黒い帽子を深く被り、マスクを着けて顔の半分を隠す。目立たないように選んだ全身黒の恰好は、明るい昼間にふさわしくなく、余計に目立っている。しかしその人物は、運よく誰ともすれ違うことなく目的地に到着し、物陰に隠れていた。
住宅街の中にある小さな公園を睨みつける。その公園には遊具が少なく、公園というよりは広場に近かった。
そこでは少女と男性がボールを使って遊んでいた。その二人が目的の人物で、マスクの奥で口角が上がる。だが、まだその場で男性と少女を睨む。
男が優しい声で呼びかけると、少女は両手で持つ大きなボールを、バウンドさせながら目の前の男に投げる。転がりながら届いたボールを拾い上げると、男は少女に笑いかけた。少女はよくできたと褒められたような気分になって、照れたように笑う。
男から少女に返すために転がされたボールは、しゃがんで取ろうとした少女の真横を通り過ぎていく。少女は首を後ろにひねり、ボールの行く先を見つめる。少女の後ろには壁があり、ボールはそれにぶつかって跳ね返ってくる。少女は立ち上がると、足早にボールを取りに行った。
落とさないように両手でしっかりと持ち、取れたことを報告するかのように振り返った。しかし少女は目を見開き、ボールを落とした。ボールは少女のそばでバウンドし、ゆっくりと少女から離れていく。
少女は何が起きたのかわかっていなかった。
目の前で笑っていたはずの男が倒れて砂利を赤く染め、その後ろにナイフを持った人物が立っていたのだ。
「こいつも、お前も必要ない」
それはマスクのせいでこもった声になり、少女の耳には届かなかった。
しかし少女をまっすぐ睨んだことで、少女は恐怖だけは感じ取った。少女はただ立ち尽くすことしかできなかった。
犯人が少女に近付くために一歩踏み出したとき、背後で玄関が開く音がした。横目で出てきた人物を確かめると、両手にお茶の入ったコップを持った一人の女性がそこにいた。犯人は顔を隠し、焦って少女のもとに駆け寄っていく。
女性はすぐには状況を飲み込めなかったが、ナイフを手にした者が少女に近付いていくところを見て、持っていたコップを手放し、少女の前に飛び出した。背を向けた女に、容赦なくナイフが突き刺さる。女性は痛みに耐える表情を浮かべた。
犯人が慌てて女の背からナイフを抜いたことで、女性がうめき声をこぼす。それを聞かなかったふりをして、再び少女を狙う。しかし、意識を失いかけているはずの女は少女を抱え込むように抱き締め、離そうとしない。
犯人の目には動揺の色が見える。
「……お前のほうがいらない」
その場から立ち去ろうとしたとき、恐怖に染まった少女が目に入った。そのとき、ある考えが浮かんだ。また片側だけの口角が上がる。
犯人は少女にさらなるトラウマを植え付けるように、少女の左肩にナイフを突き立てた。少女は女性がしたように痛みに耐える表情を浮かべる。それから少女の目じりに涙が見えた。それを見て満足したのか、公園を走って出て行った。
やはり状況は飲み込めていなかったが、肩を刺された痛みに耐えられなくなり、少女は声を上げて泣いた。
それが聞こえて不思議に思った野次馬が、公園に集まり始める。事態を把握した誰かが、警察と救急車を呼んだ。
男と女の傷は深く、二人は命を落とした。少女は命に別状はなかったが、記憶の混乱が見られた。そして声を失い、ひどく塞ぎ込んでしまった。
そして殺人犯が捕まらずに、十五年のときが流れた。
1
永戸怜南は寝ている間にかいた汗を流すために、朝からシャワーを浴びる。一通り流すと、お湯を出したままシャワーヘッドをもとの位置に戻した。そして意味もなく、立った状態で頭から浴びる。少しずつ目が覚めていき、シャワーを止めた。
風呂場を出て、タオルで体の水を拭き取る。そのタオルを頭に巻いて髪をまとめると、下着を身につけた。
それから鏡の前に立つと、幼いころにできた左肩の傷が目に付いた。怜南はそれから目を背けながら、頭からタオルを取った。長い髪が重力に従って落ちる。乾いていない毛先から零れる雫が、背中を伝る。しかしそんなことは気にせず、傷を隠すように肩にタオルをかけた。
ドライヤーで髪を乾かし始めると、髪だけでなくタオルまで揺れ動いた。少しずつタオルはずれていき、結局床に落ちてしまった。怜南は仕方なくドライヤーを止めて、長袖シャツを着る。
そしてもう一度スイッチを入れようとしたとき、ノックの音がした。続けて声が聞こえてくる。
「怜南、朝飯できた」
怜南は何も言わずにドライヤーを所定の位置に戻す。
ロングスカートを履いて、ドアを開ける。ドアを叩いたのは怜南が兄のように慕う、幼馴染の葉宮稜だった。
稜は出て来た怜南を見て、顔を顰めた。
「おい、髪が乾いてないのに出てくるなよ。春になったとはいえ、まだ寒いんだ。そういうことしていたら風邪ひくぞ」
稜は怜南の体の向きを変えて鏡の前に連れて行き、ドライヤーを手に取った。言われるがまま、されるがままな怜南の髪を乾かす。
ある程度乾くと、稜はスイッチを切った。怜南の髪に指を入れる。
「よし、これくらいでいいだろ。早くしないと飯が冷める」
稜が風呂場を出ようとすると、怜南は稜のシャツを掴んだ。声を出せない怜南は、感謝の意を込めて微笑んだ。
すると、稜は怜南の頭に手を置き、綺麗に整えたばかりの髪をぐしゃぐしゃにした。それはただの照れ隠しなのだが、怜南には一切伝わっていない。怜南は小さく頬を膨らませ、稜の左肩を叩いた。
しかしその力は弱く、稜は微笑ましくなる。
「ごめんって。怜南の好きなみかんゼリー用意してるから、機嫌治せ」
それを聞いた怜南は、稜を叩くのをやめた。満足そうな顔を見せ、軽い足取りで一階に降りた。
怜南が住んでいるこの家は、一階が怜南の叔父、瀬尾秀介が経営する喫茶店になっている。基本的に二階で生活をし、店で食事をとる。
二人は一階に降りると、秀介がカウンター席でコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、怜南」
怜南は微笑みながら頭を下げると、秀介の左隣に座る。稜はキッチンに入り、怜南の前にハムエッグとサラダ、焼いた食パンを乗せた皿と、アイスコーヒーを並べた。
「いつ見ても完璧な料理だね。スカウトしたいくらいだ」
怜南の朝食を横から覗き込み、秀介は感心したように言う。
「嬉しいこと言ってくれるね。でも俺は刑事だから、遠慮しておくよ」
稜は布巾でシンクの周りの水滴を拭き取る。まさに手慣れた仕草で、稜がマスターだと言われても違和感がないほどだった。
「今日からだっけ?」
「そうだよ。憧れの一課に配属されたのはいいんだけど、昨日から緊張しっぱなし」
横で会話が続いているのに、怜南は加わろうとしない。それどころか、手を合わせて出された食パンにバターを塗り始めている。端を少し残して塗るのが怜南のやり方で、今朝はうまくできたのか、満足そうにして食パンの角を口に含んだ。
怜南は思っていることがそのまま顔に出ることが多い。今はおいしいと言わんばかりに頬を緩めている。
自分の料理をおいしいと気に入ってくれることが嬉しく、稜の口元は緩んでいた。
稜は怜南の口の端についているパンの粉を取ろうと手を伸ばす。それに気付いた怜南は、おとなしく稜が触れるのを待つ。それはまるで子供のようで、稜は小さな声で笑いながら、口元のパンくずを取った。
怜南は稜が何に笑ったのかわからず、首を傾げるが、稜は説明しなかった。
「さてと。俺、もうそろそろ行くよ」
稜がカウンターの端に置いていた上着を着て、カバンを手にする。怜南は食パンを咥えたまま稜に手を振った。
「ゼリーは冷蔵庫にあるから、全部食べたら秀介さんに出してもらえ」
稜は流れるように怜南の頭を撫でた。稜に撫でられたことに対してなのか、ゼリーがあることに対してなのかわからないが、怜南は頬を緩めた。
そんな怜南に惑わされ、稜は誤魔化すように咳払いを一つした。
「じゃあ、行ってきます」
稜がドアを開けたことで、ドアベルが鳴った。
ドアが完全に閉まると、怜南は食事に戻る。
秀介はマイペースに食べ進めている怜南を横目に、立ち上がる。
「怜南と稜君は本当の兄妹みたいだね」
空になったカップを下げながら、言った。怜南は照れているのか、俯いて笑う。
「怜南は稜君のことが好き?」
今度は怜南をからかうように質問を投げる。兄妹という単語には照れたのに、怜南は迷わず頷いた。
秀介は即答されるとは思っていなかったため、反応が遅れる。
「……そっか」
どこか寂しそうな顔でこぼし、それ以上は言わなかった。どうしたのか聞こうとしても、怜南は様子を伺うように秀介の顔を覗くことしかできなかった。
怜南の視線に気付いた秀介は、笑顔を作る。
「嬉しいんだよ。怜南が少しでも前を向いてくれてることが。義姉さんたちが死んですぐのころは、笑うことだってできなかっただろ?」
怜南は食べかけの食パンを皿に置いた。脳内では自分の両親が殺されたときの映像が流れる。刃物を向けられた恐怖が蘇り、強く目を瞑る。
しかし秀介は開店の準備を始めて怜南に背を向けていて、怜南の様子がおかしいことに気付いていない。それどころか、そのまま事件に関する話を続ける。
「稜君には本当に感謝しないといけないね。怜南が小学校に上がるときから面倒見てくれて、義姉さんたちを殺した犯人を捜すために刑事になって。よほど怜南のことが大切なんだろうね」
振り向くと、怜南がスマートフォンを操作していた。食事中にスマートフォンを触るのは行儀が悪いと注意すべきことなのだが、喋れない怜南と会話をするためには必要不可欠なアイテムなため、秀介は黙って見守る。
『稜君は優しいから、かわいそうな私のことが無視できないだけ』
自分で打ちながら、落ち込んだ。文章を変えようと思ったが、秀介が待っていることをわかっていたため、躊躇いながらスマートフォンの向きを変える。
秀介は少し身を乗り出して表示されている文字を読む。
「そんなことはないと思うけどなあ」
秀介には、稜が怜南をかわいそうだと思って接しているようには見えなかった。むしろその逆で、可愛くて仕方ないという感情が溢れているように思えた。
だから怜南の言葉を否定したのだが、怜南は秀介の言葉を信じようとしない。スマートフォンの画面を下にしてテーブルに置くと、表面に大量の水滴を付けたコップを手に取った。
まだ冷たい麦茶は、喉を通って心のもやもやも流してくれたような気がした。
2
ほかの刑事たちとうまくやっていけるのか、反感を買ったり嫌われたりしないかなどの不安を抱きながら、刑事課捜査一課に足を踏み入れた。
「おはようございます」
みっともなく声が震える。稜の挨拶が聞こえた人たちが出入口を向き、稜はさらに緊張した。
「お、新人か?」
「なんだなんだ、緊張してるのか」
稜の不安は取り越し苦労だったようで、数人に笑顔で囲まれた。どうやら歓迎されているようだ。彼らの接し方は家族のような距離感で、稜の緊張は解けていった。
そんな中で、稜は視界の端に移る女性が気になった。
彼女は真剣な表情でパソコンを睨んでいる。その顔から目が離せない。
「あの人は……」
彼女について聞こうとしたが、うまく言葉が出てこなかったのと、周囲が同情したような目で見てきたため、稜はその先が言えなかった。
「また被害者が……」
「見た目だけはいいからなあ」
「あの……?」
話が見えなくて、稜は恐る恐る口を挟む。
「あいつと話してみるとわかるよ」
稜に答えたのは、後ろにいた男性だった。まさか後ろに人がいたとは思っておらず、稜は少し大げさに驚いた。
「あいつに関わりたくないってこと」
彼は気にせず続けた。周りのほとんども頷いている。
しかし稜は怖いもの見たさで、彼女に話しかけてみたいと思った。
「いきなり話しかけたりしたら迷惑ですよね」
「いや、いつ話しかけても迷惑そうな顔するよ、あいつは」
これだけ言われているのに、余計に興味をひかれていた。
彼は小さくため息をつく。
「あいつは木崎里津。とにかく仕事を嫌う超絶マイペース人間。話したと思ったら、嫌がらせのようなことしか言わない。あとは……無駄に優秀」
最後の一言を言うとき、彼はこれでもかというほど顔を顰めた。そのことを言いたくないと言っているようだった。
だが、ほかの人たちも彼と同じような反応をしていた。
性格は嫌いだが、能力は認めているということだろう。
「そういえば、今バディがいないのって、木崎だけじゃなかったか?」
誰かが思い出したように言うと、稜に同情の目が向けられる。まだ里津と組めと言う指示は出ていないのに、ずいぶんと気が早いと思った。
しかし彼らの予想通り、稜の相棒は里津になった。
「あの、木崎さん。今日からよろしくお願いします」
里津の隣の席に荷物を置くと、里津は悲しい目をして稜の机を見た。何かあったのかと荷物を上げてみるが、何もない。稜は不思議に思ってまた里津を見る。
「私のお菓子置き場……」
里津は無表情でこぼした。しかし机上には何もなかったため、稜は一体何を言っているのだろうと首を傾げる。
詳しく説明するよりも見せたほうが早いと思ったのか、里津は手を伸ばし、引き出しを引っ張った。覗き込んでみると、そこにはスナック菓子やチョコ菓子が入っていた。
「これ、木崎さんの菓子なんですか?」
稜は言葉を失いながらも、質問する。
「私の机、なぜか書類がいっぱいあって置けないし。ここ、誰も使ってないからいいかなって思って」
里津は悪びれる様子もない。むしろそうしていることが当然だと言わんばかりだ。
稜は助けを求めるように周囲を見渡すが、誰も目を合わせてくれない。わざとらしく顔を伏せる人もいた。あの歓迎ムードは嘘だったのかと思ったが、誰一人里津と関わろうとしていなかったことを考えると、こうなるのも仕方ないとも思った。
稜自身、あれだけ里津に興味をひかれていたのに、もうすでに関わりたくないと感じていた。
とはいえ、どれだけ嫌だと思っても、新人の稜は従って里津と組むしかない。
刑事になった目的を思い出し、気合を入れる。こんなところで折れてはいられない。
前を見ると、里津について教えてくれた彼が座っている。
「すみません、いらない箱ってあります?」
「ああ、あるよ。ちょっと待ってて」
彼が机の下から取り出したのは、隣町にあるレジャー施設のキャラクターが描かれた空箱だった。しかし稜は箱ならなんでもよかったため、気にせずそれを受け取ると、引き出しに詰め込まれていたお菓子を入れていく。
「君、何してるの」
普通の人ならなぜ稜がそうしているのか容易にわかるだろうが、里津は本気で驚いた表情を見せた。
「机の整理です。それから、僕の名前は葉宮稜です。今日からあなたのバディになりました」
自己紹介や上司の指示を聞いていなかったから、お前誰だと言っているような目を見せてきたのだと思い、稜は改めて名乗る。
お菓子が入った箱を、里津に差し出す。
「よろしくお願いします、木崎さん」
里津はしぶしぶその箱を引き取るが、心底嫌そうな顔をしていた。だが、次の瞬間には何かを閃き、上機嫌で自分の机の上を漁った。
「うん、これがいい。はい、これ」
稜は条件反射で里津が渡してきた紙の束を受け取った。
「なんです? これ」
稜はパラパラとめくる。
「今日中に提出しなきゃいけない報告書。君、私のバディなんでしょ? 私忙しいから、それ仕上げておいてね」
「おい、葉宮は今日来たばっかりなんだ。いきなりそんな仕事押し付けるなよ」
箱を渡してきた彼が、戸惑っている稜の代わりに言う。
「じゃあ若瀬がやる?」
若瀬と呼ばれた彼は、里津から目を逸らした。
「じゃあ、よろしくね」
里津は稜の肩に手を置いて作り物感満載の笑顔で言った。そして稜の反応を待たずに、箱を持って席を離れた。
「……はい?」
里津がいなくなってから、やっと反応した。やっと理解が追い付いたと言っても過言ではないもかもしれない。
稜は誰でもいいから説明をしてほしくて、とりあえず若瀬を見る。若瀬はため息をついて話し始める。
「そんな感じで、木崎は他人に自分の仕事を投げてくる。今までは俺がやってたけど……俺にも俺の仕事があるから、葉宮がやってくれるとものすごく助かるんだよね」
里津はなぜか自分のところに資料がたくさんあると言っていたが、それは自業自得というものだった。
それがわかって、稜は不満をあらわにする。
「……でもこれ、俺の仕事じゃないですよね」
「うん、ごめん。でも頑張れ」
初仕事としては納得いかなかったが、一番下っ端の稜がそれ以上の文句を言えるはずなかった。
稜は大人しくデスクに着き、里津に押し付けられた仕事に取り掛かり始めた。
3
若瀬に質問をしながら里津の仕事をこなして昼食を終えると、事件発生の連絡が来た。
先輩刑事たちが現場に向かう中、稜は里津を探していた。
「木崎さん!」
稜が呼び止めると、前を歩いていた里津は足を止めた。
「……何」
里津は迷惑そうに顔を顰めているが、稜は引かない。
「殺人事件が発生したそうです。行きましょう」
そう伝えると、次は不思議そうにする。
「どうして?」
稜は言い返したくなったが、それを飲み込む。
「いいから行きますよ!」
そして嫌がる里津を引っ張って、現場に急いだ。
現場は二階建ての古いアパートの一室だった。場所は一階の一番左の部屋のようだ。
少し離れたところで手帳を持った若瀬と、白いシャツに水色のロングスカートと、落ち着いた服装をした女性が話している。
稜は部屋の前で現場に入る準備をしながら、聞き耳を立てる。
「……十二時くらいまで寝てて……目が覚めてキッチンに行ったら、彼が血を流して倒れてて……」
彼女は泣きながら遺体発見当時の状況を話す。
親しい仲である人の遺体を発見し、混乱しているというのに、思い出させながら話を聞くなど酷なことだと思いながら、稜は現場に足を踏み入れる。
室内はとてもシンプルで、物も少なかった。そのため、部屋は綺麗にしてあるように見える。三段ボックスの上にあるコルクボードには、さっきの彼女と男が笑顔で写っている写真が数枚貼ってあり、それぞれの角には吹き出しの形に切り取られた紙が貼りつけられている。
『京都旅行』
『お花見』
『付き合って三年目』
どうやらそれはその写真がいつ撮られたものなのかを示しているようだ。
彼女と被害者の間でトラブルがあり、発生した事件とは考えにくいほど、仲がいいように見えた。
それから目を逸らすと、稜は鑑識に声をかける。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「どんな状況ですか?」
初めての現場にしては、稜は落ち着いて質問をした。
「背中を一刺しの出血性ショック死。死亡推定時刻は、朝の六時から十時ごろと思われます」
稜が鑑識の話を簡潔にメモしている横で、里津は退屈そうに欠伸をした。
「ねえ、君。私、帰りたいんだけど」
稜は呆れて言葉も出ない。
「……事件が解決していないのに、帰れるわけないでしょう」
正論を返すと、里津は不満そうに頬を膨らませた。稜はその反応に納得いかなかったが、里津に何を言っても無駄に体力を使うだけだと、文句を飲み込む。
しかし、里津は正論を言われたくらいでは帰るのを諦めない。
里津が出て行こうとするのを、稜はすかさず腕を掴んで止める。帰りたい里津と、捜査を続けたい稜は、睨み合いを始める。
「葉宮」
後ろから若瀬に名前を呼ばれ、稜は振り向いた。
「今から……って、木崎? お前、ここで何してんの?」
稜に近付いたことで、稜の影に隠れていた里津が見え、若瀬はそう言った。
「葉宮君に連れてこられた」
「へえ、やるじゃん、葉宮。その調子で今後も頼むよ」
「はあ……」
若瀬の言葉の意味が理解できず、稜は適当に返事をする。
「まあいいや。木崎、来たからには働いてもらうからな」
「えー」
「えー、じゃない」
「やだー」
「おい」
二人の会話のテンポはよく、漫才のようだ。
「あのー、お二人ってもしかして付き合ってたりします?」
間にいた稜が口を挟むと、若瀬と里津はそろって顔を顰めた。
「ただの同期だから。君、刑事向いてないんじゃない?」
「なっ……」
「とにかく!」
稜が里津に言い返そうとするのを、若瀬が遮って止める。
「二人でアパートの住民に聞き込みをしてきてくれ」
続けて指示をすると、稜は背筋を伸ばす。
「了解しました」
そして返事をするが、里津は何も言わない。
「木崎。彼女のために少しでも早く事件を解決したいんだ。頼むよ」
里津は舌を出した。
若瀬は現場の近場での捜査と、早く解決したいと言えば、里津は嫌がりながらも捜査を始めてくれるのではないかと考えた。だからそう言ったわけだが、どうやら動いてくれなさそうだ。
若瀬は諦めてほかの刑事に頼みに行こうとした。
「刑事が感情で動くとか、ありえないから」
若瀬が外に出ようと少し足を動かしたのとほぼ同時に、そう言った。
「そんなだから、捜査することしかできないんじゃない?」
「……どういうことだよ」
いたって冷静に見えるが、よく見れば額に血管が浮き上がっている。里津の挑発に乗らないように、かなり我慢しているようだ。
「彼女のためって言ったけど、それはつまり、あの人が犯人じゃないって思ってるってことでしょ? でも、もしあの女が犯人だったらどうするの? 彼女は犯人じゃないっていう先入観のせいで、犯人逮捕まで時間がかかるけど」
若瀬が早く解決したいと言ったことから、里津はわざと時間がかかるという言葉を選んだ。若瀬はその嫌がらせにすぐ気付いた。
「お前は本当……嫌な奴だなあ」
若瀬は苦笑しているが、里津は満足げに笑う。
「知ってる」
「……なんでそんな楽しそうに笑うのか、俺にはわからない」
しかし会話に飽きたのか、若瀬の理解できないという表情を無視し、里津は部屋を見ていた。その表情は真剣そのものだ。
しっかりと開けられたカーテンと窓、写真が飾られたコルクボード、円柱型の貯金箱、出しっぱなしの野菜。犯人と争った形跡は見られない。
この家にどれだけ刃物があるのかは知らないが、まな板の上に置かれている包丁しかないのだとすれば、使われた凶器は犯人が自分で用意したのだろうか。だとすれば、計画的犯行とも考えられる。
などというように、隅から隅まで、見落とさないように注意深く見て、気付いたことを頭の中で整理していく。
若瀬は里津の表情の変化から里津にスイッチが入ったことに気付いた。
「じゃあ葉宮、あとは木崎についておくだけでいいから」
「え、でも、木崎さんって仕事をしない人なんじゃ……」
「まあそうなんだけど……もう、大丈夫だよ」
どうして若瀬がそれほど里津を信頼しているのか、稜にはまったくもってわからなかった。
「でも木崎さん、ずっと部屋を見てるだけなんですけど……」
稜は里津に任せていいようには思えなかった。
「大丈夫、大丈夫。あいつの同期である俺の言葉を信じろって」
そう言われて、稜は今朝の若瀬の言葉を思い出した。
『いつ話しかけても迷惑そうな顔するよ、あいつは』
まさにその通りだった。
里津のことについての若瀬の言葉は信じてもいいのかもしれないと思った。
「……わかりました」
稜の返事を聞くと、若瀬は稜の肩を数回叩いて現場を離れた。
若瀬がいなくなっても里津は変わらず動こうとせず、まだ部屋の中を見ている。
稜はそんなに熱心に見るものがあるとは思えなくて、里津が何をしているのかわからなかった。
「木崎さん、行かなくてもいいんですか?」
「うん……もうちょっと」
聞き込みに行こうとしない里津を見て、どんどんストレスが溜まっていく。
稜は里津の体の向きを変えて背中を押し、力づくで動かそうとする。だが、まだ室内を見ていたい里津は、抵抗するように稜の手に体重をかける。
稜はそれを、仕事をしたくないから抵抗しているのだと受け取り、里津を軽蔑するような目で見た。文句も言いたかったが、今言い始めてしまうと止まらないような気がして、堪える。
男と女であれば、たいてい男のほうが力が強い。次第に里津は稜に押され、事件現場となった部屋の隣に連れていかれた。
並んでドアの前に立つと、里津のスマートフォンが鳴った。それはメールが届いたことを知らせるもので、里津は上着のポケットからスマートフォンを取り出し、内容を確認し始める。
本当はこうしてメールを見ることも注意したかったが、今はとにかく我慢だと自分に言い聞かせ、稜は見なかったことにした。
「……じゃあ葉宮君、聞き込み頑張ってネ」
里津はスマートフォンをポケットに戻す。
どうしてこうも人を苛つかせることができるのかと、一周回って尊敬すらする。
稜は大きく息を吸い込み、吐き出す。しかしこれくらいでこの苛立ちが収まってくれるのなら苦労はしない。事件が解決して署に戻れば、言いたいことをすべて言ってやとうと心に決めた。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言ったら? ケンカなら買うけど」
里津は稜の顔を見上げている。
「……売ってません」
むしろ売っているのはあなたのほうではないか、と心の中で続ける。
とにかく不服そうな稜を、里津は鼻で笑う。
「刑事なら、思ってることを悟られないようにする演技力くらい身に付ければ? てか、目は口ほどにものを言うって言葉、知ってる?」
稜はやる気のない里津に上から言われることが納得いかなくて、言われたばかりなのに、不満を顔に出した。
しかし里津とくだらない会話をするよりも、事件を解決させるほうが先だと判断し、咳払いをして気持ちを切り替える。
「聞き込み、木崎さんもしてくださいね」
「断る。私、用事できたし」
即答だった。
里津の言う用事というのは、今届いたメールが関係しているのだろうか。
「……仕事よりも大事なことなんてないだろ」
ついに稜は思っていたことをそのまま言ってしまった。
すると、里津が仕方ないと言わんばかりにため息をついた。
なぜ里津が呆れたようにため息をつくのか、稜にはまったく理解できない。ため息をつきたいのは、自分のほうだと思った。
「未熟な葉宮君に教えてあげる。通報してきた彼女。こんなボロい家に住んでるくせに、寝室に置いてた鞄とかあ癖はブランド物だった。ただの浪費家かと思ったけど、部屋の中にある生活用品は必要最低限で使い込まれたものがほとんど。あと、『ハワイで結婚式!』って書いてある紙が側面に貼られた貯金箱があった。つまり、自分の持ち物にお金を費やしてる可能性は低い。そうなると、彼女の持ち物は、誰かにプレゼントされたものってことになる。じゃあ、それは一体誰? 殺された男?……だったら、プレゼントする前に、彼女をハワイに連れて行ってやれって話になる。じゃあ、他の男……てか、浮気相手?……そんな奴にプレゼントされたものを彼氏と住んでる家に置いておくなんて、ただのアホ。浮気してますよって自分から言ってるようなものだし。まあ、もし本当に浮気してるなら、もっと隠す努力はするはず。てことは、彼女は高いものをプレゼントされて、それを持っていても許されるような職業に就いている。そこから考えられるのは、水商売」
稜が口を挟む暇もなく、里津は一気に言った。しかし稜が何も言えなかったのは、里津の話す勢いに圧倒されただけではない。里津の洞察力に、言葉を失うしかなかった。
「あー、疲れた。ね、何か飲み物持ってない?」
「……ないです」
「役立たず」
飲み物を持っていなかっただけでそこまで言うか、と思ったが、言えなかった。それに、里津の話を聞いたあとだからか、刑事としても役立たずだと言われているような気がした。
「まあいいや、続けよう」
もう、稜は里津の話を聞くのに夢中になっていた。
「彼女が水商売で働いているという推理が正しいとして。自分に同居してる男がいるなんて、店にも客にも言えるはずがない。でも、中にはしつこい男もいるだろうね。彼女の本名、家、あと……まあ、その辺を調べるような奴がいてもおかしくない。そして彼女の家の付近で彼女の帰りを待とうとした変な客が、お気に入りの子の部屋に男が出入りしているのを見付けたら? 怒り狂って部屋に入っても、おかしくない」
「……つまり、木崎さんは彼女の客が犯人だと?」
里津の話を信じた稜は、小さな声で確認する。里津は片方の口角を上げた。
「だったらいいな」
「え、嘘なんですか」
それは、あなたの話を信じましたよ、と言っていることと同意だった。そんな純粋な稜を、里津は声を出して笑い始める。
「君、本当にバカだね」
長いこと真剣に話を聞いたのに、それが嘘だったと言われて、正直に信じた自分が恥ずかしくて、罵られたにも関わらず、稜は言い返さなかった。
「君がもうちょっと考えられる子だったら、今の話はおかしいって思えるはずなんだけどなあ」
里津は笑うのをやめない。殺人現場付近で笑っている者などいるはずもなく、空気を読まずに笑っている里津は白い目で見られている。当の本人はそんなものはまったく気にしていないが、稜はその視線に耐えられず、顔を伏せる。
「貯金箱とか、ブランド物とか、そういうのも嘘なんですか?」
これ以上睨まれたくなくて、小声で尋ねる。
「いや、それは本当。見つけたものから推察して、その中で一番ありそうな話をしただけ。彼女が実は元金持ちの娘だとか、彼女の友達に金持ちの奴がいるとか、考えようと思えばいろいろ考えられる。水商売で働いてるなんて、私の決めつけなんだよ。あと、彼女を気に入った客がここに来た、とかね。男が昔捨てた女が復讐に来たのかもしれないし、男がどこかで恨みを買っていたのかもしれない。もし本当に彼女を気に入っている男が来たのだとすれば、部屋があんなに綺麗なのもおかしい。少しくらい、争いの跡があってもおかしくない。そういうわけで、今の私の話は全部仮説で、正しい証拠なんてない」
言われてみればそうだ、と納得した。
里津がこうして自分で今話したのは作り話だ、言ってくれなかったら、それを頼りに捜査を進めていたかもしれない。今回の事件の犯人は彼女のことを気に入った男だ、と間違った思い込みをしていたかもしれない。
そう思うと、ぞっとする。
しかし里津に説明される前に気付きたかった。稜はいかに自分の視野が狭く、考えることができないのかを、思い知らされたような気がした。
里津が念入りに部屋を見ていたのは、捜査に対するやる気がないから、ではなかった。むしろ、稜以上にあった。稜は里津を見直した。
「まあ、だからなんだって話なんだけど」
里津が言おうとしていることがわからず、稜は首を傾げる。そこまで丁寧に言わなければわからないのかと、里津は面倒そうにため息をつく。
「隣の家の人なら、物音とか争うような声だとかを聞いてる可能性は十分にある。私が聞き込みをしない理由にはならないでしょ」
稜は自分に振り分けられた仕事を思い出した。
「聞き込み、行きましょう」
「……君、絶対忘れてたよね。言わなきゃよかった」
稜は里津のそれを聞かなかったことにし、目の前のドアをノックした。
4
聞き込みや物的証拠より、数時間後に犯人は逮捕された。
彼女にしつこく交際を申し込んでいた男が犯人だった。数日前に彼女の家に行った際、彼女の恋人を発見し、殺害する計画を企てたらしい。
つまり、里津の仮説は正しかったのだ。
現場から戻る車の中で、里津はもっとしっかり現場を見ればよかったとぼやいた。稜は運転をしながらそれを聞き、里津の邪魔をしてしまったような気がして、申し訳ない気持ちになった。しかし謝罪の言葉は言えず、車内は重い空気に包まれていた。
稜は自席で大きくため息をつく。
里津は自分の話を、そうだったらいいなと適当に誤魔化していた。だが、彼女は話してくれたことよりもっと多くのヒントが見えていて、その仮説が最も真実に近いとわかっていたのではないかと思うと、稜は里津が優秀だと言われているのは間違いないと認めざるを得なかった。
あのやる気のない里津は、本当に優秀だった。
「どうした、浮かない顔して」
稜が誰も座っていない隣の椅子をただ見つめていたら、若瀬がその椅子に座った。
「木崎さん、ほんの数分現場を見ただけで、彼女が水商売で働いていて、その客が犯人だって推理したんです。でも、もっと見ていたらって言ってて……俺が邪魔したのかなって……」
稜はずっと考えていたことをそのまま若瀬に伝える。
「してないよ」
若瀬はそれをすぐに否定した。
「てか、それで言ったら俺たち全員、木崎の邪魔してるってことになるから」
稜は若瀬が言っている意味がわからず、首をひねる。
「あいつ、現場に来たことないんだよね」
今の言葉の説明をしてもらえると思っていたため、稜は一瞬その言葉が理解できなかった。しかしそれを理解すると、今日の若瀬のあの反応が腑に落ちた。
「現場に来ないって、木崎さんは普段何をしているんですか?」
「俺たちの捜査情報を聞いて、推理。だから、情報が足りなかったら木崎は犯人を導き出せない。そういう意味で、俺たちは木崎の邪魔をしてるってこと」
若瀬はまったく無駄話をしていなかった。
しかしただでさえ現場を見ただけで犯人を言い当てたことに驚いていたのに、それ以上のことをしていると言われると、もはやどう反応していいのかわからなかった。
「ま、正解率は八十パーって感じだから、完全に信用できるわけじゃないけどな」
若瀬はそう言うと、机の上に転がっているボールペンを手に取った。それを器用に回しながら、話を続ける。
「とにかく木崎は、たくさんのものをよく見てる。どんな小さなことも見逃さないし、俺たちが事件には関係ないと思うものも、切り捨てたりしない。そして、考えているんだ。どうしてそれがあるのか、そうなったのか。可能性として考えられるもの、すべてを頭の中で整理している。だから、ろくに捜査をしなくても、答えに近い仮説を導き出せる」
若瀬は、里津が何を見て、どう考えているかまでは知らない。というか、知りようがない。だから、その説明は的を得ているようで得ていなかった。
「……木崎さんは、刑事という仕事はやりたくないのかと思ってました。今日だって、なかなか現場に行こうとしませんでしたし」
稜は昼間のやり取りを思い出す。行きたくないと駄々をこねた挙句、着いた瞬間には帰ると言い出した、あのやる気のない里津が蘇る。
「それはまあ……木崎は新しい事件に興味がないからな」
若瀬はペン回しをやめ、ペン先が出ていない状態で頭を掻く。
犯罪者を見つけて逮捕することが刑事の仕事なのだから、興味がないだとか子供のようなことを言っている場合ではないと思ったが、それは里津に直接言うべきことだと思い、飲み込んだ。
しかし稜の顔には、はっきりと納得できないと書いているように見える。若瀬はさらに説明を加える。
「未解決の事件をなくすのが木崎の目標なんだと。だから、目標達成に関係ないことはやりたくない。それがあいつの主張」
昔、どうしてそんなにやる気がないのにこの職業を選んだのか、と聞いたことがあった。ふざけた理由であれば、今すぐやめろと言ってやるつもりで聞いた。
だが、里津はそれまでに見せたことのない真剣な目をして、そう答えたのだった。
「……未解決事件を……それは……どうして、なんでしょう?」
「さあ? そこまでは聞かなかったから知らないけど……気になるなら本人に聞いてみたら? 案外すんなりと教えてくれるよ」
「でも、署に戻ってきてから、一度も木崎さんの姿を見ていないんですけど」
車を降りてから、二人はすぐに解散していた。どこに行くのか聞こうとしたが、車内での空気を引きずっていたため、里津の背中を見送ることしかできなかった。
そのため、稜は今里津がどこにいるのか、知らなかった。
「そうだな……木崎を探すなら、まずあそこに行ってみるといいよ」
若瀬は勝手に借りたペンをもとの位置に戻す。
稜は若瀬の言うあそこがどこかわからず、次の言葉を待つ。
「未解決事件の資料を整理して情報を集めてる、未解決事件情報管理室。通称、未管室」