通りに面して硝子張りになっているせいか店内は明るくて開放感があった。
 手前にドアの木枠と同じようなくすんだ色のソファーと背の低い本棚、右手の白い漆喰の壁に沿って、大きな鏡と座り心地の良さそうな白い椅子が四セット並んでいる。
 どこをどう見ても、美容院だった。
 胸がざわついて、その場で立ち(すく)んでしまう。

「いらっしゃいませ」

 ずっとずっと、何度も。
 頭の中に幾度となく思い出してきた、高くて澄んだ声がして。
 店の奥から出てきた湊人の姿を見て、私は息を呑んだ。
 白い麻のシャツにデニムパンツ姿の彼は、相変わらずスラッとしていて。
 髪色が暗くなって前髪を分けて額を出しているせいか、少し大人っぽくなったような気がする。
 ずっと会いたかった、湊人の笑顔。
 涙が溢れてきて、一年半ぶりに見る彼の姿が滲んでぼやけてしまう。

「湊人……」

 声をあげて泣いてしまいそうで、私は唇をぎゅっと結んだ。
 そんな私に反して落ち着いた様子の湊人が彼らしく不敵に微笑む。

「ご来店ありがとうございます。店長の白石です」
「なんでよ、なんで……」
「俺の店の最初の客は、やっぱり結衣じゃなきゃな」

 その言葉で、私は全てを悟った。
 これじゃぁ、あの時、私が離れた意味ないじゃない。
 彼の人生を変えてしまいたくなんか、ないのに。
 湊人が近づいてきて、細い指が私の頬に触れる。
 堪えきれず目尻から零れてしまっていた涙を、そっと拭った。

「蛍、一緒に見に行くって約束したろ?」

 覚えていてくれたんだ。
 私だけじゃなかったんだ。
 その事実だけで、湊人に抱きついてしまいたくなるほど嬉しい。

「俺の人生、勝手に決めてんじゃねぇよ。自分の人生は、自分で決める」

 湊人の色素の薄い茶色の瞳が、懐かしい。
 真摯(しんし)な色を帯びた眼差しに、私は吸い込まれそうになった。

「私なんかで、いいの?」
「結衣がいいから、迎えにきたんだろ?」

 胸がぎゅっと締め付けられる。

「結衣がいたから、俺は俺でいられた。俺は結衣のそばで俺らしくいることを選ぶ。結衣のいるこの街で、結衣の隣で、ばぁちゃんみたいな美容師として生きていく」
「それって……」

 私の人生に、もう、こんなに幸せなことなんてないんじゃないかと思う。
 だけど、本当にこれでいいの?
 私なんかが、湊人の手をとってもいいの?

「私、結婚だって早くしたいし、すぐに子供だってほしいよ。湊人に挑戦してみたいことができても、どこか遠くに行きたくても、遊びたくても、私と子供が重荷になるよ?」
「だから?」

 私は早口にまくしたてる。声が震えていた。
 湊人は腕組みをして、私を見下ろしている。
 口元に浮かぶ余裕の笑み。その表情にすら胸が高鳴るのに。

「だから、私は湊人より十歳も年上だし、私が四十歳になっても湊人は三十歳だし、私が六十歳になってもまだ五十歳なんだよ?」
「それで?」

 湊人が意地悪な目で、私を覗き込んだ。

「結衣、俺のこと、まだ好きだろ?」

 見透かされてる。
 何を言っても、彼にとっては無駄な抵抗だ。
 私がどんなに湊人から逃げたって、彼はきっと何度も追いかけてきてくれる。
 私の気持ちを見透かして、何度だってつかまえにきてくれる。
 こんな私なんかのために、人生を賭けて会いにきてくれる。
 だったら、もう、私も湊人から離れない。
 決心して頷いてしまうと、また涙が零れた。

「好き、大好き。……ずっと、会いたかった。」
「ん。素直でよろしい。それじゃぁ……」

 湊人が私の手をひいて、鏡の前に座らせる。
 鏡越しに私を見て微笑む湊人が、いかにも美容師っぽく「今日はどうしましょうか?」なんて言うから、私は以前、彼に言われた言葉を思い出した。

『これからもずっと、俺が結衣を綺麗にしてやるよ』

 湊人のことが愛しくて愛しくて、たまらない。
 この声も顔も強引なところも意地悪で優しいところも、全部。
 もう離れろって言われても、離れてなんかやらない。
 湊人が私を選んでくれたから、どんなことがあってもずっと、彼と一緒に歩いていく。
 私はこの先の人生を、湊人と一緒に生きていく。
 涙がどんどん溢れてきて、ぐちゃぐちゃな顔だけれど、私は精一杯の笑顔で言った。
 これからもずっと、ずっと。

「綺麗にしてください」