「結衣?」

 雑踏(ざっとう)のなかで私の名前を呼ぶ声がして、肩が大きく跳ねた。
 神話に出てくる怪物に見つめられ石にでもされたかのように、体が固く冷たくなっていく。
 今は一番、聞きたくなかった声。
 声をした方を振り向くと、何年か前に私が選んだグレイのスーツを着た赤ら顔の明が呆然と立ち尽くしていた。

「結衣。誰だよ、そいつ」

 人並みをかき分けて、明が近づいてくる。
 やめて。来ないで。
 明にぶつかった同世代くらいの男性が、苛立たしげに舌打ちをして離れていく。
 逃げ出したい。
 あんなに懐かしいとか、少しでも戻りたいと思っていたはずなのに、今、ここから逃げ出したくて堪らない。
 湊人に明を見られたくない。
 湊人と一緒にいる私を、明に知られたくない。見られたくない。
 どういう感情でこんなことを思うのか、自分がどうしたいのか、頭の中がぐちゃぐちゃで分からない。
 唇が小刻みに震える。
 湊人がそっと私の腕を引き寄せた。

「おい、何、手なんか繋いでるんだ。結衣。なぁ」

 湊人と私を交互に見比べながら歪んでいく明の顔。
 目は怒りを剥き出しにしているのに、片側の口角を吊り上げて薄ら笑いを浮かべている。
 十年以上、一緒にいて一度も見たことのない表情。
 私を(さげす)むような、嘲笑(あざわら)うような顔。

「なに? 俺とちょっと離れてただけで、もうそういうことかよ」

 やめて。
 血の気が引いていく。
 何か言いたいのに、言葉が出てこない。声が出せない。

「結衣、自分の年、分かってんのかよ。こんな若い男、ひっかけて恥ずかしくないの?」

 お願い、やめて。

「あの時、お願い、捨てないでってお前が泣きついて来たから戻ってきてやったんだろ? それを、まさか、なぁ。こんなに早く、新しい男作ってたなんてな」
「明!」

 お願い。そんな顔しないで。そんなこと、言わないで。
 これ以上、最低な男にならないで。
 搾り出した声が喧騒(けんそう)に溶けて消えていく。
  うまく言葉を続けることができなくて、私は唇を噛んだ。
 湊人が私の背中に手を添えて、やんわりと叩いた。

「あれ、もしかして元彼さんですか?」

 湊人がにっこりと微笑んで首を傾げる。
 いつもの余所行きの笑顔なのに、目の奥が笑っていなかった。

「どうも、はじめまして。今彼です」

 湊人の嘘が、明の頬を上気させる。
 明は憎憎しげに湊人を睨み、鼻で笑った。

「マジかよ。あんた、本当にこんなおばさん、相手にしてるのか? 結衣も結衣だろ。最低だな」
「あれ? もしかして僕が若くてイケメンだからって、自分と比べて卑屈になっちゃいました?」
「はぁ? 何、訳わかんない言ってんだよ」

 明の顔がどんどん赤くなるのに反して、湊人の瞳がすぅっと冷たくなる。

「大体、若い女作ったのは、どこのどなたでしたっけ? あ、もしかして、その人に捨てられちゃったとか? それで、なんでも受け止めてくれそうな結衣さんの所に、都合良く戻ってこようとしたんじゃないですか?」

 微笑をたたえたまま、湊人が言い募る。
 こんな、どっちつかずで不甲斐ない私のために。

「ふざけるなよ。結衣が泣いてすがったから、戻ってきてやったんだよ。それなのに、こんな尻軽女だったなんてな。十三年も一緒にいたのに気付かなかったよ」

 明の怒りに任せた言葉が、槍のように私に降りかかる。