私は、今までいくつのウソを重ねてきただろうか。ひとつのウソを隠すために、どれほどのウソをついてきたのか。
先輩とのノートを知らないふりをして、名前を告げずに交換日記のやりとりをし続けて、今も、なにも知らないふりをしている。
今、先輩が見ている私は、ウソばかりなのに。
再びギターの音が私の耳に届いた。
「あれ、ニノ先輩なにしてるんですか」
その音をかき消すような、明るい声が聞こえて、顔を上げた。渡り廊下からサイドテールの女子が軽やかな足取りで近づいてくる。
先輩は小さな声で「げ」と言って、ギターの演奏を止めた。
「よお」
「美人副会長となにしてるんですか。ギターで口説いてるんですか」
やだなあと言って、サイドテールの女子が私を見た。
「あ、ちゃんと話すのはじめてだよね。澤本藍ですー。同級生だよ、松本さんの」
「え、あ、そうなんだ」
サイドテールの女子――澤本さんは気さくに私に話しかけてきた。やっぱり同級生だったらしい。あまり知らない、ということは理系コースだろう。
「理系コースだから、わたしのこと知らないでしょ。わたしは松本さんのこと知ってたけど」
でもこれからよろしくね、と澤本さんが私に笑いかける。
見た目も口調も、社交的で明るい女子という感じがする。けれど、彼女の双眸は意志の強さを感じた。気が強いとかではなく、いっぽん芯が通っているような。
今の私が後ろめたさを感じていたからか、彼女にはそんなやましいものなどなにもないように見える。
わたしたちが話しているあいだに、先輩はギターをケースになおしていた。それに澤本さんが気づき「え、なんでやめちゃうんですか」と声を上げる。
「なんでって藍に聴かれたくねえからだよ」
先輩の口調は、私に対するものと少し違っていた。もっと、砕けた、自然な、先輩の素が見える、そんな感じだ。
「えー。聴かせてくださいよ」
「やだよ、絶対笑うし」
先輩と澤本さんの会話に、なにかがひっかかる。それがなんなのか、見つけたくなくて私は思考を止める。
「じゃあ、私はそろそろ行きますね。生徒会室に行くので」
「え? ああ、うんまた」
引き留めることもなく、先輩は手を振る。ぺこりと頭を下げて踵を返すと、澤本さんがついてきた。
「生徒会室って理系の校舎だよね」
「あー、うん」
しまった、と思ったけれどいまさら訂正はできない。靴箱に寄って教室に戻るつもりだったけれど、澤本さんと一緒に理系の校舎に向かう。
「松本さんがニノ先輩と仲がいいの、ちょっと意外だよね。いつから知り合いだったの?」
先輩の名前に、小さく体を震わせる。もしかして私たちの関係が気になっているのだろうかと、勘ぐってしまう。
「一年のときから生徒会だから、目立つ先輩とは顔見知りだったの」
「ああ、なるほど。たしかに先輩目立つよね」
あの髪色もあり得ないよねえ、と澤本さんがぷくく、と口をおさえて笑う。
「澤本さんは? いつから先輩と?」
「あー、わたしは今年かな。前につき合っていた人と先輩が仲良くていろいろお世話になったの。別れて落ち込んでいたときにも慰めてくれたりとか」
理系校舎の階段をのぼりながら、澤本さんが懐かしむように遠くを見た。
落ち込んでいた澤本さんを慰める先輩を想像すると、眉間を寄せてしまう。見たくないものを見てしまったような、不快感を覚える。
先輩はやさしい。だから、当然のことだ。誰にでもやさしいから、友人が多いのだと思う。
「あ、いたいた。藍、どこにいたの」
目の前から二人組の女子が降りてきて、澤本さんを見るなり話しかけてきた。
「今日合コンあるんだけど人数足りなくてさ。今彼氏いないでしょ」
「いないけど合コンは行かないよ。好きな人いるし」
澤本さんは間髪を容れずはっきりと断る。
好きな人。澤本さんには、好きな人がいる。
「好きな人ならいいじゃん」
「無理だよ。好きな人がいるのに合コンとか。それに合コンって運命感じないし」
運命とは。
澤本さんの発言に、思ったよりもきっぱりはっきりしている子だなと思った。ひとりの女子は「だから無駄だって言ったじゃん」ともうひとりの女子に言って、もうひとりの女子は「わかったわかった」と呆れたように肩をすくめて戻っていった。
「で、なんの話してたっけ?」
女子の背中を見送ってから、藤本さんが私を見る。
「え? なんだっけ。っていうか好きな人がいるって、私聞いちゃったけど」
「え? ああ、さっきの会話? 別にいいよ。隠すようなことでもないし」
隠すようなことじゃない、とはっきり言える彼女を、さっき以上にすごいなと思った。ウソとか、隠しごととか、彼女にはほど遠い。
「すごいね。そんなふうに、はっきり言えるの」
「え? そう? だって好きってそういうことでしょ」
「いや、私はまだそういうの、よくわからないから」
きょとんとされてしまい、苦笑するしかない。恋バナ以外ならなんでも言えるのだけれど。
「えー、じゃあ澤本さんはまだ運命の相手と出会ってないんだね」
「う、運命?」
そういえばさっきもそんなことを言っていた。この年で運命の恋みたいなものを信じているのだろうか。
「みんな、運命の相手がいるんだよ」
へえ、とあっけにとられたような声が出る。
目をキラキラと輝かせている澤本さんは、本気でそう信じているらしい。ちょっと怖いな、この子。いや、まっすぐすぎるだけなのかもしれない。彼女にはウソやごまかしが似合わない。まさしく素直で、一生懸命だ。
「前は失敗したけど、今度は本物だと思うの!」
「今度って、今好きな人のこと?」
「そう、今度こそ運命の相手だと思うんだよね」
「そんなのなんでわかるの?」
確信を得ているのか、力説する彼女につい、訊いてしまった。
「好きになるんだから、運命でしょ」
「……あ、そう、なんだ」
あまりにあっさりとした答えに、これ以外の返事は浮かばなかった。
「でも、前は失敗したの?」
「前は、違ったみたい。前は私のことを好きじゃない人のことを好きになって、猛アタックしてつき合ったんだけど、それが悪かったのかなって。今度は、相手も私のこと好きっぽいから、たぶん大丈夫!」
自分のことを好きじゃない人は、運命ではないらしい。
そっか、そうなんだ。いや、わかんないけど。まあ一理あるような気がしないでもない。そういう考え方もあるのだろう。
つまりそれは。
「両想い、なんだね」
「松本さんも、今好きな人いる?」
「え? あ、いや、どうかな」
ここで〝いる〟と素直に答えられないのが、私だ。それが、私と澤本さんの違いなんだろう。素直にはほど遠い自分を再認識する。
かちんかちんと、ひっかかりを覚えたものがパズルのピースになって合わさっていく。
先輩は澤本さんの前でギターを弾かなかった。
ふたりはとても仲がいい。
澤本さんには好きな人がいる。
そして、放課後に先輩から返ってきた交換日記を読んで確信した。
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さすがに誰かはまだ教えられないけど
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でもめちゃくちゃかわいい子だよ
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素直で 一生懸命で
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隠しごとができないくらい馬鹿正直で
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一緒にいると俺もウソがつけなくなるんだ
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――先輩の好きな人は、私じゃない。
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それは すごくすてきな子ですね
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返事みじかっ! どうした急に
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ななちゃんの好きな人は?
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どんな人で どこを好きになった
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どこが、か。
そういえばどこなんだろう。
昼休みに靴箱で返事を受け取ってから、ひとりぼんやりと廊下を歩いた。このまま教室に戻っても希美たちと楽しく過ごせそうにないので、生徒会室で時間を潰そうと階段をのぼる。四階に着いて廊下に出ると、明るい髪色の男子が目に飛び込んできて、反射的に壁に身を隠した。そして、見つからないようにそっと覗き見る。
やっぱり、二ノ宮先輩だ。
二年の理系コースの教室前で、数人が固まって騒いでいた。その中のひとりは間違いなく二ノ宮先輩だ。カフェオレ色の髪型なので見間違うはずがない。こういうとき、先輩の髪色は役立つ。背中だけで誰だか判別できる。
二年の階でなにをしているのだろう。
あの廊下の先に生徒会室があるのに。今までの私なら気にせず通ることができたけれど、今は顔を合わせたくない。
それに。
先輩の隣には澤本さんがいた。
ほかに、男子が三人と女子がふたり。
「んじゃ今日の放課後は慰め会だな」
先輩の声が私のところにまで届く。
「うるせー! おごれよ! ちゃんと慰めろよ! 笑うなよ!」
「無理無理。フラれた理由が自業自得なんだから慰めようがねえよ」
そんな会話が聞こえてくる。
どうやらあの中の誰かが恋人にフラれてしまったようだ。落ち込んでいる彼を励まそうとしているのだろう。いや、フラれた理由はわからないけれど、自業自得と言われているのでネタにして騒ごうというだけなのかもしれない。
でも、先輩はやっぱり、励まそうとしているのではないかと思った。
どんな理由があろうと、それが自分のせいでも、落ち込む気持ちは変わらない。その証拠に、フラれたらしい男子はしょんぼりと肩を落としている。
先輩は、やさしい。
あの男子が、彼だから先輩は励ますわけではない。誰だろうと、落ち込んでいるから励ます人だ。私にラムネをくれたように。保健室から私を連れ出してくれたように。私に、気持ちを添えることを教えてくれたように。
軽い口調で、なにも考えていないように振る舞うけれど、相手のことをよく見ている人だと、交換日記と実際の先輩と接して、わかった。
先輩は、いつだって、人に囲まれている。
それは、みんなが先輩の人柄を好きだからだ。
みんなが、先輩のやさしさに触れているから。
――私が、特別なわけじゃなかった。
むしろ、私はただの後輩でしかなかった。
距離で言えば、私よりも澤本さんのほうがずっと先輩に近いところにいるだろう。
先輩の好きな人に、澤本さんはすべて当てはまる。好きな人とおそらく両想いの関係だということにくわえて、素直で、一生懸命で、馬鹿正直。きっと、親しくなると私も彼女にウソはつけなくなりそうな、そんな気がする。そのくらい、羨ましくて仕方がなくなるくらい、彼女は一直線に好きな人のことを想っている子だった。
私は、あんなふうにはっきりと好きだと言えない。心の中でさえも、私は答えられないでいる。それは、彼女との性格の違いなのか、想いの違いなのか。
目を伏せて、ゆっくりとさっきのぼった階段をおりていく。
彼女は、好きになった人が運命の相手だと言っていた。その人も、自分のことが好きなのだと確信していた。
だから、私の好きになった人は私の運命の相手ではない。私の好きな人は私ではない人を好きだから。
じゃあ、私が先輩を好きだと思ったこの気持ちは、いったいなんなのだろう。
私が先輩を好きになったきっかけを記憶の中から探し出す。前から先輩のことは知っていた。このノートを通して先輩を知り、普段の生活でも先輩と話すことが増えた。その中で、知らなかった先輩を知った。
先輩に、救われた。
だから。
……だから、なのだろうか。
先輩との思い出を引っ張り出す。笑顔とか、かけてもらった言葉とか、触れた肌とか。そのひとつひとつに胸が苦しくなる。
それを私だけの特別だと感じたから、うれしかった。
でも、それはただの勘違いだった。
じゃあ、私が好きだと思ったものも、勘違いなのだろうか。
数日前は明確に好きだと思えた気持ちに、自信がなくなっていく。
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やさしくて そばにいると
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すごく幸せで 苦しくなる人です
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でもやっぱり
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よく わからないです
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俺もそうなるよ
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深く考えなくていいんじゃない?
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先輩からのフォローに、どう返していいのかわからないまま、数日を過ごした。先輩からの催促があってもなくてもいやだと、靴箱も覗いていない。
ありがとうございます、だけでもいいはずなのに、うれしくもなんとも思っていない状態で、その言葉を文字にすることができない。
それが申し訳なくて、先輩を見かけても声をかけず、見つからないようにと避けて過ごした。ただ、先輩にとってそれは気にするようなことでもないのだろう。いつものような笑顔で誰かと話していたり、ひとりでいてもしばらくすれば人が集まっている。
先輩の日常に、私はなんの影響もない。
そう思うと、今までうぬぼれていた自分を消してなかったことにしたくなる。
悔しくて、惨めで、自分の世界からも先輩を消してしまいたくなる。こんなのはただの逆恨みだとわかっているのに。自分のこんなみっともない面は、知りたくなかった。
「じゃあね」
授業が終わって、教室に残っている希美と優子に手を振る。ふたりは今日も彼氏とデートらしい。理系コースの授業が終わるまで、教室で過ごすのだろう。
希美が少し心配そうな顔をしながら、「また明日ね」と言った。
いつもどおり振る舞っているつもりだけれど、希美には勘づかれているようだ。ただ、それを訊いてこない希美のやさしさに救われる。
せめて今日が生徒会の日だったらなあ。なにも考えずに仕事に没頭できるのに。仕方がないので帰りに手芸店でも寄って、たっぷり刺繍の材料を買おうかな。
そんなことを考えていると、渡り廊下の向かい側から関谷くんがやってきて「松本」と私を呼んだ。
「どうしたの」
私を探していたのか、関谷くんの息が切れている。
「早めに伝えておいたほうがいいかなって思って」
生徒会の件でなにか問題でも発生したのだろうか。でも、それにしては関谷くんの表情は暗くない。前にデータが消えたときは、顔面蒼白だった。
「実は、佐々木とおれ、つき合ってるから」
は、と間抜けな声を漏らす。
いったいなんの報告なのか。そして、私はどういう反応をするのが正解なのか。
関谷くんと佐々木さんがつき合った、との内容は、たしかに驚いた。ふたりがそういう関係だなんて、今の今まで知らなかった。
けれど、なんでわざわざ私を探し出してまで伝えに来たのか。お祝いをしなければいけないのだろうか。
無言でいる私に、関谷くんが申し訳なさそうに眉を下げる。
「も、もちろん生徒会の仕事に影響はでないようにするから」
「それは心配してないけど」
関谷くんがそんなことをするタイプじゃないことくらい、知っている。私とつき合っているときも、彼はそれを徹底していた。もちろん、私も。
「なんか……元カノと今カノがいるっていうのもやりにくいかもしれないけど」
そのセリフに、やっと関谷くんの意図を理解した。
私を気遣ってくれていたのだ。
言われてみれば、たしかに微妙な関係かもしれない。でも、私と関谷くんのあいだにはなにもない。友だち、とはちょっと違うけれど、それ以上の関係も感情も私たちはお互いに抱いていないことは明白だ。
どちらかといえば、佐々木さんのほうが心配だけれど。
「大丈夫だよ、そんなの。言われるまで気づかなかったくらいだし」
「相変わらずあっさりしてるなあ……」
私の返事に、なぜか関谷くんは気落ちしたように、肩を落とした。
このくらいあっさりした返事をしたほうが関谷くんも楽だと思ったけれど、違うらしい。こういう微妙な感情を読み取るのが私は苦手だ。
「でも、そういうところが松本らしいよな。おれが考えすぎてるだけなんだろうけど、一応言っておこうと思っただけだから、気にしないで」
「ありがとう」
その気持ちはありがたいので、素直にお礼を伝えた。けれど、なぜか関谷くんは口の端を持ち上げて頷きつつも、どこかさびしげだった。
どうして私は、彼にあんな顔をさせてしまったのだろう。つき合っているときから彼はあんな表情をよくしていた気がする。
私に背を向けて歩いていく関谷くんを見つめる。それは、曲がり角で見えなくなった。そして、別れのときも彼は同じように苦い笑みを浮かべていたかもしれない、と今になって気づく。
言葉足らずだった。
つき合っているときも、別れのときも、そして、おそらく今も。
「江里乃ちゃん」
背後からの声に、体が飛び跳ねる。
「なんかあった?」
振り返ると、二ノ宮先輩が私を見下ろしていた。真後ろにいたのに、声をかけられるまで気づかなかった。
「なんでもないです」
目をそらしてはっきりと答える。先輩の双眸に、今の私は映りたくない。
どうしてこの人は、いつも同じようなタイミングで私に話しかけてくるのだろう。特に今は、顔を合わせたくなかったというのに。
「なにか言われた?」
「……いつから見てたんですか」
先輩の質問は、さっきまで関谷くんと私が一緒にいたのを知っているからこそだろう。先輩の答えを聞く前に、もう一度「なんにもないですよ」と繰り返す。
「なんでこっち見ないの?」
「別に、深い理由はないです」
先輩に見られたくないし、先輩を見たくもない。
きっと、先輩には気づかれてしまうから。私に〝なにかあった〟と悟られてしまうから。そうしたら先輩はきっと、私に手を差し伸べてくれる。
マフラーを鼻が隠れるほどに引き上げてから、くるっと体ごと先輩に向ける。
「本当になんでもないんですよ」
にっこりと微笑んで、高い壁を先輩とのあいだに作った。
――けれど、そんなものは通用しない。
先輩はいとも簡単にそれを乗り越えて、私の手をつかむ。
「今から帰るところだろ?」
けっして離さないと、先輩の手が言っていた。氷のように冷たい手に、身動きが取れなくなる。ちょっとやそっとの力では、振り払えない。
「せっかくだから、一緒に帰らないか?」
先輩に、もう助けられたくないのに。
「今日は残念なことにお菓子を持ってないんだよな」
もう、私は勘違いしたくないのに。
「見てもらいたいものもあるしさ」
「やめてください!」
私の声が、冷たい空気の中にぴんと張り巡らされた。
その直後、あたりがしんと静まりかえる。さっきまで生徒が行き交っていたはずなのに、今は誰の姿も見えなかった。
前まで光が当たっているように見えた先輩の姿が、モノクロになる。色がうしなわれる。むなしさが、そう思わせるのだろうか。
「こういうこと、誰にでもしてると誤解されますよ」
先輩の手が緩んだのを見逃さず、するりと自分の手を引き抜いた。半歩後ろに下がり、視線を先輩の足下に落とす。
「誰に? 別に誤解されても困ることはないだろ」
「私が、困るんです」
こういう、思わせぶりなことをされると。
勘違いしたくないのに、勘違いだとわかっているのに、それにすがりつきそうになる。そして、落胆する。
私のことが好きじゃないなら、かまわないで。
「なにをそんな意固地になってんの?」
先輩の声は、いつもより低く感じる。どんな表情で私を見下ろしているのか確かめるのが怖くて、目を伏せたまま耳を傾けた。
だって。
「別に思わせぶりなことをしてるつもりはないんだけど」
「……そうですね。でも、私は、いやなんです」
先輩がそんなふうに接するから、勘違いをしてしまったのだ。
先輩が私のことを好きかも、なんて思わなければ、私は自分の気持ちをけっして認めたりしなかったのに。
そう思った瞬間、中庭の草木をカサカサと鳴らしながら、風が近づいてきた。そして、わたしたちのあいだを通り抜けていく。
まるで、私の頭を冷やすように。
「まあちょっと落ち着け。意味わかんないからさ」
呆れたような声に、体が小さく震える。
いやだ、もういやだ。めちゃくちゃだ。
「とりあえずついてきてほしいところがあるんだけど」
「いや、です。無理、なんです」
お願いだから、今すぐひとりにしてほしい。今の私を、先輩にだけは見られたくない。これ以上幻滅されたくない。
「申し訳ないですけど、今日はひとりで行ってください」
深々と頭を下げて、先輩と目を合わさず通り過ぎた。
引き留められなくてよかった、でも、引き留められたかった
。
声をかけてくれて私の様子に気づいてくれた、でも、気づかれたくなかった。
相反する感情が同時に存在している。それが混在して、頭の中がぐちゃぐちゃになる。そのせいで、靴箱に向かうつもりが教室に向かっていることに階段にさしかかってからやっと気がついた。
なんてバカなんだ、私は。
けれど、まだあそこには戻れない。先輩がいるかもしれない。この状態でもう一度顔を合わせたら、今度こそ見栄を張れなくなってしまう。私のままで、凌げなくなる。私じゃないなにかになってしまう。
もうすでに、涙腺が爆発しそうなのに。
耐え忍ぶ場所を探さなければと、校内を歩き回り、階段の踊り場で足を止めた。昇降口に一番遠い階段で、なおかつ最上階。まだ校舎に残っている生徒はいるけれど、ここを行き来する人は少ないはずだ。
階段に腰を下ろし、ずっと息を止めていたかと思うほど今の自分が息を切らせていたことに気づく。はっは、と荒い呼吸でうずくまり、目をつむる。
私の言動に、きっと先輩は不信感を抱いていることだろう。
でも、私は気づいてしまった。
「……私って、卑怯だ」
惨めな気持ちを、先輩のせいにした。
先輩がやさしくなければ好きにならなかったのに、と。
振り返ってみると、いつだって私は相手の出方に合わせていた。告白されたから、つき合った。やさしいから、好きになった。フラれたから、別れた。
関谷くんに関して言えば、私は、つき合う前から彼のことをいいなと思っていた。でも、告白されなければつき合うことはなかっただろう。私から告白するなんてことは、考えもしなかった。
デートに誘うのもいつも相手からで、私はそれに対して、いいよ、とかここはどう、と答えていただけだ。けんかをしなかったのも、気持ちをぶつけていなかったから。気持ちを添えることなく、正論だけを口にしていた私は、たしかにかわいげがなく、キツく、相手への想いなんて伝わらなかったに違いない。
けれど、好きだった。
じゃあどうして、好きな人からの別れをすんなり受け入れることができていたか。いつも、「わかった」だけの短い返事しかしなかった。
悲しさはあったし、怒りもあった。
でも、諦めのほうが大きかった。諦めは納得とも似ている。
もしも希美や優子が、米田くんや瀬戸山に『かわいげがない』『キツイ』『僕のこと好きなのかわからない』なんて言われたら、優子なら怒るだろう。希美なら、悲しむはずだ。
けれど、私は諦めた。納得した。