四十九話 小田原城潜入


 お礼はこれまでにないほど神経を使って歩いていた。これまでも、相手の視界に映らないからといって、おざなりに歩いたことなど一度もない。常に細心の注意を払って移動してきた。見えないことに頼りきらず、必要な時以外は人目を避ける努力をおしまなかった。
 ただ、今回はかなり勝手が違う。いま忍び込んでいる場所は北条の本拠地である小田原城。しかも、その本丸なのだから。ただでさえ屋内は足音がたちやすいのに、警備も厳重ときている。なによりも今回は一人ではないのだ。あたりに警備の者がいないことを確認し、できる限り小さな声で連れに話しかける。


「お信磨、とまるよ」

「はい。ねえさん」


お礼としっかりと手を繋いでいる見えないお信磨が、彼女と同じように小声で返事を返す。
 お礼の姿を見えなくする『呪言』は、自分以外の者にも効果を発揮させることができる。そもそも半珠の使い方が、他の八犬士とは大きく異なる。吉乃の半珠は、本人の身体ではなく道具にはめ込んであるというだけで、半珠を中心に『呪言』の力が展開されることにかわりはない。
 しかし、お礼の『呪言』に関しては違う。『礼』と『畜』の二つの半珠の中身を削り、削ったものを小三治の『呪言』の液で溶かし、人体に害がなくなるまで水で希釈。これを塗布することで、光を反射せず表面で光を迂回させる。これで他者の眼には、あたかもなにも無いように映る……らしい。初めて生野に抱かれた夜、寝物語代わりに生野が語って聞かせてくれたのだが、お礼にはまったく理解できなかった。
 とにかく、塗布すれば使えるので、見えなくさせる対象は選べる。いまは身につけている物も含めて、自分とお信磨に塗布しているという訳だ。
 但し使用量には限度がある。作れたのは皮袋六袋分。その全てを使いきって二人でここまで来たのだ。お礼がいま腰から下げている二つの皮袋は別の代物。
 残された二つの半珠には、もう削るだけの厚みはなく、薄い水晶の膜となって、提げている革袋の内のひとつに収められている。


「いいかい。予定通りここで別れるよ。騒ぎが起きたら、あんたはとにかく天守閣を目指すんだ。いいね」


 二人がここに忍び込んだ目的は、お信磨を本丸の屋根へとたどり着かせ、屋根を油まみれにすることにあった。
お信磨の『呪言』は、体から汗や涙といった水分の代わりに、可燃性の高い油を流すというものだ。彼女の動き回った後に火をつければ、火は瞬く間に広がる。一昨日の夜に風魔の小太郎屋敷が一瞬で燃えたのはこの為である。
 さらには攻撃にも高い耐性を得る。どんなに鋭き刃も彼女の体に触れれば油の膜に覆われ体表を滑るばかり。であるから、強引に守りを突破し目的地に向かうこともお信磨には可能かもしれない。
 だが彼女の体には、決定的な弱点がある。火に弱いのだ。なにせ体から油を出すだけあって、彼女の体は脂肪の塊である。非常に燃えやすいのだ。火矢を使われでもしたら、お信磨はあっという間に消し炭にされてしまう。
 お信磨の『呪言』を風魔の里で一度見せてしまっている以上、お信磨の弱点に気がつかれてしまっていると予測しておくべきだ。だからこそ、お信磨を目的地に無事に到達させるためには、お礼の呪いを使う必要がある。


「うん。任せてねえさん。必ず成功させる」

「あと風魔には気をつけるんだよ。あいつら耳も勘もいい。床の軋む音を聞き逃さないし、迂闊に近づけば音をたてなくったって気づくかもしれない。姿を見たらできる限り動かずにやり過ごすんだ。それから、あんたが汗をかくと水を弾いちまうから……」

「ねえさん、話長い。ばれる」


 お信磨の呆れた声に、お礼の頬が緩む。
 八犬家五代目の子供たちの中で最年長のお礼は、ずっと他の子供たちの面倒を見てきた。故に大人になったいまも、お節介が過ぎるところがある。


「ごめんよ。それじゃ、あたしはいくからね。気をつけるんだよ」

「……ううん。私こそごめんなさい。ねえさんは心配してくれただけなのに。どうかねえさんも気をつけて。後で必ず会おうね」

「ああ。必ず」


 お信磨の心が温まるような気持ちのこもった言葉に背中を押され、お礼は、お信磨の手を離し、一人で歩きだす。
 ここから先、お信磨を上の階へと無事に行かせるためには、姿が見えないだけでは足りない。階段に張りついている兵を引きはがす必要がある。『呪言』の力を行使するための半珠を体に埋め込む前は、お信磨の方が体重は軽かったろうが、いまでは比べるまでもなくお信磨の方が重い。音をたてずに階段をのぼるのは不可能と言っていい。
 そこでまず、お礼が騒ぎを起こし、敵を引き寄せる計画だ。お礼の腰に結びつけてある二つの皮袋のうちの一つには、お信磨に分けてもらった油が詰め込んである。これを使って放火する。むろん、これで小田原城が燃え尽きてしまっては、単なる付け火になってしまうので、燃え広がりすぎないように気をつける必要はあるのだが。
 最終的に小田原城を炎上させることが目的ではあるが、それを付け火によってこそこそとやっては意味がないのだ。敵の前に堂々と姿を見せ、里見八犬士であると堂々と名乗り、小田原城を、できれば氏康もろとも炎という武器で壊滅させることに意味がある。
 自分たちが死んだとしても、義堯と義弘の耳に、『小田原城を落城させしは八犬士』と届かせるために必要な儀式。
 お礼は騒ぎになりやすく、消火まで適度に時間がかかりそうな場所を探す。
 もしも上手くいかない場合は、奥の手を使うしかない。先に命を落した八犬士のことを思いながら、お礼は決意を新たにした。