二十八話 太助と萩


「すまぬな、萩。もうお前の相手もしてやれぬというのに」


 大量の水をその下腹部に詰めなおした犬川太助は、小田原付近の森の中で、優しく愛馬の背を撫でる。
 この体型になってしまっては、萩の背で揺られる以外に術が無くなる。
 首筋を撫でてやることも、甘えさせてやることもできぬ。
 この巨大な体躯を持つ牝馬と、奇跡のような出会いを果たしてから、まだひと月。まさか自分の死への旅立ちに付き合ってくれるとは思ってもみなかった。当初の予定では、太助は犬江安兵衛とともに荷台の上の人となる予定であったのだから……。
 太助が萩と出会った日。それは太助が生まれて初めて八犬家にあてがわれた屋敷、隔離された土地から、外へと抜け出せた記念すべき日でもあった。
 太助は祖父と父。そして二番目の兄が乗り越えられなかった壁を越えた。
 犬川家に与えられる呪いの力を存分に活用するための処置。四肢の筋肉のほとんどを陰茎に移すという恐るべき処置。もちろんその処置を施したのは犬坂生野。
 まず、命の保護もかね、臍の下、陰茎の根元のやや上辺りに、『義』の半珠を埋め込まれる。この半珠の呪いで、下腹部に大量の水を溜めておける下地をつくり、それから四肢の筋肉を丁寧に切り取る。先の三人はこの時点で死んだ。
 この処置の後、表面の皮を剥ぎとった陰茎にかぶせるように継ぎ足していく。当然ながら、それだけでこの鉄製の銃砲身の外装を取りつけられるような大きさにはならないし、ただ継ぎ足しただけの筋肉を自由自在に動かすことなどできはしない。そこで今度は、睾丸と陰茎のつけ根に『是』の半珠を埋め込む。筋肉を継ぎ足した陰茎は膨張し、腕や足と変わらぬように動かせるにいたった。
 三人の犠牲の果てにこの体を得た太助は、久留里城の義堯の監視の目が緩んだひと月前、初めて屋敷と敷地の外にでたのである。
 萩と出会ったのは、その時。あの時の衝撃を、太助はいまでも忘れない。
 初めて敷地の外に出ることのできた喜びは、近いうちに死ぬのだという恐怖など簡単に吹き飛ばし、太助は意味もなく走った。股間は重いし、四肢に力も入らないので、何度も転んだけれど、そんなことはまったく気にならなかった。夢中で走るうちに、太助は外海が一望できる高台の開けた場所に出た。
 萩はそこにいたのである。
 太助は言葉を失った。もうこれ以上感動することはないというぐらい喜びに満ちていたはずなのに、萩を見た感動は、太助が自分で想像していた感情の器など、軽く壊してみせた。
 馬を初めて見たわけではない。八犬家の見張りを交代する者は、馬に乗ってやって来ていた。その様子を安兵衛達と屋敷の中から覗き見ていたからだ。
 だが、萩はこれまで見たどの馬よりも大きく綺麗だった。燃えるような赤い毛並みは、いままさに昇ろうとしていた太陽を背負い、まるで萩自身も太陽の一部であるかのように輝く。
 周りに他の馬の姿は見えない。萩はただ一頭で海を見ている。
 萩が、萩に見惚れて立ちつくしていた太助に気がついた。萩は逃げるどころか、悠然と太助に歩み寄る。
 萩は太助の前にまで来て、鼻づらを陰茎にこすりつけるように匂いを嗅いだ。あまりの突然のことに太助は身動きひとつできなかった。
 萩がおもむろにくるりと向きをかえた。
 萩のたくましい後脚を見て、太助は血の気が引いた。蹴られると思ったのだ。
 だが、そうはならなかった。萩は尾を持ち上げ、後脚を軽く開く。そこで太助は萩が雌であることにようやく気がつく。
 萩が尿を出した。尿は地面を激しく叩き、跳ねあがったものが太助の顔にもかかる。太助はその尿の匂いごと大きく息を吸い込み、誘われるように、自然にそそりたった陰茎を支えながら前に出た。
 それから、太助と萩の逢瀬は始まった。毎日抜け出せたわけではない。日にちにすればわずか七日。それでも、太助がそこに行くと萩は必ずそこにいた。返事が返ってくる訳ではなかったが、太助は萩に自分のこと、家族のこと、八犬士のことなど、思いつく限りのことを話して聞かせる。
 そして、銃砲身を陰茎に取りつける前夜。自力で動けなくなることを悟った太助は、萩に別れを告げようと高台に走る。きっと今日もいてくれているに違いないと太助は信じていた。
 だが、その期待は裏切られる。萩はいなかったのだ。必死になって辺りを探したが、他の馬の影すら見つけられぬ。
 悲しくなって泣きたくなったが、意地で飲み込んだ。
 きっと萩との時間は、死にゆく自分を憐れんだ天が、自分に示してくれた憐みであったのだろう。そう思うことにした。
 出陣の日。水を詰め込む前の太助は、他の八犬士に支えられ、それほど大きくない船に乗せられて海を渡り相模(さがみ)に上陸した。
 そこに……萩がいた。たくさんの野生馬を引き連れた萩がいた。見間違えるはずなどない。体のいたる所に傷を負ってはいたけれど、美しさはそのままに、貫録だけを増して、萩は太助を待っていた。
 太助の涙が止まらなくなる。
 萩が自分とともに、命をかけて戦ってくれようとしていることを感じ取ったからだ。
 それでもやはり萩は死なせられぬ。
 人と馬。子を残せる訳ではない。だが心は残せよう。
 この戦に勝ったとしても、八犬家が救われるとは限らない。このまま滅びる道しかないのかもしれない。だが、八犬家とかかわりのない萩がこの戦に生き残ってくれたなら、自分が生きた証となろう。語り継がれるわけでもない、自分が死に時が経てば、萩は自分のことを忘れるかもしれない。例えそうだとしても、共に駆けた事実は消えはしないのだ。


「さて、萩。俺の四肢の腐りは、すでに俺の心の臓の間近にまできている。お主に跨り、共に駆けるのもこれが最後になろう」
 

 萩が短く悲しそうに(いなな)く。


「泣くな萩よ。俺とお前の心はすでにひとつ。お前の背が軽うなっても、俺はお前の背におるぞ」


 力なく首を下げていた萩が、やがて覚悟を決めたように首をあげ一際高く嘶く。すると、今まで二人に遠慮していたのか、この地で萩が従えた野生馬たちが、木々の合間からぞろぞろと姿を現し集まってくる。


「よし。では日暮れまで、小田原の周りを派手に走り回ってくれ。陽が沈みかけたら、最後の『呪言』で小田原に斬りこむかからのう」


 太助の言葉を合図に、野生馬達が萩を先頭にゆっくりと駆け出す。
 小田原を、混沌の渦に巻き込むために。