愛蛇(あいだ)果奈(カナ)
昼休みに入ってもなお教室の真ん中の席で、
授業のノートに補足説明を書き加えている。

襟足で切ったショートボブの黒髪が
忙しなく動き、丸い頭が更に丸い。

ノートを見直していると、
カナの鼻腔(びこう)は不思議な匂いに満たされた。

それは幼い頃に河原のバーベキューで、
近所の子とふたりで食べた
不思議な味のサンドイッチの思い出。

前の席に誰かが座ったので、
カナの記憶の詳細は雲散霧消(うんさんむしょう)する。

ペンを置き、顔を上げると
カナの見知った人物であった。

「なんです、異本(いのもと)会長。」

よそよそしく言うカナの厚いレンズ越しに、
会長、異本イオンのにやけ顔が見える。

金色の明るい長髪を片側で編み結び、
らんらんとしたイオンの青く鋭い目が
会長としてのカリスマ性をあらわにする。

長身で目鼻立ちがはっきりしたイオンに対し、
カナは猫背でぼんやりとした顔で
いつも眠たげな目が冷たく人を寄せ付けない。

燦々(さんさん)と照る夏の太陽のようなイオンと、
冬の水面に浮かぶ月のように対照的なカナ。

「なんだか機嫌が良さそうね。」

イオンは嬉しそうにカナの顔を覗き込む。
普段と変わらない表情のカナは首を傾げる。

「いつもひとりぼっちの愛蛇書記に
 今日はステキなお弁当を用意したの。」

「ステキ…?
 ありがとうございます。会長。
 学食で食べるので結構です。」

ひとつ上の美人生徒会長が教室に現れ、
クラスメイトたちがざわめくのを
カナは背中にひしひしと感じ取る。

ふたりは後期生徒会の役員であり、
先輩後輩の間柄であった。

「なんと、アタシの手作り。」

「わたしの話聞いてました?」

カナが拒否したところで、
イオンが素直に聞くことはない。

書記のカナに生徒会長のイオンが
権限を行使している訳ではない。

カナは相手の押しの強さを知っていたので、
結局イオンの行動を素直に聞き入れる側になる。

カナは(あきら)めてため息をつき
ノートを机にしまう。
イオンの笑顔がいつにも増して(まぶ)しい。

「カナの好き嫌いってわかんないから、
 とりあえず手軽に作れるカレーにしてみたの。」

「お弁当に不向きなカレーはわざとですか?」

ひき肉のドライカレーをカナは想定したが、
イオンに常識的な振る舞いは期待できなかった。

一般的な弁当箱に液状のカレーが収まる訳はなく、
密閉されたプラスチック容器が
重々しい音を立てて机に置かれた。

目の前の見るからに校庭で集めた泥のことを、
イオンはステキなお弁当と言っていた。

「これのどこにステキ要素が。」

教室内に充満する匂いの発生源は
イオンが持ち込んだ弁当であった。

「会長特製の愛情たっぷり隠し味カレー。」

「名前から嫌な予感しかしないんですけど。」

「そんなことないでしょ。
 期待で胸のときめきが止まらない感じ?」

「自信たっぷりなとこ悪いですが、
 イオンちゃんの愛情がまず
 わたしにとって毒でしかない辺りですかね。」

「カナってば、先輩に向かって
 ひどい毒を吐くのね。
 そんなこと言われても
 アタシには効かないけど。」

「免疫できちゃっますもんね。
 変な子に育ててごめんね、イオンちゃん。」

「親でもないのになんでそんなひどい事言うの…。
 そんな毒もカナの愛と受け止めて置くわ。」

「頭にまで毒が回ってるんですか。」

「追い打ちの掛け方が悪魔みたいね。
 どうしてこんな子に育っちゃったのかしら?
 ママはカナちゃんの将来が心配だわ。」

「ウチのお母さんの真似するのやめてください。」

よく知った口調に変えたイオンに
カナはすぐさま抗議した。

カレーはタマネギを炒め、ジャガイモ、ニンジン、
牛肉やら魚介を入れて煮込み、
市販のルーを足せば簡単に完成する。

小学生でもキャンプ場で作られるほど
定番の煮込み料理である。

(ふた)を開けるとプラスチック容器から
()いだことのない刺激臭が放たれる。

茶色の液体の中に肉とも野菜とも言えぬ
得体のしれない固体が浮かぶ。

蓋にくっついた葉っぱが培養(ばいよう)土を連想させ、
外見から既に食べ物を超越していた。

「くっさ…。」

正直な感想をこぼす。

甘ったるい匂いと同時に、
嗅ぎなれない異臭に襲われ
カナは眉間にしわ寄せ指で鼻を(ふさ)ぐ。

「これのどこがカレーなんですか。」

見た目は欧風カレーのように暗い茶色だが、
匂いは明らかに既知のカレーとは異なる。

カナはカレーとの整合を求めたが、
鼻腔にこびりついた臭いが思考を拒む。

「角切りにしたりんごを
 バターで炒めてハチミツ、
 トマトジュース、赤ワインで煮込んで、
 ウスターソースとインスタントコーヒー、
 にんにく、チョコレートを混ぜ、
 仕上げにヨーグルトと梅干し、
 唐辛子、タバスコ、ローリエを入れ、
 一晩寝かせた隠し味具材限定のカレーよ。」

イオンの挙げた単語のひとつひとつに、
カナの頭に疑問がなだれ込む。

「カレーとは…?
 ルーさえ入ってないんですか?」

「ルーを入れてしまったら、
 それこそただのカレーじゃない。」

「いくらなんでもそんなのやる前に、
 無謀(むぼう)だって気づいてください。」

「食べたら分るわよ。はいあーん。」

カナは逃げられないよう首根っこを抑えられた。

強い臭いに鼻を塞いでいたので、
口で呼吸しなくてはいけないところに
イオンにスプーンをねじり込まれる。

制服に落ちるのを恐れて、カナは口を開けた。

開けてはいけない扉を開けてしまった。

口に入ったのは自我(じが)を失った梅干しの死骸(しがい)

リンゴとハチミツは優しさが消し飛び、
タバスコの酸味と唐辛子の暴力が
口の中を支配した混沌(こんとん)世界。

清浄な空気で口内の浄化を求めたが、
口で呼吸しても胃から込み上げる異臭が
カナの脳の側坐核(そくざかく)に不快感をもたらす。

生命の滅んだ終末(しゅうまつ)世界。

カナの脳は思考を停止した。

「どう? アタシの愛情。
 あ、泣けるほど美味しかった?」

カナの涙腺(るいせん)が口内の異物を排除しようと、
文字通り涙ぐましい努力をする。

「視界に異物が入ったんだと思います。」

「それアタシのこと?
 それでお味は?」

「…これはヘドロ味?
 ヘドロでも作ったの?」

「もうちょっと食べ物っぽい感想くれない?」

カナは口の中に残るヘドロを舌で(ぬぐ)い去る。

イオンの作った物質は
食べ物の限度を超えていた。

口内に唾液があふれ、舌がヒリヒリと痛む。

「自分で食べて。」

カナはスプーンを引ったくって、
イオンの口に同じ物質を押し付けた。

肉団子らしきまともな食材に一瞬目を疑うも、
カナも口にした梅干しの死骸だった。

整ったイオンの顔はいつもどおり、
味に表情を(ゆが)ませることなく平然と平らげた。

異臭と相まって昔、バーベキューの時に見た
イオンの顔をカナは思い出す。

その時の幼きイオンはむくれ顔で、
ツンとつり上がったその目つきから
今にも怒り出しそうな表情であった。

今のイオンはバーベキューの時とは真逆で、
明るい笑顔を絶やさない。

「あのサンドイッチを思い出しませんか?」

「ゴルフクラブの話?」

「そんな話一度もしたことないじゃないですか。」

「でもカナと久々に一緒に食べる
 お昼ご飯って最高ね。」

カナが記憶の糸をたどるより先に、
イオンの言葉に愕然(がくぜん)とさせられた。

「たしかに高校入ってから
 一緒することありませんでしたけど…。
 珍しく手料理なんて思ったら。」

言っている途中でカナは、
イオンがクラスにまでやってきた
本当の理由をようやく理解した。

「イオンちゃん…まさかそんなことの為に
 こんな物を作ってきたの?」

「だって一緒に食べようとすると、
 カナってばイヤがるじゃない。」

「そんなことでわざわざ
 校内放送使ったりするからですよ。
 普通に誘ってくれたなら、
 わたしもこんなに嫌がりませんし。
 それよりこんな嫌がらせかと思うもの
 作って持って来ないでください。」

どうしようもない理由で
目の前に座っているイオンに、
カナは喋り疲れて机にヒジをついた。

カナが周囲を見ると
クラスメイトはみな鼻をハンカチで(おお)い、
刺々しい奇異の視線を公害の中心部に向ける。

公害は別クラスの生徒たちも、
廊下に立って注目を集めた。

カナの鼻はすっかり慣れて、
慣れたどころか機能が麻痺(まひ)している。

「それなら今度はカナがアタシを誘ってよ。」

「…いいですよ。生徒会室でなら。」

こんな状況になってカナのためらう返事に、
イオンは顔をさらに明るくする。

「手料理ではありませんけど、
 負けないものを持ってきます。」

「…負けない?」

イオンに対抗するかのように
カナも口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。

教室内に漂う異臭の中、
カナはバーベキューの時に
サンドイッチに挟んで隠し味に潜ませた、
缶詰の魚をイオンにまた食べさせようと思った。

翌週、生徒会室の異臭騒動により、
校則で世界一臭いニシンの缶詰
『シュールストレミング』の
持ち込み禁止が決まった。