いつもの時間に目が覚め、ベッドから降りる。

 小さな欠伸を一つすると、寝室から洗面所に移動した。半分寝たような状態で、歯を磨く。顔を洗ったことで、ようやく目が覚める。

 それからまた寝室に戻り、クローゼットからスーツを取り出す。そっとベッドの上に置くと、寝間着を床に脱ぎ捨てた。

 スーツを着て、薄くメイクを施すと、カバンを持って家を出た。

 職場の目の前にある横断歩道の信号は、赤だった。その場で足を止めると、寝が足りなかったのか、欠伸を一つする。

 そのとき。

 誰かに背中を押され、それなりに交通量のある車道に飛び出した。バランスを崩し、道路に手をつく。

 急ブレーキ音が耳に響き、思わず目をつむった。

 ゆっくりと目を開けると、わずか数センチというところで車が停まっている。

 幸い怪我はなく、死にかけるとはこういうことか、などと考える余裕があった。

 目の前で事故が起きそうになって、同じく信号待ちをしていた人たちがざわつく。

「あの、大丈夫ですか?」

 一人が声をかけた。

「はい、大丈夫です」

 運転手に頭を下げて、歩道に戻る。

 たくさんの人から恨まれている自覚はあったが、まさか殺されそうになるとまでは思っていなかった。

「木崎さん!」

 その声は知っているもので、わざわざ姿を探すようなことはしなかった。

 葉宮稜は、人混みをかき分けて木崎里津の隣に立つ。

「今車道に飛び出したのって、木崎さんですよね」

 稜が確認をすると、信号が青に変わった。里津は質問に答えるより先に、足を進める。人の流れを止めるわけにもいかず、稜は慌てて里津を追った。

「君、いたの?」

 それは嫌味などではなく、純粋な疑問だった。

「今日は少し家を出る時間が遅くなってしまって……て、俺の話はいいんです。大丈夫でしたか? 怪我とかしてませんか?」

 稜が心配して言うと、里津は鼻で笑った。

「怜南のことを甘やかせなくなったら、次に行くんだ?」
「……事故に遭いかけた人を心配したらいけませんか」

 稜の不満そうな顔を見て、里津は笑うのをやめる。

「これは事故じゃない。誰かに背中を押された。まあ、私を殺したいほど憎んでいる人がいるってことかな」

 里津は他人事のように言う。

「警察署の前なのに……一体誰がそんなこと……」
「さあ? 心当たりがありすぎて」

 里津は半笑いで言った。

 運が悪ければ死ぬところだったのに、どうしてそう平気でいられるのか、稜は理解できなかった。

 建物内に入ると、稜は自分の部署に行こうとするが、里津は稜が向かうところとは別方向に足を向けた。

「木崎さん、どこに行くんですか?」

 稜は足を止め、里津の背中に問う。

「赤城さんのところ。朝の情報チェック」

 里津は止まることなく答えた。

 里津の、未解決事件をすべて解決するという目標達成に向けての行動力に、稜は尊敬の念を抱く。

 遠くなっていく里津の背中を見て、稜はあることを思った。

 自分は怜南の両親を殺した犯人を捕まえるために、何をしているだろうか、と。

 そして導かれた答えは、何もしていないだった。

 ただ赤城からの連絡を待っているだけでなく、唯一の目撃者である怜南には事件のことを思い出させないようにしている。

 これでは言っていることとやっていることが矛盾している。

 そんな自分を、恥ずかしく思った。

 何もできないかもしれないけれど、何かしなければと焦りを覚え、稜は里津を追う。

「俺も行きます」

 稜が横に立つと、里津はわかりやすく嫌そうな顔をした。

「……なんで」
「待っているだけじゃ、何も変えられないって思ったんで」

 里津は稜がどうしてそんなことを言うのか、不思議に思った。たった数秒で何を思い、その結論に至ったのか、里津にはわからなかった。

「それと……昨日、怜南のことで責めてすみませんでした」
「え、何、変なものでも食べた?」

 里津は稜の謝罪の言葉に動揺する。

「食べてません。俺が謝るの、そんなにおかしいですか」
「だって、あれだけ過保護にしてたから……」

 稜は返す言葉がなくなる。

「……俺は、木崎さんみたいに全部の事件を解決したいわけじゃないですけど、怜南の両親の事件は解決したいんです。そのためには、唯一の目撃者である怜南の情報が必要。そのことに、気付けなかった」

 稜は悔しそうに言う。だが、里津はそれだけを聞くと、稜が謝って来た理由がわかった。

「たしかに、怜南に事件のことを聞き出したかったのはあるけど、私は単純に、あの環境に甘えて育ってきた怜南が気に入らなかっただけ。だから、葉宮君はあまり怜南を甘やかさないように気を付けること」

 稜は言葉に詰まった。ここではい、と返事をすることが正しいとわかっているのに、長年の癖で甘やかしてしまうような気がして、言えなかった。

 里津は、稜のちょっとした葛藤が手に取るようにわかる。

「怜南が頑張ってるんだから、君も頑張りなよ」

 そして稜の背中を思い切り叩いた。

 これには文句を言ってやろうとするが、未解決事件情報管理室に着いてしまい、里津は部屋の中に入っていった。稜は深呼吸をして気持ちを整え、里津の後を追った。