四話 宣戦布告


 地鳴りのような音を耳にし、塩沢勘兵衛(しおざわかんべえ)は馬上から正面の闇へと意識を強めた。ここ最近は晴れる日が続いている。地盤が緩み土砂崩れが起きるような状態になっているとは思えない。そもそも、音は正面の平坦な道から迫ってきているのだ、崖崩れの訳がない。
 かといって味方が合流してくる足音でもない。あと一度、五名の兵が合流してくる手筈ではあるが、それはこの辺りではないし、五名の徒歩でこれだけの音はたてられまい。なにより静かに行動するように厳命されている筈だ。
 まさか、敵襲? あの氏康が隠しに隠して送り出したこの部隊の存在を、里見の間者ごときが掴んでいたとは思えない。隠密裏に行動するため、松明(たいまつ)の使用も最小限度に抑え、物音をたてることにも注意を払っていたが、この音が敵の迫る音であれば放っておくわけにはいかない。
 勘兵衛は、側を黙々と歩く、鼓を持った部下に指示をだす。
 徐々に大きくなる地鳴りを切り裂いて、闇夜に陣太鼓の音が三度響きわたる。すると集団の各所からも同じ音が三度返ってくる。
 そうして、鼓の音が集団の隅々まで浸透すると、これまで黙々と前進を続けていた部隊が停止し、陣形を組み始めた。
 この部隊の胆は隠密性にある。敵に知られることなく、突然に佐貫城の背後に姿をみせることに意味がある。ゆえに事前に存在を知られる恐れのある集団での訓練などしていないし、兵は行先も知らなければ目的も知らない。ただ、合流場所と闇に目を慣らしておくこと、陣太鼓の鳴らされた数によってとる行動だけは、しっかりと覚えるように手配されている。
 更なる陣太鼓の音で、最前線に簡素な盾を持った兵がずらりと並び、その後ろに弓持ちが陣取る。相手の動きをとめ、飛び道具で怯ませたのちさらに後方の部隊が襲いかかる。このような警戒態勢を敷き、勘兵衛はあるかもしれない敵の襲撃を待った。
 地鳴りが間近にまで迫る。勘兵衛はすでに闇夜に慣れた目で、正体を見破らんと地鳴りのする闇に対して目を凝らす。
 ついに地鳴りの正体が姿を現した。
 敵の襲来かと思われたそれは、勘兵衛の部隊にぶつかることなく、直前で二手に分かれて行く。
 地鳴りの正体は、馬の群れ。どの馬にも人が乗っておらず、馬具もつけていない。つまりは野生馬。ただ、その数が多い。細長く伸びているとはいえ、群れの通過は、正体がわれてからもしばらく続いた。百はゆうに超えているだろう。これだけの規模の野生馬の群れがこの辺りにいたのなら、小田原にも噂くらいは流れてきそうなものであるが、勘兵衛は聞いた記憶がない。
 ようやく群れの最後尾が勘兵衛の前を通り過ぎた。本来臆病であるはずの野生馬が、わざわざ人の集団の横を駆け抜けていくというのは珍しい。もしかしたら、野犬にでも追われ、気が動転していたのかもしれない。
 とにかく、敵襲ではなかったのだと勘兵衛が胸を撫で下ろした時、曇天が割れ、月が夜空にはっきりと姿を見せ、月光が闇に支配されていた大地を照らす。
 野生馬の群れが二手に分かれた辺りに、この月光は我らのためにあるのだと言わんばかりに、光を一身に受け止め、彼らはいた。
 ただ、人ではあっても彼らもまた、勘兵衛の目には敵としては映らなかった。先ほどの野生馬たちよりも立派な体躯の馬に跨る者、荷車を引く者、その荷車の上で上体だけを起こしている者など、全員で七人いたが、その中でまともな身なりをしているのは一人しかいない。その一人も戦をしにきたような出で立ちには見えなかったからだ。だいたい、敵であるならば、こちらが野生馬の存在で警戒態勢をとった後から姿をみせるのは納得がいかない。奇襲の機会を自ら捨てるようなものだ。ただ、こちらの()()()()()()だけ。なんのために現れたかわからぬ彼らは、ゆっくりと守備を固めた部隊に近づいてくる。


「待て! そこの者たち止まれ!」


 ともに小田原を出立した騎馬武者の一人が、馬を駆り彼らの行く手を遮る。
 その動きに合わせて彼らの中からも一人前に出た。顔の大きな男だ。
 いくら月光がさしているとはいえ、離れた位置にいる男の顔がはっきりとみてとれるのを勘兵衛は(いぶか)しんでいたが、大きな顔の男をよく見ることで理由はわかった。彼自身が光を放っていたのだ。ぼんやりとした青白い光が、軽く開けられた口の中と、はだけている胸の辺りから発せられている。
 その男だけではない。ともに立ち並ぶ何人かが、同じようにぼんやりとした青白い光を放っていたのだ。
 騎馬武者が眼前まで迫ると、顔の大きな男が唇を尖らし、口の中の光を遮ったと思うやいなや、騎馬武者の絶叫が勘兵衛の鼓膜を叩いた。
 顔を押さえながら馬上から転落した騎馬武者に、顔の大きな男が何度か唾を吐きかけたように見えた。すると、部下の絶叫が止んだ。代わりとばかりに、顔の大きな男が大口をあけて声を張り上げる。


「聞けい、北条の雑兵ども! 我らは里見家が家臣、里見八犬士なり!」


 八犬士。
 勘兵衛はその名に聞き覚えがあった。確か里見家が安房に地盤を築くうえで活躍した一騎当千と言われる強者たちだ。だが、それはかなり昔のことである筈だ。北条家でいえば、氏康の祖父伊勢新九郎盛時が小田原城を奪取した頃である。とっくに死んでいるであろうし、その子孫たちの話など一度も聞いたことがない。


「夜陰に乗じ、我らが領内に侵入し後方を攪乱しようという氏康の企み、我らはすべてお見通しである。命が惜しくば退け、とは申さぬ。きさまら全員ここで朽ち果てるがいい!」