6
女性はキッチンから人形で遊んでいる少女を呼ぶ。
『怜南ー、お母さんと一緒にケーキを作らない?』
『作る!』
幼い怜南は人形を置いて、母親のもとに走っていく。
『何ケーキ?』
母親は頭を撫でて、飛び回る怜南を落ち着かせる。
『そうだなあ……怜南は何がいい?』
『えっとね、甘いの!』
『ケーキは全部甘いよ、怜南』
苦笑しながら言うが、怜南は首をひねる。
『えー? この前パパが食べてたやつは苦かったよ?』
『あ、パパのケーキ盗み食いした犯人は怜南だったのね?』
母親に両脇をくすぐられ、怜南は楽しそうに笑う。
『だって、美味しそうだったんだもん』
『あれはコーヒーが使われてるからね。でも、やっぱりケーキはほとんど甘いから、怜南、何が食べたいかリクエストしてくれる?』
『うーん……チョコ!』
それを聞くと、母親は立ち上がる。
『チョコケーキね。怜南、ココアパウダーを持ってきてくれる?』
『はーい!』
楽しくて幸せな、二度と戻ってこない穏やかな時間。
店の隅の席で眠る怜南の頬には、一筋の涙が流れた。
夢から覚めると、秀介が店の片付けを始めていた。
怜南の目が開いていることに気付くと、秀介は怜南に声をかける。
「おはよう、怜南。よく寝てたね」
涙の跡が見えたが、それには触れなかった。
怜南は目を擦りながら体を起こす。両腕を枕にして寝ていたようで、赤くなっている。
「怜南、ほっぺに跡ができてる」
秀介は怜南の顔を見て笑うが、自分の顔を確認できないため、怜南は首を傾げた。
「そうだ、もうそろそろ稜君が帰ってくるから、夕飯の準備始めておいたら?」
怜南は頷いて、調理場に立った。冷蔵庫を開け、材料を取り出す。
今拭いていたテーブルで最後だったらしく、秀介は布巾を持ってキッチンに入る。
「お、今日は親子丼かな?」
並べられた材料を見て尋ねる。怜南は首を横に振り、小麦粉を見せた。
「わかった、かき揚げだ」
今度は頷く。そして調理を始めた。
その手際はよく、あっという間に揚げる工程に入った。
最後の一つを油から取り出していたら、ドアベルが鳴った。
稜が入ってくるが、おかえりと挨拶をさせてくれる雰囲気には見えない。まず、どうしたのか聞きたくなるような表情をしている。
「だいたい、どうしてついて来てるんですか」
それは怜南や秀介に向けられた言葉ではなかった。二人は稜が誰かを連れてきたのだと察する。
「葉宮君が大切にしている女の子に会ってみたくて。あと、その子が君のこと、どう思ってるか聞いてみたい」
稜の背後から、女性が姿を見せる。
その女性は、何かを企んでいるような顔をしている。稜には、このまま怜南と話させたら、彼女が無神経に怜南を傷つける未来が見えた。
怜南を傷つけたくない稜は、彼女が中に入るのを阻止するように立ち止まった。前に進めなくなり、女性は不満そうに稜を見る。
「私、入りたいんだけど」
二人の空気はまさに険悪だ。怜南も秀介も彼女のことが気になるが、口を挟める空気ではない。
「怜南は木崎さんと違って、繊細なんです。嫌がらせするくらいなら、帰ってください」
稜はその人の体を回転させ、背中を押して追い出そうとする。
「ちょ、ちょっと稜君」
秀介は戸惑いながら口を挟む。怜南は稜と女性を不思議そうに見つめている。
二人のその反応を見て、稜は彼女を帰らせたところで質問攻めされることに変わりないと思い、帰らせるのを諦める。
不満そうにしながら、一歩横にずれる。
「俺の先輩の、木崎里津さん」
「どうも、木崎です」
紹介された里津は、笑顔を作る。二人は人見知りというわけではないが、稜と言い合いのようなことをしていたことから、どう接していいのかわからなかった。
「料理を作ってるが永戸怜南で、座ってるのが怜南の叔父の瀬尾秀介さん」
怜南と秀介は戸惑いながら、軽く頭を下げる。
稜にとって今の状況はまったく面白くなく、カバンをカウンター席に投げ置くと、その隣に腰を下ろす。
不機嫌な稜を心配して、怜南は稜の顔を覗き込む。怜南の動きが視界に入り、稜は顔を上げた。
「どうした?」
さっきまでの表情と打って変わり、稜の目は優しかった。それに返すように、怜南も笑う。
「木崎さん、よかったら夕飯を一緒にどうですか? 今日は怜南お手製のかき揚げでして。おいしいですよ」
稜と怜南の醸し出す空気に慣れている秀介は、二人を無視して里津に言った。
ただ怜南を見たかっただけではなかったため、里津はその誘いを受ける。
「では、お言葉に甘えて」
里津はわざとらしく稜の隣に座る。
「……何してるんです、木崎さん」
稜は左隣の里津を睨む。だが、里津は両肘をついて手に顎を置いて、戸惑う怜南を見ている。
「彼女お手製のかき揚げを、ご馳走になろうと思って」
怜南は秀介と里津の会話を聞いていなかったため、説明を求めるように秀介のほうを向く。
「今日は四人でご飯を食べよう」
どうしてそうなったのかが聞きたかったのだが、伝わらなかったらしい。
怜南はすぐには頷かなかったが、食器棚から皿を一枚取り出して、三枚重ねた上に置いた。
「……本当にしゃべらないのね」
怜南を観察していた里津が、独り言のように言った。
盛り付けをしていた怜南、スマートフォンを見ていた秀介、稜の動きが固まる。
「怜南のこと、知っているんですか?」
秀介は稜のように怒っている様子はなく、ただ怜南が声を出せないことを知っていることに驚いていた。
「私も一応、刑事なので。昔の事件についてはそれなりに知ってます」
その返答に、秀介は納得する以外なかった。
怜南は、まったく動けなかった。持っていた菜箸は床に落ち、指先が小さく震える。
もう平気だと、あの過去は乗り越えたのだと思っていた。それなのに、あの日の、あの光景が頭の中をよぎる。
それは、母親の夢を見たからだろうか。今までよりも、鮮明に頭の中で映像が流れた。
少しずつ、呼吸が乱れる。
「怜南?」
稜が怜南のそばに駆け寄ると、怜南は足に力が入らなくなったように、その場に座り込んだ。怜南を心配して、稜も床に膝をつく。
「怜南、大丈夫だ。落ち着いて、ゆっくり息をしよう」
稜に背中を撫でられ、呼吸を整えていく。それでも気持ちは落ち着かず、助けを求めるように稜のシャツを掴んだ。
このまま夕飯を作り上げることは不可能だと判断し、稜は怜南を支えながら立ち上がる。
「秀介さん。俺、怜南を二階に連れてくから、続きやっててくれる?」
「もちろん。怜南のこと、頼むね」
稜は頷くと、怜南の歩くペースに合わせながら、二階に上がった。
秀介はキッチンに入り、怜南がやっていた盛り付けを続ける。
「……随分と過保護ですね」
里津は稜たちが入っていったドアを見つめたまま呟いた。
「俺も稜君も、怜南が可愛くて仕方ないんですよ。目の前で両親を殺された怜南には、できるだけ笑顔でいてほしい。だから……つい、甘やかしてしまうんです」
秀介は照れ笑いを見せる。
しかし里津は理解できなかった。
「それって、彼女のためになるんでしょうか」
里津の素朴な疑問に、秀介は気まずそうに笑うしかなかった。
まだ言いたいことはあったが、秀介に言ったところで何かが変わるわけではないと思った。出されていた水と共に、出てきかけた言葉を飲み込む。
それからすぐに盛り付けられたかき揚げが出てきた。喫茶店を経営している人が盛り付けたのだから当然かもしれないが、お店で出てくるような一皿に見えた。
「稜君と怜南に届けてきますね」
秀介は左手と左腕に皿を乗せ、ドアを開ける。そして両手に持ち替えると、二階に行ってしまった。
里津は一人、残された。
秀介が戻ってくるのを待ってもよかったが、目の前においしそうな料理があって、お腹が鳴った。里津は箸を手にし、かき揚げを一口齧る。
「……おいしい」
その一言は誰の耳に届くことなく、静まり返った店内に包み込まれた。
女性はキッチンから人形で遊んでいる少女を呼ぶ。
『怜南ー、お母さんと一緒にケーキを作らない?』
『作る!』
幼い怜南は人形を置いて、母親のもとに走っていく。
『何ケーキ?』
母親は頭を撫でて、飛び回る怜南を落ち着かせる。
『そうだなあ……怜南は何がいい?』
『えっとね、甘いの!』
『ケーキは全部甘いよ、怜南』
苦笑しながら言うが、怜南は首をひねる。
『えー? この前パパが食べてたやつは苦かったよ?』
『あ、パパのケーキ盗み食いした犯人は怜南だったのね?』
母親に両脇をくすぐられ、怜南は楽しそうに笑う。
『だって、美味しそうだったんだもん』
『あれはコーヒーが使われてるからね。でも、やっぱりケーキはほとんど甘いから、怜南、何が食べたいかリクエストしてくれる?』
『うーん……チョコ!』
それを聞くと、母親は立ち上がる。
『チョコケーキね。怜南、ココアパウダーを持ってきてくれる?』
『はーい!』
楽しくて幸せな、二度と戻ってこない穏やかな時間。
店の隅の席で眠る怜南の頬には、一筋の涙が流れた。
夢から覚めると、秀介が店の片付けを始めていた。
怜南の目が開いていることに気付くと、秀介は怜南に声をかける。
「おはよう、怜南。よく寝てたね」
涙の跡が見えたが、それには触れなかった。
怜南は目を擦りながら体を起こす。両腕を枕にして寝ていたようで、赤くなっている。
「怜南、ほっぺに跡ができてる」
秀介は怜南の顔を見て笑うが、自分の顔を確認できないため、怜南は首を傾げた。
「そうだ、もうそろそろ稜君が帰ってくるから、夕飯の準備始めておいたら?」
怜南は頷いて、調理場に立った。冷蔵庫を開け、材料を取り出す。
今拭いていたテーブルで最後だったらしく、秀介は布巾を持ってキッチンに入る。
「お、今日は親子丼かな?」
並べられた材料を見て尋ねる。怜南は首を横に振り、小麦粉を見せた。
「わかった、かき揚げだ」
今度は頷く。そして調理を始めた。
その手際はよく、あっという間に揚げる工程に入った。
最後の一つを油から取り出していたら、ドアベルが鳴った。
稜が入ってくるが、おかえりと挨拶をさせてくれる雰囲気には見えない。まず、どうしたのか聞きたくなるような表情をしている。
「だいたい、どうしてついて来てるんですか」
それは怜南や秀介に向けられた言葉ではなかった。二人は稜が誰かを連れてきたのだと察する。
「葉宮君が大切にしている女の子に会ってみたくて。あと、その子が君のこと、どう思ってるか聞いてみたい」
稜の背後から、女性が姿を見せる。
その女性は、何かを企んでいるような顔をしている。稜には、このまま怜南と話させたら、彼女が無神経に怜南を傷つける未来が見えた。
怜南を傷つけたくない稜は、彼女が中に入るのを阻止するように立ち止まった。前に進めなくなり、女性は不満そうに稜を見る。
「私、入りたいんだけど」
二人の空気はまさに険悪だ。怜南も秀介も彼女のことが気になるが、口を挟める空気ではない。
「怜南は木崎さんと違って、繊細なんです。嫌がらせするくらいなら、帰ってください」
稜はその人の体を回転させ、背中を押して追い出そうとする。
「ちょ、ちょっと稜君」
秀介は戸惑いながら口を挟む。怜南は稜と女性を不思議そうに見つめている。
二人のその反応を見て、稜は彼女を帰らせたところで質問攻めされることに変わりないと思い、帰らせるのを諦める。
不満そうにしながら、一歩横にずれる。
「俺の先輩の、木崎里津さん」
「どうも、木崎です」
紹介された里津は、笑顔を作る。二人は人見知りというわけではないが、稜と言い合いのようなことをしていたことから、どう接していいのかわからなかった。
「料理を作ってるが永戸怜南で、座ってるのが怜南の叔父の瀬尾秀介さん」
怜南と秀介は戸惑いながら、軽く頭を下げる。
稜にとって今の状況はまったく面白くなく、カバンをカウンター席に投げ置くと、その隣に腰を下ろす。
不機嫌な稜を心配して、怜南は稜の顔を覗き込む。怜南の動きが視界に入り、稜は顔を上げた。
「どうした?」
さっきまでの表情と打って変わり、稜の目は優しかった。それに返すように、怜南も笑う。
「木崎さん、よかったら夕飯を一緒にどうですか? 今日は怜南お手製のかき揚げでして。おいしいですよ」
稜と怜南の醸し出す空気に慣れている秀介は、二人を無視して里津に言った。
ただ怜南を見たかっただけではなかったため、里津はその誘いを受ける。
「では、お言葉に甘えて」
里津はわざとらしく稜の隣に座る。
「……何してるんです、木崎さん」
稜は左隣の里津を睨む。だが、里津は両肘をついて手に顎を置いて、戸惑う怜南を見ている。
「彼女お手製のかき揚げを、ご馳走になろうと思って」
怜南は秀介と里津の会話を聞いていなかったため、説明を求めるように秀介のほうを向く。
「今日は四人でご飯を食べよう」
どうしてそうなったのかが聞きたかったのだが、伝わらなかったらしい。
怜南はすぐには頷かなかったが、食器棚から皿を一枚取り出して、三枚重ねた上に置いた。
「……本当にしゃべらないのね」
怜南を観察していた里津が、独り言のように言った。
盛り付けをしていた怜南、スマートフォンを見ていた秀介、稜の動きが固まる。
「怜南のこと、知っているんですか?」
秀介は稜のように怒っている様子はなく、ただ怜南が声を出せないことを知っていることに驚いていた。
「私も一応、刑事なので。昔の事件についてはそれなりに知ってます」
その返答に、秀介は納得する以外なかった。
怜南は、まったく動けなかった。持っていた菜箸は床に落ち、指先が小さく震える。
もう平気だと、あの過去は乗り越えたのだと思っていた。それなのに、あの日の、あの光景が頭の中をよぎる。
それは、母親の夢を見たからだろうか。今までよりも、鮮明に頭の中で映像が流れた。
少しずつ、呼吸が乱れる。
「怜南?」
稜が怜南のそばに駆け寄ると、怜南は足に力が入らなくなったように、その場に座り込んだ。怜南を心配して、稜も床に膝をつく。
「怜南、大丈夫だ。落ち着いて、ゆっくり息をしよう」
稜に背中を撫でられ、呼吸を整えていく。それでも気持ちは落ち着かず、助けを求めるように稜のシャツを掴んだ。
このまま夕飯を作り上げることは不可能だと判断し、稜は怜南を支えながら立ち上がる。
「秀介さん。俺、怜南を二階に連れてくから、続きやっててくれる?」
「もちろん。怜南のこと、頼むね」
稜は頷くと、怜南の歩くペースに合わせながら、二階に上がった。
秀介はキッチンに入り、怜南がやっていた盛り付けを続ける。
「……随分と過保護ですね」
里津は稜たちが入っていったドアを見つめたまま呟いた。
「俺も稜君も、怜南が可愛くて仕方ないんですよ。目の前で両親を殺された怜南には、できるだけ笑顔でいてほしい。だから……つい、甘やかしてしまうんです」
秀介は照れ笑いを見せる。
しかし里津は理解できなかった。
「それって、彼女のためになるんでしょうか」
里津の素朴な疑問に、秀介は気まずそうに笑うしかなかった。
まだ言いたいことはあったが、秀介に言ったところで何かが変わるわけではないと思った。出されていた水と共に、出てきかけた言葉を飲み込む。
それからすぐに盛り付けられたかき揚げが出てきた。喫茶店を経営している人が盛り付けたのだから当然かもしれないが、お店で出てくるような一皿に見えた。
「稜君と怜南に届けてきますね」
秀介は左手と左腕に皿を乗せ、ドアを開ける。そして両手に持ち替えると、二階に行ってしまった。
里津は一人、残された。
秀介が戻ってくるのを待ってもよかったが、目の前においしそうな料理があって、お腹が鳴った。里津は箸を手にし、かき揚げを一口齧る。
「……おいしい」
その一言は誰の耳に届くことなく、静まり返った店内に包み込まれた。