朝食はこの店のモーニングと決めているし、職場がここから近いこともあってランチや夕食をとりに来たりもする。
もはや、彼女の肉体はこの店の料理で出来ていると言っても過言ではない。
カウンターに座るなり、暁は出した水を一気に飲み干した。
プハーとか言いながら空になったコップをテーブルに置いて、大きくため息をつく。
「あー、暑い。やだやだ。夏の昼間なんて、ろくなことがない」
「夏は夜ですか?」
「そ、時代は変われど、夏は夜に限るね」
いわずもがな、その発言は枕草子に出てくる、『春はあけぼの』に続く『夏は夜』からきている。
実は彼女、清少納言なのである。
冗談みたいな、本当の話だ。
暁との出会いは大学に入学し手間もない頃だった。
『あたし、清水暁。よろしくね』
隣に座った彼女が声をかけてきた。
『藤原さんってテイシいう名前なんだね』
『サダコだよ。定子と書いてサダコ』
『ふぅん』
とてもわかりやすい性格の彼女は、納得できない嫌な事があればストレートに怒り、楽しければ心から笑う。
好きも嫌いも明快だ。
ともすると場の空気を先読みして、思っていることを口にできない私には、そんな暁が羨ましくもありとても新鮮だった。
感情豊かで、私が笑うとすごく喜び、私がほんの少しでも元気がないと心配そうにくっついてまわる。
思いやりに溢れる優しい暁。
私たちは、たちまちのうちに親友になった。
あれは初めて彼女の自宅に遊びに行った時のことだ。
彼女の父親は歴史学者、母親は考古学者だと聞いていたので、一体どんな家なのかと私は興味津々で出掛けた。
予想通り屋敷は純日本家屋。
紹介されたのは暁の両親だけではなくて、それまで聞いたことはない暁によく似た女の子がいた。
『彼女が本当の清水暁さんだよ』と暁は言った。
『暁さんは家にいることが好きなんだって』
『こんにちは。本物の清水暁です』とその女の子は笑う。
本物の清水暁さんの部屋は二次元のキャラクターグッズに溢れていて、紹介されたその時も、直前までパソコンに向かっていたらしい。聞けば乙女ゲームのキャラクターデザイナーだという。
『忙しくて大学に行けない時に、代わりにあたしが行かせてもらっていたの』
ということは、私の親友である暁は誰なのか。
意味がわからなくて混乱したまま、見てほしい物があると言われて次に通されたのは和室。
そこには、衣桁に掛けられた着物があった。
その着物は何層にも重っていて、華やかな柄の外側の着物とは違い、内側の衣はそれぞれが一色でグラデーションのように濃淡がついている。
『十二単?』
でも、博物館で見たことがあるレプリカとは何かが違う。
色は鮮やかだがクリアな色ではない。赤というよりは橙色のように見えるし、布地の光沢や質感もなんとなく自分が知る着物とは違う。
これはもしかして、平安時代の着物なのだろうか。
考古学者の家だ。保存状態のいい歴史的価値ある物があっても不思議じゃないと自分に言い聞かせたが、言い知れぬ疑問が胸の奥から湧きおこった。
――何かが変だ。
どういうことなのだろうと不安になった時、
『この着物は私が着ていたものなんだ』
暁はそう言って、振り返った私に向かってニッと笑って言ったのである。
『実はあたしね、平安時代から来たの』
『え?』
『清少納言って知ってるでしょ? それがあたし。陰陽師に頼んでこの世界に来たんだよ』
いまカウンターに両肘をつき、手のひらに顎を乗せてボーっとしているこの暁が、実は清少納言であると言っても誰が信じるだろう。
私以外にいないと思う。
もちろん私もその事実を受け入れるまでに時間がかかった。
でもいまは信じている。
彼女の養父母が見せてくれた千年昔から伝わる鏡。
明らかに昔の物なのになぜか新しい十二単。この時代にやってきて切り落としたという暁の長い、長い髪。
そして、本物の清水暁。
私の親友、もうひとりの清水暁は正真正銘の清少納言なのだ。
「暁、トーストでいいの? たまにはおにぎりにでもする? 卵かけごはんとかさ。毎日同じじゃ飽きるでしょう?」
『深雪』のモーニングは厚めのトーストに卵料理と決まっている。それ以外は季節のサラダとコーヒー、もしくは紅茶という代わり映えのないメニューなのだ。
正直自分でも飽きるので、時には生卵納豆をかけご飯を食べている。
「飽きない。ここのパンは絶品だし、どれも美味しい」
「それはどーも」
暁は洋食を好んで食べる。
向こうの世界では食べられないからだと言う。
平安の世での食事はシンプルで、最初から味がついたりはしていなかったらしい。茹でたり焼いたり蒸したりした物に、自分で醤油のような調味料をつけて食べていたという。主食はご飯で、もちろんパンはない。
この世界に来て知ったパンの柔らかさには衝撃を受けたらしい。ふわふわでほんのりと甘く、それでいて塩気もある食パン。
暁に言わせれば、魔法のような食べ物らしい。
チンとトースターが音をたてた。
薄っすらと色付いたパンの仕上げに発酵バターを落とし、サラダの入った小鉢と一緒にワンプレートに盛りつける。本日の卵はほうれん草とベーコン入りのココットだ。
更に暁が持ってきてくれたブドウの他に林檎をウサギの形にして添えた。赤い耳の部分はペティナイフでギザギザの切り込みを入れた飾り切りである。
「はい。おまたせ」
「わーい。林檎のうさぎだ。テイちゃん、ほんと器用だよねー」
暁は私を"テイちゃん"と呼ぶ。
本当は"テイシさま"と呼びたいらしいが、"さま"とか絶対やめてと頼んだら、テイちゃんになった。
テイシさまというのは、平安時代に実在した貴族のお姫さまのことだ。
藤原道長が権力者の頂点に立つ時代に生きた女性で、一条帝の皇后でになられた方である。
私と同じ定子という字を書く。私の名前はサダコだが、暁にはテイシという呼び方のほうが、馴染みがあるのだろう。
暁の話では、一条帝とテイシさまとは幼き頃に結婚して仲睦まじく、誰もが羨むほどに相思相愛の仲だったらしい。
だが、そこに登場してきたのが有名な藤原道長だ。
テイシさまにとっても叔父である道長は、自分の娘を中宮にするために姪のテイシさまを追いつめた。
なんとか彼女を助けたいと願う一条帝の力及ばず、失意の中亡くなったテイシさま。
切なくも、悲しい話である。
ここまでの話は歴史の教科書には出てこないが、繰り返し繰り返し暁がその話をするので覚えてしまった。
清少納言は、そのテイシさまに仕えたのだ。
『枕草子はね、テイシさまへ捧げた物語なの。
テイシさまがどれほど宮中で輝いていたか。失意の中にあっても、明るく笑ってみんなを気遣ってくださったテイシさま。あのお方がどんなに素敵な方だったか。
あの草子は、輝いていたテイシさまの時代を後世に残すために書いたの』
暁はそう言う。
一条帝とテイシさまの話をする時、暁は決まって泣いてしまうのだ。
涙ながらに語る彼女の影響で、私もいまではまるで自分が体験したことのような気がして、悲しくなってくるのである。
「はいコーヒー。モーニングはご馳走するね。ブドウ頂いたお礼」
「ありがとー」
今日の暁は、就職活動の学生のような紺色のスーツを着ている。
清少納言がスーツを着てこれから出勤するというのだから、ちょっと笑ってしまう。
暁が働いているのは小さな出版社だが、歴史関係に特化しているところらしい。
『陰陽師の晴明殿とか違うんだけど、証拠がないからしょーがない』などと文句をいいながら、暁は嬉々として働いている。
働くと聞いた時は正直驚いた。
親代わりの清水の人々がその出版社を紹介してくれたというが、まさか本当に、就職までするとは。
彼女の行動力には驚かされるが、考えてみれば自ら陰陽師に頼み込んでタイムリープしてきたのだ。
就職する不安を気にするくらいなら、ここにはいないだろう。
「暁、今日は何時出勤なの?」
「9時半だよぉ」
ということはまだおしゃべりする余裕がある。
「暁さ、どうして私がテイシさまの生まれ変わりかもなんて思ったの?」
「え、なに? いよいよ自覚してきた?」
「まさか。ただなんとなく」
暁はレタスをムシャムシャと頬張って落ち着くと、ギロリと私を睨んだ。
「その1。あたしは陰陽師さまに、またテイシさまに会いたいって頼んだから」
「でも、会えるかどうかはわからないって言われたんでしょう?」
暁はそれには答えず、話を続ける。
「その2。お顔と境遇が似ている。テイちゃんの家はもともと名家である」
「まぁ、昔はね」
我が家は、曽祖父の時代までそれなりの名家だったらしい。
「テイちゃんのお爺様は、弟さんとの戦いに敗れた」
「うん。まぁそうみたいだけど」
曽祖父が建てた大きな邸は、小説家や画家などが集まるサロンとして有名だったらしいが、そのあとを継いだ祖父の代には暁が言ったとおり一族間の争いで邸を手放したという。
「テイシさまのお父さまも病に倒れて、弟の道長さまに地位を強奪されたんだから。そんなところまでそっくりなわけよ」
私の父は事業を立て直そうと苦労の末、過労で若くして亡くなってしまった。それは私が高校二年生の時だ。
暁の言うように少しは似ているかもしれないが、でも同じような境遇の人は他にもいるだろう。
「で? それだけ?」
「その3。ここ重要、性格が似ている」
「ええ?」
「テイちゃんってさ、本当に優しいし、自分がどんなに辛い時でもいつも周りを思いやっている。他にも色々、テイシさまによく似ている。以上。異論は受け付けない」
「もぉ」
「納得した?」
私が左右に首を振ると、暁は溜め息をつきながらトーストにかぶりついた。
「私、そんなに思いやりなんてないもん」
暁は、思い込みから買いかぶり過ぎているのだ。
「わかってないなぁ。この店はいつも常連さんでいっぱいでしょう? それはテイちゃんの人柄なの」
違うよ、暁。
常連さん達はみんな、私を子供の頃から知っているから、私を心配してくれているからなんだよ。
私が人を集めているわけじゃない。私は周り優しい人達に助けられているだけだ。
暁が愛してやまないテイシさまは、そうではないだろう。テイシさま照らす側の人。自身の温かい光で暁を包み込んだように。
テイシさまは兄の失態によって宮中を追われ、ボロ屋に行くことになった時も、みんなを励まして笑っていたという。
私ならきっと泣いて過ごしたに違いない。
そんなことを思う私をチラリと見た暁は、あきれたように大きく息を吐いた。
「わかってないなぁ。やれやれ」と呟きながら。
3.