私は腕で涙を拭うと、急いで身支度をして急用ができたので帰るとだけ書置きを残して逃げるようにマンションをあとにした。
 そうでもしなければ、決心が鈍ってしまいそうだった。
 朝、目覚めた彼に名前を呼ばれ微笑まれれば、二度とそばから離れたくなくなってしまう。
 ただでさえ、こんなに。
 本当はこんなに離れたくないのに。
 もし直接さようならを言えても、湊人に引き止められたら、もう(あらが)える自信はない。
 しがみついて、ずっとそばにいたいと思ってしまう。
 始発電車はもう動いていて、私は急いで自宅に戻ると慌しく荷物をまとめた。
 すぐに湊人の前から姿を消そう。
 できるだけ早く、湊人の手の届く範囲からいなくなろう。
 持っていくのは日用品だけで構わない。
 家具は全部、リサイクルショップにでも引き取りにきてもらおう。
 私は必要最低限の荷物をスーツケースにしまうと、もう帰ってこないであろうこの部屋を見渡した。
 明との思い出でいっぱいだった部屋。
 それが今は、自分でも笑ってしまうくらいに湊人との思い出で満たされていた。
 また鼻の奥がつんとして、私は頭を振った。
 CDラックに残された湊人の勧めてくれたCDが目に入る。
 そっと手を伸ばして、私はそれを抱きしめた。
 こんなもの一つでも、湊人との思い出だ。
 私はCDをスーツケースにかけてあったボストンバッグにしまう。
 これは、持っていきたい。
 私は深呼吸をすると、何年間もお世話になったこの部屋に頭を下げた。
 そして玄関のドアを開ける。
 朝陽の光が目に差し込んで眩しい。
 どんよりと落ち込んだ私の感情に反比例して、快晴の秋の朝は清々しかった。
 時刻はもう八時になろうとしている。
 私は瑠璃に電話をかけた。
 湊人の前から姿を消すということは、彼女の店でのアルバイトも辞めなければならないということだ。
 せっかく私を気遣って申し出てくれたのに、こんな形ですぐに辞めたいと言うなんて、とんでもなく無礼な行為だと思う。
 瑠璃と義信さんのことを思うと、心が痛んだ。