湊人は改めて細部を整え、仕上げのスプレーをする。
 全体のバランスも良いし、しっかり固定することもできた。
 最後に確認してもらうため、A4サイズほどの二面鏡を持ってきて後姿を映して見せる。
 上品で華やかなアップスタイルが、彼女によく似合っていた。

「お待たせしました。よくお似合いですよ」
「わぁ、すごい」

 結衣が大きな瞳が零れ落ちそうなほどに目を見開いて、ふわりと笑った。
 右頬に浮かぶ笑くぼ。

「なんだか、自分じゃないみたい」
「よかった。お疲れ様でした」

 満足そうな結衣に安堵(あんど)しながら鏡を手近なワゴンに戻すと、ケープを取ってクロークまで案内しようと座席を方向転換させた。
 そこで結衣が思いついたように手元の花柄のポーチをがさごそと探る。

「あの、これ。よかったら」

 ふいに湊人に差し出されたそれは、白地に苺柄の入った包みの両端をねじられた、昔ながらの苺ミルク味のキャンディーだった。
 結衣の白っぽい華奢な手のひらの上で湊人を見上げるセロハンの苺模様。
 彼は戸惑って、首をもんだ。
 本来、この店ではお客様からの差し入れは受け取ってもいいことにはなっているけれど、どうしたものかと逡巡する。

「えっと、いいんですか?」
「はい」

 結衣は勝手に彼の手をとって、てのひらにキャンディーを握らせる。

「美容師さんって自信とか、幸せを作る仕事なんですね」

 突然の結衣の行動に湊人は呆然と彼女を見下ろした。

「働くって、すごく大変なことで……きっと理不尽なことも、嫌なこともありますよね。だけど、私は今日一日、白石さんのおかげで幸せに過ごせます。こんな三十路のおばちゃんでも、いつもより何割増しかで綺麗に見えると思う。スピーチだって、大丈夫な気がしてきました。ありがとう」

 今度は湊人の双眸(そうぼう)が見開かれた。
 人の幸せを作る仕事。それは彼が、祖母に抱いた感情だった。
 葬式の弔問客たちが祖母の思い出を語る度に、彼らの生活にいつも祖母が寄り添っていたのを知った。
 彼らの生活の中の小さな幸せを、祖母が作っていたのだということを知った。
 まだ幼かった彼は、そんな祖母のような仕事がしたいと思ったのだった。
 そして今、自分が人の幸せを作ることのできる立場にいるのだと改めて気付かされた。
 湊人の心の中に結衣の言葉が、波紋(はもん)のように広がっていく。

「ありがとうございます」

 湊人は深々と一礼した。この職業に就いてから、ストレートにこんなことを言われたのは初めてだ。
 他の女性客と同じようにお世辞を言っているのかもしれないとも思う。
 しかし彼女の瞳はまっすぐで、媚びるような色なんて一ミリもない。
 とてもそんな風には見えなかった。

 会計を終えてガラス扉を開けるとエレベーターで一緒に一階まで降り、エントランスで見送りをする。
 蛍光灯に目が慣れていたせいで、外の太陽光が白く(まぶ)しい。
 その光のなかで、結衣が湊人を振り返って柔らかく微笑んだ。
 綺麗だ、と思う。
 レースで縁取られた紺色のワンピースや、パールとビジューのアクセサリーで着飾っているからだけじゃない。
 湊人の手で作り上げたヘアスタイルのせいでもない。
 結衣から(にじ)みでる温かさに、湊人は惹きつけられた。
 彼が(ほう)けている内に、結衣は軽く会釈をして駅の方へ去っていく。
 その後ろ姿が完全に人波に消えてしまってから、湊人はやっと我に帰った。
 結衣に握らされてからデニムのポケットに突っ込んでいた飴玉を取り出す。
 苺ミルク味のそのキャンディーを、子供の頃はよく舐めていたことを思い出した。
 包みを開いて口に放り込むと、懐かしい甘さが口内に広がっていく。
 なんとなく包み紙を指でつまんで目の高さまで持ち上げると、何か文字がプリントされていることに気付いた。

『かわいいからあげる!』

 メーカーの遊び心でプリントされているであろうその文字が、無性に可笑しくなって湊人は思わず吹き出した。
 笑いと一緒に、何故だか涙が溢れてくる。

「なんだよ、それ……っ……なんだよ……」

 笑い声は徐々に嗚咽(おえつ)に変わり、湊人はその場にしゃがみ込んで身体を震わせた。