君に嘘をつくくらいなら




 聞き込みや物的証拠より、数時間後に犯人は逮捕された。

 彼女にしつこく交際を申し込んでいた男が犯人だった。数日前に彼女の家に行った際、彼女の恋人を発見し、殺害する計画を企てたらしい。

 つまり、里津の仮説は正しかったのだ。

 現場から戻る車の中で、里津はもっとしっかり現場を見ればよかったとぼやいた。稜は運転をしながらそれを聞き、里津の邪魔をしてしまったような気がして、申し訳ない気持ちになった。しかし謝罪の言葉は言えず、車内は重い空気に包まれていた。

 稜は自席で大きくため息をつく。

 里津は自分の話を、そうだったらいいなと適当に誤魔化していた。だが、彼女は話してくれたことよりもっと多くのヒントが見えていて、その仮説が最も真実に近いとわかっていたのではないかと思うと、稜は里津が優秀だと言われているのは間違いないと認めざるを得なかった。

 あのやる気のない里津は、本当に優秀だった。

「どうした、浮かない顔して」

 稜が誰も座っていない隣の椅子をただ見つめていたら、若瀬がその椅子に座った。

「木崎さん、ほんの数分現場を見ただけで、彼女が水商売で働いていて、その客が犯人だって推理したんです。でも、もっと見ていたらって言ってて……俺が邪魔したのかなって……」

 稜はずっと考えていたことをそのまま若瀬に伝える。

「してないよ」

 若瀬はそれをすぐに否定した。

「てか、それで言ったら俺たち全員、木崎の邪魔してるってことになるから」

 稜は若瀬が言っている意味がわからず、首をひねる。

「あいつ、現場に来たことないんだよね」

 今の言葉の説明をしてもらえると思っていたため、稜は一瞬その言葉が理解できなかった。しかしそれを理解すると、今日の若瀬のあの反応が腑に落ちた。

「現場に来ないって、木崎さんは普段何をしているんですか?」
「俺たちの捜査情報を聞いて、推理。だから、情報が足りなかったら木崎は犯人を導き出せない。そういう意味で、俺たちは木崎の邪魔をしてるってこと」

 若瀬はまったく無駄話をしていなかった。

 しかしただでさえ現場を見ただけで犯人を言い当てたことに驚いていたのに、それ以上のことをしていると言われると、もはやどう反応していいのかわからなかった。

「ま、正解率は八十パーって感じだから、完全に信用できるわけじゃないけどな」

 若瀬はそう言うと、机の上に転がっているボールペンを手に取った。それを器用に回しながら、話を続ける。

「とにかく木崎は、たくさんのものをよく見てる。どんな小さなことも見逃さないし、俺たちが事件には関係ないと思うものも、切り捨てたりしない。そして、考えているんだ。どうしてそれがあるのか、そうなったのか。可能性として考えられるもの、すべてを頭の中で整理している。だから、ろくに捜査をしなくても、答えに近い仮説を導き出せる」

 若瀬は、里津が何を見て、どう考えているかまでは知らない。というか、知りようがない。だから、その説明は的を得ているようで得ていなかった。

「……木崎さんは、刑事という仕事はやりたくないのかと思ってました。今日だって、なかなか現場に行こうとしませんでしたし」

 稜は昼間のやり取りを思い出す。行きたくないと駄々をこねた挙句、着いた瞬間には帰ると言い出した、あのやる気のない里津が蘇る。

「それはまあ……木崎は新しい事件に興味がないからな」

 若瀬はペン回しをやめ、ペン先が出ていない状態で頭を掻く。

 犯罪者を見つけて逮捕することが刑事の仕事なのだから、興味がないだとか子供のようなことを言っている場合ではないと思ったが、それは里津に直接言うべきことだと思い、飲み込んだ。

 しかし稜の顔には、はっきりと納得できないと書いているように見える。若瀬はさらに説明を加える。

「未解決の事件をなくすのが木崎の目標なんだと。だから、目標達成に関係ないことはやりたくない。それがあいつの主張」

 昔、どうしてそんなにやる気がないのにこの職業を選んだのか、と聞いたことがあった。ふざけた理由であれば、今すぐやめろと言ってやるつもりで聞いた。

 だが、里津はそれまでに見せたことのない真剣な目をして、そう答えたのだった。

「……未解決事件を……それは……どうして、なんでしょう?」
「さあ? そこまでは聞かなかったから知らないけど……気になるなら本人に聞いてみたら? 案外すんなりと教えてくれるよ」
「でも、署に戻ってきてから、一度も木崎さんの姿を見ていないんですけど」

 車を降りてから、二人はすぐに解散していた。どこに行くのか聞こうとしたが、車内での空気を引きずっていたため、里津の背中を見送ることしかできなかった。

 そのため、稜は今里津がどこにいるのか、知らなかった。

「そうだな……木崎を探すなら、まずあそこに行ってみるといいよ」

 若瀬は勝手に借りたペンをもとの位置に戻す。

 稜は若瀬の言うあそこがどこかわからず、次の言葉を待つ。

「未解決事件の資料を整理して情報を集めてる、未解決事件情報管理室。通称、未管室」




 歩かなければいけないとわかっていても、どうしても気持ちが先走ってしまうせいで、歩くスピードが上がってしまう。

 気付けば目的は里津を探すということから、怜南の両親を殺した事件について聞きたいにすり替わっていた。

 次第に人とすれ違わなくなる。未解決事件情報管理室は、廊下の突き当りにある、まるで物置部屋のような位置だった。

「じゃあ何も進展がなかったら、この事件はお蔵入り?」

 到着するとドアが開いていて、里津の声が聞こえてきた。

 その声は真剣そのもので、稜はなぜか中に入るのを躊躇った。

「時効まで約一か月、今のところ新しい情報提供もありません。そうなるのもやむを得ないでしょう」

 里津と話しているのは男のようだ。稜は声の印象から、とても落ち着いている人を想像する。

「最近、お蔵入り多いですよね」

 里津がため息交じりに言う。

「捜査の手が足りていないのと、情報を提供してくれる人が少なくなったことが原因でしょうね」

 対して男は冷静に分析している。ときどきキーボードを叩く音が聞こえてくる。ただ里津と話しているだけではないようだ。

 稜は完全に入るタイミングを逃し、出入口付近で里津たちの会話を盗み聞く形になっていた。

「市民は増え続けてるのに、なんで目撃情報とかがないんだと思います? それに街中は監視カメラだらけなのに」
「防犯対策をしているところが増えていますから、犯人も慎重になって罪を犯しているのかもしれません」
「人目を避けて、か……本当、クズって悪知恵だけはよく働く」
「里津さん、言葉には気を付けなさい」
「あの!」

 次第に盗み聞きしていることに耐えられなくなり、稜は思い切って部屋に入った。

 里津は長机に資料を広げたままコーヒーを飲んでいて、里津の会話の相手は自分の作業机でパソコンと向き合っていた。二人そろって驚いた顔をして稜を見ている。しかし里津はすぐに稜に鋭い視線を向けた。

「なんでここにいるの」
「若瀬さんがここにいるだろうって教えてくれました」

 それを聞くと、里津は思いっきり顔を顰めた。稜は里津を探していた理由を言っていないが、その理由は容易に想像できたのだ。

「そうやってあからさまに嫌そうな顔をするのは、里津さんの悪い癖ですよ」

 稜が来たからか、男は仕事を中断させた。右手で眼鏡を上げるさまは板についていて、稜は同性ながらときめいてしまいそうになる。

「……はーい」

 男に注意されて、里津はしぶしぶ返事をする。

 あの里津が人の言うことを聞いているこの状況が信じられなくて、稜は男を凝視した。

「どうかされましたか?」

 稜の視線に気付いた男は優しく微笑んだ。声を聞いたときに思った通り、落ち着いた人だ。

「いえ……木崎さんと、どういう関係なのかと思って」

 何もないと誤魔化そうとしたが、それを聞かずにはいられなかった。

「ただの仕事仲間ですよ」

 その返答は妙に納得がいかなかった。

 ただの仕事仲間であれば、里津が敬語を使うことも、おとなしく言うことを聞くこともないはずだ。きっと、彼には何かある。

 稜はそう思ったが、次の質問が思い浮かばなかった。

「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。赤城(あかぎ)と申します」

 稜が何を言おうか迷っていたら、男が名乗った。

「葉宮です」

 稜は緊張した面持ちで、赤城につられるように名前を言う。

「葉宮さん……ああ、今日一課に配属された葉宮稜さんですね」
「……使えないバディ」

 稜が赤城の言葉に驚いていたら、里津がそれに付け加えるように、小声で言った。

「里津さん」

 厳しい声で名前を言われ、里津は子供のようにそっぽを向いた。

「里津さんとバディだなんて、大変でしょう?」

 肯定の言葉を言いそうになったが、ぐっと堪える。かといって否定もできず、稜は作り笑いを見せた。

 それから聞きたいことがあったことを思い出した。

「あの……ここで未解決事件の資料を管理していると聞いたんですけど……」
「はい、そうですよ」
「その……十五年くらい前の事件もありますか?」

 ないと言われるのが怖くて、稜の声は小さかった。しかし稜から提示された情報が少なく、赤城は首をひねる。

「事件の内容にもよりますが……どんな事件ですか?」
「夫婦が刺殺された事件です。あとは……そう、当時五歳の子供が声を失ったっていう」

 それだけを聞いて、思い当たる節があるのか、赤城は大量の資料が置かれた部屋の奥に入っていった。

 もっと根掘り葉掘り聞かれると思っていた稜は、目を丸める。

「もしかして赤城さんって、ここにある事件、全部覚えてるんです?」

 稜が頼んだ資料を探す背中を見つめながら、つまらなそうにしている里津に聞く。

「赤城さんはほぼ一人でここにある捜査資料の整理、管理をしてるから、どこに何の捜査資料があるかはだいたい把握してる。あと、いつ発生したのかとか、時効はいつなのかとかも」

 人間離れした情報に、稜は頭が追い付かない。だが、どうして里津が赤城に敬語を使っているのかは、なんとなくわかった。

 未解決事件の発生日と時効、そして内容まで把握しているなんて、尊敬する以外にない。

「自分の仕事をこなしているだけですよ」

 赤城はファイルを手に戻ってきた。狭い部屋だから当然だろうが、稜たちの会話が聞こえていたようだ。

 しかしいくら真面目に仕事をしていても、一人でほぼ把握することなど、普通はできない。

 それを当たり前だと言い切った赤城を、稜はかっこいいと思った。

「それで、さっき言っていた事件というのは、これで合っていますか?」

 赤城は稜に資料を渡す。開いてみると、それは確かに怜南の両親が殺された事件の捜査資料だった。

 稜はお礼を言うのも忘れて、資料を読むのに集中する。

「その事件がどうかしたんですか?」

 稜があまりに熱心に読んでいるから、気にならずにはいられなかった。

「……俺、この事件の犯人を捕まえるために刑事になったんです」

 資料に目を通しながら、赤城の質問に答える。すると、横から大きなため息が聞こえてきた。

「……出た、誰かのため」

 里津の言葉には棘があった。数時間前にも似たようなことがあったことから、余計に嫌な言い方をした。

「どうしてその事件を解決したいのか、聞いても構いませんか?」

 赤城は里津の言葉を無視し、質問を投げた。

 それは資料を読みながら話せることではなく、稜は資料ファイルを閉じる。伏せられた目はとても切なさを含んでいた。

「俺、このとき子供だった女の子と幼馴染なんです。昔は相当閉じこもっていたんですけど、今では叔父の喫茶店を手伝ったり、自分から買い物に行ったりって、結構前を向いてくれるようになったんです。でも彼女、十五年経った今でも話すことができなくて……それって、まだ事件のことを引きずってるからなんじゃないかって思ったんです。だから、この事件の犯人を捕まえることができたら、彼女が乗り越えられるんじゃないかと……だから俺、彼女のためになんとしてでも、この事件を解決したいんです」

 話しながら怜南が好きだと告白しているような気がしてきて、恥ずかしくなった稜は、二人の目を見ることができなかった。

「それ、その子は望んでるの?」

 稜の話を聞いて、先に反応したのは里津だった。呆れた表情を浮かべている。

「え……」

 稜はからかわれると思っていたため、本気で戸惑った。

 里津の目はいつになく鋭い。

「彼女は、あんたに親を殺した犯人を捕まえてほしいって言ったの?って聞いてるの」
「いえ……」

 怜南がそんなことを言ってきたことは、一度もない。それどころか、両親が殺されたという事件に触れようともしない。

 稜は怜南が嫌がることはしないと決めているため、稜から事件の話題を出したことはなかった。まして、このまま犯人が捕まらないままでいいのか、逮捕してほしいのか、という質問もしたことがなかった。

「だったら、犯人を捕まえたいっていうのは、君のやりたいことだよね。彼女のためとか言いながら、本当は自分のため。君のために犯人を捕まえた僕、かっこいいでしょ?って感じ?」

 その言い方は稜をバカにしているようだった。

 それに対して、長い時間を一緒に過ごしているのだから、怜南が望んでいることは言われなくてもわかる、とは言えなかった。里津の言っていることも一理あると思ってしまった。

 黙り込んだ稜を見て、里津は鼻で笑った。

「思考力の足りない葉宮君には、彼女が犯人を捕まえてほしくないかもしれないとか、考えられなかったんだね。犯人捕まったところで親が帰ってくるわけじゃないし、自分の生活が変わるわけでもない。彼女が犯人逮捕を望んでいないかもしれない、とは思わなかったんだ?」

 とにかくバカにされていることはわかるのに、どう言い返せばいいのかわからなかった。何より、今何を言っても、返り討ちにされるような気がした。

「遺族がみんな、事件を解決してほしいと思ってると、思わないほうがいい。事件のことを忘れてしまいたい人だっている」
「……木崎さんは」

 ようやく反撃に出た稜の声は、小さかった。だけど、里津は黙って稜の言葉を待つ。

「木崎さんは、ここにある未解決事件をすべて解決しようとしているんですよね。それって、今木崎さんが言ったことと矛盾してませんか」
「してない」

 言い切られると思っていなかったため、稜は言葉を失う。

 里津の言う通り、事件のことを忘れて生きていきたい人がいるかもしれないということは認める。

 だが、里津のやろうとしていることは、そのような人たちの気持ちを無視した行為だ。稜は、自分の主張は間違っていないと思っていたから、余計に里津の言っていること、やろうとしていることが理解できなかった。

「私が未解決事件をゼロにしたいのは遺族のためじゃない。罪を犯したくせに、罪を償わずに社会でのうのうと生きてるクズを一人でも多く刑務所に入れるためだから。事件を忘れたいとか、そんなの知らない」

 聞いてみれば、里津のほうが自分勝手だった。しかしその思いの強さは確かで、稜が言えることは何もなかった。

「里津さん、言葉遣いに気を付けなさいって注意したばかりでしょう」

 稜が木崎里津という人を理解できないでいたら、赤城がそんなことを言った。また赤城に注意され、里津は舌を出して反抗してみせる。赤城は厳しい表情を見せる。

「次同じことで注意するようなことがあれば、ここへの出入りを禁止にします。情報も教えません」
「ごめんなさい」

 里津は間髪入れずに謝った。稜は、反省しようと思えばできるのか、なんて思いながら赤城に謝る里津を見る。

「信じられません」
「え、嘘、待って、本気で反省してるから、ね、意地悪言わないでよ」

 赤城が疑いの目を向けると、里津はさらに必死になった。それは悪いことをして親に宝物でも没収されてしまった子供のようだ。

 しかしそんなことよりも、赤城の発言の中に気になるものがあった。

「あの、情報ってなんですか?」

 稜が質問すると、赤城は里津が謝っているにも関わらず、稜に答える。

「未解決事件解決の情報がここに入ってくるのですが、それを里津さんにも教えているんです」
「そうなんですね……あの……俺も情報を教えてもらうことってできますか?」

 里津に教えているのなら、自分も教えてもらえるのではないかと思い、そう提案した。

 しかし怜南の両親を殺した犯人を捕まえようとすることは自分勝手な行為だと里津に言われ、少なからず抵抗があった。その証拠に、今の稜の声は小さい。

「さっきの事件の情報ですね。もちろんできますよ」

 里津に向けていた冷たい笑顔が嘘のように、赤城は優しく笑った。その反応に、稜は酷く安心した。

「ありがとうございます」

 そして稜のスマホに赤城の連絡先が登録された。



 女性はキッチンから人形で遊んでいる少女を呼ぶ。

『怜南ー、お母さんと一緒にケーキを作らない?』
『作る!』

 幼い怜南は人形を置いて、母親のもとに走っていく。

『何ケーキ?』

 母親は頭を撫でて、飛び回る怜南を落ち着かせる。

『そうだなあ……怜南は何がいい?』
『えっとね、甘いの!』
『ケーキは全部甘いよ、怜南』

 苦笑しながら言うが、怜南は首をひねる。

『えー? この前パパが食べてたやつは苦かったよ?』
『あ、パパのケーキ盗み食いした犯人は怜南だったのね?』

 母親に両脇をくすぐられ、怜南は楽しそうに笑う。

『だって、美味しそうだったんだもん』
『あれはコーヒーが使われてるからね。でも、やっぱりケーキはほとんど甘いから、怜南、何が食べたいかリクエストしてくれる?』
『うーん……チョコ!』

 それを聞くと、母親は立ち上がる。

『チョコケーキね。怜南、ココアパウダーを持ってきてくれる?』
『はーい!』


 楽しくて幸せな、二度と戻ってこない穏やかな時間。

 店の隅の席で眠る怜南の頬には、一筋の涙が流れた。

 夢から覚めると、秀介が店の片付けを始めていた。

 怜南の目が開いていることに気付くと、秀介は怜南に声をかける。

「おはよう、怜南。よく寝てたね」

 涙の跡が見えたが、それには触れなかった。

 怜南は目を擦りながら体を起こす。両腕を枕にして寝ていたようで、赤くなっている。

「怜南、ほっぺに跡ができてる」

 秀介は怜南の顔を見て笑うが、自分の顔を確認できないため、怜南は首を傾げた。

「そうだ、もうそろそろ稜君が帰ってくるから、夕飯の準備始めておいたら?」

 怜南は頷いて、調理場に立った。冷蔵庫を開け、材料を取り出す。

 今拭いていたテーブルで最後だったらしく、秀介は布巾を持ってキッチンに入る。

「お、今日は親子丼かな?」

 並べられた材料を見て尋ねる。怜南は首を横に振り、小麦粉を見せた。

「わかった、かき揚げだ」

 今度は頷く。そして調理を始めた。

 その手際はよく、あっという間に揚げる工程に入った。

 最後の一つを油から取り出していたら、ドアベルが鳴った。

 稜が入ってくるが、おかえりと挨拶をさせてくれる雰囲気には見えない。まず、どうしたのか聞きたくなるような表情をしている。

「だいたい、どうしてついて来てるんですか」

 それは怜南や秀介に向けられた言葉ではなかった。二人は稜が誰かを連れてきたのだと察する。

「葉宮君が大切にしている女の子に会ってみたくて。あと、その子が君のこと、どう思ってるか聞いてみたい」

 稜の背後から、女性が姿を見せる。

 その女性は、何かを企んでいるような顔をしている。稜には、このまま怜南と話させたら、彼女が無神経に怜南を傷つける未来が見えた。

 怜南を傷つけたくない稜は、彼女が中に入るのを阻止するように立ち止まった。前に進めなくなり、女性は不満そうに稜を見る。

「私、入りたいんだけど」

 二人の空気はまさに険悪だ。怜南も秀介も彼女のことが気になるが、口を挟める空気ではない。

「怜南は木崎さんと違って、繊細なんです。嫌がらせするくらいなら、帰ってください」

 稜はその人の体を回転させ、背中を押して追い出そうとする。

「ちょ、ちょっと稜君」

 秀介は戸惑いながら口を挟む。怜南は稜と女性を不思議そうに見つめている。

 二人のその反応を見て、稜は彼女を帰らせたところで質問攻めされることに変わりないと思い、帰らせるのを諦める。

 不満そうにしながら、一歩横にずれる。

「俺の先輩の、木崎里津さん」
「どうも、木崎です」

 紹介された里津は、笑顔を作る。二人は人見知りというわけではないが、稜と言い合いのようなことをしていたことから、どう接していいのかわからなかった。

「料理を作ってるが永戸怜南で、座ってるのが怜南の叔父の瀬尾秀介さん」

 怜南と秀介は戸惑いながら、軽く頭を下げる。

 稜にとって今の状況はまったく面白くなく、カバンをカウンター席に投げ置くと、その隣に腰を下ろす。

 不機嫌な稜を心配して、怜南は稜の顔を覗き込む。怜南の動きが視界に入り、稜は顔を上げた。

「どうした?」

 さっきまでの表情と打って変わり、稜の目は優しかった。それに返すように、怜南も笑う。

「木崎さん、よかったら夕飯を一緒にどうですか? 今日は怜南お手製のかき揚げでして。おいしいですよ」

 稜と怜南の醸し出す空気に慣れている秀介は、二人を無視して里津に言った。

 ただ怜南を見たかっただけではなかったため、里津はその誘いを受ける。

「では、お言葉に甘えて」

 里津はわざとらしく稜の隣に座る。

「……何してるんです、木崎さん」

 稜は左隣の里津を睨む。だが、里津は両肘をついて手に顎を置いて、戸惑う怜南を見ている。

「彼女お手製のかき揚げを、ご馳走になろうと思って」

 怜南は秀介と里津の会話を聞いていなかったため、説明を求めるように秀介のほうを向く。

「今日は四人でご飯を食べよう」

 どうしてそうなったのかが聞きたかったのだが、伝わらなかったらしい。

 怜南はすぐには頷かなかったが、食器棚から皿を一枚取り出して、三枚重ねた上に置いた。

「……本当にしゃべらないのね」

 怜南を観察していた里津が、独り言のように言った。

 盛り付けをしていた怜南、スマートフォンを見ていた秀介、稜の動きが固まる。

「怜南のこと、知っているんですか?」

 秀介は稜のように怒っている様子はなく、ただ怜南が声を出せないことを知っていることに驚いていた。

「私も一応、刑事なので。昔の事件についてはそれなりに知ってます」

 その返答に、秀介は納得する以外なかった。

 怜南は、まったく動けなかった。持っていた菜箸は床に落ち、指先が小さく震える。

 もう平気だと、あの過去は乗り越えたのだと思っていた。それなのに、あの日の、あの光景が頭の中をよぎる。

 それは、母親の夢を見たからだろうか。今までよりも、鮮明に頭の中で映像が流れた。

 少しずつ、呼吸が乱れる。

「怜南?」

 稜が怜南のそばに駆け寄ると、怜南は足に力が入らなくなったように、その場に座り込んだ。怜南を心配して、稜も床に膝をつく。

「怜南、大丈夫だ。落ち着いて、ゆっくり息をしよう」

 稜に背中を撫でられ、呼吸を整えていく。それでも気持ちは落ち着かず、助けを求めるように稜のシャツを掴んだ。

 このまま夕飯を作り上げることは不可能だと判断し、稜は怜南を支えながら立ち上がる。

「秀介さん。俺、怜南を二階に連れてくから、続きやっててくれる?」
「もちろん。怜南のこと、頼むね」

 稜は頷くと、怜南の歩くペースに合わせながら、二階に上がった。

 秀介はキッチンに入り、怜南がやっていた盛り付けを続ける。

「……随分と過保護ですね」

 里津は稜たちが入っていったドアを見つめたまま呟いた。

「俺も稜君も、怜南が可愛くて仕方ないんですよ。目の前で両親を殺された怜南には、できるだけ笑顔でいてほしい。だから……つい、甘やかしてしまうんです」

 秀介は照れ笑いを見せる。

 しかし里津は理解できなかった。

「それって、彼女のためになるんでしょうか」

 里津の素朴な疑問に、秀介は気まずそうに笑うしかなかった。

 まだ言いたいことはあったが、秀介に言ったところで何かが変わるわけではないと思った。出されていた水と共に、出てきかけた言葉を飲み込む。

 それからすぐに盛り付けられたかき揚げが出てきた。喫茶店を経営している人が盛り付けたのだから当然かもしれないが、お店で出てくるような一皿に見えた。

「稜君と怜南に届けてきますね」

 秀介は左手と左腕に皿を乗せ、ドアを開ける。そして両手に持ち替えると、二階に行ってしまった。

 里津は一人、残された。

 秀介が戻ってくるのを待ってもよかったが、目の前においしそうな料理があって、お腹が鳴った。里津は箸を手にし、かき揚げを一口齧る。

「……おいしい」

 その一言は誰の耳に届くことなく、静まり返った店内に包み込まれた。




 目覚ましを止め、もう一度寝ようと毛布を引っ張るが、手ごたえがなかった。誰かいる。

 稜だ。

 怜南は昨日のことを思い出す。

 里津が来たこと。話したこと。そして、あの日のことを思い出してしまったこと。

 それから稜に寝室に連れてきてもらったのはいいが、なかなか眠りにつけなかった。だから、寝るまで稜に付き添ってもらっていたのだった。

 しかし基本的に稜のほうが先に起きていることが多く、寝顔など見たことがなかったため、稜の寝顔を見て、怜南は頬を緩めた。

 十分に堪能すると、稜が遅刻するのではないかと思い、稜を起こす。

「ん……」

 しばらくゆすっていたら、稜が目をゆっくりと開けた。まだ寝ぼけているのか、怜南がいることに気付いていない。

「え、怜南? なんで……ああ、昨日俺、あのまま寝たんだっけ……」

 目を擦りながら体を起こし、自分の部屋ではないことがわかると、昨日の出来事を思い出して納得した。それからスマートフォンで時間を確認する。

「六時半か……怜南は、もう起きるか?」

 怜南は頷く代わりに体を起こした。そしてベッドのそばにある机からスマートフォンを取ると、文字を打ち始める。

『稜君、今日はお仕事?』

 寝起きのせいか、いつものサイズの文字は読みにくく、稜は少し目を細めて怜南が打った文章を読む。

「うん。でもまだ余裕があるから、怜南の朝飯は作れるよ」

 寝起きであることもあり、稜の表情は柔らかかった。

 稜はベッドから降りて、カーテンを開ける。太陽を厚い雲が覆っていて、外は薄暗い。雨が降りそうだと思い、稜は窓までは開けなかった。

「怜南、先に風呂に入るか? 昨日、入らないで寝たろ」

 振り向くと、怜南は頷いた。

「じゃあ、俺は下に行って朝ご飯の準備しておくよ」

 そして稜は部屋を出ていった。怜南は下着と着替えを手に、風呂場に向かう。

 昨日のこともあり、怜南は鏡で肩の傷を見ないようにしながら、風呂に入った。

 今日はしっかりと髪を乾かし、歯を磨いて下に降りる。

「おはよう、怜南」

 秀介はいつも通り、カウンター席に座ってコーヒーを飲んでいた。稜はまだ朝食の準備をしていたが、秀介の怜南への挨拶を聞いて、顔を上げた。

「お、今日はちゃんと乾かしているな」

 稜に言われ、怜南は得意げに笑う。そして奥にある窓の外に目を向けた。稜はつられるように振り向く。

「雨、もう降りだしたのか」

 どうやら、怜南が風呂に入っている間に降り始めたらしい。

「怜南、今日は雨で客は少ないだろうし、出かけてもいいよ」

 秀介に言われ、怜南は目を輝かせた。

 怜南は、雨の日に出かけることが好きだ。雨の日に好んで外を歩いている人は少なく、いたとしても、傘を差していると話しかけられることも滅多にないため、街中を歩きやすいらしい。

「まあまずは、朝ご飯な。今日は和食のつもりでいたんだけど、ご飯炊く時間なかったから、二日連続だけど、パンで我慢して」

 稜が並べていく料理に文句などあるはずもなく、怜南は料理の前に座る。

 手を合わせると、コンソメスープの入った皿を両手で持ち、丁寧に喉に通す。それから生野菜のサラダを一口、そしてフレンチトーストを口に運ぶ。

 やはりどれもおいしく、笑みがこぼれる。怜南のその表情を見ると、稜は満足したように笑う。

 怜南の反応を見て、使った道具の片づけを始めた。

「じゃあ俺、ちょっとシャワー浴びてくるわ」

 そして稜が二階に上がり、秀介と怜南の二人きりになった。怜南は引き続き楽しそうに稜が作った料理を食べているが、その横に座る秀介は浮かない顔をしている。

「……怜南」

 その声はとても低かった。

 秀介が落ち込んでいるように見え、怜南は食べるのやめる。

「昨日、夕飯届けたときはまだ落ち着いてなかったみたいだったけど、大丈夫だった? あれからちゃんと寝れた?」

 秀介は怜南の親代わりであることもあり、心配でしかたなかった。

 秀介のその気持ちも、顔を見ればわかる。そんな秀介を安心させるためにも、怜南は力強く頷いた。

「……それならいいんだ」

 よく見れば、秀介の目元にはクマがある。怜南は手を伸ばして、秀介の右手に重ねた。

「なんか、俺のほうが心配かけたみたいになったね」

 秀介は笑って見せるが、怜南はまったく笑えなかった。

 左手で怜南の頬にそっと触れる。

「あの二人に代わって怜南を守ることが俺の仕事だから、そんな気にしないで。ね?」

 そう言われても、怜南の中から、心配かけて申し訳ないという気持ちは消えなかった。だが、いつまでもそんな表情をしていたら余計に秀介に悲しい顔をさせてしまうと思い、笑顔を作る。しかしうまく笑えていないことは、自分でもわかった。

 秀介も気付いたが、その笑顔については何も言わない。

「そうだ、怜南。出かけるんだったら、買い出しお願いしてもいいかな?」

 秀介は怜南から手を離して、わかりやすく話題を変えた。

 話題が変わると、怜南の表情も自然なものになった。怜南は首を縦に振る。

「よし、じゃあメモを取ってくるから、怜南は朝ご飯の続き食べてて」

 秀介も二階に行くと、怜南は雨音を聞きながら、コンソメスープを飲んだ。




 お気に入りのワンピースを着て、傘をさして歩く。怜南の足取りは軽かった。

 雨水が傘に当たる音や、車が走ることでできる水しぶきの音など、聞いていて楽しい。そしてなにより、小さな水たまりに雨が降り注いでできる波紋を見ることが好きだった。

 散歩を楽しんでいたら、あっという間に目的地であるショッピングセンターに着いた。一枚目の自動ドアを開けて入ると、入り口で傘専用の袋に傘を入れると、入り口で傘専用の袋に傘を入れる。そして、二枚目の自動ドアを開いて店内に足を踏み入れた。

 ドラッグストアで化粧品を見たり、本屋に行って気になる本を探したりと、ウィンドウショッピングを堪能した。

 そして満足した怜南は、秀介に頼まれたものを買うために、一階の食品売り場に移動した。

 スマートフォンのメモを見ながらカゴに商品を入れていく。

「こんにちは」

 惣菜コーナーを見ていたら、誰かに声をかけられた。

 喫茶店の常連と出くわしてしまったかと思い、振り向く。

 そこに立っていたのは、私服姿の里津だった。

 怜南は昨日の里津とのやり取りを思い出し、また厳しい言葉を言われるような気がして、会釈をして逃げようとする。

「どこに行かれるんです」

 里津はすかさずそんな怜南の手首を掴んだ。

 怜南とこうして出会ったのは偶然だったが、稜がいない今が、話を聞くチャンスだと思った。この好機を逃すわけにはいかない。

 だが、里津を見る怜南は逃げたくてしかたなさそうだ。

「怜南さん、よかったら私と女子会しませんか」

 それでも怜南の目は怯えていた。

 このままではお茶をすることはできても、打ち解けることはほぼ不可能だ。

「あなたに聞きたいことも話したいことも、たくさんあるんです」

 職業病とでも言うべきか、とても怜南の心を開くための一言には聞こえない言い方をしてしまった。

 その自覚があり、今の言葉を打ち消せないかと、優しく微笑んだ。すると、怜南は一瞬迷ったが、首を縦に振った。

「では私の家に行きましょう」

 怜南の気が変わってしまわないうちに、里津は怜南の腕を引く。だけど、怜南は抵抗して里津の手から逃げる。

「どうしました? あ、いきなり家は嫌でした?」

 怜南は首を左右に振った。このままコミュニケーションをとることはできないと思い、怜南はカバンからスマートフォンを取り出した。

『叔父に頼まれた買い出しが終わってからでいいですか?』

 怜南のそれを見て、里津は自分も買い物中だったことを思い出した。

「もちろんです。では、またあとで」

 それから解散して、それぞれ買い物を済ませた。里津のほうが先に終わっていたようで、出入口付近で怜南を待っていた。

 店を出ると雨はやんでいて、青空が垣間見えた。

「お、雨上がってる」

 里津は空を見上げ、そうこぼした。怜南は雨が降っていないことを残念に思っていたため、里津の横顔を見つめる。さっきまで見せてくれた笑顔とは違う、感情のない目をしていた。

 怜南の視線に気付くと、微笑みを作る。少しでも怜南の警戒心をなくしたくて慣れない笑顔を作っているが、もうすでに疲れている。そのせいもあって、里津の笑顔はどこかぎこちない。

 怜南はそれがおかしくて、くすくすと笑う。明らかに笑われているのに、里津の表情は優しかった。少しでも怜南が心を開いてくれたのであれば、笑われても構わなかった。

「では行きますか」

 二人はまだ乾ききっていないアスファルトを踏み進める。

 水たまりに反射する青空に気を取られながら、里津の後ろを歩く。

「雨の匂い、すごいな……」

 怜南と会話するつもりがないのか、里津は独り言が多い。怜南も会話ができると思っていないため、雨で濡れた景色に集中する。

「そういえば、怜南さん」

 唐突に里津が振り返った。怜南は驚いて足を止めてしまう。里津は驚いて固まった怜南の隣に立ち、また家に向かって歩き始める。怜南もつられて足を前に出した。

 里津は怜南と会話をするつもりでいるため、怜南の歩幅に合わせて歩いている。

「さっきお店で私にスマホを見せてくれたみたいに、葉宮君たちともああやって会話をしてるんですか?」

 里津は怜南を気遣って、はいかいいえで答えられるようにボールを投げる。怜南は頷くだけなので、里津にボールが返ってくることはなかった。

「いちいち文字を打って、相手のほうに向けるのって、面倒だったりしません? 相手が読みやすい距離ってものそれぞれで難しかったりとか」

 怜南は話の意図が見えないまま、また頷く。

「そうだ、ライン交換しましょう。言いたいことがあれば、その都度送って、みたいなやり方だと、お互いに負担が減ると思いません?」

 里津はそう言いながら、ジーパンのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。

 さすがに会って二日目の人と連絡先を交換することは抵抗があったが、稜の知り合いなら悪い人ではないと思い、交換することにした。

 友達欄に、秀介と稜以外の名前が表示される。嬉しいようで、これでよかったのかという不安があった。

「怜南さんって、いくつなんです?」

 メッセージを送ればいいと言われたのに、ジェスチャーをする癖が身についているため、怜南はわざわざスマートフォンをカバンに戻して、右手でチョキ、左手でグーを作った。それは一人でじゃんけんをしているようにも見える。

「二十歳ですね」

 里津は笑いながら言った。怜南は急に自分がしたことが恥ずかしくなり、顔を赤くして俯いた。

「可愛くていいじゃないですか、一人じゃんけん」

 里津はフォローのつもりで言ったが、怜南はからかわれているようにしか聞こえなかった。

「やっぱり年下でしたね。私、敬語が苦手でして。なくてもいいですか?」

 その許可を取るための年齢確認だった。

 怜南の両親が殺された事件がいつなのか、そのとき怜南がいくつだったのか、その二つの情報から、現在の怜南の年齢を知ることはできる。

 だが、本人に年齢確認をして許可を取るのと、年下だと決めつけて許可を取るのとでは全く違う。

 そして、怜南は敬語がなくても問題ないため頷くが、その顔はまだ不満を語っている。

「一人じゃんけんって言ったの、そんなに嫌だった?」

 許可した途端、里津から敬語が消えた。一気に距離を詰められたような気がして、怜南の表情が硬くなる。

 里津はその変化を見過ごさなかった。

「……敬語なしが嫌なら、嫌って言ってください。ノーと言えない人間は周りに流されて、地獄を見ますよ」

 里津は呆れたように、敬語に戻す。すると、怜南はまたカバンからスマートフォンを取り出し、文字を打った。

 里津のスマートフォンがメッセージ受信の合図を出す。

「お、さっそく」

 里津は届いたメッセージを読む。

『嫌じゃないです。ただ、急に距離が近くなって、戸惑っただけです。慣れたら問題ないと思います。……多分』
「多分って」

 怜南のメッセージを読んで、里津は笑う。

「じゃあ、やっぱり敬語はなしってことで」

 怜南は返事の代わりに、小さく頷いた。



 里津の家は、マンションだった。エレベーターで五階まで上がると、怜南は里津に置いて行かれないように背中を追う。

「ここが私の部屋」

 里津は鍵を開け、ドアノブを回した。そしてドアが閉まらないように抑えて怜南に入るよう促した。怜南はお邪魔しますと言えない代わりに、頭を下げて中に入った。

 里津も入ると、右手にある下駄箱の上に置かれた小さな入れ物に鍵を置いた。

 怜南は稜以外の他人の家に行ったことがなく、他人の家の匂いに戸惑い、立ち尽くしていた。

「さ、入って」

 里津に言われて靴を脱ぐ。

 里津が廊下とリビングを隔てるドアを開ける。

 入ってすぐ左にはキッチンがあり、カウンターがあるタイプだった。それを挟んで、正方形の食卓テーブルと、向かい合わせに椅子が二つある。

 その奥には絨毯が敷かれている。壁に沿って置いてあるテレビと平行に、三人程度が座れるグレーのソファがあった。その間には低めのテーブルがあるが、その上にはノートパソコンや資料、お菓子が散乱している。

「今買ってきたもので、冷蔵庫に入れたほうがいいものってある?」

 里津は買ったものを冷蔵庫や棚に仕分け終えると、また棒立ちしている怜南に言った。

 今回秀介に頼まれたのは徒歩で持って帰るのに重たくならないような、生活用品がほとんどだったため、怜南は首を横に振る。

「そっか。……あ。ちょっと散らかってるけど、気にしないで」

 テーブルの上の状態を思い出して、里津は照れ笑いを見せた。

「怜南ちゃんはお茶がいい? それとも、コーヒー?」

 怜南はスマートフォンを取り出し、『お茶で』と文字を入力した。

「……逃げてるみたい」

 里津のスマートフォンがメッセージを受信したとほぼ同時に、里津は怜南には聞こえない声で言った。怜南は首を傾げる。

 里津は笑顔を作る。

「ううん、なんでもない。お茶だね、了解。こっちのほうに座って待ってて」

 里津はカウンターを挟んである食卓テーブルを指した。怜南は頷くと、壁側の椅子を引いた。

「はい、お待たせ。お菓子は何がいい? なんでもあるよ」

 里津は二つのコップをテーブルに置くと、怜南の後ろを指さした。振り向いてみると、段ボール箱の中に大量のお菓子が入っていた。見たことがない量に、怜南は思わず見入ってしまう。

 里津は箱のそばに移動すると、中を漁り始める。

「うーん……今はチョコの気分」

 怜南に聞いておきながら、里津は一人で決めた。手にしているのは、一口チョコだ。

「好きなもの取って、食べていいからね」

 里津はもう一つの椅子に座り、袋を開けてテーブルの真ん中にチョコを広げる。さっそく一つ取って、口に運んだ。

 幸せそうな顔をする里津を見ながら、怜南は出されたお茶を飲む。

 今さらながら、どうして自分が里津の家にいるのか、不思議に思った。

「そうだ。私が無理矢理、怜南ちゃんを家に誘った理由を話さないとね」

 まるで怜南の心を読んだかのようなタイミングだった。

 里津は真剣な目をしている。怜南は思わず背筋を伸ばした。

「私は、どんな事件も解決して、犯罪者を刑務所に入れるために、刑事になった。それは、昔の事件も同じ。でも、私は今新しく起きる事件よりも、昔の事件のほうに力を入れてる」

 理由が聞きたかったが、文字を打って送ると里津の話の邪魔をしてしまうような気がして、怜南は理由を教えてほしいと意味を込めて首を傾げた。

「犯罪者がこの平和な日常で、罪も償わずに生活していることが許せないから」

 すると、里津の表情が真剣な面持ちから、眉尻を下げた、困ったような表情になった。

「でも昔の事件は捜査することが難しくて、市民の情報提供がすべてだったりする」

 それを言うと、顔つきが戻った。

「それでも情報はなかなか集まらないから、未解決事件は全然減らない。だから私は、未解決事件を解決できるヒントを集めるチャンスがあるなら逃さないし、手段を選ばない」

 怜南は里津が言おうとしている意味、そして自分を家に呼んだ理由がわかった。

 今すぐにでも帰りたい気持ちでいっぱいだったが、真剣に話している里津から逃げることができるような気もしなかった。

 せめて里津のまっすぐな瞳から逃げられないかと、膝の上に置いていた両手に視線を落とす。

「もうわかったと思うけど、私はあなたに、あなたの両親が殺されたときの話を聞きたくて、家に呼んだの」

 怜南の嫌な予感は的中した。視線の先にある両手は震えている。

「当時のあなたはまだ五歳で、かなりショックを受けたと思う。記憶が混乱するのも無理ないし、両親が目の前で殺されたことを思い出させるのは申し訳ないと思ってる。でも、あなたはそれでいいの?」

 今まで稜が避けてきた台詞を、里津は躊躇うことなく言った。

 怜南はスマートフォンの電源をつけ、文字を打つ。そのスピードは、さっき見せたものの何倍も遅かった。

『私は事件のことをよく覚えていないし、思い出したくないです。おじさんや稜君のおかげで、やっと笑えるようになってきたんです。前を向いて、歩けるようになったんです。私は、今の穏やかで幸せな毎日が好きです。私は、この幸せを守りたい。過去よりも今を選びます。だから、協力できません』

 そのメッセージを送ったのはいいが、里津の反応が怖くて顔が上げられない。

 案の定、聞こえて来たのは大きなため息だ。

「……二人に守られて、自分は前を向いて歩いているって、本気で言ってる? 冗談でしょ」

 数分前に聞いていた真剣な声とはまた違う、怒っているような声色だ。怜南はますます俯いてしまう。

 その態度が、里津は余計に気に入らなかった。

「あなたが前を向いてるんじゃなくて、あなたが向いているほうに、あの二人が合わせて歩いてくれてるだけ。それも、亀みたいなペースで。だから、あなたが前向きになれたっていうのは、ただの勘違い」

 里津の言葉は厳しく、怜南が顔を上げる様子はまったくない。

 それでも里津は、怜南の反応を気にせずに続ける。

「誰かに支えられることが悪いこととは言わない。でも、あなたは周りの優しさに甘えて、自分の過去と向き合っていない。向き合おうとしてない。それがダメだって言ってるの」

 そこまで言うと、里津はお茶を飲んで心を落ち着かせる。

「……あなたは、少しでも自分の力で立つ努力をするべきだと思う。事件を思い出す努力じゃなくて、葉宮君たちに頼らずに生きていく努力。声を出すとか、あなたが変わろうと思えば、なんでもできる」

 声を出そうとしろと言われたばかりだが、怜南はカバンの中にある、便利な文字打ち機械に手を伸ばした。

『きさきさんは傷ついたことがないから、そんなことが言えるんです。過去と向き合うことがどれだけ怖いか、わからないでしょう?』

 はっきりと言ったにもかかわらず、怜南には里津の言いたいことがまったく伝わっていなかった。

 里津は、つらい過去と向き合うこと、立ち向かっていくことがどれだけ怖いのか、勇気がいることなのか、知っている。里津にも、そういう経験があるのだ。

 だからこそ、逃げ続ける怜南が気に入らなかった。

 どうすれば怜南が変わろうとしてくれるのか、里津は考えを巡らせる。そして、自分の過去を話すことが、最も説得力があるのではないかと思った。



 里津は幼いころから、思ったことをストレートに言うような子だった。

 たとえば、物を壊してしまったけど、先生に怒られるのが怖くて黙っている子がいたら、その子の気持ちも考えずに、その子が犯人だと先生に教えたり、同級生とスーパーで偶然出会ったとき、私服が似合っていなかったら、変だときっぱりと伝えたりした。

 このようなことが、数えきれないほどあった。

 よく言えば素直な子、悪く言えば空気の読めない子だったのだ。

 そのため、周りと馴染むことができなかった。次第に里津の周りには人が集まらなくなっていった。そして子供というものはときに残酷で、気に入らない子がいると、いじめるという手段に出る。

 小学生の里津は、あっという間にいじめの標的になった。

 初めは、誰に話しかけても相手にされなかった。

「ねえ、一緒に移動しない?」
「その消しゴム、可愛いね。どこで買ったの?」

 どれも反応がなかった。明らかに聞こえているだろうに、里津の声に応えてくれる人はいなかった。無視されている里津を笑う声が、教室のあちこちから聞こえてくる。

 里津は自分が悪いことをしたと思っておらず、なぜ無視されているのかわかっていなかった。

「どうして私のことを無視するの? 仲良くしなさいって先生が言ってたの、忘れちゃったの? みんながやってることは、間違ってるよ」

 教室全体に向けて訴えると、笑い声は消え、里津を睨むような目が里津に集中する。

 いじめのリーダー的存在の子が歩き始め、里津の目の前で止まると、里津は体がこわばらせた。二人の間に流れる緊張感がほかの生徒にも伝染していき、教室内が緊張に包まれる。

「私たちの気分を下げるあんたとは、仲良くできないから。本気で私たちと仲良くしたいなら、その性格どうにかしてくれる?」

 その言い方は高圧的で、里津は睨み返すだけで精いっぱいだった。

 その子は里津を鼻で笑うと、踵を返した。そしてほかのクラスメートと教室を出ていく。その背中を見つめていた視界が、少しぼやけた。

 悔しいのか、ただつらくて泣きそうなのか、わからない。しかし泣けばさらに笑われると思い、里津は必死に涙を堪えた。

 一日中その気持ちを引きずり、下校中の里津の足取りは重かった。

「里津?」

 名前を呼ばれて振り向くと、兄の(がい)と、凱の友人の和真がいた。

「どうした、泣きそうな顔して」

 凱は里津と目線を合わせるようにしゃがむ。すると、凱の顔を見て安心したのか、里津は声を上げて泣き出した。

「おい、ここで泣くなよ」

 凱は里津の手を引いて帰ろうとするが、里津は抵抗した。親に泣いているところを見られたくなかったのだ。

「……和真、ちょっとお前の家に行ってもいい?」
「……まあ、緊急事態みたいだし、仕方ない。いいよ」

 そして三人は和真の家に向かった。

「で? 何があったんだよ」

 里津が落ち着いたタイミングを見て、尋ねる。

「……みんなに、無視された。私と、仲良くしたくないって……私の性格を直さないと、話したくないって……」

 里津はまた涙目になる。

「お前、そんな奴らと仲良くしたいのか」

 凱の言っている意味がわからず、首を傾げる。

「木崎里津を否定する奴らと友達になりたいのかって聞いてんの。俺だったら、俺をやめろって言う奴なんて、こっちから願い下げだね」
「凱は我が道を行きすぎだと思うけど」

 そばで話を聞いていた和真が、口を挟む。

「むしろいいことだろ。周りに合わせて、自分を殺して生きていくなんて、生きづらくて嫌だね」
「そういうことを言うから、友達が僕しかいないってわからない? ていうか、幼馴染じゃなかったら、僕だって仲良くならなかっただろうね」
「おいおい、いつまでそんなこと言うつもりだ?」
「凱が俺様をやめてくれるまで、かな」

 二人は里津を置いて言い合いを始めた。

 大人しく聞いていたが、里津は少し思うところがあった。

「凱君、どうして和真といるの? 和真、今、やめろって言ったよ?」
「和真は俺の悪いところを指摘してくれてるだけであって、俺そのものを否定してるわけじゃないから、いいんだよ」
「悪いところってわかってるなら、本当、直してくれないかな」

 和真が呆れた表情で言うと、凱は舌を出して言うことを聞きそうには見えない。

「じゃあ……和真は、凱君のこと、嫌いなの?」

 性格を直せと言うことは、相手のことを嫌っているということだと、身をもって知ったことだった。

 しかし和真は里津の質問に戸惑いを見せる。

「……君には、まだ難しいと思う」

 誤魔化して答えると、凱が声を殺して笑い出した。

「お前、里津相手でもそんななのかよ」

 和真は女子が苦手だった。というより、どう接していいのかわからなかった。

 自分でも気にしていることを笑われたことが気に入らず、和真は凱を部屋から追い出した。里津も帰らそうとするが、怯えた目で見られ、できなかった。

「……君のことは、凱から少し聞いてる。君、正直者なんだってね。それゆえに、言いすぎるところがある」

 話が見えず、里津は不思議そうにする。

「正直でいることは、いいことだ。嘘をつくよりも、何倍もいい。でも、人の気持ちを考えずに話すのは、悪いことなんだ。言葉で、人の心を傷付けているかもしれない。目に見えない凶器。僕は、それが一番怖いと思う」

 里津はまだ理解できていない。そんな里津を見て、和真は微笑んだ。

「人と話す前に、少しだけ考えてみるといい。これは相手を傷付けないだろうかって。それだけで、君の世界は変わるんじゃないかな」

 そして里津はわかっていないのに、頷いた。

 それ以来、和真に言われたことを意識してみたが、やはり里津には難しかった。考えすぎて、人を前にして言葉が出てこなくなっていた。

 その結果、里津は一人になってしまった。

 中学に進学しても、相変わらず人との話し方がわからないでいた里津は、自分の席で本を読んでいた。

「ねえねえ。私、河西雪。よろしくね」

 すると、前の席の子が振り向いて名乗った。その女子は別の小学校だったのか、知らない顔だった。

「……木崎里津、です」

 少し緊張気味に自己紹介を返す。雪はそんな里津を笑った。

 里津はバカにされているような気がした。

「……今、笑うところあった?」

 里津の言葉は鋭かった。

「だって、木崎さんの顔に、緊張してますって書いてあるんだもん」

 雪は里津のことなど気にせず、笑い続ける。新しい反応に、里津は困惑した。

 環境や人が変われば、状況も変わってくるらしい。

 里津は少しずつ彼女に心を開いていき、そのうち雪と一緒にいることが当たり前になった。


 そして中学一年生の冬、里津はいつものように雪と話していた。

「雪、あの人のことが好きなの?」
「う、うん……」

 雪は頬を赤らめた。

 そして次の瞬間。

「でもあの人、そんなにかっこよくないよ。どこがいいの? 雪にはもっといい人がいるんだし、やめたほうがいいよ」

 本当に雪といる時間が楽しくて、里津は無意識のうちに悪い癖が出てしまったのだ。

 雪は涙目で里津の頬を平手打ちすると、教室を飛び出した。

 里津は何が起こったのかわからなかった。

「今のは木崎さんが悪いよね」
「河西さんかわいそう……」

 近くの席で、偶然里津たちの会話を聞いていた女子が小声で話す。

 里津は混乱していた。

 どうして自分が悪いと言われているのか、責めるような目で見られているのかわからなかった。

 だが、大切な友人を傷つけてしまったのだということだけはわかる。自分の発した言葉のせいで、雪は傷ついた。

 昔、和真に言われた言葉を思い出す。

『人の気持ちを考えずに話すのは、悪いことなんだ。言葉で、人の心を傷付けているかもしれない』

 里津は人を傷つけて初めて、目に見えない凶器がどういうものなのかを理解した。

「雪に謝らないと……」

 そして雪を探しに教室を出たが、休み時間が終わるまで見つけることができなかった。予鈴を聞いて思い教室に戻ると、雪は席に着いていた。ずっとすれ違っていたらしい。

 授業が終わって、真っ先に雪のところに行った。

「雪、さっきは」
「ねえ、今の数学の授業なんだけど、この問題がわからなくて」

 謝ろうとすると、雪はあからさまに里津を無視した。里津に背を向け、後ろの席の子とわからない問題について話している。

 里津はこういう反応を知っている。

 だが、小学生のときと決定的に違うのは、相手が里津の友人であるということだ。仲がいい人に無視されてしまうと、想像以上にショックだった。

「あの、河西さん、木崎さんが」

 雪に話しかけられた子が、里津を見る。

「人の気持ちも考えられない人のことなんて、知らない」

 雪は里津にも聞こえるようにはっきりと言った。

「……ごめん」

 本当は目を見て謝罪したかったが、それは叶わないようだったので、里津はそうこぼしてその場を離れた。

 自分の席に戻って、雪の反応を思い返す。いつも見せてくれていた笑顔とは、正反対の表情だった。こうなってしまったのは、自業自得だ。

 小学生のときに、少しでも和真の言葉を理解しようとしていれば、こうならなかったのかもしれない。

 しかし今さら後悔しても遅い。

 今から変わっていけばいいとも思ったが、変わったところで雪を傷つけた事実は変わらない。

 悩んだ結果、里津がたどり着いたのは、もう誰とも話さないということだった。

 言葉遣いに気を付け、意識をしたとしても、気が緩んでしまえばまた今回のようなことになってしまう。それならば、初めから誰とも仲良くならなければいい。

 そして、誰とも話さない日常が戻ってきた。