交換ウソ日記2 〜Erino's Note〜



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   今 好きなやつとかいないってこと?
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   それとも今まで一度もねえの?
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   でも 俺も実は今が初恋なんだよなあ
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   俺のが恋愛の先輩ってことか!
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   うわ 上から目線になってるじゃん!
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   くやしいー! でもそのとおりだなあ
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   くやしいけど 教えてほしい!
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 返事が届いていたのは、その日のお昼だった。

 希美にも優子にもいったいなにがあったのかと何度も聞かれるくらい、その日ずっと、私の様子はおかしかったらしい。それもそのはずだ。ちょっとでも気を抜くと、すぐにノートのことを思い出してしまい、あわあわしていたのだから。

 彼はどんな返事をくれるのだろう。

 思い返せば、自分の書いたものはあまりにも乙女チックすぎたのではないか。

 あれを読んで、相手は戸惑うのではないかと不安になる。

 もしかすると、返事をくれないかもしれない、でももう届いているかもしれない、と休み時間のたびに靴箱を見に行ってしまった。

 つき合っている人からメッセージの返信がないことなんて、今まで一度も気にしたことのない私がこんな行動を取るのも信じられず、それもまた落ち着かなくさせる。

 結局昼休みも、お昼ご飯を食べる前に生徒会の仕事とウソをついてこっそりと靴箱に確認しに行ってしまった。中には相変わらずノートが入ったままだったけれど、念のために手にしてページをめくると彼の文字が残されていた。

 それを見た瞬間、体がふわっと浮いたみたいに軽くなった。

 持ち主の彼も、この交換日記を楽しみにしていてくれるのかもしれない。じゃなければこんなに早く返事はくれないだろう。ただ、頻繁にここに来ているといつか鉢合わせしてしまう可能性もあるので気をつけなければ。

 だからこそ、今すぐここを立ち去ったほうがいい。もしかしたら私と同じように昼休みに来るかもしれない。わかっているのに、返事に顔がほころびその場で返事をしてしまった。

 彼の、気さくな返事がうれしかった。

 そんなテンションが丸わかりの返答を残してしまったことに、教室に戻っている途中からまた落ち着かなくなる。

 私ってこんなに情緒不安定だっただろうか。私の中に違う私がいるみたいだ。

 ああ、よく考えたら、文章すっごく馴れ馴れしかったかも。

 相手もずっと砕けた口調なので大丈夫かな。

 私も、毎回丁寧じゃなかったし、いいよね。

 書き直したほうがいいかな。でも、また靴箱に戻るのはリスキーだ。諦めるしかない。今更悩んでも仕方ないでしょ、と普段の冷静な私を呼び起こして自分を叱咤した。

 そのとおりだ、わかっている。
 わかってるけど!

 壁に手をついて、はあっと息を吐き出した。本当になにしているんだろう、私は。

 いつもなら、どんなことでも冷静に対処できていたのに。感情が制御できないってなかなか体力を消耗するんだなあ。

 窓の冷たいガラスで頭を冷やそうと額をつけると、その先にいる人影に気がついた。

「……二ノ宮先輩?」

 三階の窓から見えるのは、ちょうど中庭だ。そこにはベンチがふたつあり、三年生のたまり場になっている。明るい髪色のせいで、先輩は誰よりも目立っていた。

 もともと目立っているのに、これ以上注目されてどうするのか。


「寒いところでなにしてるんだか。もの好きだなあ」

 先輩は同級生らしい男女五人と一緒にいる。楽しそうに大きな口をあけて笑っているのが私の位置からでもよく見えた。風が吹いて、髪の毛が乱れているのも。体が冷えているのか、ポケットに手を入れて体を縮こませているのも。

 この前はブレザーを着ずに走っていて、今日も寒空の下で過ごしている。本当に風邪を引いてしまわないだろうか。

 先輩の進学先は知らないので、これから受験があるのか、それともすでに決まっているのかはわからないけれど、後者だとしてもクラスには受験組もいるはずだ。インフルエンザにでもなったらシャレにならない。せめてコートを羽織って出てきたらいいのに。

 先輩を見ていると、さっきまで浮かれていた気持ちがすうっと引いていき、生徒会副会長の、今までの私に戻る。そういう意味では二ノ宮先輩をこの教室に戻る前のタイミングで見たのはよかった。あのままだったら、希美と優子に心配されていたかもしれない。

 私もこんな場所でじっとしていたら体が冷えるだけなので、さっさと教室に戻らなければいけない。けれど、なぜか先輩を見続けた。

 寒いはずなのに、あの場所だけは太陽の日差しが降り注いでポカポカしているように見えるからだろうか。

 ふと、先輩が誰かに呼ばれたのか、渡り廊下のほうに視線を向けた。つられるように私もそちらを見ると、ひとりの女子がぺこりと頭を下げている。雰囲気からして、三年ではなさそうだ。なんとなく見覚えがあるので、私と同じ二年かもしれない。理系コースの女子かも。

 低い位置でサイドテールにしている女子に、二ノ宮先輩が近づいていく。

 学年の違うふたりには、どんな接点があるのだろうか。

 先輩とサイドテール女子は親しげに談笑し始めた。女子の片手が先輩の腕にそっと添えられる。彼女の頬がほんのりピンクな理由は、相手が二ノ宮先輩だからだろう。それに、先輩も私の知っているちゃらんぽらんで子どもっぽい雰囲気が消えていた。

 なんだか大人っぽく見える。

 ……彼女、かな。

 二ノ宮先輩に彼女がいるならもっと噂になっていそうな気がするけれど、つき合いたてなのかもしれない。

「なるほど」

 その言葉の意味は自分でもよくわからなかった。



 放課後になると、一番に生徒会の仕事を終えて、やり取りしている靴箱に向かった。

 お昼休みに返事をしたばかりなので、さすがにまだだろうとは思いつつ、我慢ができなかった。ほんと、どうかしている。

 けれど、すでにノートには彼からの書き込みがあった。

 頬を緩ませながらページをめくった瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。


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   んじゃ これからよろしく!
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   ってか ノートのやり取りでいいの?
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   メールでも直接でもいいけど
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   そういえば俺らまだ名乗ってなかったよな
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   俺 二ノ宮静なんだけど きみは?
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   この前のノートって紛失した?
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   俺 返事書いたけど届いてない?
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   無視してないから 俺!
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 数日返事に悩んだものの、意を決してノートに返事を書いたのが昨日の真夜中のことだ。そして、週明けの月曜の今日、いざ靴箱に――と思ったら中には一枚の紙が入っていた。

 このノートの相手が二ノ宮先輩だとわかったのは先週のことだ。それから今日まで、私は靴箱には近づかなかった。返事が書けていなかっただけなのだけれど、そのせいで二ノ宮先輩を不安にさせてしまったようだ。いったい、いつからこの手紙が靴箱にいれられていたのだろう。

 悪いことをしてしまった。私だって、毎日何度も靴箱に確認しに来るほど気にしていたというのに、あまりの衝撃にその気持ちを失念していた。

 だって、まさか相手が二ノ宮先輩だとは微塵も想像していなかったんだもの。どんな人かとイメージした中に、先輩はいなかった。

 相手が二ノ宮先輩なのだと思って読み返せば、気さくな口調やぐいぐい来る感じはたしかに先輩だ、とも思うのだけれど。

 歌を贈るというのも、先輩なら納得だ。文化祭でライブをしたくらいだし、私は生徒会の仕事があったので聴いていないけれど、大人気で優子と希美が「かっこよかった!」と言っていたのできっと上手なのだと思う。てっきりコピーバンドだとばかり思っていた。もしかすると、オリジナルソングを歌っていたのだろうか。歌や楽器がうまくても、まさか作曲までできるとは。先輩って実はすごい人なのかもしれない。歌詞は……まあ、歌えば印象が違うということもあるし。

 ノートを見つけた日、放課後にハンカチを探していたのはウソだったのだろうか。すっかり騙されてしまった。先輩がハンカチなんておかしいと思ったのだ。

 はあっとため息をついてから、ノートを見直す。


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   忙しくてすみません
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   二ノ宮先輩だったんですね びっくりしました
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   いろいろすみませんでした
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   私のことは 忘れてください
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   さすがに先輩とお話するのは……
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 どれだけ考えても、この交換日記を続けるという選択には至らなかった。
 もちろん、もう少し、ノートを通して話をしてみたかったとも思う。けれど、先輩が名乗ったならば、私も名乗らなくてはいけない。

 いや、そんなの無理でしょ。っていうかいやだし。

 だって先輩は、私を知っている。

 そんな相手と恋について語るとか無理無理無理! 今までのやりとりを考えると絶対名乗りたくない!

 それに、私自身、相手が二ノ宮先輩だと知ってしまったあとでは、今までのようなやりとりはできない。なにを言われても、二ノ宮先輩が脳裏に浮かぶ。彼に接するように、私は返事を書いてしまう。

 じゃあどうするか。
 答えはひとつしかない。

 ノートを靴箱に入れて、パタンと扉を閉めた。

 その瞬間、肩の力が抜ける。

 今までは返事を書くたびにどきどきしていたけれど、今日は心が穏やかだ。いつもの私のペースで、それはどこかさびしくなる。

「っていうか、二ノ宮先輩、好きな人がいたんだなあ」

 教室に向かいながらぽつりとこぼす。

 この前見かけた年下らしき女子だろうか。あの先輩が片想いをしているなんて、なかなかのビッグニュースだ。もちろん、誰にも言わないけれど。

 よく考えると、私は二ノ宮先輩のことをほとんど知らない。

 話しかけられても先輩のことを目立ちたがりの馴れ馴れしい人としか見ていなかったので、さっさと話を終わらせていたし、先輩の姿を見かけても、また変なことをやっているのでは、と思っていただけだ。

 耳に入る情報と、目につく行動からなんとなくこんな人だろうと想像して、見て、接していた。でも、実際の先輩は、どんな人なんだろう。

 好きな人のことを想って、薔薇だとか世界だとかという歌詞を 書く人。見知らぬ相手に歌詞の感想を求めて、一緒に学ぼうとまで言い出す人。

 ……変な人。

 先輩は、もしもやり取りしていたのが私だと知ったらどんな顔をするんだろう。真面目な生徒会副会長としての私しか知らない先輩は、驚くに違いない。

 胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感に襲われながら、窓の外を見る。そこには、葉っぱを身につけていない寒そうな木々が、風で軋んでいた。

「名前、名乗らなくてよかったのにな」

 残念に思いながら、独りごちた。
 知らなければ、やりとりを続けることができたのに。


 ――その、はずだったんだけどなあ。


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   え なんで?
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   別に先輩でも後輩でもいいじゃん
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   俺は気にしないんだけど
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   せっかくの縁だしさー
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   気を使うなら名前聞かないし!
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 まさか返事があるとは……。

 もう交換日記は終わったと思った。あれだけはっきりと断ったのだから、二ノ宮先輩も返事はしないだろう、と。

 けれど。

 まさか次の日の朝、昇降口に『左手の右手の上で 待っている』というメモが貼られているとは。もう二度と開けるつもりのなかった靴箱を覗いてみると、案の定、ノートが入っていたのだ。おまけにこの返事。つまり、これからも交換日記を続けましょう、ということなのだろう。

「って、言われてもなあ」

 返事からは、やさし さが感じられた。先輩とか後輩とか、そんなこと気にしない人であることは、普段の先輩からもよくわかる。

 昇降口の扉にメモを残して返事を書いたことを知らせてくれたのは、相手(私)がどうするのか考えての行動だろう。このメモがなければ、私は靴箱を見なかった。

 人の気持ちに寄り添える人だ。
 相手がどうするかを想像することのできる人。

 自分勝手な人だと思っていたことが、申し訳なくなる。私は、勝手に先輩を自分の物差しに当てはめて見ていただけなんだと思い知る。何度も会話をしていたのに、私は先輩を知っているつもりになっていただけなのかもしれない。

 でも。

「無理だってば!」

 思わずひとり声を上げた。

 なんで食いつくの。おかしいでしょ。なにこれもう一回断らないといけないの? 言いにくいことを二度も言わせないでほしい!




「江里乃、今日ずっと険しい顔してるけどどうしたの?」

 希美の声に「え?」と思ったよりも大きな声を発してしまった。その様子に、希美は一瞬目を丸くしてから、ますます心配そうに眉を下げる。

「生徒会忙しすぎるんじゃない? 大丈夫?」
「あー、うん、大丈夫大丈夫」

 広げたもののほとんど手をつけていなかったお弁当を、パクパクと口に運びながら笑う。気がつけばつい、交換日記のことを考えてしまい、意識がどこかに飛んでいってしまう。そのせいで、今日は授業中も何度か上の空になっていた。

「ぼんやりしてるなんて、江里乃にしては珍しー」
「三学期はイベント盛りだくさんだもんねえ」
「希美のおすすめの曲でも聴いて元気だしなよ」

 優子をはじめ、まわりの友だちも意外そうにしながら私のことを話す。おすすめの曲を、と言われた希美はあわあわしながら「もしよければおすすめするけど」と私の顔を窺いながら言った。

 たしかに希美のおすすめを聴けば元気が出そうだ。というか目が覚める。

 普段はふわーっとしている希美だけれど、音楽の趣味は意外にもデスメタルとかいうかなり独特なものだ。私はあまり音楽に明るくないので、そっかーくらいにしか思っていなかったけれど、流行りにくわしい優子たちからすると、なかなかマニアックなジャンルのようだ。

 以前、希美はそれを隠していた。そのくせ、放送委員の希美は自分が担当のお昼の放送時にリクエストだと言って好きな曲をかけていた。そのたびに優子たちにからかわれ、顔を引きつらせていたのを覚えている。

 そのたびに、おそらく希美の趣味なのになんでみんな気づかないのだろう、希美も笑われるのがいやなら無難な曲をかければいいのに、と思っていた。好きなものをはっきり自己主張できないのに、芯が強いというか、ぶれないというか、頑固というか。

 二学期の終わりにカミングアウトしてから、さすがに優子たちもからかうことはなくなったけれど。それどころか、優子に関してはちょっと興味を抱きはじめているらしい。

 そんな希美と優子に、ちょっとうんざりする。でも、ちょっと、羨ましくも思う。

 私には、譲れないほど大好きなものもないし、否定できるほど流行りやメジャーなものを知らないから。

 自分がなにを好きで、なにが嫌いなのか、自分でもよく分からない。

 みんなにはしっかりしているとか自分の意見があるとか言われているけれど、実際には自分の意見なんか、なにもない。ただ、正しいと思われることに沿っているだけ。

 ――だから、先輩のあのポエムに惹かれてしまったのかもしれない。

 あのポエムには、彼だけの想いが詰まっていた。

『せっかくの縁だしさー』

 先輩からの返事に書いてあった一文を思い出し、縁か、と心の中でつぶやく。考えようによっては、そのとおりだ。

 でもなあ……。

 思わず似合わないため息をつくと、希美に「明日の放送では元気になる曲かけるね!」と気合を入れて言われた。

「瀬戸山くんから教えてもらった曲があってね」
「えー、なにそれのろけなの?」
「ち、違うよ! 本当にかっこいいんだよ。なんかこう、内側から元気になる感じ!」

 はいはい、ごちそうさまーと言ってみんなで笑うと、希美の顔が真っ赤になる。反応が素直だからついつい希美をからかってしまう。

「ありがとね、希美。明日楽しみにしてる」

 狼狽えている希美に伝えると、ふにゃりとかわいらしい微笑みが返ってきた。その表情に思わずドキッとする。

 瀬戸山も、きっとこういう希美の反応に惚れたんだろうなあ。


 お弁当を無事食べ終え、

「あ、ちょっと私、お手洗い行ってくる」

 と腰を上げて言うと「はいはーい」と優子の明るい声が返ってきた。

 ドアを開けて廊下に出ると、どこかの窓が開けっ放しになっているのか、ひゅうっと冷たい風が吹き込んでくる。トイレに行くだけだからとブレザーを教室に置いてきてしまったのは失敗だった。さっさと済ませようと、体を縮こませながら足早にトイレに向かう。

 廊下以上に冷え込んでいるトイレに入り、刺すような痛みがあるほど冷たい水で手を洗う。これだから冬はいやだ。ううーっと歯を食いしばり、再び廊下に出て教室を目指す。

 寒さから気をそらすように、考えに集中する。

 ああ、先輩への返事、どうしようかな。早めに返事をしないと。断るなら早いほうがいい。また前みたいに時間をかけてしまったら、先輩をやきもきさせてしまうかもしれない。……でも、なあ。

 うーんと腕を組み、まぶたを閉じて熟考していると、窓から突風が襲ってきた。

「……わ、っぷ、なに?」

 短い髪の毛が乱れる。薄目を開けると、目の前にキラキラ眩しいなにかが飛び込んできた。明るい毛が大きな猫か狐のように見えて、目を見開く。と、それが動物ではなく人であることがわかった。相手も私を見て驚いた顔をしている。

 知っている人なのに風のように颯爽と突然目の前に現れたから、おまけに明るい髪色が光を吸収して輝いて見えたから、それが誰なのか理解するのが遅れた。

「江里乃ちゃんかー。はは、ごめんごめん」

 明るい声に、はっとする。
 それが、見とれていたからだと気づいたのはその直後だ。

「二ノ宮、先輩」
「突然目の前に江里乃ちゃんが現れたからびっくりした」
「っ、いや、びっくりしたのはこっちのセリフですよ。突然現れたのは先輩のほうですから……」

 遅れて心臓がばくばくと動きだす。知らず知らずのうちに、私は息を止めていたらしい。声が心拍音に合わせて震えてしまう。

 っていうか。

「どこから来たんですか!」
「まあまあまあまあ」

 どう考えても窓から来たよね? え? ここ三階なんだけど?

 先輩と窓を交互に見ながら口をパクパクさせていると「まあまあまあ」と同じセリフを口にしながら肩をぽんっと叩かれた。まるで落ち着いて、となだめられているように。

 前にも、こんなことがあったっけ。

 ふと昔のことが蘇ると、先輩も同じ日のことを思い出したのか、「二度あることは三度あるかもなあ」と笑った。

 いや、笑いごとではない。こんなこと何度もあったらそれこそいつか先輩は大怪我をするはずだ。なんせ、仏の顔も三度まで、ということわざがあるのだから。



 あの日も、先輩は窓から突然やってきた。

 去年の、私が 生徒会に入ってしばらく経った、二学期のことだ。もうすぐ十一月だというのに、汗がにじむほど暑い日だったのを覚えている。

 二階の人気のない廊下で、私はひとりぽつんと佇んでいた。数分前に告げられた言葉を反芻させながら、呆然と、誰もいなくなった目の前を見つめていた。

 そのとき、今のように先輩が窓から飛び込んできたのだ。

『な、なな、なに!』

 落ち込んでいたはずなのに、そんな気分は一瞬で吹っ飛んでしまった。

 二階の窓から誰かがやってくるなんて想像していなかったので、魔法でも使ったのかと思った。実際には、三階の窓から排水管を伝って下りてきたらしい。意味がわからない。

『あはは。ごめんごめん』

 目を丸くする私に、先輩が満面の笑みで謝ってきた。ちっとも悪いと思っていないような、明るい笑顔に妙に落ち着かない気持ちになった。なんとなく、太刀打ちできないような、つかみ所がない印象を受けたのだ。

『ちょっと逃げて てさあ』
『……逃げるって、限度がありますよ。落ちて大怪我でもしたらどうするんですか。入院したら逃げるにも逃げれなくなりますよ』

 真面目に言ったのに、先輩はしばらく固まってから、ぶはっと噴き出した。

『は、はは、たしかに。そりゃ逃げれないな』

 笑いごとではない。

 おかしそうにお腹を抱えて笑われるようなことを言った覚えもないのだけれど。

 まるで人ごとのように笑う姿は奇妙に映った。自分のことを言われている自覚がないのか、それとも、そんなこと考えたこともないほど自分に自信があるのか、もしくは――自分のことなどどうでもいいのか。

 太陽のように明るいオーラでありながら、自滅的な人のようにも感じてしまう。目を離したら後先考えずに無茶苦茶なことをしでかしそうな、危うさがある。

 私とは、真逆どころか別惑星のけっして交わることない思考の持ち主だろう。直感的に、この人に関わるとろくなことにならないと思った。私がもっとも苦手とする、会話のできない相手だろう、と。

 けらけらと笑う先輩の額には汗が浮かんでいて、それが頬を伝って顎に流れる。ぽたんと床に落ちたしずくに、なぜか目を奪われた。どれだけ必死に走って逃げていたのだろう。昼間は暑くても、朝晩はずいぶん涼しくなった。季節の変わり目は、油断していると風邪を引きやすいのに。