六十五話 潰えぬ野望
「そうか。では八犬士を背負った犬は、小田原を逃げだし、玉縄城へと向かったのだな」
「はい。ただでさえ目立つ犬なので、それは間違いございませぬが、捕えようにもすばしっこい奴で……」
小田原から滝山城方面へと続く街道で、四人の風魔衆ともしもの時の為の網を張っていた逆鉾は、小田原から八犬士の生存と逃亡の報せを持ってきた風魔衆の報告に、もったいぶって頷いて見せる。
「よいよい。聞けばその犬も手負い。捕まえることができずとも、疲れさせればそれでよい。
よし、誰かひとり頭領のもとへ走り、このことを伝えよ。犬はそのまま海にでるか、小机方面へ走り抜ける可能性が高いとな」
言われた風魔衆は首をかしげる。
「よろしいのですか。頭領が八犬士を捕えるような事があれば……」
すでに逆鉾が、今回の戦いの責を小太郎に問うことは、乱波衆のほぼ全員に伝わっている。少なくともいまのところそのことに反対する者は出ていない。逆鉾が想像していたより、いまの小太郎の方針は、若い風魔衆、特に命懸けで務めを果たしている乱波衆の間では、かなりの不満となって蓄積していたのである。
「問題はない。主人を背負って逃げるほどの知恵と忠義を持つ犬ぞ。奴を犬と思うな。お主らが思っておるよりもはるかに賢い。いかに走りやすくとも見通しの良い土地を走り続けたりはせん。さすがに人ひとり背負って、手負いの犬が海は渡れまい。仮に安房へと続く街道を走り続けたならば、引きあげてくる氏政様の軍勢と鉢合わせ。あそこには般若がおる。奴も八犬士との争いは知っておるからな。そんな珍妙な犬を見逃す男でもない。ようは頭領が八犬士に到達せねば良いのだ」
「なるほど。それでは拙者が頭領のもとに走りその旨お伝えします」
「我々はこのまま滝山城を目指すということでよろしいのですか?」
逆鉾の後ろに控えていた者が問う。
「うむ。ただ目的はその前に広がる深き森よ。犬の怪我の具合にもよろうが、八犬士の身体は『呪言』とやらのせいで、すでにぼろぼろ。犬の背で揺られながらでは、安房まではちと厳しいようじゃ。どこかで体力を回復させる必要がある。それに都合が良いのが玉川にほど近い森じゃ。
いまは幸いにも道が柔らかくなっておる。足跡じゃ。奴の足跡は並の犬よりはるかに大きい。街道からそれて森へと入る犬の足跡を見逃すな!」
さも自身が考えついたかのように逆鉾は語ったが、全ては静馬が逆鉾に語って聞かせたことである。もちろん時間がそれほどあった訳ではないので、静馬はかなりかいつまんで自身の考えを聞かせたわけだが、かつてはいまの小太郎と頭領の座を争った男。それなりの察しの良さは持っている。
小太郎への伝令が走ると、逆鉾達も街道の周辺での探索を強化すべく行動を開始した。
―――――――――――
あと一刻もすれば、夜が明けるだろう時刻になって、伝令の風魔衆により、犬が走る方向を玉縄城のある東から、滝山城のある北西へと変えたことを知る。
足跡を注視させる探索が功を奏し、逆鉾達は玉川の上流域にほど近い森に面した街道で、森へと続く白犬のものと思われる大きな足跡を見つけていた。
「目撃証言とも一致します。白犬はここから森に入ったと思われます」
途中合流した女の乱波衆三人のうちの一人が、雨に負けじと燃え盛る松明の炎を、地面についた犬の足跡から、足跡の続く木々が鬱蒼と生い茂る森へと向ける。
ここに女の乱波衆をわざわざ里から呼び寄せて合流させたのは、もちろん静馬からの進言である。
小太郎に手柄を立てさせようとする一夜の女への対策ということであったが、逆鉾にはいまいち意味がわからない。ただ、ここまで静馬の予測通りに事が運んでいる。知恵の働く男だとはわかってはいるから、あえて逆らう必要もないと逆鉾は割り切っている。
「よし! わしらもこれより森に入る。各々火を持て。草の根を掻き分け、奴の痕跡を見逃すな」
「火をつけたままでは、我らの動きに気づかれるのでは?」
「構わん。相手は犬。我らより鼻も耳も利くのだ。隠すだけ無駄だ。それよりも奴は手負いだ。追われていることを常に意識させ追いつめよ。その方が早く限界をむかえよう。
それから、お前はそこの木に登り街道を見張れ。あと半刻もすれば、静馬達が馬に乗ってここに来る筈。奴らの姿が見えたら、目印を置いておくゆえ、それを回収しながらすぐに報せに来い」
逆鉾がそう言いきると、見張りの一人を除いて全員が手に松明を持ち、藪を切り払いながら、犬の足跡を追う。
空が明るみを帯び、松明の効果が意味を失くし始めるころまで続いた犬の捜索は、深い森を抜けた場所で終わりを迎えることとなった。
そこは崖。崖下に玉川の流れが見える。犬の足跡は、その崖の端まで続いていたのである。
「どうやら、逃げることに必死になるあまり、川に落ちたようですな」
崖の下を見下ろす風魔衆の言葉に逆鉾は答えず、しゃがみこんで犬の足跡に松明を近づる。はっきり言ってなにもわからない。とりあえず三人を川下に走らせ、残りの者達には周辺の探索を命じる。
逆鉾は自身も探索をしながら、静馬到着の報が届くのをいまかいまかと待っていた。逆鉾個人としては川に転落したというのを信じても良かったが、静馬は自信ありげに、犬と八犬士は森に潜むと言っていたのだ、そしてそれを見つけてのけるのは、あの乙霧と言う一夜の女だと。
四半時も捜索を続けた頃、遂に見張りとして残してきた風魔衆が、待ち人来るの報せをもたらした。
「いかがいたしますか。こちらに案内いたしましょうか」
「いや、その必要はない。案内しなくともこちらの後を追ってのけるそうだからな。皆、捜索を打ち切れ。川下に行った者達にもも伝えよ。こちらに戻り息を潜めよとな」
そう言って、逆鉾はほくそ笑んだ。彼の眼にはすでに、風魔の新しき頭領となって号令をかける自分の姿が見えていた。
「そうか。では八犬士を背負った犬は、小田原を逃げだし、玉縄城へと向かったのだな」
「はい。ただでさえ目立つ犬なので、それは間違いございませぬが、捕えようにもすばしっこい奴で……」
小田原から滝山城方面へと続く街道で、四人の風魔衆ともしもの時の為の網を張っていた逆鉾は、小田原から八犬士の生存と逃亡の報せを持ってきた風魔衆の報告に、もったいぶって頷いて見せる。
「よいよい。聞けばその犬も手負い。捕まえることができずとも、疲れさせればそれでよい。
よし、誰かひとり頭領のもとへ走り、このことを伝えよ。犬はそのまま海にでるか、小机方面へ走り抜ける可能性が高いとな」
言われた風魔衆は首をかしげる。
「よろしいのですか。頭領が八犬士を捕えるような事があれば……」
すでに逆鉾が、今回の戦いの責を小太郎に問うことは、乱波衆のほぼ全員に伝わっている。少なくともいまのところそのことに反対する者は出ていない。逆鉾が想像していたより、いまの小太郎の方針は、若い風魔衆、特に命懸けで務めを果たしている乱波衆の間では、かなりの不満となって蓄積していたのである。
「問題はない。主人を背負って逃げるほどの知恵と忠義を持つ犬ぞ。奴を犬と思うな。お主らが思っておるよりもはるかに賢い。いかに走りやすくとも見通しの良い土地を走り続けたりはせん。さすがに人ひとり背負って、手負いの犬が海は渡れまい。仮に安房へと続く街道を走り続けたならば、引きあげてくる氏政様の軍勢と鉢合わせ。あそこには般若がおる。奴も八犬士との争いは知っておるからな。そんな珍妙な犬を見逃す男でもない。ようは頭領が八犬士に到達せねば良いのだ」
「なるほど。それでは拙者が頭領のもとに走りその旨お伝えします」
「我々はこのまま滝山城を目指すということでよろしいのですか?」
逆鉾の後ろに控えていた者が問う。
「うむ。ただ目的はその前に広がる深き森よ。犬の怪我の具合にもよろうが、八犬士の身体は『呪言』とやらのせいで、すでにぼろぼろ。犬の背で揺られながらでは、安房まではちと厳しいようじゃ。どこかで体力を回復させる必要がある。それに都合が良いのが玉川にほど近い森じゃ。
いまは幸いにも道が柔らかくなっておる。足跡じゃ。奴の足跡は並の犬よりはるかに大きい。街道からそれて森へと入る犬の足跡を見逃すな!」
さも自身が考えついたかのように逆鉾は語ったが、全ては静馬が逆鉾に語って聞かせたことである。もちろん時間がそれほどあった訳ではないので、静馬はかなりかいつまんで自身の考えを聞かせたわけだが、かつてはいまの小太郎と頭領の座を争った男。それなりの察しの良さは持っている。
小太郎への伝令が走ると、逆鉾達も街道の周辺での探索を強化すべく行動を開始した。
―――――――――――
あと一刻もすれば、夜が明けるだろう時刻になって、伝令の風魔衆により、犬が走る方向を玉縄城のある東から、滝山城のある北西へと変えたことを知る。
足跡を注視させる探索が功を奏し、逆鉾達は玉川の上流域にほど近い森に面した街道で、森へと続く白犬のものと思われる大きな足跡を見つけていた。
「目撃証言とも一致します。白犬はここから森に入ったと思われます」
途中合流した女の乱波衆三人のうちの一人が、雨に負けじと燃え盛る松明の炎を、地面についた犬の足跡から、足跡の続く木々が鬱蒼と生い茂る森へと向ける。
ここに女の乱波衆をわざわざ里から呼び寄せて合流させたのは、もちろん静馬からの進言である。
小太郎に手柄を立てさせようとする一夜の女への対策ということであったが、逆鉾にはいまいち意味がわからない。ただ、ここまで静馬の予測通りに事が運んでいる。知恵の働く男だとはわかってはいるから、あえて逆らう必要もないと逆鉾は割り切っている。
「よし! わしらもこれより森に入る。各々火を持て。草の根を掻き分け、奴の痕跡を見逃すな」
「火をつけたままでは、我らの動きに気づかれるのでは?」
「構わん。相手は犬。我らより鼻も耳も利くのだ。隠すだけ無駄だ。それよりも奴は手負いだ。追われていることを常に意識させ追いつめよ。その方が早く限界をむかえよう。
それから、お前はそこの木に登り街道を見張れ。あと半刻もすれば、静馬達が馬に乗ってここに来る筈。奴らの姿が見えたら、目印を置いておくゆえ、それを回収しながらすぐに報せに来い」
逆鉾がそう言いきると、見張りの一人を除いて全員が手に松明を持ち、藪を切り払いながら、犬の足跡を追う。
空が明るみを帯び、松明の効果が意味を失くし始めるころまで続いた犬の捜索は、深い森を抜けた場所で終わりを迎えることとなった。
そこは崖。崖下に玉川の流れが見える。犬の足跡は、その崖の端まで続いていたのである。
「どうやら、逃げることに必死になるあまり、川に落ちたようですな」
崖の下を見下ろす風魔衆の言葉に逆鉾は答えず、しゃがみこんで犬の足跡に松明を近づる。はっきり言ってなにもわからない。とりあえず三人を川下に走らせ、残りの者達には周辺の探索を命じる。
逆鉾は自身も探索をしながら、静馬到着の報が届くのをいまかいまかと待っていた。逆鉾個人としては川に転落したというのを信じても良かったが、静馬は自信ありげに、犬と八犬士は森に潜むと言っていたのだ、そしてそれを見つけてのけるのは、あの乙霧と言う一夜の女だと。
四半時も捜索を続けた頃、遂に見張りとして残してきた風魔衆が、待ち人来るの報せをもたらした。
「いかがいたしますか。こちらに案内いたしましょうか」
「いや、その必要はない。案内しなくともこちらの後を追ってのけるそうだからな。皆、捜索を打ち切れ。川下に行った者達にもも伝えよ。こちらに戻り息を潜めよとな」
そう言って、逆鉾はほくそ笑んだ。彼の眼にはすでに、風魔の新しき頭領となって号令をかける自分の姿が見えていた。