「うひひ……ベトシンいいわ……」
「なんでぇ……ニヤニヤして気味悪ぃ」

 一昨日から始まった『フォーティチュード・ジーニアス・オンライン』の新イベントは、あの大音楽家ベートーベンと、彼の弟子シンドラーによる愛憎入り乱れた物語だ。シンドラーのヤンデレぶりと、彼に辟易しながらもその能力に頼ってしまうベートーベンの絶妙な関係が素晴らしい。藍佳は最近、暇さえあればスマホをいじっている。
 一方北斎は、藍佳が使わなくなったタブレットを与えられ、朝から晩までイラストに没頭していた。

「ったく、絵は描かなくていいんですかね、お師匠さん?」
「ふ、ふん……こうやってる間も、頭の隅っこではネタ出ししてるし!」

 嫌味を含んだ北斎のつぶやきへの返答は、正しくもあり間違ってもいた。
 いついかなる時でも頭の片隅ではネタ出しや練り込みを行っている。それは藍佳がいつも心がけていることだ。けど、心がけていることと出来ていることは決してイコールではない。
 先日の博物館で、ずっと思い描いていた時代劇に挑戦しようと思ったはいい。けど、問題はそこからだ。火消し、忍者、人斬り……温めていたアイデアはいくつかある。でもそれを同人誌一冊分のストーリーとして整えようとすると「ちょっと違うな」となってしまう。

 ピコンッ

 ゲーム中のスマホ画面。その上端にSNSの通知が表示された。

「あ、まただ。ホクサーン、この前アップした奴バズってるよ」
「へへッ、だろうよ! オレなりに流行りを考えて描いたからな!」

 それは、先日[ワラスボ・ラボ]のアカウントから投稿した、葛飾北斎が歴史上初めて完成させたデジタルイラストだ。中華風の鎧を着た美少女の濡れ場で、鮮やかな色彩が目を引く。

『なるほど、このレイヤーって奴ぁ便利だな。錦絵を拵えるのに彫師も刷師も版木もいらねぇのかい』

 北斎はペイントツールの使い方を、浮世絵師ならではの見方で完璧に理解していた。確かに、複数の版木で少しずつ色を載せていく錦絵の技法は、今日のデジタル絵の描き方とよく似ている。
 藍佳は、北斎の話を聞いたあと錦絵のメイキング動画を見て驚いた。線画と下塗り、陰影、ハイライト、グラデーションといくつもの版木を用意するさまは、デジ絵のレイヤーという概念そっくりそのままなのだ。
 もちろん、浮世絵の技法だけではない。北斎は藍佳の部屋にある漫画を片っ端から読み、現代風の作画法や陰影の付け方を学び取っていた。それはこの絵にも反映されていて、女の子の顔の描き方は完全に美少女イラストのものだった。
 そしてもう一つ、北斎は江戸時代にない武器を獲得している。

『この"元に戻す"てぇの、たまんねぇな! 描き損じても簡単にやり直せる!!』

 ツールの機能で特に喜んでいたのがアンドゥとリドゥだ。ちょっと失敗してもワンタッチで修正できる。間違えるたびに紙を丸める必要もない。

「長屋は描き損じで埋まってたからなぁ。これがあったら、オレもアゴもちっとは片付いた部屋で暮らせたかもな』

 いや、それはない。藍佳は、部屋中に散らばった本や、平気で放ってあるウーバーのプラ容器を片付けながら断言した。