5
怜南は里津の話が信じられなかった。
誰とも話さなくなったというのは今の里津からは想像ができないし、もし本当なら、自分に対してあのようなことを言うはずがないと思った。
『嘘、ですよね』
里津のスマートフォンにメッセージが届く。
「……君を説得するために、わざわざこんな話を作り上げるとでも?」
里津はどこか不機嫌そうに見えた。
怜南は首を左右に振る。だが、里津が怖くてそうしただけであって、まだ信じることはできていなかった。
『誰とも話さなくなったっていうのは、本当なんですか?』
その質問は、まだ疑っていると言っているようなものだった。
だが、里津自身、今の自分からそんな過去が想像できないと思うのも無理ないとわかっていた。
「……本当だよ」
里津は目を伏せて話し始める。
「自分の殻に閉じこもって、家でもほとんど話さなくなった」
さっきまでとは少し表情が違った。里津が雪とのことで話を終わらせたのは、その後の自分のことを一番思い出したくなかったからだった。
「そんな私を変だと思った兄が、また声をかけてくれたの。どうしたんだって。それで、全部話した。中学で仲がいい子ができたけど、私が余計なことを言って傷付けて、これ以上誰も傷付けたくないから、一人でいるって。そしたら、兄はこう言った」
『里津は人が好きなんだな。だから人と話したいし、仲良くなりたいし、嘘をつきたくない。本当、里津はいい子だ。でも、だからこそ俺は、里津には自分を嫌いだと思ってほしくないし、ありのままでいてほしい。相手を大切に思うことは大事だけど、それで里津が自分を殺さなきゃいけないってのは、おかしいと思う』
「……兄は本当、自分が自分であることに自信がある人で、周りに流されることなんて滅多にない。そんな兄だから、そういう風に言ってくれたんだと思う」
里津はそこまで言うと、のどが渇き、お茶を飲む。
「でも私は、兄ほど強くなかった。やっぱり自分のせいで誰かを傷付けるくらいなら、一人でいるほうがよかった。でも、だんだんそうしてる自分を嫌いになった。まさに兄が恐れてた状況になったの。やっぱり兄妹だなって思うんだけど、私は自分のことを嫌いになるくらいなら、周りの人なんて気にするのをやめようって思った」
少しずつ、怜南が知っている里津に近付いていく。ここまで聞いて、やっと里津の話が真実だと思えるようになってきた。
「とにかく自分を守りたかった。あのとき自分が傷付いたのは、必要以上に仲良くなったからだってわかって、それ以来は仲がいい人は作らないようにしてる」
里津の話はそこで終わった。
すべてを聞いて、やっと腑に落ちた。だが、一つ気になることがあった。
『つまり、自分が傷付かないなら、相手も傷付けてもいいと?』
「……今の話ならそうなる、か……大丈夫、和真が言ってたことが正しいってちゃんとわかってるし、私これでも大人だし。子供みたいに馬鹿正直に全部言って相手を傷付けないようにすることはできるよ」
里津は言い切るが、怜南は納得できなかった。
『私に言ったこと、忘れてませんか』
傷ついたと言えば大げさだが、怜南にとってはそれくらいのことだった。
「君に?……ああ、昨日はたしかにちょっと言い過ぎたかなって思ったけど、今ので傷付いたってのはおかしいでしょ。私は、甘やかされて育ってきた君に、喝を入れただけ」
物は言いようだと思ったが、それを里津に伝えはしなかった。自分が甘やかされてきたのは事実であり、過去と向き合ってこなかったのも間違いない。自覚はしているが、それでも過去と向き合うことはまだ怖く、勇気が出てこなかった。
だけど、自分のことを嫌いにならないように、という言葉は怜南の心に響いた。
今の平和な日常が好きだ。変わってしまうのも、失うのも嫌だ。だが、周りに甘えている今の自分のことは好きだろうか。このままでいいのだろうか。
怜南は自分に問いかける。
『少しずつで、いいんですよね』
怜南は、今の自分を好きだとは思えなかった。自分が好きな自分になりたいと、変わりたいと思った。
怜南が送ってきた文を見て、里津は笑った。
「もちろん。私も、そこまで鬼じゃない。そうだな……一番簡単にできるのは、声を出すことじゃない? 私は医者じゃないから、詳しいことはわからないけど、もともと声が出せなかったわけじゃないなら、出ると思う。声が出ないと思い込んでスマホを使うのと、挑戦してみてまだ出ないからスマホを使うのとは、全然違うんじゃないかな」
里津が答えると、怜南はスマートフォンの画面を下に向けて置いた。
十年以上声を出してこなかったから、声の出し方など忘れたに近い。それでも、このままではいつまで経っても変われないと自分に言い聞かせ、口を開く。
「……あ……」
それは怜南が出したかった音にはならなかった。
里津は静かに怜南の言葉を待つ。しかし真顔でいては、急かしていると勘違いされると思い、柔らかく笑う。
「が……ん、ばり……ます……」
それはぎこちなかった。だが、怜南が必死に伝えた言葉に、里津は満足そうにした。
「それでいい」
怜南を褒めようとしているのだとすれば、あまりにも不器用すぎる。だが、怜南は頬をほころばせた。
すると、怜南のスマートフォンにメッセージが届いた。
『まだ外? ちゃんと帰れるか?』
稜からだった。
里津は怜南のスマートフォンを取り上げる。代わりに、怜南の空いた手に一口チョコを置いた。
「うわ、過保護。こういうところが怜南ちゃんをダメにしてるって思わないのかな。やっぱり今の怜南ちゃんになったのは、怜南ちゃんだけのせいじゃないんだよね」
そう言いながら、文章を打っている。怜南は渡されたチョコを食べながら、スマートフォンが戻ってくるのを待つ。
「はい、返す」
里津は、怜南になりすまして返信していた。怜南は里津が送った文章を読む。
『私、子供じゃないよ。心配しなくても大丈夫』
里津を見ると、知らん顔をしてお茶を飲んでいる。だが、これは今後のためには必要なことだったため、文句はなかった。
「あ、そうだ」
里津はいたずらを思いついた子供のような、悪い顔をした。
「葉宮君にドッキリを仕掛けよう」
怜南は首を傾げて里津の作戦を聞く。それは、とてもくだらない内容だったが、稜の心臓に悪いことだった。
6
仕事終わりの稜のスマホに、怜南から一通のメールが届いた。
『怜南はもらったよ、葉宮君』
そのメッセージの意味がわからなかったが、添付されている画像を見て、理解した。
「なんだよ、これ……」
それは、怜南が何者かにバッグハグをされ、幸せそうに笑っている写真だった。
稜は状況が飲み込めず、ただ立ち尽くす。
「どうした、葉宮。帰らないのか」
自席でスマホを見つめて動かない稜に、若瀬が声をかける。
「あ、いや……」
「何かあったのか?」
「いや、大したことでは……」
「でも、顔色相当悪いぞ」
稜がどれだけ言葉を濁しても、若瀬は引き下がらなかった。稜は諦めて若瀬にスマホを見せる。
「これは?」
「幼馴染です。どうやら恋人ができたみたいで」
若瀬はもう一度画像を見る。
「お前、この子のこと好きなんだ?」
「……まあ」
まさか職場の先輩と恋バナをすることになるとは思っていなかったため、不思議な展開だと思いながら、素直に答える。
「で、知らぬ間に彼氏ができててショックを受けたわけだ」
若瀬は稜をからかうように言う。
「でも、安心していいよ」
「どういうことですか?」
「この写真に写ってるのは男じゃないってこと」
稜は若瀬が言っている意味がわからなかった。
顔は見えないが、何者かが怜南を抱きしめていることはたしかで、怜南はとても楽しそうで。それから、怜南が持っているお菓子箱には「たくみ」と男の名前が書かれている。
これだけ証拠がそろっているのに、どうして男ではないと言い切るのか、やはり稜にはわからなかった。
「これ、木崎だよ」
「……はい?」
稜は耳を疑った。
「え、木崎さん? 本当に?」
混乱している稜に対して、若瀬は落ち着いて首を縦に振る。
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「この子が持ってるお菓子箱、俺が昨日お前に渡したやつだよ。これ持ってるのは、木崎しかいないだろ?」
言われて見ると、それはたしかに里津のお菓子を入れるためにもらった箱だった。
「じゃあ、たくみって……」
「俺の名前。って、やべ。あいつに名前書いてたんだってバカにされるわ。最悪だ……なんで渡す前に気付かなかったんだ、俺……」
若瀬は一人で話している。その間、稜は頭の中を整理していく。
「あの……なんで木崎さん、こんなことをしたんでしょうか……」
「それはあれだよ。木崎が人が嫌がることを平気でするような奴だからだよ」
若瀬は呆れた表情で言う。稜は言葉が出てこない。
「あの人は一体どこまで……」
「どこまでも最低な奴だよ」
若瀬は稜の独り言に続けた。自分が言わなかったことを言われ、稜は苦笑するしかなかった。
「とりあえず連絡して聞いてみな。じゃ、お疲れ」
「お疲れ様です」
そして若瀬は稜の肩を叩いて帰っていった。
一人になった稜は、もう一度怜南の写真を見る。
自分や秀介以外の人と一緒にいるだけでも驚くというのに、満面の笑みまで見せていることが信じられなかった。こうして怜南は自分から離れていくのかと寂しく思いながら、スマホをカバンに入れる。
まだ残っている人に挨拶を済ませると、稜は喫茶店に向かった。
閉店時間を過ぎた喫茶店のドアを開けると、二人の女性がカウンター席に座っていた。
「怜南……?」
名前を呼ぶと、左側の女性が振り向いた。怜南は稜を見つけて頬を緩める。
続いて右に座る女性も稜を見た。
「おお、葉宮君。遅かったね」
ここに里津がいるのを見て、やっと若瀬が言っていたことが本当だったのだとわかった。稜は胸をなでおろす。
そして気持ちを切り替える。
「まったく、どういうつもりなんですか、木崎さん。あんな写真送ってきて」
「あれ、気付いたんだ?」
里津は感心するが、稜が目を逸らしたことで、それが嘘だと気付く。
「気付かなかったの?」
「……若瀬さんの下の名前までは知らなかったんで」
「言い訳だね」
笑って挑発してくる里津に言い返してやろうとした、そのとき。
「稜、君」
聞いたことのない声で名前を呼ばれた。
稜は一瞬、誰に呼ばれたのかわからなかった。
「え、怜南……今……?」
消去法で怜南が自分を呼んだのかと思ったが、きっとこれも里津のたちの悪いいたずらで、今聞こえたのは空耳だと思った。
だが、怜南が口を開く。
「私が、そうしてほしい、て、言ったの……ごめん、ね……?」
怜南の口が動き、そこから音が聞こえてくる。これがいたずらだとすれば、相当手が込んでいる。だが、ただの嫌がらせのために、里津がそれほど面倒なことをするとは思えない。
これは、ドッキリではない。空耳ではなかった。
かなりぎこちないが、たしかに怜南が喋っている。
その事実に驚き、内容がまるで入ってこなかった。
「怜南、喋れるようになったのか? いや、でもなんで……」
「稜君たちに、甘えるのは、やめようと、思って」
いつも見せる、どこか抜けているような、柔らかい笑顔ではなかった。
ただでさえ怜南が喋っていることに驚き、頭が追い付かないのに、追い打ちをかけるようなことを言われ、言葉が出なかった。
怜南は稜が混乱しているにも関わらず、話を続ける。
「私、里津さんと話して、自分の力で、立ちたいって、思った。だから、頑張ることに、したの」
決心している怜南の横にいる里津は、いい笑顔だった。
この状況で里津が笑っていると、バカにされているように思えて仕方ない。
「木崎さん、余計なことをしないでもらえますか」
稜は考えることを放棄し、とりあえず里津を責めることにした。
しかし、里津はなぜ文句を言われているのか、わからなかった。その不満を顔に出す。
「ちゃんと過去と向き合えってアドバイスすることが、余計なことなの?」
「余計なことです。怜南がこれ以上苦しむ必要はないんです。そのために、俺たちがいる」
稜の目は本気だった。
里津は大きく息を吐き出す。
「その結果、怜南は声が出せるようになっていることに気付かなかった。君たちに甘やかされて、それを当たり前だと思って、自分から変わることをしようとしなかった。それって、おかしくない? 一回苦しんだら、もう苦しまなくてもいいようにするの? 何度も傷ついて、立ち上がって、そうやって強くなっていくものじゃないの?」
里津の言っていることが間違っていないことはわかるが、稜は自分がしてきたことが間違っていたと認めようとはしない。
「怜南は木崎さんと違って、繊細な子なんです」
稜は怜南に対してかなり過保護で、正論を叩きつけても聞く耳を持ってくれそうもない。それどころか、自分がしていることを正しいと思っている。
そんな人を黙らせる言葉が、あるのだろうか。
里津は考えを巡らせる。
「……怜南が変わりたいって言ってるのに、葉宮君はその邪魔をするんだ?」
稜は言葉を詰まらせた。
「……本当、嫌な人だ」
想像以上にうまくいき、里津は笑みを抑えられなかった。
「さて、お話は終わったかな?」
ずっと黙って聞いていた秀介が口を挟むと、稜は怜南の隣に座る。
「一応。てか、秀介さんは怜南が喋れること、知ってたの?」
「二人は昼過ぎからここにいるからね」
秀介はそう言いながら、稜の前にお茶を出す。
「そういえば、木崎さん。どうして、怜南に自分の力で立つ、みたいな話をされたのでしょう?」
里津は答えに迷った。
稜が相手であれば、事件のことを思い出してもらうためだとか、稜たちに甘え、甘やかされることが当たり前だと思っている怜南に腹が立っただとか、素直に言える。
だが、怜南の保護者のような存在である秀介に、そのようなことを言ってもいいのかと躊躇った。
「里津さん、起きた事件を全部、解決することが、目標なんだって」
代わりに怜南が包み隠さず言った。里津は怜南が会話に混ざってくるとは思っていなくて、目を見開く。
里津に見られて、本当のことを言って驚かれたことを不思議に思い、怜南は首を傾げる。
「木崎さん、まさか……」
稜はその先を言わなかった。秀介も、言葉は発していないが、怜南と話した理由でその返答がくると、予想はできた。
もう逃げられないと思い、里津は息を吐く。
「怜南が巻き込まれた事件についての情報がほしかったんです。そのためには、怜南に事件のことを思い出してもらわなければならない。だから、過去と向き合ってほしいって言いました」
事件のことに触れないように、思い出させないように育ててきた二人からしてみれば、それこそ里津の行為は余計なことでしかなかった。
「……どうして木崎さんは、人が守って来たものを平気で壊すんですか」
稜は静かに怒りをあらわにした。机の上で握られた拳に、自然と力が入る。
「葉宮君たちが守って来た結果、出来上がったのは、一人では生きていけない甘えん坊。傷つくことを知らない、弱虫。立ち直り方がわからないから、新しいことに挑戦しようともしない、ヘタレ」
悪口のオンパレードだったが、誰も何も言わなかった。
怜南は自分がそう言われても仕方ないとわかっていた。稜と秀介はというと、お前たちがやってきたことは間違っていたと言われたような気がして、そろってショックを受けていた。
二人が黙ってしまうと会話が途切れ、里津は席を立った。
「私、帰りますね」
秀介たちはこの流れで帰ろうとすることに驚く。
「あ、そうだ。怜南、事件のこと思い出したら電話してね」
稜が引き留めようと口を開くが、それを遮るように怜南に言った。稜は言葉を飲み込む。
「電話……」
まだ電話をすることに抵抗があるのか、怜南は頷かなかった。
「そう、電話。よろしく」
だけど里津はそう断言し、怜南の返事を待たずに店を後にした。
1
いつもの時間に目が覚め、ベッドから降りる。
小さな欠伸を一つすると、寝室から洗面所に移動した。半分寝たような状態で、歯を磨く。顔を洗ったことで、ようやく目が覚める。
それからまた寝室に戻り、クローゼットからスーツを取り出す。そっとベッドの上に置くと、寝間着を床に脱ぎ捨てた。
スーツを着て、薄くメイクを施すと、カバンを持って家を出た。
職場の目の前にある横断歩道の信号は、赤だった。その場で足を止めると、寝が足りなかったのか、欠伸を一つする。
そのとき。
誰かに背中を押され、それなりに交通量のある車道に飛び出した。バランスを崩し、道路に手をつく。
急ブレーキ音が耳に響き、思わず目をつむった。
ゆっくりと目を開けると、わずか数センチというところで車が停まっている。
幸い怪我はなく、死にかけるとはこういうことか、などと考える余裕があった。
目の前で事故が起きそうになって、同じく信号待ちをしていた人たちがざわつく。
「あの、大丈夫ですか?」
一人が声をかけた。
「はい、大丈夫です」
運転手に頭を下げて、歩道に戻る。
たくさんの人から恨まれている自覚はあったが、まさか殺されそうになるとまでは思っていなかった。
「木崎さん!」
その声は知っているもので、わざわざ姿を探すようなことはしなかった。
葉宮稜は、人混みをかき分けて木崎里津の隣に立つ。
「今車道に飛び出したのって、木崎さんですよね」
稜が確認をすると、信号が青に変わった。里津は質問に答えるより先に、足を進める。人の流れを止めるわけにもいかず、稜は慌てて里津を追った。
「君、いたの?」
それは嫌味などではなく、純粋な疑問だった。
「今日は少し家を出る時間が遅くなってしまって……て、俺の話はいいんです。大丈夫でしたか? 怪我とかしてませんか?」
稜が心配して言うと、里津は鼻で笑った。
「怜南のことを甘やかせなくなったら、次に行くんだ?」
「……事故に遭いかけた人を心配したらいけませんか」
稜の不満そうな顔を見て、里津は笑うのをやめる。
「これは事故じゃない。誰かに背中を押された。まあ、私を殺したいほど憎んでいる人がいるってことかな」
里津は他人事のように言う。
「警察署の前なのに……一体誰がそんなこと……」
「さあ? 心当たりがありすぎて」
里津は半笑いで言った。
運が悪ければ死ぬところだったのに、どうしてそう平気でいられるのか、稜は理解できなかった。
建物内に入ると、稜は自分の部署に行こうとするが、里津は稜が向かうところとは別方向に足を向けた。
「木崎さん、どこに行くんですか?」
稜は足を止め、里津の背中に問う。
「赤城さんのところ。朝の情報チェック」
里津は止まることなく答えた。
里津の、未解決事件をすべて解決するという目標達成に向けての行動力に、稜は尊敬の念を抱く。
遠くなっていく里津の背中を見て、稜はあることを思った。
自分は怜南の両親を殺した犯人を捕まえるために、何をしているだろうか、と。
そして導かれた答えは、何もしていないだった。
ただ赤城からの連絡を待っているだけでなく、唯一の目撃者である怜南には事件のことを思い出させないようにしている。
これでは言っていることとやっていることが矛盾している。
そんな自分を、恥ずかしく思った。
何もできないかもしれないけれど、何かしなければと焦りを覚え、稜は里津を追う。
「俺も行きます」
稜が横に立つと、里津はわかりやすく嫌そうな顔をした。
「……なんで」
「待っているだけじゃ、何も変えられないって思ったんで」
里津は稜がどうしてそんなことを言うのか、不思議に思った。たった数秒で何を思い、その結論に至ったのか、里津にはわからなかった。
「それと……昨日、怜南のことで責めてすみませんでした」
「え、何、変なものでも食べた?」
里津は稜の謝罪の言葉に動揺する。
「食べてません。俺が謝るの、そんなにおかしいですか」
「だって、あれだけ過保護にしてたから……」
稜は返す言葉がなくなる。
「……俺は、木崎さんみたいに全部の事件を解決したいわけじゃないですけど、怜南の両親の事件は解決したいんです。そのためには、唯一の目撃者である怜南の情報が必要。そのことに、気付けなかった」
稜は悔しそうに言う。だが、里津はそれだけを聞くと、稜が謝って来た理由がわかった。
「たしかに、怜南に事件のことを聞き出したかったのはあるけど、私は単純に、あの環境に甘えて育ってきた怜南が気に入らなかっただけ。だから、葉宮君はあまり怜南を甘やかさないように気を付けること」
稜は言葉に詰まった。ここではい、と返事をすることが正しいとわかっているのに、長年の癖で甘やかしてしまうような気がして、言えなかった。
里津は、稜のちょっとした葛藤が手に取るようにわかる。
「怜南が頑張ってるんだから、君も頑張りなよ」
そして稜の背中を思い切り叩いた。
これには文句を言ってやろうとするが、未解決事件情報管理室に着いてしまい、里津は部屋の中に入っていった。稜は深呼吸をして気持ちを整え、里津の後を追った。
2
稜は警察署の近くにあるコンビニでパンとコーヒーを買い、自分の席に戻る。
スマートフォンを操作しながら昼食をとることができ、平和な一日だと内心喜びながら、買ってきたカレーパンにかぶりつく。
今朝、里津に甘やかしすぎるなと言われたにもかかわらず、稜は怜南宛で新規メールを作成する。
『今、何してる?』
書くことがないのならメールしなければいいのにと思えるが、これは日課のようなものだった。
すると、メールではなく、電話がかかってきた。
席を立って廊下に出て、電話を取る。
「もしもし、怜南?」
周りの迷惑にならないように声をひそめるが、反応がない。
「怜南?」
不思議に思い、もう一度名前を呼ぶ。やっぱり反応がない。
「……いや……来ないで……」
やっと聞こえてきた声は、かなり震えている。
「怜南? どうした?」
問いかけてみても、稜の声に答える気配はない。
稜は怜南の身に何かあったのかと思ったが、何もわからない状態で飛び出しても仕方ない。稜は黙って電話の向こうの音に集中する。
「やっと見つけた……あの夫婦の娘……」
もう一つ、こもったような声が聞こえてきた。
しかし話が見えない。さらに詳しく聞こうと、耳を澄ます。
「来ないで……おじさん、助けて……」
怜南の怯えた声に、やはり体が動きそうになる。
「その男に助けを求めても無駄だ。殴って気絶させたからな」
少しずつ、状況がわかっていく。だが、まだ情報が足りない。
落ち着いて情報を集めなければならないのに、焦りが大きくなっていった。
「……なん、で……」
「お前を殺すためだ。お前たち家族は、全員殺す」
「お父さんたちを、殺したのは、あなたなの……?」
恐怖の中で、怜南は会話を続けた。
「ああ、そうだ」
予想していなかった事実に、稜は驚きを隠せない。
「お前たち家族が幸せそうにしているのが気に入らなかった。だから、壊した」
怜南の声が聞こえなくなる。言葉を失っているのだろうか。
これは、稜でも何も言えなくなるような内容だった。それを、当事者である怜南が聞いたらと思うと、怜南が感じている恐怖など想像できない。
「安心しろ。すぐに両親のところに連れて行ってやる」
「来ないで……」
怜南の怯えた声がしたと思うと、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
早く、怜南のところに行かなければ。
稜は電話を切ると、駐車場に急ぐ。
「あ、葉宮君。ちょっと頼みたいことが」
走り出した瞬間、前から歩いてきた里津に声をかけられる。
「すみません、あの、あとで!」
しかし稜は立ち止まることなく、走った。
里津は稜の反応に違和感を覚えた。
「……面倒なことになりそう」
里津は稜が走って言った方向を見つめて、ため息をこぼす。
「あ、木崎。頼んでいた資料は?」
若瀬が部署から顔を覗かせ、里津に声をかけた。里津は稜に頼もうとしていた資料を若瀬に渡す。里津から渡されることなど滅多にないため、若瀬は目を丸めた。
「珍しいな、自分でやったのか?」
「ううん、やってない。やっておいて」
若瀬は顔を顰める。
「葉宮は」
里津がやらなければ稜に回すという決まりがいつの間にか、捜査一課にできあがっていた。若瀬もその決まり通りに稜に頼もうと思い、稜の場所を聞く。
「暴走中」
その答えが、これだった。
「どういうことだよ」
若瀬は里津を睨む。適当なことを言って仕事から逃げようとしているのではないかと思ったのだ。
「知らない。それ頼もうとしたら、逃げられた」
「何かあったのか?」
若瀬が詳しく聞こうとするが、里津は面倒そうな顔をする。
「だから、知らないって。何も言わないで走ってったんだから」
「……お前、何が起こったか予想できてるんじゃないか」
里津は一瞬、目を見開いた。若瀬はその一瞬を見逃さない。
「やっぱりな。木崎、ちゃんと言え」
里津は大きく息を吐き出す。
「葉宮君の大切なお姫様に何かあったんじゃない? でも、たぶん大したことじゃない。葉宮君、その子に対しては過保護なところがあるから。ちょっとしたことでも大げさにすると思う」
里津はそう言いながら、部屋に入ろうとする。若瀬はその腕を掴んだ。
「一般人に何かあったってことだな?」
そう確認されて、里津は視線を逸らす。
「なら、お前も動けよ。もし大ごとだったら、責任取らされることになるぞ」
すると、里津は若瀬に押し付けた資料を奪った。
「でも私、仕事あるし」
若瀬は奪い返した。
「一般人の安全が優先。これは俺がやるから、お前は葉宮を追え」
どうやら稜を追うしか道はなさそうで、里津は舌打ちをして稜が走っていったほうに歩いて行った。
車を使うだろうと思って駐車場に行くと、案の定、稜は車に乗っていた。だが、運転席に乗っているのに、車を動かす様子はない。
里津は助手席のほうの窓を数回叩く。稜が気付くと、里津は車に乗り込んだ。
「……何ですか」
シートベルトを着用する里津を、怪訝そうに見る。
言葉では言わないが、里津の相手をしている暇はないと言わんばかりの表情だ。
「怜南に何かあったんでしょ」
稜はどうして里津がそれを知っているのかと、素直に驚いた。それすらも手に取るようにわかる。
「君、わかりやすいから」
里津には敵わないと思い、さっきの電話のことを簡潔に伝える。
「今、怜南から電話がかかってきたんです。どうやら、秀介さんと怜南が何者かに襲われたみたいで……犯人の目的は、怜南を殺すこと、みたいなんです」
予想外の出来事だった。そんな事件に巻き込まれているのに、稜がまだここにいることが信じられなかった。
「少しでも早く怜南たちのところに行かないと、怜南が殺されるんだよね? 何をのんびりしてるの」
「……木崎さん、行くんですか?」
あれだけ現場に行こうとしない里津が積極的で、驚く。
「怜南が殺されたら困るから。助けに行く」
里津はなぜ困るのかを言わないが、稜はその理由がなんとなくわかった。そのため、里津との会話を終わらせ、スマートフォンを操作する。
怜南たちの命が危ないというのに、そんなことをする時間があるのか、と文句を言おうとして、あることが頭に浮かんだ。
「……まさか君、怜南たちがどこにいるかわからないとか言わないよね?」
そのまさかだった。
稜は電話で場所のヒントを得ることができなかった。そもそも、怜南が襲われている事実に驚き、居場所のことが頭になかったのだ。
それを調べていたため、稜はまだ出発していなかった。
信じられないを通り越して、呆れてしまう。
「会話以外に、何か聞こえてこなかったの? というか、録音は? それくらい、してるよね?」
里津は稜を責め立てる。
「会話に集中していて、忘れてました……」
稜は里津の顔が見れなかった。見なくても、どういう反応をしてくるのか、想像ができる。
「役立たず……」
稜は何も言い返せなかった。ありえないミスを、二つもしているのだ。そう言われて当然だ。
「とりあえず、あの喫茶店に行って。どこかに連れ去られたとしても、まず最初に襲われた場所はそこのはず。何か証拠があるかもしれない」
「は、はい!」
稜はエンジンをかけた。
しかし秀介の電話から結構な時間が経っている。怜南たちが無事である保証はない。稜は焦る気持ちを抑えながら、車を動かす。
「そういえば、電話切ったんだ?」
動き始めたのとほぼ同時に、里津は言った。稜は答えない。
「電話の録音はしない、居場所のヒントは聞いてない、向こうの状況を知れる手段である電話は切る……君、怜南たちを助ける気ある? ありえないミスばっかりなんだけど」
返す言葉もない。
稜が言ってこないのをいいことに、里津は続ける。
「知り合いが事件に巻き込まれたってだけで、こんなにも仕事に支障をきたすなんて……本当、捜査に私情を持ち込むことだけはやめてほしいわ。邪魔でしかない」
稜はどんどん肩身が狭くなっていく。
その文句を最後に、里津は流れていく景色を見ながら、何かを考え始めた。
「……ねえ、怜南から、電話がかかってきたって言ったよね?」
「ええ、そうですけど……」
里津の質問の意味を理解しないまま、素直に答える。
「あの電話を嫌がっていた怜南から?」
しつこく確認されて、稜はあのときの会話を思い出す。
「……秀介さんは気絶していたらしいので……助けを求めるために電話をかけられたのは、怜南だけかと」
詳しく聞いても、里津は納得していないように見える。
「そうだとしても……緊急事態で電話をかけるっていう選択ができるかな……長年の癖で、メールしようって、怜南なら思う気がするんだよな……」
話せるようになったのも、変わりたいと決心したのも、昨日の話だ。無意識にメールしようとする可能性のほうが高いのではないかと、里津は考えた。
「メールする余裕がなかったんじゃないですか?」
「うーん……」
里津は稜の言葉に耳を傾けようとしない。
「……じゃあ、犯人が電話をかけてきたとでも言うんですか」
里津の仮説を信じれば、そういうことになる。
だが、稜はそのほうがありえないと思った。人を殺そうとしている犯人が、わざわざ助けを求めるような電話をかけてくるだろうか。
「知らない」
里津は怜南が電話をかけたということに違和感を覚えただけで、誰がかけてきたのかまでは予想のしようがなかった。
投げやりな言い方に稜は不満を抱いたが、それを言える立場にいないと感じて、文句は飲み込んだ。
里津のその言葉を最後に、車内は沈黙で包まれていた。
3
喫茶店のドアには臨時休業を知らせる貼り紙があったが、ドアに鍵はかかっていなかった。
店内は薄暗く、誰もいない。
里津が店内を見渡していたら、上から物音がした。
「二階……?」
里津が呟くと、稜は階段を駆け上がる。里津はその背中を追った。
リビングに入ると、両手を後ろで縛られ、床に転がっている怜南がいた。
「怜南!」
稜は怜南のもとに駆け寄る。
「稜君……来てくれたんだね……」
部屋の置くから、秀介が歩いてくる。
「遅くなってごめん……」
「いや、怜南も無事みたいだし、気にしないで」
秀介は横で眠る怜南を見た。
命を狙われていたにしては、外傷が見られない。稜は不思議に思ったが、何もなかったことに安心した。
「とりあえず、病院に行こう」
稜が怜南を抱き上げようとすると、里津は腕を掴んで止めた。
「木崎さん……?」
「頭を打ってるかもしれないから、下手に動かさないほうがいい。救急車を呼んで」
稜は言われた通りに電話をかけた。
「ねえ、秀介さん……一体、何があったの?」
そして救急車が来るまでのほんの数分間で話を聞くことにした。
秀介は数時間前に起きたことを思い返す。
「今日はごみが溜まっていて、客が多くなる前に怜南に捨ててくるように頼んだんだ。店の裏にあるごみ箱に捨てに行くだけだった。それなのに、怜南の戻りが遅くて……心配になって見に行ったら、怜南が何者かに眠らされていた。犯人は俺に気付いて、ナイフで脅してきた。『店の中に入れないと、殺す』って。怖くなって、犯人の言う通りにした。常連さんたちに通報とかされたら困るからって、臨時休業ってことにしろとも言われたかな」
稜が真剣に秀介の話を聞いていたら、いつの間にか稜のそばに立っていた里津が、稜の頭を小突いた。稜は邪魔をされたと思い、里津を睨む。
しかし里津は気にせず、「メモ」と呟いた。
稜は慌てて胸ポケットからメモ帳を取り出して、今の秀介の話を箇条書きにまとめていく。
「それから、紙を貼って二階に行ったら怜南が拘束されてて、やめろって言ったら、何かで思いっきり頭を殴られちゃって……」
秀介の話は、それで終わる。今聞いた内容以外で気になることを、質問していく。
「怜南にごみ捨てを頼んだのは、何時ごろだった?」
「十一時にはお客さんが多くなることがほとんどだから、それより少し前だと思う。あのとき時計は見てなかったから、詳しい時間までは……」
秀介は申し訳なさそうに言う。
「犯人の人数とか、恰好とかはわかる?」
「一人しか見てないよ。服装は……黒い帽子に、マスク、全身黒い服だった」
その情報では犯人のヒントにはなりえないが、情報がないよりはいい。稜は秀介の話をそのままメモしていく。
「目的は、怜南……で間違いない?」
稜は電話で聞いた内容を確認する。
「うん……怜南を殺したのは自分で、怜南も殺してやるって言ってたから……」
それは稜が電話で聞いた言葉、そのままだった。
そして稜は、車内での里津との会話を思い出した。
「俺に電話かけてきたのって、秀介さんなの?」
「え、そうだけど……」
秀介さんはどうして稜がそんなことを聞いてくるのか、わかっていなかった。
「……貼り紙のときは一人だった。そして、隠れて電話をかけられる余裕があった。それなのに、助けを呼びに外に行こうとしたり、身を挺して怜南を守ろうとしたりしなかったんだ?」
黙って聞いていた里津が厳しく言うと、秀介は目を伏せた。
「それは、その……逃げたら怜南が殺されると思ったし、ナイフの前に飛び出すのは、怖くて……」
「怜南を苦しませたくないとか言ってたくせに、いざとなったら自分の身が可愛くなっちゃったんだ?」
里津は秀介を責めるような言い方をやめない。でもそうされて当然だと思っているのか、秀介は言い返さない。
「木崎さん、言いすぎです。誰だって殺されるのは怖いし、俺に電話をかけられただけで十分じゃないですか」
稜は秀介をかばうが、里津はそれを鼻で笑った。
「君って本当、何も見えてないんだね」
唐突に貶されて腹が立ったが、救急車が到着したため、その文句を里津が聞くことはなかった。
病院で検査をした結果、怜南は恐怖で気を失っただけだった。そして秀介の頭の傷は大したことはなかったが、念のために数日だけ入院することになった。
到着して二十分程度経ったころ、怜南が目を覚ました。
「ここ、どこ……?」
怜南は自分がどこにいるのか、状況が飲み込めなかった。そのため、ベッドの近くにある丸椅子に座っていた稜に聞いた。
「病院だよ」
稜が答えると、怜南はゆっくりと体を起こす。
「病院……?」
それでもまだ理解ができていないようだった。
「怜南、誰かに襲われたことは覚えてる?」
稜に言われて、刃物を向けられたときの恐怖を思い出した。怜南は体を震わせる。
「ごめん、怖かったよな」
稜は怜南の背中をさする。
そばに立ってそのやり取りを見ていた里津は、稜の手首を掴んだ。甘やかすなと目が言っている。
「あのね、怜南。私には、怜南を襲った……怜南の両親を殺した犯人を捕まえる義務がある。そのためにも、怜南の情報が必要なの。怖かったのはわかるけど、事件に巻き込まれた人たちはみんな、怖い思いをしながらも情報を提供してくれてる。いつも犯人が捕まるのは、そういう勇気を出してくれる人たちがいるからなの。だから怜南も、協力してくれる?」
怜南は戸惑いながらも、小さく首を縦に振った。
「……おじさんに、頼まれて、私は店裏に、ごみを出しに行った。そのとき、後ろから何かで口を覆われて、私はそのまま、意識を失った。目が覚めたら、知らない人が、ナイフを持って、立ってた……おじさんは、気絶させたって……それから、その人が、近付いてきて、私……気を、失ったんだと、思う……次に起きたのは、今、だから……だから、話せることは、これくらいしか、ない……」
何があったのかを思い出しながら、細かく言葉を区切って話す。後半になるにつれて声を震わせ、そして間を作って言った。
しかしちょっとしたことしか話せず、怜南は申し訳なさそうにする。
怜南の努力を褒めるのと、慰めの意味を込めて、里津は怜南の頭に手を置いた。
「話してくれて、ありがとう」
怜南は頬を緩める。しかし里津の顔は険しいままだ。
「……でも、まだ安心はしないで」
「どうして……?」
「犯人は怜南を殺す気で、今回の事件を起こした。だから、目的を達成するまで、何度も怜南を狙ってくると思う」
犯人から直接殺すと脅されたため、驚いてはいない。だが、その表情には恐怖がにじみ出ている。
「ちょっと、木崎さん」
いくら真面目な話とはいえ、そこまで脅す必要があるのかと思って里津を呼ぶが、里津は聞き流した。一ミリも、怜南から視線をそらさない。
「でも、絶対に犯人の思い通りになんかさせない。怜南を殺させたりしない」
里津は怜南の手を強く握った。怜南は空いた左手で零れ落ちそうな涙を拭う。
「私も、負けない……逃げない……」
怜南はまっすぐな視線で里津を見つめ返した。
「里津さん、私に、できること、ある?」
稜は怜南の質問に、しまったと思った。犯人を逮捕するためならどんな手でも使うような里津にそう聞けば、囮になってほしいと言いそうだ。
里津が答えるのを遮ってもよかったが、どうせ今までのように無視をされる。稜は里津が無茶なことを言わないか、ひやひやしながら里津の答えを待つ。
「絶対安全な場所にいて。怜南が今日みたいに犯人と接触してしまったら、次はないかもしれない。助けを呼ぶ前に殺されてしまうかもしれない。だから、絶対に、一人にならないで」
里津は念を押すように言う。
怜南も無茶を言われる覚悟で聞いたため、その返答には拍子抜けした。稜に至っては、耳を疑った。
「あの、本当に木崎さんですよね?」
思わずそう確認してしまうほど、里津の台詞とは思えなかった。
里津は稜を睨む。
「どういう意味」
「いえ……というか、木崎さん、さっきから自分一人で行動しようとしてませんか」
犯人を捕まえるのも、そのための捜査も、里津の話の主語は「私たち」ではなく「私」だった。
稜だって怜南の両親を殺した犯人を捕まえるつもりでいる。そのため、里津の言い方には不満があった。
里津は呆れた表情を見せる。
「ありえないミスしかしない相棒はいらない」
返す言葉もない。
だが、自分の目標である、怜南の両親を殺した犯人を捕まえることができそうなのに、黙って見ていることなどできるはずがなかった。
稜は立ち上がり、深く頭を下げる。
「お願いします。俺の、唯一の目標なんです」
しかし里津は相手にしていられないと言わんばかりに、それを無視してドアに向かう。
里津の足音が聞こえ、稜は体を起こす。
「どこに行くんですか」
不服そうに言う。
「署に戻って報告。どうせ君、このこと誰にも言ってないんでしょ」
仕事という仕事を嫌がっていた里津の言葉とは思えない。
しかしそれだけでなく、誰にも言わずに飛び出したことを知っていることにも驚いた。
「どうしてそれを……」
電話のあと、里津に会ったことは覚えている。だが、何があったかの説明をした記憶はない。
「怜南……じゃなくて、瀬尾さんからの電話を、真面目な君が部屋の中で取るとは思えない。ということは、廊下で電話に出たということ。そしてあれだけ動揺してた人が一度中に戻って、報告してから走っていたとは思えない」
里津はまるで見てきたかのように、丁寧に説明した。
廊下ですれ違ったあの一瞬でそこまでわかってしまう里津を、恐ろしく思った。
「……葉宮」
里津の声に、稜の背筋が伸びる。
「葉宮の仕事は、怜南の護衛。それも不満なら、新しく相棒を探して。とにかく私には、君はいらない」
はっきりといらないと言われたにもかかわらず、稜は頭を下げてお礼を言う。
「ありがとうございます!」
ここが病室であることを忘れたのか、大きな声だった。稜の素直な反応に、里津は笑う。
「それじゃ、怜南のことは頼んだ」
そして病室を後にした。
4
署に戻り、一課長のデスクの前に行く。
「木崎。どこに行っていた」
一課長は若瀬に資料のことを聞いていたため、里津を睨む。だが、里津はまったく気にしない。
「葉宮の知り合いが経営している喫茶店です。葉宮の友人とその叔父が何者かに襲われました。現在保護し、病院にいます。そういうことなので、私は捜査を始めます」
里津は簡潔に報告して満足し、その場を離れようとする。
「待て!」
その一課長の声を無視することはできなかった。里津はまた一課長と向き合う。しかしその表情は不満を語っている。
「葉宮はどこにいる。そもそも、なぜ襲われたことが判明したとき、報告しなかった」
「友人のところにいます。報告しなかったのは……葉宮が暴走しそうだったので、あとでいいかなって」
今すぐにでも捜査を始めたい里津は、応答が適当になりつつあった。
一課長の額に血管が浮かびあがっている。
「もう捜査始めてもいい?」
にもかかわらず、里津は火に油を注ぐようなことを言った。
「お前……」
「課長、落ち着いてください。木崎に腹が立つのはわかりますけど、犯人逮捕を急がなければならないのも、確かです」
冷めた顔をして一課長を煽る里津と、今にも里津に殴りかかりそうな一課長の間に、若瀬が入る。
一課長は息を吐き出しながら椅子に座った。若瀬は落ち着いてくれたことに、胸をなでおろす。
「木崎。お前は捜査を始めていい」
その言葉を聞くと、里津はにやりと笑った。
「あ、そうだ。事件の詳細を葉宮に聞いて、こっちでも捜査、お願いします」
一方的に言って、里津はその場を離れた。
「……若瀬は臨時で木崎と組んでくれ」
一課長はため息交じりに言う。
「え、俺がですか」
予想外の指示に、若瀬は聞き返した。
「嫌なのはわかるが、木崎とどうにかうまくやれるのは、同期のお前しかいない。他のやつらと組ませると、絶対に喧嘩が起きる」
若瀬は否定できず、苦笑する。
「……わかりました。でも、臨時ですからね」
念を押して、里津を探しに廊下に出た。まだそれほど遠くには行っていなかったようで、すぐに追いつくことができた。
「若瀬? なんでいるの?」
里津の少し後ろを歩いていたら、そんなことを言ってきた。若干苛立ちを覚える。
しかし若瀬は、里津に真面目に言い返しても無駄だということを、知っている。
「……木崎の世話係だってさ」
隠したところで里津にはばれてしまうので、若瀬はそのまま言った。
「へえ。そんな仕事を任されるなんて、若瀬って暇なんだ」
人が怒りを堪えているというのに、里津はどこまでも挑発してくる。流せ、流せと何度も言い聞かせて、笑顔を作ろうとする。
「暇じゃねえよ」
だが、出てきた言葉は素直だった。里津はそんな若瀬を笑いながら、歩き続ける。
「ところで、なんで未管室に向かってるんだ?」
誘拐事件の捜査をしたいというから、てっきり聞き込みにでも行くのだろうと思っていた。
「今回の事件の犯人と、過去に殺人を犯した犯人が同じなの。で、今回の事件より過去の事件の資料を見て、証拠を見つけようと思って」
「そっちのほうが難しくないか? 今回の事件の聞き込みしたほうが」
「それは私の仕事じゃない」
里津は若瀬の声を遮った。若瀬は苛立つ心を抑える。
「……お前も刑事なんだから、聞き込みもお前の仕事だけどな」
里津は綺麗に若瀬の嫌味を聞き流した。その反応に、若瀬は大きく息を吐き出した。
「……で。事件の詳細、教えてくれよ」
「なんで?」
嫌そうにしているようには見えない。子供が聞いてくるような、純粋な目だ。
この反応は予想していなかった。
「なんでって……俺も捜査したいから」
それ以外に理由があるのだろうかと思いながら、里津の質問に答える。
「あ、そっか。若瀬は葉宮と違うんだった」
里津は一人で納得しているようだった。
「なんでもいいから、ちゃんと教えろよ。お前が面倒だって思うのはわかるけど、捜査は一人の力でやるものじゃないだろ」
里津は面倒そうに息を吐き出す。
「気が向いたらね」
それは説明しないやつだと言い返そうとするが、すでに未解決事件情報管理室に着いている。若瀬はその文句を飲み込んだ。
里津は若瀬を置いて、中に入る。
「赤城さん。この前、葉宮が出してほしいって言ってた資料、今出せますか?」
単刀直入に言ったにもかかわらず、赤城は説明を求めなかった。
「もちろん、出せますよ。ところで今日は相方が違うようですね」
赤城は資料を取りに行きながら言う。
「私の下僕の若瀬です」
「おい、下僕じゃなくて同期と言え」
若瀬が反論すると、里津は若瀬に向けて舌を出す。明らかに喧嘩を売られているが、初対面の赤城がいる前で、いつものように喧嘩をすることには抵抗があった。若瀬は息を吐き出して落ち着かせる。
「葉宮君はどうされたのですか?」
資料を持って戻ってくる赤城は、そう聞いた。
「役に立たなかったので、置いてきました」
若瀬はここまではっきりと言われる稜に同情した。
「里津さん?」
赤城は笑顔だが、目が笑っていない。
「……だって、感情に振り回されて迷惑しかかけられなかったんだもん」
まるで子供が言い訳をするような言い方だ。
赤城は呆れた表情を見せる。
若瀬はそんな赤城と里津のやり取りが信じられなかった。
「まったく……これでよかったですか?」
赤城にファイルを渡され、里津はいつもの席に座ってそれを開く。若瀬は里津の斜め後ろに立って、資料を覗き込んだ。
「これが、今回の誘拐事件に関係する事件なのか? どんな事件だったんだ?」
「十五年前に起きた、ある一家が襲われた事件。大人二人が殺されて、子供は肩に負傷」
「……てことは、襲われたのはその子供か」
最後まで説明していないのに、若瀬はそう言った。里津は若瀬の顔を凝視する。