出会った翌朝のように、私はまた湊人に運ばれてベッドの上で眠っていた。
 涙を流すことは心のデトックスになると何かで目にしたことがあるけれど、昨夜のことが嘘のように清々しい気分。
 部屋に漂うコーヒーの香ばしい匂いにつられて起き上がると、湊人が勝手知ったる様子でダイニングでマグカップに口をつけていた。
 私に気付いてベッドまで歩み寄って、隣に腰を下ろした。
 たくさん泣いたし化粧も落としていないから、きっとひどい顔をしているんだろうな。

「おはよ」
「おはよう。すっげえ。寝癖、どうなってんだ、それ」

 私の頭をくしゃくしゃと触って可笑しそうに目を細める湊人に、頬が赤くなった気がして顔を伏せる。

「ちょっと、やめてよ」
「つーか。なに、それ? 誘ってんの?」

 湊人に指差されて初めて、ワンピースの(すそ)がまくれあがって太ももが(あらわ)になっていたことに気付く。

「そんなわけないでしょ!」

 私は叫び声をあげて、急いで裾を膝まで引っ張った。急激に体温が上昇した気がする。

「そんなに慌てなくても何もしねえよ。他の男のことを考えてる女は抱けない」
「……ごめん」
「それとも抱いてほしかった?」

 湊人はいつもの彼らしい悪戯《いたずら》っこみたいな顔で笑って、私をまた慌てさせる。
 からかわれてばかりだ。
 なんだか悔しくて、恥ずかしくて、私は手近にあった枕を湊人に投げつけた。

「いてぇっ」

 枕は彼の顔面にクリーンヒットして、足元に落ちる。
 してやったり。
 笑いがこみ上げてきて、私は抑えきれず肩を震わせた。

「お前なぁ、それが朝まで見守っててくれた相手にすることかよ」

 彼は自分の言ったことは棚にあげて、呆れたようにため息をつくとベッドから立ち上がった。

「もう元気でたっぽいな」
「ごめんね。ありがとう」
「悪いと思うなら、今夜、付き合えよ。久々に焼肉行こうぜ」
「うん、いいよ。お詫びにご馳走させて。バイトも始めたんだし」
「おー、じゃぁ一番良い肉、頼むわ」

 湊人は私の頭をぽんぽん叩く。
 大きな手のひら。
 既にそんなことも当たり前に受け入れるようになっている自分に気付く。
 湊人のおかげで、私はどれだけ救われてきただろう。
 もしも。もしも、今。
 明の手をとってしまったら。
 湊人のこの温もりも、意地悪な笑みも、分かりにくいくせにストレートな優しさも、私をまっすぐに見つめる瞳も、全部、失うことになる。
 そう意識した途端、胸が張り裂けそうに痛んだ。
 湊人を失いたくない。
 彼のすべてが愛しい。
 それでも、まだ。
 ここで明を拒んで、今度こそ本当に私の人生から彼が消えてなくなることを選ぶ勇気がでない。
 十三年という長い年月が、私をがんじがらめにしていた。
 
 いつものように湊人の職場前で待ち合わせをして、以前、彼に連れて行ってもらった焼肉店で食事をした。
 敢えて何事もなかったかのように、軽口をたたきあって特に意味のない冗談で笑う。
 明のことを考えずに過ごす楽しい時間。
 時間が止まればいいのにと心の中で願ってもあっという間に時が過ぎて会計の段になると、やっぱり今日も湊人があっさり先に支払ってしまった。
 終電の近い時間帯でも、金曜の新宿は休日前に色めきたった大人たちで溢れている。
 人ごみを縫いながら急ぎ足で歩調を合わせる私を、湊人が横目で見てから黙って手を握ってくれた。
 それがどうしようもなく嬉しいのに、鼻の奥がつんとして寂しさが胸に(つの)った。
 私もぎゅっと強く握り返す。
 そっと隣を(うかが)い見ると、まっすぐ前を向いた湊人の横顔が複雑そうな表情をしていた。