タクシーが私の住むマンションの前で停車した。
 新宿からけっこうな距離があったため、料金は一万円を余裕で超えている。
 それなのに彼は平然とクレジットカードで料金を支払うと、私を引っ張ってタクシーから降りた。

「二○三だっけ?」
「ここまでで大丈夫です。お金……」

 彼は財布を取り出そうとする私の手を遮って、マンションのエントランスにどんどん入っていく。
 エレベーターのボタンを押して、扉が開くと「ん」と顎でしゃくり、ここでもまた私を先に乗せる。
 私は黙って、二階のボタンを押した。
 どこまでついてくるつもりなのだろう。
 家にあがりこんでくるとしたら、やっぱり目的はそういうことなのだろうか。
 タクシー代すら私に払わせないのだから、お金目当てとか、詐欺とかそういった類のものでもないような気がする。
 ――男なんて、誰しもみんな欲求に正直に生きているものなのかな。
 こんなおばさん相手でもいいから、とにかく性欲を発散させられればいいのか。
 私はぼんやりと黙ったままの彼を見上げながら、それならそれでいいやと思った。

 エレベーターが一階から二階に上がるまでのほんの一瞬が、なんだかとてつもなく長く感じた。
 エレベーターが二階につくと、彼は先に立って降りていく。
 ひとつずつドアプレートの部屋番号を確かめて、私の部屋の前につくと、また顎で「ん」とドアを開けるように促してきた。
 私はハンドバッグを手探りして鍵を取り出す。
 キーホルダーもキーケースもなにもない、銀色のそれは廊下の灯りをにぶく反射している。
 明とペアで持っていたブランドのキーホルダーは、この前、思い切って一般ゴミに出したばかりだ。
 私は一瞬どうしようかと思ったけれど、大人しく鍵を鍵穴に差し込んだ。
 シリンダー錠がガチャンと音をたてる。
 ドアを開くと、彼もそのまま一緒に室内に入ってきた。

「おじゃまします」

 強引で有無を言わせない態度だったのに、あまりにも自然にそんなことを言うから、驚いて彼の顔を見る。
 彼の彫刻のように整った横顔が、ちょっと笑っていた。
 私がどうしたらいいのか分からず立ち尽くしていると、彼は壁を手探りして勝手にスイッチを押してライトをつける。
 まぶしくなって目を細める私をソファーに座らせて、彼はキッチンに向かった。
 明と選んだグリーンの布張りのソファー。
 一瞬でまた明との思い出がフラッシュバックしそうになって、唇を噛んでやり過ごした。
 彼は他人の家だというのに、勝手に食器棚からグラスを取り出して、水道水を注いでいる。

「飲めよ」

 差し出されたグラスを受け取ると、蛍光灯の灯りを反射して銀色に光る水面がちゃぽんと揺れた。

「……ありがとう」

 セックスがしたいだけなら、こんなに親切にしてくれなくていいのに。
 優しくなんかしなくてもいい。
 さっさと済ませてしまえばいいのに。
 彼は空っぽのCDラックを首を傾げて見つめている。
 明は抜き取って行ったお気に入りのCDを、今どこで誰と聴いているのだろう。
 これもまた明との思い出の抜けがらだった。
 私が惨めに捨てられたという痕跡と、明の抜けがら。
 ……見ないで。こんな自分を、知られたくない。
 私は焦燥感に突き動かされて立ち上がると、彼の胸に抱きついた。