「行くぞ」
「え?」

 彼は私の手を握ったまま、人混みのなかをずんずん歩き出す。
 お酒のまわった足がなかなか言うことをきかずに転びそうになると、彼はちょっと振り向いてから歩くスピードをおとした。
 私はよろよろとついていく。
 どこに連れて行くつもりなのだろう。「ちょっと待って、どこに行くの?」と言っても、彼はなにも応えない。
 もしかしたらこれは少女漫画どころか、さっきと同じようなナンパなのかもしれないと思えてきた。
 このままホテルにでも連れて行かれるのかも。
 でもこんな相手に不自由していなさそうな子が、なぜ。
 あ、そうか。この美貌(びぼう)だしホストなのかもしれない。
 スーツは着ていないけれど、これから出勤の可能性もある。
 実際、ボロボロの三十路の私と、ハタチそこそこのイケメンが並んで歩いている図は、すれ違う人の目には酔っ払った客と同伴出勤するホストに映っているかもしれなかった。

「もしかして、ホストですか?」
「……はぁ?」

 恐る恐る尋ねた私に、彼は心底うんざりしたような顔をしたけれど、それ以上なにも言ってはくれなかった。
 違うっていうことなのかな。
 靖国通りに出ると、彼はたった今、キャバ嬢と客らしき男性を吐き出したばかりのタクシーに向かって手を挙げた。
 戸惑う私を、いいから、と強引に後部座席に押し込んで、彼も隣に乗り込んでくる。
 ふわっと甘く爽やかなシトラス系の香水の香りがした。
 運転手の「どちらまで?」という問いかけに、彼がこちらを見て口を開いた。

「住所」
「住所?」

 ポカンとする私に、また感情の読めない瞳で彼は言った。

「あんたの家まで送るから、住所言って」
「いや、大丈夫です。ひとりで帰れます」

 彼が眉間に皺を寄せてため息をついた。

「あんた、旦那か彼氏、いんの?」

 唐突な質問に驚きつつも「……いませんけど」と答えると、運転手が苛立たしげに貧乏ゆすりを始めた。どうでもいいから早く決めてくれということらしい。

「じゃぁ、やっぱり送る」

 私が狼狽(うろた)えていると、彼はきっぱりと言って勝手に私のハンドバッグをがさごそと探りはじめ、財布を取り出した。

「ちょっと!」

 私が財布を奪い返そうとするも、彼は気にもとめずに中から健康保険証を取り出して運転手に住所を伝える。

「そんなんで、ちゃんと帰れるわけないだろ。いいから黙って送らせろ」

 彼は私に一瞥(いちべつ)をくれると財布をバッグに戻して、動き始めた車窓から黙って景色を眺めていた。
 作り物のようにすら感じる彼の横顔のむこう側を、たくさんの灯りが流れていく。
 なにを考えているのか、その表情からは読み取ることができなかった。
 彼の目的が分からない。
 こんな間違いなくイケメンと呼ばれる(たぐい)の男の子が私を助けることに何のメリットがあるというのか。
 ナンパじゃなければ何かの詐欺?
 宗教の勧誘?
 家まで来て怪しげな壷でも売りつけられるとか。
 なにか目的がなければ、こんなしょぼくれた、年上の酔っ払いの私になんか構うはずがない。
 私は繋がれたままの彼の大きな手を眺めながら、ただただ混乱していた。