永戸(ながと)怜南(れな)は寝ている間にかいた汗を流すために、朝からシャワーを浴びる。一通り流すと、お湯を出したままシャワーヘッドをもとの位置に戻した。そして意味もなく、立った状態で頭から浴びる。少しずつ目が覚めていき、シャワーを止めた。

 風呂場を出て、タオルで体の水を拭き取る。そのタオルを頭に巻いて髪をまとめると、下着を身につけた。

 それから鏡の前に立つと、幼いころにできた左肩の傷が目に付いた。怜南はそれから目を背けながら、頭からタオルを取った。長い髪が重力に従って落ちる。乾いていない毛先から零れる雫が、背中を伝る。しかしそんなことは気にせず、傷を隠すように肩にタオルをかけた。

 ドライヤーで髪を乾かし始めると、髪だけでなくタオルまで揺れ動いた。少しずつタオルはずれていき、結局床に落ちてしまった。怜南は仕方なくドライヤーを止めて、長袖シャツを着る。

 そしてもう一度スイッチを入れようとしたとき、ノックの音がした。続けて声が聞こえてくる。

「怜南、朝飯できた」

 怜南は何も言わずにドライヤーを所定の位置に戻す。

 ロングスカートを履いて、ドアを開ける。ドアを叩いたのは怜南が兄のように慕う、幼馴染の葉宮(はみや)(りょう)だった。

 稜は出て来た怜南を見て、顔を顰めた。

「おい、髪が乾いてないのに出てくるなよ。春になったとはいえ、まだ寒いんだ。そういうことしていたら風邪ひくぞ」

 稜は怜南の体の向きを変えて鏡の前に連れて行き、ドライヤーを手に取った。言われるがまま、されるがままな怜南の髪を乾かす。

 ある程度乾くと、稜はスイッチを切った。怜南の髪に指を入れる。

「よし、これくらいでいいだろ。早くしないと飯が冷める」

 稜が風呂場を出ようとすると、怜南は稜のシャツを掴んだ。声を出せない怜南は、感謝の意を込めて微笑んだ。

 すると、稜は怜南の頭に手を置き、綺麗に整えたばかりの髪をぐしゃぐしゃにした。それはただの照れ隠しなのだが、怜南には一切伝わっていない。怜南は小さく頬を膨らませ、稜の左肩を叩いた。

 しかしその力は弱く、稜は微笑ましくなる。

「ごめんって。怜南の好きなみかんゼリー用意してるから、機嫌治せ」

 それを聞いた怜南は、稜を叩くのをやめた。満足そうな顔を見せ、軽い足取りで一階に降りた。

 怜南が住んでいるこの家は、一階が怜南の叔父、瀬尾(せお)秀介(しゅうすけ)が経営する喫茶店になっている。基本的に二階で生活をし、店で食事をとる。

 二人は一階に降りると、秀介がカウンター席でコーヒーを飲んでいた。

「おはよう、怜南」

 怜南は微笑みながら頭を下げると、秀介の左隣に座る。稜はキッチンに入り、怜南の前にハムエッグとサラダ、焼いた食パンを乗せた皿と、アイスコーヒーを並べた。

「いつ見ても完璧な料理だね。スカウトしたいくらいだ」

 怜南の朝食を横から覗き込み、秀介は感心したように言う。

「嬉しいこと言ってくれるね。でも俺は刑事だから、遠慮しておくよ」

 稜は布巾でシンクの周りの水滴を拭き取る。まさに手慣れた仕草で、稜がマスターだと言われても違和感がないほどだった。

「今日からだっけ?」
「そうだよ。憧れの一課に配属されたのはいいんだけど、昨日から緊張しっぱなし」

 横で会話が続いているのに、怜南は加わろうとしない。それどころか、手を合わせて出された食パンにバターを塗り始めている。端を少し残して塗るのが怜南のやり方で、今朝はうまくできたのか、満足そうにして食パンの角を口に含んだ。

 怜南は思っていることがそのまま顔に出ることが多い。今はおいしいと言わんばかりに頬を緩めている。

 自分の料理をおいしいと気に入ってくれることが嬉しく、稜の口元は緩んでいた。

 稜は怜南の口の端についているパンの粉を取ろうと手を伸ばす。それに気付いた怜南は、おとなしく稜が触れるのを待つ。それはまるで子供のようで、稜は小さな声で笑いながら、口元のパンくずを取った。

 怜南は稜が何に笑ったのかわからず、首を傾げるが、稜は説明しなかった。

「さてと。俺、もうそろそろ行くよ」

 稜がカウンターの端に置いていた上着を着て、カバンを手にする。怜南は食パンを咥えたまま稜に手を振った。

「ゼリーは冷蔵庫にあるから、全部食べたら秀介さんに出してもらえ」

 稜は流れるように怜南の頭を撫でた。稜に撫でられたことに対してなのか、ゼリーがあることに対してなのかわからないが、怜南は頬を緩めた。

 そんな怜南に惑わされ、稜は誤魔化すように咳払いを一つした。

「じゃあ、行ってきます」

 稜がドアを開けたことで、ドアベルが鳴った。

 ドアが完全に閉まると、怜南は食事に戻る。

 秀介はマイペースに食べ進めている怜南を横目に、立ち上がる。

「怜南と稜君は本当の兄妹みたいだね」

 空になったカップを下げながら、言った。怜南は照れているのか、俯いて笑う。

「怜南は稜君のことが好き?」

 今度は怜南をからかうように質問を投げる。兄妹という単語には照れたのに、怜南は迷わず頷いた。

 秀介は即答されるとは思っていなかったため、反応が遅れる。

「……そっか」

 どこか寂しそうな顔でこぼし、それ以上は言わなかった。どうしたのか聞こうとしても、怜南は様子を伺うように秀介の顔を覗くことしかできなかった。

 怜南の視線に気付いた秀介は、笑顔を作る。

「嬉しいんだよ。怜南が少しでも前を向いてくれてることが。義姉(ねえ)さんたちが死んですぐのころは、笑うことだってできなかっただろ?」

 怜南は食べかけの食パンを皿に置いた。脳内では自分の両親が殺されたときの映像が流れる。刃物を向けられた恐怖が蘇り、強く目を瞑る。

 しかし秀介は開店の準備を始めて怜南に背を向けていて、怜南の様子がおかしいことに気付いていない。それどころか、そのまま事件に関する話を続ける。

「稜君には本当に感謝しないといけないね。怜南が小学校に上がるときから面倒見てくれて、義姉さんたちを殺した犯人を捜すために刑事になって。よほど怜南のことが大切なんだろうね」

 振り向くと、怜南がスマートフォンを操作していた。食事中にスマートフォンを触るのは行儀が悪いと注意すべきことなのだが、喋れない怜南と会話をするためには必要不可欠なアイテムなため、秀介は黙って見守る。

『稜君は優しいから、かわいそうな私のことが無視できないだけ』

 自分で打ちながら、落ち込んだ。文章を変えようと思ったが、秀介が待っていることをわかっていたため、躊躇いながらスマートフォンの向きを変える。

 秀介は少し身を乗り出して表示されている文字を読む。

「そんなことはないと思うけどなあ」

 秀介には、稜が怜南をかわいそうだと思って接しているようには見えなかった。むしろその逆で、可愛くて仕方ないという感情が溢れているように思えた。

 だから怜南の言葉を否定したのだが、怜南は秀介の言葉を信じようとしない。スマートフォンの画面を下にしてテーブルに置くと、表面に大量の水滴を付けたコップを手に取った。

 まだ冷たい麦茶は、喉を通って心のもやもやも流してくれたような気がした。