「予定日まであと二ヶ月くらい?」
「一ヶ月半くらいかな。いよいよってかんじがしてきた」
「瑠璃もお母さんになるんだね。すごいなぁ」
「考えられないよね。私が人の親になるなんてさ」
「ううん。きっと瑠璃なら優しいお母さんになるよ」
瑠璃が愛おしそうにお腹を撫でる。母性の滲み出るその笑顔が、すごく幸せそうで。
――もう瑠璃はすっかりお母さんなんだな。
人が母親になるって、こういうかんじなんだ。
お腹に新しい生命を宿すということは、こんなにも人を変えるものなのかと感動した。
「瑠璃が幸せそうで嬉しい」
「結衣は?」
微笑んだ私に、急に真面目な顔で瑠璃が問いかけてくる。
「結衣は今、幸せ?」
突然の彼女の言葉に、私は固まってしまった。
幸せ?
「なに、急に。普通だよ? 特別なにもないし」
「好きな人とか、彼氏とかできてない?」
「できるわけないじゃない。なに? なんでそんな話になるのよ」
頭の中が疑問符でいっぱいになって、勝手に少し早口になってしまった。
瑠璃は私をまっすぐに見つめている。
一瞬、視線を外したくなったけれど、彼女のただならぬ気配に目を逸らせなかった。
「まだ湊人くんのこと、好き?」
私は固唾を飲んで頷いた。
湊人への恋心は未だ胸の中に息づいていて、少しも色褪せてはいない。
「そっか。ねえ、結衣。もう結衣は幸せになってもいいんだよ」
瑠璃がふっと表情を柔らかくして、微笑んだ。
「ちょっと、付き合ってほしいところがあるんだけど」
そう言うと私の返事も待たずに「よいしょっと」とお腹をかばいながら立ち上がると、鞄を掴んでさっさと玄関の方に歩いていってしまった。
訳も分からず、私は彼女のあとについて行く。
先月、瑠璃の方から「結衣の実家に遊びに行ってみたいんだけど、いいかな?」なんて連絡してきたのに。
そんなこと今まで言い出したこともなかったし、妊娠後期の身体でこんな遠くまで来るなんて大丈夫なのかと思っていたのに、これはどういうことなんだろう。
「どうしたの? なに? 全然分からないよ。どこ行くの?」
「いいから」
瑠璃は私の方など降り返らずに、玄関ドアに手をかけて外に出て行った。
私はとりあえずデニムのポケットに玄関の鍵とスマホだけ突っ込んで追いかける。
「ちょっと待ってよ」
「ほら、早く」
身重とは思えないほど、軽快な足取りで歩く瑠璃の隣に並ぶ。いくら質問しても彼女の答えは要領を得なかった。
電車の線路沿いに住宅街を進むと、すぐにこぢんまりとした駅のロータリーが見えてくる。
そのロータリーを越えると、国道沿いにいくつかの店舗が立ち並ぶ場所に出る。
かつては市内の中心地として栄えていた商店街だったらしいけれど、今はちらほらとシャッターが下りたままになっていた。
コンビニやスーパー、八百屋にスナック、チェーンの飲食店に学習塾。
瑠璃はそれらをキョロキョロと見回して、一軒の店の前で足を止めた。
以前は高齢の女性が長く洋品店を営んでいた場所で、昨年から空きテナントとして看板が出ていたところだ。
いつの間にかリフォームされ、新しい店がオープンしたようだった。
くすんだブルーの木枠のガラス戸の上に『Lucioles』と書かれたクリーム色の看板が出ている。
――るしおるす? 初めて見る単語だ。
頭を捻って考えてみても、どういう意味なのかも正しい読み方も分からない。
家系のラーメン屋と学習塾に挟まれているのが不思議なほど、そこだけ欧風の洒落た店構えだった。
ガラス戸の他も全面硝子張りになっているけれど、くもり硝子のせいか店内の様子を伺い見ることはできない。
「なんのお店?」
「入れば分かるよ。はい、どうぞ」
瑠璃の行動も、この店も分からないことだらけで首を傾げる。
そんな怪訝そうな様子を気にも留めず、瑠璃は私の背中をドアの方に押し出した。
「私はここで帰るから」
「付き合ってほしいって言ったのに、帰るの?」
「私の役目はここまで。あとは、結衣が選ぶのよ」
「選ぶって何?」
「結衣の本当の幸せ」
彼女はきっぱりとそう言って、もう一度、私の背中を押した。
意味が分からないし腑に落ちない。でも、有無を言わせないような瑠璃の眼差しに、もうどうにでもなれという気持ちで、私はガラス戸を押し開けた。
涼やかな金属音がして、頭上を見ると星型のベルがたくさんぶら下がったドアチャイムが揺れている。
一歩踏み出して店内に入ると、背後で扉が勝手に閉まった。
通りに面して硝子張りになっているせいか店内は明るくて開放感があった。
手前にドアの木枠と同じようなくすんだ色のソファーと背の低い本棚、右手の白い漆喰の壁に沿って、大きな鏡と座り心地の良さそうな白い椅子が四セット並んでいる。
どこをどう見ても、美容院だった。
胸がざわついて、その場で立ち竦んでしまう。
「いらっしゃいませ」
ずっとずっと、何度も。
頭の中に幾度となく思い出してきた、高くて澄んだ声がして。
店の奥から出てきた湊人の姿を見て、私は息を呑んだ。
白い麻のシャツにデニムパンツ姿の彼は、相変わらずスラッとしていて。
髪色が暗くなって前髪を分けて額を出しているせいか、少し大人っぽくなったような気がする。
ずっと会いたかった、湊人の笑顔。
涙が溢れてきて、一年半ぶりに見る彼の姿が滲んでぼやけてしまう。
「湊人……」
声をあげて泣いてしまいそうで、私は唇をぎゅっと結んだ。
そんな私に反して落ち着いた様子の湊人が彼らしく不敵に微笑む。
「ご来店ありがとうございます。店長の白石です」
「なんでよ、なんで……」
「俺の店の最初の客は、やっぱり結衣じゃなきゃな」
その言葉で、私は全てを悟った。
これじゃぁ、あの時、私が離れた意味ないじゃない。
彼の人生を変えてしまいたくなんか、ないのに。
湊人が近づいてきて、細い指が私の頬に触れる。
堪えきれず目尻から零れてしまっていた涙を、そっと拭った。
「蛍、一緒に見に行くって約束したろ?」
覚えていてくれたんだ。
私だけじゃなかったんだ。
その事実だけで、湊人に抱きついてしまいたくなるほど嬉しい。
「俺の人生、勝手に決めてんじゃねぇよ。自分の人生は、自分で決める」
湊人の色素の薄い茶色の瞳が、懐かしい。
真摯な色を帯びた眼差しに、私は吸い込まれそうになった。
「私なんかで、いいの?」
「結衣がいいから、迎えにきたんだろ?」
胸がぎゅっと締め付けられる。
「結衣がいたから、俺は俺でいられた。俺は結衣のそばで俺らしくいることを選ぶ。結衣のいるこの街で、結衣の隣で、ばぁちゃんみたいな美容師として生きていく」
「それって……」
私の人生に、もう、こんなに幸せなことなんてないんじゃないかと思う。
だけど、本当にこれでいいの?
私なんかが、湊人の手をとってもいいの?
「私、結婚だって早くしたいし、すぐに子供だってほしいよ。湊人に挑戦してみたいことができても、どこか遠くに行きたくても、遊びたくても、私と子供が重荷になるよ?」
「だから?」
私は早口にまくしたてる。声が震えていた。
湊人は腕組みをして、私を見下ろしている。
口元に浮かぶ余裕の笑み。その表情にすら胸が高鳴るのに。
「だから、私は湊人より十歳も年上だし、私が四十歳になっても湊人は三十歳だし、私が六十歳になってもまだ五十歳なんだよ?」
「それで?」
湊人が意地悪な目で、私を覗き込んだ。
「結衣、俺のこと、まだ好きだろ?」
見透かされてる。
何を言っても、彼にとっては無駄な抵抗だ。
私がどんなに湊人から逃げたって、彼はきっと何度も追いかけてきてくれる。
私の気持ちを見透かして、何度だってつかまえにきてくれる。
こんな私なんかのために、人生を賭けて会いにきてくれる。
だったら、もう、私も湊人から離れない。
決心して頷いてしまうと、また涙が零れた。
「好き、大好き。……ずっと、会いたかった。」
「ん。素直でよろしい。それじゃぁ……」
湊人が私の手をひいて、鏡の前に座らせる。
鏡越しに私を見て微笑む湊人が、いかにも美容師っぽく「今日はどうしましょうか?」なんて言うから、私は以前、彼に言われた言葉を思い出した。
『これからもずっと、俺が結衣を綺麗にしてやるよ』
湊人のことが愛しくて愛しくて、たまらない。
この声も顔も強引なところも意地悪で優しいところも、全部。
もう離れろって言われても、離れてなんかやらない。
湊人が私を選んでくれたから、どんなことがあってもずっと、彼と一緒に歩いていく。
私はこの先の人生を、湊人と一緒に生きていく。
涙がどんどん溢れてきて、ぐちゃぐちゃな顔だけれど、私は精一杯の笑顔で言った。
これからもずっと、ずっと。
「綺麗にしてください」
草いきれの匂いに満ちた、外灯もない真っ暗な夜の公園を湊人と手を繋いで歩く。
柔らかな土や雑草を踏みしめながら、ゆっくりゆっくり前に進んだ。
期待に満ちた人々の囁きが、そこかしこから聞える。
「あ! ママ! 蛍いたよ!」
水辺の巨木のあたりから、幼い子供のはしゃぎ声がした。
五つほどの緑がかった光が、淡くゆっくりと明滅を繰り返しながらふわふわと舞っている。
蛍の求愛の光。
綺麗……。
なんて美しくて神秘的な光景だろう。
「なぁ、店名の意味、分かった?」
湊人にそっと問いかけられて私は首を横に振った。
「Lucioles……リュシオル。フランス語で蛍だよ」
「蛍……。リュシオル。綺麗な響きだね」
繋いだ手を湊人がぎゅっと握るから、私もやんわり握り返した。
左手に彼の温もりを感じながら、蛍が愛を囁き合うのを眺める。
約束どおり彼とちゃんとこの場所に来られて良かった。
「会いにきてくれて、ありがとう」
そっと囁くと、湊人の甘い声が降ってくる。
「また来年も、再来年も、じいちゃんばあちゃんになっても、一緒に蛍、見にこような」
一生分の約束だねと、私たちは指きりをして笑い合った。