じゃあ誰なんだよ」
里津は空を眺める。少しずつ日が傾き、遠くの空には朱色が見えた。
「……いるでしょ。怜南のためならなんでもして、朝、警察署の近くにいた人間が一人」
言われて考え、その結論を疑った。嘘だと思いたかった。
「……葉宮が、お前を殺そうとしたって言うのか」
恐る恐る、確認として稜の名前を出す。
「まあ」
里津は短い言葉で肯定した。まだ若瀬の顔を見ようとはしない。
「なんの根拠もない、ただの仮説だけど」
里津のそれは若瀬の耳には届いていない。若瀬はまだ、その結論に納得がいっていなかった。
「あの真面目な葉宮が……」
その独り言に対して、里津がため息をつく。
「瀬尾に何か吹き込まれたんじゃない? 私がいるから、怜南はどんどん危険なほうに進んでいく、とか。私がいなければ、もとの怜南に戻る、とか」
それもまた架空の話にすぎず、若瀬はいまいち飲み込めなかった。里津はこれ以上の説得は無駄だと思い、諦める。
「……葉宮を殺人未遂で捕まえるか?」
「しない」
即答だった。
犯罪者は全員捕まえて、反省させるというのが里津の目標だと知っているからこそ、若瀬はその返答が信じられなかった。
「葉宮は多分、反省してる。根は真面目みたいだから、洗脳が解けてから、自分はなんてことをしてしまったんだって」
「葉宮のこと、ちゃんと見てるんだな」
そのからかいの言葉には反応しない。それ以上言ってしまうとどんな仕返しをされるのかわからないため、若瀬は次を言わなかった。
「でも意外だな。犯罪者は全員捕まえるんじゃなかったのかよ」
「……私は、自分が犯した罪に対して、何とも思わずに平気に生きている人が許せないだけ。ちゃんと反省してる人をわざわざ責めるようなことはしない」
「なるほどな」
若瀬の納得の言葉とほぼ同時に、里津のスマホが鳴った。また怜南からの着信だった。
「里津さん、どうしよう、稜君が、どうしよう……」
どうやら動揺しているようで、怜南にしては早口だった。
「怜南、とりあえず落ち着いて。何があった?」
「稜君が……いなく、なっちゃった……」
少し鼻をすする音が聞こえる。
しかし里津はそんな怜南を慰めるようなことは言わず、静かに笑っていた。
3
怜南に伝えた場所に到着しても、怜南はまだ来ていなかった。
「なあ、木崎」
運転席に座る若瀬は、手持ち無沙汰になり、里津を呼んだ。しかし里津はスマートフォンに集中していて、返事をしたが、どこか上の空のようだ。
若瀬はそれをわかっていながら、気付かぬふりをして話を進める。
「葉宮が現実から逃げたってのはわかったつもりだ。でも、どうして葉宮は命よりも大切な子を一人にして消えたんだと思う?」
「知らない」
短い言葉で切り捨てた。相変わらず冷たい奴だと笑ってしまう。
すると、里津たちが乗る車の前に、一台のタクシーが止まった。
「来たんじゃないか?」
「でも、葉宮が無駄に走らせたせいで、お金足りないって。若瀬、今いくら持ってる?」
「俺が払うのか」
若瀬は苦笑しながら、財布を取り出す。確認をすると、千円札が三枚、一万円札が一枚入っている。
「あとで葉宮に返してもらって。葉宮が帰ってくればの話だけど」
里津は嫌な笑顔を見せて、車を降りていった。
若瀬は車の中で、里津の様子を見守る。タクシーの窓を叩くと、少し会話をしてから若瀬の財布を開いた。そして、一万円札を一枚渡した。
本当に払ってしまい、若瀬は苦笑するしかない。
それからすぐに一人の女性がタクシーから降りて来た。見るからに弱っている。
「あれが、葉宮たちが大切に育ててきた姫ってことか」
自然と纏っている儚さに、守りたくなる気持ちもわからないことはないと思った。男心をくすぐるような、可愛らしい要素を持ち合わせているように感じた。里津の後ろをついて歩くところもまた、守りたいと思わされる。
里津が後ろのドアを開けると、怜南は車に乗り込む。若瀬に気付くと、小さく頭を下げた。
「見惚れてるの?」
助手席に乗り込みながら、アホ面を晒している若瀬に言った。若瀬はわかりやすく目を逸らし、車を発進させた。
その反応に、里津は鼻で笑う。そして流れるようにバックミラーで怜南を見ると、目を伏せて静かに座っている。里津はゆっくりと振り向いた。
「怜南」
名前を呼ばれて視線を上げると、里津が優しい目で見ていた。里津と会ったときに安心していたが、まだ不安が残っていたようで、怜南は表情を和らげた。
「葉宮がいなくなったときのこと、説明してくれる?」
小さく頷いて、口を開く。思い出すためか、少し伏し目がちになった。
「稜君と、タクシーに乗って、いろいろ話している、うちに、里津さんの話題に、なって……稜君が不思議なことを、聞いてきたの」
怜南は言葉を止め、里津の目を見た。
『怜南は木崎さんを殺そうとした人がいたら、どうする?』
怜南が稜の言葉をそのまま言うと、里津と若瀬の顔つきが変わる。怜南はそれに気付いたが、怜南が質問するよりも先に、里津が聞いてきた。
「怜南はなんて答えたの?」
「許さないって、言った」
その目は強かった。それを聞くと、里津は不敵な笑みを浮かべた。
「里津さん……?」
その悪い顔に動揺して里津を呼ぶと、里津は咳ばらいをして顔を戻した。何もなかったかのように話を続ける。
「それで、葉宮がいるところはわかる?」
今度は首を左右に振って答えた。里津の質問はそこで終わり、前を向いて何かを考え始めた。車内は沈黙に包まれ、エンジン音が騒々しく感じる。
「そういえば……」
その中で、怜南が言葉をこぼした。それに反応して、里津はまた後ろを向く。
「稜君、私を裏切るような、ことをしたって……だから、私とはいられないって、言っていました」
それを聞いて、もう一度にやりと笑う。運転中の若瀬も頷いている。
だが、怜南は二人の反応の理由がわからなかった。
「里津さん、何か知っているんですか……?」
正直に言ってもいいものなのか、迷った。両親を殺した犯人のことも、里津の背中を押した犯人のことも、怜南が知ってしまえばショックを受けるに違いない。いくら変わったとはいえ、その事実を怜南が受け入れきれるとは思えなかった。
「……私たちは怜南の両親を殺し、あなたを襲った犯人を見つけた。そして、葉宮がいなくなった理由も、今わかった。でもそれは、怜南にとっていい話じゃない。それでも、聞く?」
言うかどうかは迷っても、嘘をつくという選択肢はなかった。
怜南は迷い、俯く。いい話ではないと言われて、聞く勇気はまだ持ち合わせていない。だが、だいたい察しは付いていた。
さらに、嫌なことから逃げないと決めたこともあり、里津の話を受け止める覚悟を決めた。まっすぐ里津を見る。
「里津さん。話して、ください」
里津は深呼吸を一つする。
「怜南の両親を殺して、怜南を襲ったのは、瀬尾秀介。そして葉宮が逃げたのは、私の背中を押したからだと思う」
里津は簡潔に結論を述べる。怜南の反応を見れば話し続けられなくなると思い、振り向いていても、顔を見ようとはしない。
覚悟をしていても、驚かずにはいられなかった。怜南は言葉を失う。
それでも里津は容赦なく説明していく。
「両親を殺した理由は今、本人に聞いているところだから、まだわからない。怜南を襲ったのは、怜南に恐怖を思い出させて、自分の力で生きていこうとするのを、阻止しようとしていたから」
とにかく驚くばかりで、反応できない。
現実は残酷だ。
「葉宮が本当に私の背中を押したのかはわからないけど、怜南の話を聞くに、ほぼ間違いないと思う。理由は瀬尾と似たようなもので、私が怜南に言った言葉が気に入らなかったから」
それは怜南が一瞬でも考えた、最悪な真実だった。
また、自分のせいで里津がそういう目に遭ったのだと思うと、胸が痛む。
「二人とも、怜南のことが大切で仕方なかったんだと思う」
里津はそう言うが、二人のしたことには理解できなかった。そのため、呆れたような表情をしている。
里津の話はそこで終わり、やっと怜南を見た。怜南は視線を落としている。少しだけ、素直にすべて話してしまったことを後悔する。
静かになった空間の中で、里津に言われた情報を整理していく。
ずっと、二人に守られて生きてきた。とても、幸せな日常だった。その毎日が、怜南は好きだった。
大切にされているということが、ずっと嬉しかった。だけど今日、初めて「大切にされている」と言われて泣きたくなった。それは嬉しいという感情とは真逆のものだった。
怜南は静かに涙を落とす。
そんな怜南に声をかけようとするが、いい言葉が出てこない。
車内は最後まで沈黙に包まれていた。
4
行く当てもなく、道を歩いていた。
仕事ではミスをし、怜南を裏切るようなことをした。もう、どこにも自分の居場所がないとさえ思えてくる。
このままどこか、遠くに行ってしまおうか。誰も自分のことを知らない街に行ってしまえば、気が楽になったりしないだろうか。
そう思ったが、怜南がいない場所で生きていける気がしなかった。
ずっと、怜南のために生きてきた。怜南が笑っていられるように、なんでもしてきた。
怜南に出会ってからは、そういう人生だった。そういう人生を送ってきた。
怜南のことが何よりも大切で、失いたくなかった。
それなのに、自分の手で怜南を傷つけるようなことをしてしまった。後悔したところで遅いことはわかっていても、せずにはいられない。
どうして、里津の背中を押したのだろう。そんなことさえしなければ、まだ怜南のそばにいることができたかもしれないのに。
あのとき、間違ったことをしたと気付いたときに、謝るべきだった。下手な嘘をつかなければよかった。
一つ後悔し始めると、次々と出てくる。
やはりここには自分の居場所はない。
結局その結論に至り、現在地から最寄りの駅に足を向けた。
どこに行こう。ここからうんと遠い場所がいい。怜南のことも忘れられるような、静かな場所がいい。
そんなことを思いながら切符を買い、改札を通る。
ホームに着くと、同じく電車を待っている人が何人かいる。
何をするわけでもなく、ただ空を見上げていた。薄暗い雲が多く、青空を見せてくれない。まるで自分の心の中を見させられているような気さえしてくる。
そのとき、電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえた。
今だ。
体に指令を出し、前に進む。
「人様に迷惑をかけるような自殺方法を選ぶなんて、相変わらず単純でバカ」
電車が到着した音に交じり、急に貶すような言葉が聞こえて来た。驚きと戸惑いで足が止まる。
そのような、人の嫌なところをつく言い方をする人を、稜は一人しか知らない。まさかと思って振り向こうとしたら、誰かに後ろから抱き着かれた。それはタックルに近く、痛みがあった。
視線を落とすと、予想外の人物がそこにいる。
「怜南……どうしてここに……」
「君のスマホの現在地情報でたどり着いただけ」
里津が淡々と答える。かなり簡単な方法だったがために、気付けなかった自分を恥ずかしく思った。
「稜君、死んじゃ、ダメ」
二人の会話が聞こえていなかったかのように、怜南は涙目で見上げる。
「でも、俺……」
稜はその続きを言わない。気まずさから、目を逸らす。
「私は葉宮が死のうが何しようがどうでもいいんだけど、怜南を傷つけたくない、悲しませたくないっていう君が、死を選んだらダメでしょ」
里津は赤城に教えられたことをそのまま伝えていく。
「葉宮が怜南を大切に思うように、怜南も葉宮を大切に思ってる。そんな大切な君が死んだら、怜南は悲しむに決まってる。君、それもわからないようなバカだったんだね」
自殺をしようとした人を思いとどまらせるには、最低な言葉が混じっている。だが、なんとも里津らしい。ここで必死に稜を止めようとするほうが、不自然だろう。
そう思ったからこそ、稜は苦笑いをした。
ほとんどの人が電車に乗って行ったため、ホームが広く感じる。
「それと。自分が犯した罪を償わずに死ぬなんて、絶対にさせないから」
どの言葉よりも、一番厳しい口調だった。
「ちゃんと反省して後悔していたみたいだから、あのことは水に流してあげようかなって思ってた。でも、どんな理由があったとしても、逃げようとしたから、許さない」
未解決事件の犯人に対する憎しみのようなものを知っているからこそ、その言葉に違和感を抱くことはなかった。
「過去は消えないし、なかったことにはできない。だから、逃げたって意味がない」
稜は返す言葉もなく、里津の話を聞いている。
しかし怜南は、その言葉は稜を説得しているというより、自分に言い聞かせているように感じた。稜から離れ、並んで静かに里津の話を聞く。
「間違ったことをしてしまった人にできるのは、自分がやってしまったことに対して後悔し、苦しみ続けることだけ。そして、忘れることは許されない。たとえ相手が許してくれて、忘れてしまったとしても、私たちは忘れてはいけない」
最後の一人称が「私たち」となったことに対して、稜は疑問を抱いた。その意味を理解したのは、里津の過去を知る怜南だけだった。しかし怜南は口を開こうとはしなかった。
「刑事の君なら、これからするべきことはわかるよね」
十分な間を取り、いつものように冷たく言う。稜は小さく頷いた。それから駅の出口に向かう。
「駅の外に若瀬がいるから」
里津は稜が横を通るタイミングで言った。それに対して謝罪の言葉を言いかけたが、稜はその言葉を飲み込んで去って行く。
稜の姿が見えなくなって、怜南の顔は落ちていき、頬には涙が伝った。それはまるで、抑えていた感情が溢れ出したようだった。
次第に声が漏れ、里津は怜南の頭を撫でながら抱き寄せた。その温もりを感じて、怜南はさらに涙をこぼす。
空を覆っていた厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込む。その光は優しく暖かいもので、悲しみにくれる少女を癒しているようだった。
木崎里津は目が覚めて一番に、カーテンを開けた。今日の日差しは強く、目を細めてしまうほどだった。昨夜の天気予報で今日は一日晴れだと言っていたので、窓を開ける。わずかに聞こえていた蝉の声が、大きくなる。
「もう夏か」
そう呟くと、小さく欠伸をした。そのとき、ノックの音がした。返事をすると、ドアが開く。
「おはよう、里津さん」
顔を覗かせたのは、永戸怜南だ。里津が挨拶を返すと、怜南は微笑みを見せる。
あの事件が解決してから、秀介が経営していた喫茶店にいることができなくなった怜南は、里津の家に居候していた。最近になって、里津との生活に慣れてきた。
「朝ご飯、できたよ」
「準備したら行く」
里津の返事を聞くと、怜南はドアを閉めた。
適当にスーツに着替え、部屋を出る。それから顔を洗い、食卓に向かった。テーブルには白米にみそ汁、卵焼きとシンプルで日本の朝食らしいメニューが並んでいる。里津は卵焼きを一切れ、手でつまんで口に入れた。
「うん、おいしい」
「里津さん、お行儀悪いよ」
お茶を注ぎながら注意はしているが、その顔は嬉しそうだ。椅子に座ると、里津は真剣な表情で怜南を見る。
「怜南、この前の話、本気なの?」
コップを里津に渡すと、向かいの椅子に腰を下ろす。
「本気だよ」
「でも、思い出さない?」
何を思い出すのかまでは言わないが、怜南はそれをわかっていた。だからこそ、視線を落とす。
「理由はなんでも、私はあの場所にいて、毎日幸せだった。楽しかったし、好きだった。それは嘘でも妄想でもない」
そこまで言って、怜南は言葉を切った。乾いた喉にお茶を与える。
「つらくないとは、言いきれない。でも、それよりもやってみたいっていう気持ちのほうが、大きい。これからは、誰かを幸せな気持ちにしていきたいって、思ったんだ」
怜南もまっすぐに里津を見つめ返す。
「私、喫茶店を開く」
里津なりに心配していたが、その必要はなかったらしい。ここまで強い意志を見せられて、さらに反対する気はなかった。
「頑張れ、怜南」
素直な応援の言葉に、怜南は笑って答える。
それから怜南が作った朝食を完食すると、里津は家を出た。
たった数十分で、日差しは強くなっていた。露出した肌は焼けるように痛く、汗がにじんでくる。
そんな中から室内に入るというのは、まさに地獄から天国のようだ。
警察署に足を踏み入れると、里津はまっすぐ未解決事件資料管理室に向かった。
「おはようございます」
里津が挨拶しながら入ると、資料棚のほうから、資料確認を終えた赤城が歩いてくる。
「おはようございます、里津さん」
赤城の挨拶が返ってくると、長机に入っているパイプ椅子に座る。
「同居はうまくいっていますか?」
「まあ、なんとか。今、怜南は喫茶店を開くために、料理の訓練してる」
それを聞いて、赤城は戸惑いの声を漏らした。
「里津さん、また余計なことを言ったのですか?」
詳しく聞かないで責められたことに対して、里津は不満をあらわにする。
「言ってない。怜南はあの空間が好きで、今度は自分の手で作りたいんだって」
赤城は一瞬疑ったが、ここで里津が嘘をつく理由もないため、その説明を信じた。
「ところで里津さん、ここでのんびりしていて、大丈夫ですか?」
赤城が言うと、里津は体をこわばらせた。
「私、あそこ、いたくない」
片言の日本語で言うと、机に突っ伏した。
稜がいなくなったことにより、里津には新しい相棒ができた。その相手が、里津にとって窮屈な相手だったのだ。
「そんなこと言っても、きっと迎えが来ますよ。里津さんがここにいるって、知っている人ですから」
それを聞こえないというように両耳を塞いでいるが、それは子供が駄々をこねているようにしか見えない。赤城は呆れた表情でため息をつく。
「木崎」
すると、里津の相棒にされてしまった若瀬が、里津の名前を呼んで入ってきた。赤城と顔を合わせると、軽く挨拶を交わす。
怜南が襲われた事件の捜査をしているときのコンビを一課長に認められてしまい、若瀬は里津と組むように言われた。何度も断ったが受け入れられず、諦めてコンビを組んでいる。
「木崎、今何時だと思ってるんだ。早く行くぞ」
「断る」
顔を腕に埋めていることで、その声はこもっている。しかし若瀬は、容赦なく里津の首根っこを掴んで、無理矢理体を起こす。
「断るな。行くぞ」
稜と組んでいたときのようにわがままは言っているが、稜のときは、稜を困らせているだけのように見えた。しかし、今は里津が本当に子供のように感じてしまう。
「里津さん」
赤城が名前を呼んだだけで、里津は自ら立ち上がった。その反応速度に、若瀬は数回瞬きをする。
「赤城さんって何者なんですか? すごい人だっていうことはわかってるんですけど、木崎にここまで言うことを聞かせるなんて」
若瀬は初めて里津とここに来たときから気になっていた、赤城と里津の関係を聞いた。
「何者と言われましても、普通の人間ですよ」
赤城は困ったように答える。
「じゃあ、木崎との関係は? まさか、恋人同士だったりします?」
「私と赤城さんが恋人なわけないでしょ。赤城さん、結婚して子供もいるんだから」
赤城よりも先に、里津が答えた。呆れた顔を浮かべている。
「結婚して、子供……」
里津の最後の言葉を繰り返すことで、その情報を整理させる。しかしまだ驚きが残っている。
「赤城さんの娘さん、めちゃくちゃ可愛いの」
赤城に同意を求めるように言うと、赤城は照れ笑いを見せる。
「なんでお前そんなに詳しいんだよ」
「赤城さんは兄の友人だから」
里津は若瀬がする質問に、素直に教えてくれる。それを見て、初めから聞いておけばよかったと思う。
「木崎、兄貴がいるのか」
「里津さん以上に強烈な人です」
冷静で大人な赤城が、苦虫をつぶしたような顔をした。その表情にも驚いたが、発言の内容のほうが気になった。
「そんな人、いるんですね」
赤城は顰め面をしたまま、何度も頷いている。
しかし里津はつまらなさそうにしている。若瀬はそれを、里津も赤城のように兄に苦手意識を抱いているのかと思った。だがそれは違って、里津は尊敬する兄をそう言われたことに不満を抱いていた。
「里津さん、時効一ヶ月を切っていた、あの事件の目撃情報のメールが届きましたよ。見ますか?」
それに気付いた赤城は、話題を逸らすようにそう言った。
里津が赤城のもとに行くと、赤城は里津が画面を見やすくするために、席を立つ。
「赤城さん、この事件の資料ください」
里津の目の色が変わる。どうしたって、さっきの話題を続ける空気ではない。若瀬は探求心を抑え、里津の背後に立つ。
赤城は里津に言われた通り、資料を取ってくる。それを手にすると、事件の内容を確認していく。
「今回はかなり有力な情報……若瀬、私もう少しここにいる」
里津は若瀬の答えを聞かずに、資料を読むことに集中し始めた。もう、誰の声も耳に届かなさそうだ。
「あのやる気はどこから来るんだか……」
ため息とともに吐き出す。
「未解決事件がなくなると、あのやる気はなくなりますよ、きっと」
赤城はそう言って笑う。
未解決事件がどれだけあるのかわかっていながら言うとは、意地が悪いと思いながら、作り笑いを返す。さらに、これからもこの自由さに振り回されるのかと思うと、気が重くなる。
だが、案外悪くないとも思った。
「木崎、その事件について、教えてくれ」
里津は嫌そうな顔を見せるが、ホワイトボードを出してくる。
そして事件の話し合いが活発化していく様を、赤城は微笑ましく見守っていた。