六十九話 静馬対乙霧


「いやいや、まさか煎十郎と乙霧殿を残して全滅とは……。八犬士、敵ながら見事」


 突如として現れた静馬に、生野は苦痛に顔を歪めつつも、大きく跳び退き、崖を背にして刀を構える。生野は気づいている。いま眼の前に現れたこの男は、いまは納刀している状態にも関わらず、先程の壮年の男よりはるかに手強い相手であると。


「……逆鉾殿は静馬殿がお斬りになったのではありませぬか」


 立ちあがりながら、乙霧が言う。静馬に話しかけながらも、乙霧の眼は自分と同じく立ちあがった煎十郎の姿を捉えていた。最悪の事態は免れたことを確認し、乙霧は胸を撫で下ろす。


「老害を残していても、風魔の為にはならんからな」


 逆鉾の死体を一瞥することもなく冷たく言うと、静馬は生野を中心に円を描くように右回りで崖に向かって歩きだす。乙霧がいるのとは逆方向だ。生野は刀を構えたまま、静馬の動きに合わせて身体の向きを変える。
 静馬が崖を右手に生野と向いあったところで立ち止まった


「大陸には背水の陣と呼ばれる策があるそうな。己の退路を自ら断ち、実力以上のものを発揮する……残念な精神論じゃとは思うが、もしもを考えねばな」


 静馬の言葉に、生野は胸の内で無駄だと叫んでいた。わざわざそんなことをせずとも、八犬士は最初から追い込まれた状態でこの戦に臨んでいる。いまさら小細工などない。
 そんな生野の胸中など知らず、静馬は立ち上がったばかりの煎十郎に声を飛ばす。


「煎十郎、動けるな。箱を置いてこちらに来い、そこらに落ちてる刀を拾ってな」

「え?」


 戸惑う煎十郎の身体を、静馬の叱責が打つ。


「ぐずぐずするな! こやつは八犬士の筆頭。お前がこやつの首を取り、一番手柄をあげれば、お前達の意見も多少なりとも聞き入れられるやもしれん!」


 静馬の言葉が、自分と時雨を思いやってのものであることはわかったが、静馬が自分に討ち取らせようとしているのは……。


「早く!」


 再度の叱責で、煎十郎は弾かれたように動きだす。背負っていた箱を置き、近くに落ちていた忍刀を拾い上げ、静馬に駆け寄る。
 静馬は生野から眼を逸らさず、気配で煎十郎が隣に来たことを悟ると、煎十郎に問う。


「それで、結局どうであったのだ? この者はお前の知る者か?」


 静馬には詳しい事情を説明していなかったが、どうやら察してはいたらしい。


「……はい。拙者の……友……です」


 煎十郎が生野を見つめながら、苦しげに言葉を吐き出す。


「……そうか。また、ややこしい関係じゃが、万に一つが、千に一つくらいにはなるかのう」


 そう呟いたかと思うと、静馬は煎十郎の服の袖を引き、自身の前に立たせる。煎十郎はその拍子にせっかく拾った忍刀を取り落す。何をするのかと問い質す前に、静馬が耳元で囁く。


「時雨はお前と地獄で夫婦になることを望むそうじゃ。すぐに追ってやれ」


 煎十郎が言葉の意味を理解するより早く、静馬は煎十郎を右斜め前方へと強く突き押した。


「うわっ!」


 細見ながらも鍛え上げられた静馬と、見た目通り華奢な煎十郎。
 煎十郎は抵抗することもできず、よろめきながら前に進み、そして……崖へと足を踏み外した。


「煎十郎様!」


 声を上げたのは乙霧。動いたのは生野。
 煎十郎の手が崖から消えて行きそうなる直前、刀を投げ捨てた生野の手は、辛うじて友の手を掴み取る。
 満身創痍で、すでに体力の限界も越えていた。落下する煎十郎に引きずられ、地べたに這いずった生野の身体も、崖下へと持っていかれそうになる。それでも生野は、煎十郎の手を掴んだ手の力を弱めたりはしなかった。足を拡げ指を地面に突き立て、必死に耐える。


「生野、手を放せ! お前まで落ちる!」


 すでに生野は返すための声を失っている。その生野が微かに笑う。俺に任せろ。その顔は二人が出会った時、煎十郎が生野に初めて助けられた時に見たその時の顔だった。


「なにをなされるおつもりですか! いまその八犬士に手をだせば、煎十郎様が崖下に落ちてしまいます!」


 ゆったりとした足取りで、這いつくばった生野に近付いていた静馬を、乙霧が咎める。
 静馬は足をとめ、乙霧に向き直った。


「うむ。戦に犠牲はつきものでござるな」

「な、なにを言われるのですか! 煎十郎様は私の婿として一夜に行くのです! 小太郎様との約定、風魔衆の貴方様が反故(ほご)にされる気か!」

「反故?」


 静馬は心底不思議そうな顔をする。


「おかしなことを言われる。貴殿が風魔衆から婿を連れて行くのは、この戦に勝利したあかつきでござろう? この男を殺さねば決着が尽きませぬ。そして、煎十郎は風魔。戦にて命を落すこともありましょう。貴殿はこの戦が終わった後、ゆるりと婿を選ばれるがよい。生者から選ぶも死者から選ぶも貴殿の自由だ。もっとも、貴殿の身体が死者に対して疼くとは思えんが……」


 またもや薄く笑う静馬に、乙霧は絶句する。乙霧の静馬への評価は、頭も切れるし、腕も立つが、身内に甘い。だが、いまの静馬は違う。平然と味方の首を斬り飛ばし、弟のように可愛がってきた男を犠牲に勝利を得ようとしている。なんなのだ。この変わりようは……。
 乙霧は焦る。免れたと思っていた最悪の事態が、また目前に現れた。このままでは生野が殺され、煎十郎が崖下に落ちる。時間もない。本来であれば時間稼ぎと情報収集を兼ねて、静馬にいろいろと聞きたいところだが、生野の体力がもたないだろう。今回の機会を逃せば、乙霧は二度と運命を感じさせる相手には出会えない。乙霧は自由に里を出ることができない身なのだから。
 乙霧はすでに事切れている女の風魔衆から忍刀を奪い取り、静馬に切っ先を向けた。
 静馬の笑いが深くなる。


「面白い。まさか一夜の方から風魔に敵対する道を選ばれるとはな」


 乙霧は答えない。これは賢い選択ではないのかもしれないが、彼女には彼女が産むであろう美しい子供の姿しか見えていない。


「貴殿の体質ならば拙者から正気を奪い、その隙に命を絶つことができるやもしれん。ただ……」


 静馬が腰を落し、刀の柄に手をかける。


「拙者の技よりも早く、正気を奪えるかな?」


 そう言って、柄に手をかけたまま、乙霧ににじり寄る。
 このまま近づかれるのを待っていては駄目だ。乙霧は一か八か静馬目がけて駆ける。
 静馬の技の間合いに入る直前、乙霧は忍刀を構えていた両腕を背中にまわし、まるで切ってくれんと言わんばかりに無防備な胸を突きだす。
 静馬は遠慮することなく刀を鞘から抜き放つと、乙霧の腰から右肩に駆けて刃を走らせる。
 乙霧の着物が斜めに裂けた。そこから噴き出たのは、赤き血……ではない。茶色味がかった脂。乙霧が燃え尽きる前にお信磨の身体より採取した『呪言』の脂。着物の内側にしこんであったそれが、着物の厚みと共に、静馬の必殺の斬撃を鈍らせ、乙霧の身体に衝撃を与えるだけに留めさせた。乙霧の顔が歪むが足は鈍らず、構え直した忍刀が静馬に刺さる。
 静馬は自分の懐に飛び込んだ乙霧を見下ろす。振り上げた刀を乙霧には振り下ろさず、地面に突き立てると柄から手を放し、まるで刀がより深く刺さるようにするかの如く、乙霧を抱き寄せた。


「なるほど。これは甘美な香りだ。一夜の男共が理性を手放したのも無理からぬことよな」


 静馬は鼻から胸いっぱいに乙霧の匂いを吸い込むと、乙霧を突き離した。倒れこんだ乙霧が驚きのあまり静馬を見やる。傷の痛みもあるのかもしれないが、一夜幻之丞さえ理性を手放した乙霧の匂いに耐えてみせたのか? なんと恐るべき胆力か……。
 自分を凝視する乙霧に、静馬は懐から取り出した物を投げる。


「時雨の遺髪だ。貴殿が煎十郎を連れて行くのはもはや拙者には阻めぬ。せめて煎十郎が死を迎えた時は、時雨に返してやってもらいたい」

「……お約束いたしましょう。ですがなぜ……」


 こんな真似をしたのかを聞こうとして、乙霧はやめた。静馬の腕であれば、胸ではなく乙霧の首を跳ね飛ばすこともできたであろうに、なぜそうしなかったかの疑問は残る。だが風魔を知らぬ自分では、静馬を知らぬ自分では、例え理由を聞いても理解できそうにない。


「やっと……俺も自由になれるか」


 静馬はその場に力なく座り込み、そのまま眠るように眼を閉じた。


「もういい! もういいってば、生野!」


 煎十郎の泣き叫ぶような訴えに我を取り戻した乙霧は、立ち上がると袖から笛を取り出し、口に当てる。笛は鶯の鳴き声のような音を辺りに響かせた。
 乙霧は笛を袖にしまい、静馬が地面に突き立てた刀を抜き取ると、懸命に耐え続ける生野の背に向けて妖しく微笑んだ。