浮気をして、あんな風に長年付き合ってきた恋人を簡単に捨てられる人だと分かった時点で理解しなければいけなかったはずなのに。
 思い出とか、未練とか、愛情とか、執着心とか、そういうものが私を盲目にさせていた。
 ただ、優しくて。ただ、穏やかで。
 自分のことは何もできなかった明。
 口ベタで、それでも大事な時にはきちんと言葉にしてくれていた明。
 あまりにも思い出がありすぎて。あまりにも多くの時間を共有しすぎて。
 彼の本質に気付かないように自ら(ふた)をしていた。
 もしかしたら、これは酔いと怒りに任せた言葉なのかもしれないと思いたい自分がいるのは嘘じゃない。
 けれど、それもまた彼の中にいる、本当の明の一部だ。
 背中に優しく添えられていた湊人の手が、ぐっと私を前に押し出した。
 よろっと一歩前に出て、明と対峙(たいじ)する形になる。

「結衣。こんなしょうもない男のために、二度も悲しむな。振り回されるな。笑え!」

 はっきりと、力強い湊人の声が、私の心を打った。
 胸いっぱいに大きく息を吸い込んで、両手を握り締める。
 すくみそうになる両足で踏ん張って、まっすぐ明の目を見つめた。
 ちゃんと決別しなければならない。
 私をここまで導いてくれた湊人と、新たな人生を歩んで行く自分自身のために。

「もう、私の人生に、明はいらない」
「結衣!」

 明が小さく叫んだ。
 彼の顔が私の知っているものに戻って、瞳が揺れる。

「もう、私の人生に関わらないで。私はもう明を振り返ったりしないし、明を愛することは絶対にない」

 涙が溢れてきて、明の後ろでチカチカしているネオンが(かす)む。
 でも、絶対に今は泣きたくない。
 自分を落ち着けるように、大きく息を吐く。
 これで、最後。これを言ってしまえば、もう私は二度と明と人生を交えることはない。

「二度と、私の前に現れないで」

 笑え。湊人がそう言ってくれたから。
 湊人が笑顔を取り戻させてくれたから。
 私は今にも嗚咽(おえつ)が漏れ出しそうな震える唇を、ぐっと引き上げた。
 明を見つめたまま、精一杯の笑顔で。

「明。今まで、ありがとう。さよなら」

 目を見開いた明の唇が、(かす)かに動いて、ぎゅっと結ばれた。
 そのまま何も言わず、苦しげな表情で(きびす)を返す。
 肩を落とした背中が遠のいて雑踏に消えていった。
 これで本当に終わった。
 私と明の十三年間が、やっとこれで本当に終わったんだ。

「よく頑張ったな」

 湊人がふわっと私を抱きしめる。
 もうそばで幾度も感じてきた彼の香水のかおり。
 温もりで安心感で胸がいっぱいになる。
 私も湊人の身体に腕をまわして、強く抱き返した。
 湊人の片手が優しく私の頭を撫でる。
 街中の路上の端っこで、いい大人がこんな風に抱き合っている。
 本来は恥ずべき行為なはずなのに、今日だけは、今だけは、どうか許してほしい。
 ちらっと視線を向けてくる通行人を、湊人の肩に顔をうずめ、目をつむってやり過ごす。
 あやすように、やんわりと私に触れる湊人の手が愛しい。

「また、おばさんを子供扱いして」
「おばさんだなんて思ったことねぇって。結衣は綺麗だよ」

 私と湊人はくすくすと小さく笑い合った。