「だりぃ。早く帰りてえ」

 それが二年前の、スタイリストデビューを果たしたばかりの湊人の口癖だった。
 専門学校を出て、このサロンに入社してから人並みに努力はしてきたつもりだった。
 早くアシスタントを卒業して一人前になりたい。そう志して連日、夜遅くまで店に残って練習を重ねてきた。
 やっと目標にたどりつけたと思っていたのに。
 
 湊人の母方の祖母は静岡の小さな町で長年、理容室を営んでいた。
 彼はたまの帰省の際に、祖母のがさがさした小さな手で髪を切ってもらうのが大好きだった。
 早くに夫を亡くし、湊人の母と弟を理容室をきりもりしながら女手ひとつで育て上げた、優しくて快活な女性だった。
 湊人が八才の時、祖母が亡くなった。
 初めて目の当たりにする近しい人間の死。
 まだ子供だったこともあって、棺の中で眠る祖母を見てもいまいちピンとこなかった。
 それでも葬式で理容室の常連だったという大勢の弔問客が口々に祖母の思い出を語るのを見て、人の髪を切る仕事に就きたいと幼心に夢が芽生えた。
 一緒に入社した同期は早々に退職していったけれど、激務にも耐えぬいてスタイリストを目指してきた。
 それがようやく叶ったというのに。
 湊人がスタイリストになると、その力量とは関係なく外見のせいで女性客からの予約が増大した。
 その中には先輩美容師である小林 敦(こばやしあつし)から鞍替(くらが)えをする女性もいて、それを妬まれて嫌がらせをされるようになった。
 あからさまで陰湿な嫌がらせの数々に、湊人は疲弊(ひへい)していった。
 もう学生でもないのに、こんなくだらないことがまかり通るのか。
 大事にしていたハサミがなくなるのだって、これで何度目だろう。
 仕事へのやる気もすり減って、いつの間にか、ただなんとなく日々をこなす為だけに出勤するようになっていた。
 もういっそ辞めて別の道に進もうか。
 女性客たちは自分を色眼鏡で見るばかりで、純粋に髪を切ることで喜んでももらえない。
 同僚からはそのせいで疎まれる。悪循環ではないのか。
 湊人は美容師である意味を、完全に見失っていた。
 ゴールデンウィーク最初の日曜日。
 近頃は提携しているサロンの総合予約サイトからの新規予約や、飛び込みの客は大抵が小林や他のスタイリストにまわされるようになっていた。
 店長とマネージャーは小林がうまく言いくるめているようで、そんな状況でも誰も湊人に新規の客がつかないことに何も言わなかった。
 その日は店自体がとても混雑していて小林の手も空かず、珍しく湊人がネット予約の客を任された。
 ヘアセットのみの女性客。
 カットもないし、さっさとテキトーに済ませてフライヤーを配るふりでもして外でさぼろう。

「山本結衣様ですね。白石です。よろしくお願いします」

 紺色のサテンのワンピースを着た結衣が、鏡越しに湊人に微笑んで会釈をした。
 首元でネックレスのビジューが照明を反射してきらりと光った。

「よろしくお願いします」
「ご希望のスタイルはありますか?」
「色々、ネットで見てみたんですけど、どんなのが似合うのか分からなくて。普段から不器用であんまりアレンジもしないからか、想像できないんですよね」

 結衣は苦笑いして、自分の髪の束をつまんだ。
 赤みがかったトーンの低い茶色の髪は、胸のあたりまで長さがある。