蛍の頃に会いにきて

「あらー、いらっしゃいませー」

 瑠璃の歓声にも近い挨拶が聞こえて、私はもう手遅れになってしまったことに気付く。

「もしかして……年下君?」
「年下君?」

 瑠璃がにまにましながら私に耳打ちするも、まる聞こえだったようで湊人が訝しげに首を傾げた。
 ――お願いだから、変なこと言わないで!
 私は慌てて顔の前で手をぶんぶん振った。

「なんでもない!」
「ごめんごめん。えーっと、私、結衣の大学時代からの友人で、今は雇い主の伊藤瑠璃です」
「白石湊人です。結衣さんにはいつもお世話になってます」

 湊人は余所行(よそい)きの笑顔で瑠璃と自己紹介の言葉を交わしている。
 湊人の苗字が白石だということを、私は初めて知った。

「結衣からうかがってます。あ、よかったらどうぞ。店開けますので」
「いいんですか? 十六時って聞いたので、待ちますよ」
「いいんです、いいんです。大事な友達の恋人を待たせるわけにはいかないじゃないですかー」
「ちょっと、瑠璃!」

 笑顔でとんでもないことを口走る瑠璃に、思わず上ずった声で叫んだ。
 湊人の爽やかな作り笑いが、一瞬いつもの悪戯っこな笑顔に変わる。

「残念ながら、恋人じゃないんですよ。今はまだ」
「きゃー! ちょっと、今の聞いた? 今後はそうなる予定ってこと? ねぇ、結衣!」
「……聞こえてるよ」

 色めきたつ瑠璃に、私は肩を落とした。
 この二人、けっこう相性がいいのかもしれない。
 絶対、二人して私が困るのを面白がっている。
 だから会わせたくなかったのに。
 瑠璃が湊人を店内の窓際の席に通してから、私の腕を掴んでキッチンに引きずり込む。

「湊人くんっての? あの子、想像以上にイケメンじゃない!」
「う、うん」
「しかもさっきの聞いた? 今は、まだ。だって!」
「もう、やめてよ。絶対こうなると思った」

 まったく似ていない湊人の声真似をしながら飛び上がらんばかりにテンションの上がっている瑠璃に、私はため息をついた。
 午後の分の仕込みをしていた義信さんが呆れたような笑顔で「瑠璃ちゃん、結衣さん困ってるじゃない」とやんわり(たしな)めてくれるけれど、まるで効果はない。

「だって、あの顔よ? あんな人、私達のまわりにいたことある? しかも差し入れまで持ってきてくれる細やかさまで兼ね備えてるのよ!」
「瑠璃! 声が大きいよ! 絶対、聞えてるから」
 なんだか頭痛がしてきた気がして、私は眉間を押さえた。
 勘弁してよ。
 私は瑠璃が湊人の対応をしないように、先にホールに戻る。
 湊人が肘をついて何かおもしろいものでも見るようにニヤついていた。

「誰が、イケメンだって?」
「さぁねえ」

 やっぱり聞えてたか。
 苦笑いではぐらかすと、湊人がふんと鼻を鳴らしてメニュー表のアイスコーヒーを指差した。

「アイスコーヒー」
「かしこまりました。以上でよろしいですか」

 湊人が急にいかめしい表情を作って偉そうに「よろしい」と頷いた。

「なにそれ」

 私は吹き出して、笑いながらカウンターに戻る。
 カウンター内に置かれたサーバーからアイスコーヒーをグラスに注いでいると、瑠璃が隣に並んだ。

「結衣、湊人くんといると楽しそうじゃない」
「どこが」
「どこがって、その顔が」
「もう、からかわないでよ」
「からかってないわよ。あんなウォーキングデッドみたいな顔してた結衣が、そんな普通に笑ってるんだもん。安心した」

 海外ドラマ鑑賞が趣味の彼女らしい例え。
 ――ウォーキングデッドって。確かにそうだったけど。
 私が肩をすくめると、瑠璃が私の手からグラスを奪い取って勝手に運んでいってしまう。

「お待たせしましたー」
「ありがとうございます」
「今日はご馳走させてください。いつも結衣がお世話になってるお礼です。結衣のこと、今後ともよろしくお願いしますね」
「任せてください」

 湊人が白い歯を見せて微笑む。
 瑠璃が今にも叫びだしそうな顔で、私を振り返って小さく飛び上がった。
 私は困り果てて、ふたりが好き勝手言い合っているのをただ眺めていた。
 湊人はグラスが空になると邪魔しちゃ悪いからと、すぐに帰っていった。
 ことあるごとに瑠璃にもてはやされながら、なんとか残り四時間の勤務を終え店を出た。
 二十時をまわって、あたりはすっかり暗くなっている。
 どっと疲れた。勤務初日よりも精神的にすり減っている。
 四時間が何倍にも長い時間に感じられ、早く帰りたいとばかり思ってしまっていた。
 わざわざ休みの日に様子を見に来てくれた湊人の気持ちと、私の幸せを願ってくれる瑠璃の気持ちは心からありがたいけれど。
 二人のやりとりや、瑠璃のからかいとはしゃぎようは恥ずかしくてたまらなかった。
 ぐったりしながら電車に揺られ自宅の最寄り駅に着くと、空気の湿ったにおいがした。見上げるとどんよりと曇のはりつめた夜空。
 家に帰るまで雨に降られなければいいなと思いながら、急ぎ足でマンションへ向かった。
 この角を曲がれば、もうすぐだ。

「結衣」

 私の名前の二文字を、懐かしい声で呼ばれた。
 低くて穏やかなその声が誰のものなのか、私はすぐに分かった。
 足がすくんで、勝手に立ち止まってしまう。
 ここだけ時間が止まってしまったような感覚。
 わなわなと唇が震えた。

「明……」

 久しぶりに口に出したその三文字が、小さく掠れて空気に溶けていく。
 スーツ姿の明が曲がり角から、こっちに向かって歩いてきた。
 薄く微笑んだその顔は、数ヶ月ぶりに会うとは思えないほど自然だった。

「久しぶり。元気にしてたか?」

 元気? 元気になんて、していたわけがない。どの口が、どの立場でそんなことを言うのか。
 私は明をきつく(にら)みつけた。

「元気なわけないじゃない」
「……だよな。髪、切ったんだ。似合ってるよ」

 湊人が切ってくれた髪を、自分の状況を分かっていないかのような明が平然と褒める。怒りで言葉が出てこない。

「仕事帰り?」

 胃のあたりがむかむかする。
 なんで、そんな風に普通に笑っていられるの?

「会社はいづらくなったから辞めたの」

 明は頬を人差し指で掻いて、眉根を寄せた。

「それって、俺のせい?」
「結婚式目前に婚約破棄だよ? 違うと思う?」

 私の怒気をはらんだ声にも、明は動じない。そう、この人はいつもそうだった。
 喧嘩になって私がどんなに怒っても明はいつも平然としていた。
 時には真顔で、笑顔で。私の怒りを受け流しているのか受け止めているのか。自分も怒ることはせずに、その場を静観していた。
 それで私は結局いつも怒っているのが馬鹿らしくなって落ち着いていた。
 以前はそんな明のことを大人だと思っていたけれど、今、私はこの人が少し怖い。

「すまなかった。実は結衣に謝りたくて会いにきたんだ」
「今更、どういうつもり? 謝られたって、許せるわけないじゃない」
「そりゃそうだよな。すぐに許してもらえるとは思ってないよ」

 明はいきなり、その場で深く頭を下げた。私は言葉を失う。

「本当にごめん。悪かった」

 血の気が引いて、めまいがした。今更、謝ってどうなるっていうの。
 湊人に出会うまでの私に引き戻されていく。
 明が顔を上げて、真面目な顔でまっすぐ私を見つめた。

「俺、気付いたんだ。結衣は俺のことを、なんでも分かってくれてた」

 きっと虚ろな目をしているだろう私に、明は構わず話し続ける。

「何年も一緒にいて、家族みたいになって。居心地は良かったけど、俺は結衣を愛しているのか分からなくなってた。だから」
「やめて!」

 私は喉から声を絞り出して叫んだ。

「そんなの聞きたくない! どういつもりなの? なんで、どうして、こんな……」
「やり直したいんだ。今度こそ、結衣と結婚したい」

 目じりに涙が浮かぶ。怒りの涙か、悲しみの涙か。
 唇が震えそうになるのを、下唇を噛んで堪えた。
 いくらなんでも、あまりにも馬鹿にしてる。
 私は思わず、明の頬を平手打ちした。しびれたような痛みがてのひらににじむ。
 その手首を明に掴まれて、ぐいっと引っ張られる。距離が近づいて、懐かしい明の匂いがした。
 それだけで胸がぎゅうっと苦しくなって私は手を力いっぱい振りほどく。

「自分がしたことが、どういうことか分かってるの? あのとき、明が私を捨てたんだよ?」

 あの日、明は別れを選んだというより本当に文字通り私を捨てたのだ。
 明は頬を打たれたことなんてなかったかのように動じない。

「あの時はどうかしてたんだ。少しずつ、信頼を取り戻していくから。だから、また結衣のそばにいさせてほしい」

 どうかしてた? どうかしてた?
 そんな、ありふれた一言で片付けないでほしい。
 私を捨てた理由を、そんな六文字で片付けないで。
 私がどれだけ……。

「帰って」

 あの日の気持ちを思い出す。
 胸が苦しくて、涙が勝手に零れた。

「お願いだから、帰って。早く」
「ごめん。でも、また来るから。考えておいてほしい。今度は絶対、幸せにするから」

 明は私の肩に手を置くと駅の方に向かって去っていった。
 震えが止まらなくて私は自分の体を抱きしめた。
 重たい足で部屋に帰って、電気を消したままへたりこんで嗚咽した。
 頭の中がぐしゃぐしゃだった。
 明が憎い。
 私を裏切って、簡単に捨てて。どれだけ傷ついたかも知らないで、こんな何ヶ月も経ってから、あんなことを言うなんて。
 やっと湊人のおかげでここまで立ち直れたのに。
 自分を取り戻せたのに。
 私は今またこんな風に苦しんでいる。
 それでも一番許せないのは、きっと自分自身だ。
 明の顔を見たとき、憎いとか怒りとか、決してそういう類の感情だけではなかった。
 たまらなく懐かしくて、恋しかった。
 明への信頼や女としてのプライドを踏みにじられて消えてしまいたいと思うほど苦しんだのに。許せないと思っていたのに。
 心のすみっこで、明の言葉を受け入れてしまいたいという自分が叫んでいた。
 家族であり、親友だった明に戻ってきてほしいと願う自分。
 あの居心地の良さに戻りたいと思う自分。
 そんな感情が心の中にあることが許せなかった。
 大学の講義室。隣に座った明が授業を受けている私のノートに「週末、遊園地に行かない?」と書いた時の、ぎこちない微笑み。
 初デートだった遊園地の観覧車。告白してくれた時の、明の緊張した顔。
 飲み会の帰り道、酔って普段は言わないような愛の言葉をストレートに言ってくれた時の横顔。
 初めて、触れ合った夜の優しい眼差し。
 卒業式で「一緒に住もう」と言ってくれた、照れくさそうな表情。
 家のベッドで昼過ぎまで起きない明を起こそうとしたのに、布団に引きずり込まれて二人で笑いあったこと。
 仕事でミスして落ち込んだとき、話を一から十まで飽きずに全部聞いて慰めてくれたこと。
 一緒に過ごした十三年分の正月、バレンタイン、ホワイトデー、ゴールデンウィーク、夏休み、誕生日、クリスマス。
 白いフィルターのかかったような映像で、明との思い出が蘇る。

「別れよう。このまま結婚しても、俺は結衣を幸せにできないよ」

 あの日の青ざめた明の顔。
 
 はっとして目を覚ますと両目からぼろぼろと涙が流れていた。鼻の奥がつんとする。
 息苦しくて、私は鼻をすすった。
 窓から朝陽が差し込んで部屋が明るい。スマホのディスプレイに浮かぶ朝の六時の数字。
 妙な夢を見てしまった。
 昨夜、明が会いにきたせいだろう。
 せっかく、思い出さずにいられるようになっていたのに。
 意識しなくとも、夢に出てこられたら防ぎようがない。
 胸の中がもやもやしているけれど、これが悲しみなのか怒りなのか、悔しさなのか憎しみなのか、恋しさなのか分からなかった。
 もう、ぐちゃぐちゃだ。
 湊人に会いたい。
 彼に会えれば、この気持ちも落ち着くような気がする。
 また深い沼に落ちかけている私に、湊人は手を差し伸べてくれるだろうか。
 郷里を思うような明への懐かしさに絡めとられそうになっている私を、救ってくれはしないだろうか。
 それともこんな気持ちになっているどうしようもない私を、またダサいと言うだろうか。
 私はスマホでメッセージアプリを開いて、湊人とのトーク画面を呼び出した。
 こんなことで、湊人に連絡してもいいのかと一瞬、躊躇(ちゅうちょ)する。
 自分に都合よく利用するようで卑怯(ひきょう)ではないのか。
 ディスプレイの上で人差し指が彷徨(さまよう)う。
 でも、湊人に会いたい。

『おはよう。朝早くにごめん。起きてる?』

 送信するのに数分を費やしたメッセージなのに、あっという間にレスポンスがあった。

『おはよ。起きてたよ。珍しいじゃん、結衣から連絡してくるなんて。どうした?』
『今日、会えないかな?』

 私はまたこの短い一文も送るのに、すごく時間を要した。
 今日、彼に会えなかったら、私は自分がどうなってしまうのか不安でたまらなかった。

『いいけど。じゃぁ結衣んち行っていい?』
『ありがとう。何時頃? 待ってる』

 湊人から了承の返事がもらえて、ホッとした。
 スマホを胸に抱いて、目を瞑る。深呼吸をすると、湊人の顔がまぶたの裏に浮かんだ。
 大丈夫、私には湊人がいる。
 湊人がいれば、きっと大丈夫。
 私は呪文のように、何度も自分に言い聞かせた。
 湊人がうちにやってきたのは二十二時を回った頃だった。
 二人で並んでソファーに腰掛けて、食事はいらないと言う彼が買ってきた缶ビールで乾杯した。
 ローテーブルに簡単にあるもので作ったおつまみを並べる。

「おつかれ」
「おつかれさま」

 湊人は上着を脱いでTシャツ姿になると、ソファーの背もたれにもたれかかった。
 かなり疲れている様子で、そんななか家まで来てくれたのかと思うと胸が痛んだ。
 今日は何をしても思考が明に持っていかれて、うまくいかない。
 茶色く焦げた出汁巻き玉子をため息混じりに口に運ぶと、味付けを打ち消すほど苦くて悲しくなった。
 湊人が今日は店長がどうっだったとかさゆが店に来たとか話しているのに、私は曖昧(あいまい)に頷くことくらいしかできずにいる。

「なんかあった?」

 心ここにあらずな私を見かねて、湊人が首を傾げた。
 ここで素直に話すべきか、それとも、ただ彼と同じ時間を共有することで自分自身が落ち着くのを待つべきか。
 こんな胸の内を話したら、湊人は呆れて私から離れていかないだろうか。
 こんな思いで呼び出したなんて知れたら、帰ってしまうんじゃないか。
 打算的な考えが頭を巡る。
 私が口ごもっていると、湊人が私の頬を軽くつねった。

「この前も言ったけど、お前、分かりやすいんだよ。なんかあったんだろ」
「痛い」
「言いたくなけりゃ言わなくてもいいけど」

 湊人はちょっと笑って手を離すと、グラスに移したビールを飲み干した。
 やっぱり、無理には聞かないんだな。
 彼のその優しさが以前はとても嬉しかったのに、今は苦しい。
 話して何か肯定的なことを言ってもらいたい自分が、私の口を開かせようと騒いでいる。
 でも、肯定的なことなんて言ってもらえる保障なんてない。
 心に明が少しでも戻ってきてしまっているのに、肯定的な発言を求めるなんてズルイ。
 突き放されて、私の前から湊人がいなくなってしまうのが怖い。

「まぁ、でも誰かに一緒にいてほしかったんだろ。飲もうぜ」

 湊人が優しく私の頭を撫でるから、じんわりと涙が滲んできた。
 本当によく泣くやつだと思われているかもしれない。
 私だっていい年した大人が、こんな年下の男の子相手に泣いてばかりでみっともないと思う。
 でも、湊人の優しさにほだされる。
 私は汗をかいたグラスを両手で握って、涙が零れるのを耐えた。
「ごめんね」
「なにが」
「自分から呼び出しておいて、こんなかんじで」
「結衣から会おうって言うの初めてだったもんな。いいよ、嬉しかったから」

 胸が締め付けられる。今、そんなこと、言わないで。
 湊人は笑って、出汁巻き玉子を口に放り込むと「うまい」と言った。

「嘘。焦げてるよ」
「うまいよ」

 駄目だ。堪えきれない。
 ダムが決壊したように、大粒の涙が頬を伝って流れていく。
 (あご)に到達した雫がスカートに落ちて丸い染みを作った。
 私、湊人のことが好きだ。
 たまらなく、彼のことが愛しい。
 それなのに湊人に対してこんな気持ちでいる自分が、とても汚い生き物のように思えた。
 私は湊人に対して、どこまでも失礼で、どこまでも卑怯だ。
 湊人が何も言わずに、手近にあったティッシュボックスを差し出してくれる。
 ティッシュペーパーを一枚抜き取って、涙と鼻水を拭いた。
 あっという間にぐしょぐしょに濡れて、私はまた一枚、ティッシュを引き抜く。
 話さなければならない。
 湊人に今の気持ちを。明のことを。
 たとえきついことを言われたり、離れられたとしても、それは私が招いた結果だ。
 私は自分を落ち着けるように深く息を吸って、言葉を搾り出した。

「昨日、元彼が会いにきたの」

 鼻が詰まって話しにくい。声が震えている。
 湊人の顔から笑みが消えて、鋭い目で私を見る。

「悪かったって、やり直さないかって言われて……」

 次の言葉がうまく出てこない。冷たくなった指をぎゅっと握った。
 しばらく湊人も私も沈黙が続いた。数十秒でも、おそろしく長くて重く感じる時間。
 湊人が私を見つめたまま、先に口を開いた。

「それで? 結衣はどうしたいんだ」
「どうもこうもないよ……あんな、ひどい裏切り……」

 顔を上げられない。湊人の瞳をまっすぐに見返すことができない。
 湊人がため息をついた。

「じゃぁ、何を考えてる? なんで、そんな顔してんだよ」

 彼の声は私を責めるような、怒りのような色をはらんでいる。
 出会ったあの夜、私をダサいと言ったあの声とも、全然違う。
 また涙が零れる。湊人に嫌われるのが怖い。
 はっきりと明を突き放せない自分が、弱くて未練たらしくて。
 こんな自分じゃなかったら、湊人に嫌われることもなかったかもしれないのに。
「明とは、私の人生の三分の一以上の時間を、一緒に過ごしてきたの」

 息が苦しくて、喉が詰まる。

「一番の友達だったし恋人だったし、家族だった。あまりにも長く、一緒にいすぎたみたい。どんなにひどいことをされても、どんなに最低な男でも、心の底から嫌いになんてなれない」

 湊人はただ黙って、私の話を聞いていた。
 一度、あふれ出すと止まらない。涙も、言葉も。
 子供みたいに泣きじゃくる私の背中に手を添える。その手の温もりに、胸がずきんと痛む。

「突き放したいとも思う。どの面下げてって思う。それなのに、明の顔を見たらね、久しぶりに帰った故郷みたいに、懐かしくてたまらなかったの。私、そんなに強くなれない。だって、明は私の……」
「分かった。分かったよ」

 湊人が私を強く抱きしめて、幼い子供をあやすように背中をさすってくれた。
 私もすがるように湊人にしがみつく。

「私、湊人のことが好き。こんなおばさんが、みっともないかもしれないけど、馬鹿みたいかもしれないけど、どうしようもなく好きになっちゃったの。もっと、まっさらな自分で、湊人に会いたかった。ごめん。ごめんね。こんな……」
「知ってた」

 私の耳元で湊人が呆れたように小さく笑った。

「俺は、結衣が望むなら、そいつが結衣といた時間の、何十倍も結衣のそばにいてやる。そいつの何百倍も幸せにしてやれる自信がある」

 いつもの自信家で強気な湊人らしい言葉。今はひとかけらだって、疑おうなんて思わない。
 湊人は本当に、そう思ってくれているんだ。
 まだ若くて、まだどんな選択肢だって叶えられるのに。
 何十倍もそばにいるなんて、まるで一生を捧げるプロポーズのようだ。
 これ以上の愛の告白の言葉なんて、きっとない。
 昨日までの私だったら、ただ飛び上がって喜ぶことができただろう。
 それなのに、今は。

「でも、お前がそいつのところに戻るなら、俺は止めない」

 優しい声色で、ゆっくりと、湊人はそう言った。
 どっちつかずの私に、彼は選択肢を提示してくれた。なに一つ、強制はしない。
 いつだって、どこまでも、湊人は優しくて。
 私なんかよりもずっと、大人だ。

「なんで、こんな時、毒舌じゃないのよ」

 止めどなく流れる涙が、湊人の肩口を塗らしていく。
 湊人は私が泣き疲れて眠るまで、ただそばにいてくれた。
 出会った翌朝のように、私はまた湊人に運ばれてベッドの上で眠っていた。
 涙を流すことは心のデトックスになると何かで目にしたことがあるけれど、昨夜のことが嘘のように清々しい気分。
 部屋に漂うコーヒーの香ばしい匂いにつられて起き上がると、湊人が勝手知ったる様子でダイニングでマグカップに口をつけていた。
 私に気付いてベッドまで歩み寄って、隣に腰を下ろした。
 たくさん泣いたし化粧も落としていないから、きっとひどい顔をしているんだろうな。

「おはよ」
「おはよう。すっげえ。寝癖、どうなってんだ、それ」

 私の頭をくしゃくしゃと触って可笑しそうに目を細める湊人に、頬が赤くなった気がして顔を伏せる。

「ちょっと、やめてよ」
「つーか。なに、それ? 誘ってんの?」

 湊人に指差されて初めて、ワンピースの(すそ)がまくれあがって太ももが(あらわ)になっていたことに気付く。

「そんなわけないでしょ!」

 私は叫び声をあげて、急いで裾を膝まで引っ張った。急激に体温が上昇した気がする。

「そんなに慌てなくても何もしねえよ。他の男のことを考えてる女は抱けない」
「……ごめん」
「それとも抱いてほしかった?」

 湊人はいつもの彼らしい悪戯《いたずら》っこみたいな顔で笑って、私をまた慌てさせる。
 からかわれてばかりだ。
 なんだか悔しくて、恥ずかしくて、私は手近にあった枕を湊人に投げつけた。

「いてぇっ」

 枕は彼の顔面にクリーンヒットして、足元に落ちる。
 してやったり。
 笑いがこみ上げてきて、私は抑えきれず肩を震わせた。

「お前なぁ、それが朝まで見守っててくれた相手にすることかよ」

 彼は自分の言ったことは棚にあげて、呆れたようにため息をつくとベッドから立ち上がった。

「もう元気でたっぽいな」
「ごめんね。ありがとう」
「悪いと思うなら、今夜、付き合えよ。久々に焼肉行こうぜ」
「うん、いいよ。お詫びにご馳走させて。バイトも始めたんだし」
「おー、じゃぁ一番良い肉、頼むわ」

 湊人は私の頭をぽんぽん叩く。
 大きな手のひら。
 既にそんなことも当たり前に受け入れるようになっている自分に気付く。
 湊人のおかげで、私はどれだけ救われてきただろう。
 もしも。もしも、今。
 明の手をとってしまったら。
 湊人のこの温もりも、意地悪な笑みも、分かりにくいくせにストレートな優しさも、私をまっすぐに見つめる瞳も、全部、失うことになる。
 そう意識した途端、胸が張り裂けそうに痛んだ。
 湊人を失いたくない。
 彼のすべてが愛しい。
 それでも、まだ。
 ここで明を拒んで、今度こそ本当に私の人生から彼が消えてなくなることを選ぶ勇気がでない。
 十三年という長い年月が、私をがんじがらめにしていた。
 
 いつものように湊人の職場前で待ち合わせをして、以前、彼に連れて行ってもらった焼肉店で食事をした。
 敢えて何事もなかったかのように、軽口をたたきあって特に意味のない冗談で笑う。
 明のことを考えずに過ごす楽しい時間。
 時間が止まればいいのにと心の中で願ってもあっという間に時が過ぎて会計の段になると、やっぱり今日も湊人があっさり先に支払ってしまった。
 終電の近い時間帯でも、金曜の新宿は休日前に色めきたった大人たちで溢れている。
 人ごみを縫いながら急ぎ足で歩調を合わせる私を、湊人が横目で見てから黙って手を握ってくれた。
 それがどうしようもなく嬉しいのに、鼻の奥がつんとして寂しさが胸に(つの)った。
 私もぎゅっと強く握り返す。
 そっと隣を(うかが)い見ると、まっすぐ前を向いた湊人の横顔が複雑そうな表情をしていた。
「結衣?」

 雑踏(ざっとう)のなかで私の名前を呼ぶ声がして、肩が大きく跳ねた。
 神話に出てくる怪物に見つめられ石にでもされたかのように、体が固く冷たくなっていく。
 今は一番、聞きたくなかった声。
 声をした方を振り向くと、何年か前に私が選んだグレイのスーツを着た赤ら顔の明が呆然と立ち尽くしていた。

「結衣。誰だよ、そいつ」

 人並みをかき分けて、明が近づいてくる。
 やめて。来ないで。
 明にぶつかった同世代くらいの男性が、苛立たしげに舌打ちをして離れていく。
 逃げ出したい。
 あんなに懐かしいとか、少しでも戻りたいと思っていたはずなのに、今、ここから逃げ出したくて堪らない。
 湊人に明を見られたくない。
 湊人と一緒にいる私を、明に知られたくない。見られたくない。
 どういう感情でこんなことを思うのか、自分がどうしたいのか、頭の中がぐちゃぐちゃで分からない。
 唇が小刻みに震える。
 湊人がそっと私の腕を引き寄せた。

「おい、何、手なんか繋いでるんだ。結衣。なぁ」

 湊人と私を交互に見比べながら歪んでいく明の顔。
 目は怒りを剥き出しにしているのに、片側の口角を吊り上げて薄ら笑いを浮かべている。
 十年以上、一緒にいて一度も見たことのない表情。
 私を(さげす)むような、嘲笑(あざわら)うような顔。

「なに? 俺とちょっと離れてただけで、もうそういうことかよ」

 やめて。
 血の気が引いていく。
 何か言いたいのに、言葉が出てこない。声が出せない。

「結衣、自分の年、分かってんのかよ。こんな若い男、ひっかけて恥ずかしくないの?」

 お願い、やめて。

「あの時、お願い、捨てないでってお前が泣きついて来たから戻ってきてやったんだろ? それを、まさか、なぁ。こんなに早く、新しい男作ってたなんてな」
「明!」

 お願い。そんな顔しないで。そんなこと、言わないで。
 これ以上、最低な男にならないで。
 搾り出した声が喧騒(けんそう)に溶けて消えていく。
  うまく言葉を続けることができなくて、私は唇を噛んだ。
 湊人が私の背中に手を添えて、やんわりと叩いた。

「あれ、もしかして元彼さんですか?」

 湊人がにっこりと微笑んで首を傾げる。
 いつもの余所行きの笑顔なのに、目の奥が笑っていなかった。

「どうも、はじめまして。今彼です」

 湊人の嘘が、明の頬を上気させる。
 明は憎憎しげに湊人を睨み、鼻で笑った。

「マジかよ。あんた、本当にこんなおばさん、相手にしてるのか? 結衣も結衣だろ。最低だな」
「あれ? もしかして僕が若くてイケメンだからって、自分と比べて卑屈になっちゃいました?」
「はぁ? 何、訳わかんない言ってんだよ」

 明の顔がどんどん赤くなるのに反して、湊人の瞳がすぅっと冷たくなる。

「大体、若い女作ったのは、どこのどなたでしたっけ? あ、もしかして、その人に捨てられちゃったとか? それで、なんでも受け止めてくれそうな結衣さんの所に、都合良く戻ってこようとしたんじゃないですか?」

 微笑をたたえたまま、湊人が言い募る。
 こんな、どっちつかずで不甲斐ない私のために。

「ふざけるなよ。結衣が泣いてすがったから、戻ってきてやったんだよ。それなのに、こんな尻軽女だったなんてな。十三年も一緒にいたのに気付かなかったよ」

 明の怒りに任せた言葉が、槍のように私に降りかかる。